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日本の今を考える

 『この国のかたち』を考える


 過去の歴史を書き換えることはできても、過去の事実そのものを変えることはできない。しかし、人は今に生き、未来を創造できる。 
 このコーナーでは、憲法や行政法の基礎知識を前提に、将来の日本を担うであろう人たちと一緒に「この国のかたち」を考えてみたい。

日本は法治国家か? (02/12/25)

 日本は法治国家かどうか?厳密には、日本には「法の支配」が妥当しているかどうか、と問いを発するべきである。しかし、ここでは一般になじみのある「法治国家」という用語を用いて説明することとする。

法治主義の本来の仕組み

 主権者である国民が選挙によって国会議員を選ぶ。国民の代表である国会議員により組織された国会は、法律を制定し、国民の権利と自由に関するルールを定め、行政権をコントロールする。これが法治国家の仕組みである。

国民の法意識

 しかし、日本では(1)法律というのは、お上が下々の者に対して一方的に命令するものである、(2)税金とは、お上の都合で下々の者から一方的に取るものであるという観念が未だに強い。これは、全く江戸時代の禁令や年貢と同じ発想である。
 今は平成の世、しかも21世紀であるが、未だ江戸時代の権威主義が残っているとしか私には思えない。
 (中略)明治維新は下級武士によるクーデターだったし、明治憲法下では天皇の権威の下、藩閥や官僚が上からの改革を推し進めた(富国強兵)。大正デモクラシーも治安警察法や治安維持法によって止めを刺されてしまった。太平洋戦争の敗戦による民主的改革もGHQの主導によるもので、国民自らの主体的関わりは薄い。明治憲法下の官僚組織は日本国憲法下でも占領政策を維持するためそのまま残された。官僚は国民を上から統治することに慣れ、国民は上がなんとか自分達の面倒を見てくれるだろう(福祉国家)と期待する。このように日本では欧米のような市民革命がなかった。
 繰り返しになるが、本来、法治主義とは(1)法律は国民の代表者が話し合って決めたルールであって、権利や自由の範囲を明確にするもの(自由主義)で、行政権を縛るもの(民主主義)ということになる。また、(2)税金とは政府を維持し、サービスを受けるための財産権の提供で、公務員は税金を使って国民に奉仕するサービス業(公僕)ということになる。しかも、法律や税金は不都合があれば、後で自由に変更できるはずである。
 しかし、長年の被支配者意識から、多くの国民は法律や税金はいったん決まると、もうそれを変更できないものと半ばあきらめてしまう。その結果、国民主権は、社会科で抽象的に習った概念であって、実際の生活とは何ら関わりがないものとなってしまっているのである。

国民の支配者に対する意識

 それに加え、国民は(3)お上は水戸黄門や徳川吉宗のように慈悲深く庶民の心に通じ、お役人は長谷川平蔵や大岡越前のように優秀でやはり庶民の心がわかる、あるいはそうであるはずだと期待を込めて思い込もうとしている。それに加え、官僚は、東京大学のように頭のいい人でないと入れない「いい大学」を出ており、難しい国家公務員試験に合格しているのであるから、彼らに頭の悪い自分達一般の国民は、素人だからとやかく文句を言うのは、はばかれると自粛している。
 しかし、最近の政治家や官僚のスキャンダルによって、官僚は必ずしも全員そうではないのではないか、大部分は国民のために一生懸命に働いているとしても、昔に比べるとかなりの割合で堕落しているのではないかと多くの国民は気づき始めている。

キャリアの意識

 しかし、課長以上の年配のキャリア達には、(1)法律は行政に精通した専門家である自分達が作るもの、国会議員はそれを承認するだけの存在、時には自分達に圧力をかける迷惑な存在、(2)税金は経済・財政・金融に精通した自分達が決めるもの、国会議員はそれを承認するだけの存在、時には自分達に圧力をかける迷惑な存在、(3)いい大学を出て、国Tにも受かって、キャリアを積んだ優秀な我々が、愚かな素人である国民を指導・教育しなければならないのは当然の義務であるという意識が未だに強い。後藤田正晴『政と官』(講談社)も、まだ、日本の行政組織には「天皇の官吏」の風潮が残り、民を統治する意識が払拭されていないとする。

