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 『この国のかたち』を考える


 過去の歴史を書き換えることはできても、過去の事実そのものを変えることはできない。しかし、人は今に生き、未来を創造できる。 
 このコーナーでは、憲法や行政法の基礎知識を前提に、将来の日本を担うであろう人たちと一緒に「この国のかたち」を考えてみたい。

官僚は国民より偉いのか? (03/02/10)

はじめに

 今回は、「官僚は国民より偉いのか?」というテーマで考えてみたい。もちろ ん、キャリア官僚に代表される公務員が、全員が全員、国民より自分達のほうが偉いと思っているわけではない。むしろ公僕意識を持って黙々と激務に耐えてい る謙虚な人のほうが多いかもしれない。

 しかし、最近の各種統計からすると、国民の7〜8割がキャリア官僚は政治家と同様に信頼できない存在であると考えている。そして国民の多くは、キャリア官僚は国民から全くかけ離れた存在であって、一般国民を自分達より劣るものとして見下しているのではないかという印象をもっている。私の知る限り実際には多くの公務員、特に若手の公務員は自分達は公僕だと思っている。しかし、建前上国民の意思を反映しているはずの大臣の意向すら無視するキャリア官僚が現に存在していることは誰にも否定できない。

 そこで、今回は「官僚は国民より偉いのか?」というテーマで国民を見下すタイプのキャリア官僚の意識と本音を探ることとした。

憲法の建前

 本来、国の主人公は国民である(国民主権)。それに対して、官僚は主権者である国民に奉仕すべき「全体の奉仕者」である。主権者である国民が安心して行政サービスを受けられるよう、国民の代表機関である国会は法律で公務員に身分を保障した。また、公務員は国民の権利・義務に重大な影響を及ぼす存在だから、公務員制度の基本的部分は国家行政組織法や国家公務員法などで決めなければならない。

 主権者である国民には抽象的ではあるが、公務員の選定・罷免権がある。したがって、キャリア官僚といえども、国民の代表機関である国会によって指名された内閣総理大臣によって任命された国務大臣によって任命され、国務大臣の指揮監督を受ける。しかも、公務員は法律によって行動を縛られる。すなわち、公務員は法律の根拠に基づき、法律に反しないように行動しなければならない(法律による行政の原理)。法律や大臣の職務命令に違反した場合には、免職を含む懲戒処分を受ける。これが国民主権原理のもとでの公務員のあり方である。

後藤田五訓

 後藤田五訓という役人の心構えがある。後藤田正晴氏は、官僚として警察庁長官・内閣官房副長官、政治家として内閣官房長官・副総理などを務めた。その後藤田氏に長年仕えたのが、日本の「危機管理」の第一人者である佐々淳行氏で、その彼がまとめたのが後藤田五訓である(文春文庫『わが上司 後藤田正晴−決断するペシミスト−』参照)。

 一、省益ヲ忘レ、国益ヲ想エ。
 一、悪イ、本当ノ事実ヲ報告セヨ。
 一、勇気ヲ以テ意見具申セヨ。
 一、自分ノ仕事デナイトイウ勿(なか)レ。
 一、決定ガ下ッタラ従イ、命令ヲ実行セヨ。

 この後藤田五訓は、憲法の基本理念である国民主権と調和する。

現実

 しかし、佐々氏によれば現実は後藤田正晴五訓とは逆である(「官僚主義」)。すなわち、

 一、国益を忘れて、省益ばかり考える。
 一、悪い本当の事実は大臣に報告しない。
 一、勇気をもって意見を具申しない。
 一、自分の仕事でないと言って責任逃れする。
 一、決定が下ってからも従わず、命令を実行しない。

 大臣が訓示しても、事務次官が「大臣は素人である。いつも人気目当て、選挙目当てのことばかり言う。行政のプロである私の意思がわが省の意思である」と反旗を翻す。このように国民の意思を反映しているはずの大臣の意思よりも、自分達の意思を優先させる。

忘れられた国民主権

 日本国憲法の3大原則が、基本的人権、国民主権、平和主義であることは小学生でも知っている。しかし、公務員制度の話になると、なぜか前回指摘したように江戸時代や大日本帝国憲法の時代の発想に戻ってしまう。憲法学者や行政法学者の関心も薄く、ようやく最近になって重要だと気づき始めた段階である。マスメディアの関心も薄く、取材不足で、国民に正しい実態は伝わっていない。例えば、国家 I 種試験の合格者増についてもようやく最近になって関心を関心を示すのみで、あるべき公務員制度を充分に提示していない。

 そのような現状の下、基本的に課長以上のキャリア官僚は、「自分達は国民より偉い。身分保障は特権である」と思っている人が、有力官庁に多い。

 それはなぜだろうか?前回も述べたように、役人や官僚の権威は将軍や天皇の権威によって支えられてきた。戦後も官僚組織は解体されず、GHQの後ろ盾があった。GHQはもう存在しないが、官僚の権威は今も大日本帝国憲法下で進行した学歴信仰に支えられている。この点を更に詳しく分析する。

東大法学部出身のキャリア官僚の意識(本音)

 かつて国 I 法律職は東京大学法学部の牙城であった。20年以上も前になるが、昭和50年代半ば頃、確か200人強の最終合格者のうち150人以上は東大法学部生であった。

 東京大学教養学部文科 I 類(法学部進学課程)は、理科III類(医学部進学課程)と並び偏差値の頂点に立つ。周囲の人は東大に合格しただけでちやほやする。この段階で、「そもそも他大学の学生は役人になるべきではない」、「役人になるなら東大に入り直すべきだ」という発想になる。「一般の国民は我々エリートが指導・教育しなければならない存在である」ということになる。

 こうした傾向は、国 I 合格・内定によってますます増長する。「自分は法学部の合格していない連中とは違う」「民間やマスコミは、公務員試験に受からなかったら行く所だ」「彼はB省だが、俺はA省だ」(内定先の官庁にも序列を設ける)ということになる。ただ、司法試験合格者と理V・医学部生には一定の敬意を払う。しかし、「総合力は自分のほうが上だ」と思う。

 入省後は激務が待っている。サービス残業も多い。そこで、「役人の給与や退職金は安すぎる(この点は事実誤認である。確かに、課長補佐まではサービス残業も多く割安感があるが、