国会議員の立法能力

 法律は内閣提出の法案が圧倒的に多く、議員立法は少ない。もちろん内閣提出法案が悪で、議員立法が善と単純に割り切るのは間違いである。だが、極端に議員立法が少ないのは法治国家として望ましいことではない。
 では、国会議員はどうかというと、国会議員に政策を作る能力はほとんどない。国会議員を政策面で助けるはずだった政策担当秘書の給与を国会議員はネコババするか、そうでなくても多くは政治資金としてプールしている。勢い、官僚の作る内閣提出法案が主流となるが、行政権が行政権を縛る法律を作るのは到底期待できないはずである。

建前としての租税法律主義

 また、税金に至っては、法律は複雑怪奇で、多くは政令以下の命令、挙句の果てには通達に多くをゆだねられている。実際に納めなければならない税金は法律や政令・財務省令を見ても全くわからない。通達に基づいて極端な話、「ここまでは必要経費として認めましょう」ということで現場の裁量で決まっていくのである。これでは租税法律主義どころか、租税通達主義、さらには租税裁量主義と言わざるを得ない。

「ゆとりの教育」

 最近、「ゆとりの教育」が問題となっている。本来教育の基本は法律で決めなければならないはずである(憲法26条)。アメリカでは大統領選挙の争点の一つ、イギリスでも首相の重要政策となるのに、日本では国会で教育問題が本格的に議論されている様子は全くない。しかし、省令以下の告示である学習指導要領で学習内容の3割削減が決まったり、一部の官僚の発言で学習指導要領が最大基準から最低基準に変わったりもする。2002年の学習指導要領には国民の大部分が反対しているにもかかわらず、文部科学省の有力官僚は教員や国民の理解が足りないと嘆き、国民は半ばあきらめて、母親はパートしながらこどもを塾や予備校に通わせている。ここでも官僚はいい大学を出て頭がよく、公正な立場で物事を決めているはずなので、公然と批判するのはどうか、という思い込みが未だ残っていて、公教育のあり方は国民的な議論として国会の場でも議論されていない。国民の多くは文部科学省に心変わりしてもらうことを半ば期待し、半ばあきらめているのが現実である。

国会議員の責任

 国民を代表するはずの国会議員はどうか。与党の議員は選挙区や支持団体の利益誘導には非常に敏感である。支持者の子弟の就職はおろか、大学の下宿の世話までする。野党の議員も、予算委員会では政治的スキャンダルの暴露に終始し、政策論争は二の次である。完全失業者は350万人を超え、公債は700兆円を超えている(国民1人あたり500万円超!)のに、予算や決算の審議すらまともにしている様子はうかがえない。国債の格付けがどんどん低下するのも当然の帰結である。

国民の責任

 結局、そのようなだらしのない国会議員を選出した国民が悪いとも言える。国民も自分の地域や業界だけの利益しか考えない、国会議員を選ぶのではなく、代表者としてふさわしい知性と品格を備えた人を選ぶべきなのである。国会議員に結婚式のスピーチを頼んだり、宴会に顔を出させたり、就職の世話を頼むのは全く間違っている。国民は国会議員からも自立しなければならない。そのためには自律した国民を生み出す教育の重要性が認識される。しかし、今の「ゆとりの教育」にはそのようなことは全く期待できない。その意味で、私も微力ながら一般の人達にも憲法や行政法の仕組みをわかりやすく説明する責任があるのではないかと思い始めている。このコーナーもその試みの1つであるが、詳しくは渡辺一郎『3時間でわかる行政法入門』(早稲田経営出版)を参照してほしい。

今回の結論

 日本が法治国家というのは間違いである。法治主義といっても外見・形式だけで、実際には国民や国会議員の主導権は全くない。教科書(法律の内容の適正までを要求しない戦前のドイツや日本の法治主義)とは違った意味で、せいぜい「形式的法治国家」である。水戸黄門や大岡越前が人気番組である間は日本は駄目なのである。慈悲深く庶民の心のわかる権力者は稀だからこそ賞賛されるのであって、それが当たり前であれば話題にもならない。国民はもっと代表に相応しい人を代表として選ぶべきなのである。


※本稿は、『Civil Service』(早稲田経営出版)2002年11月号に掲載された原稿を一部抜粋・加筆したものです。
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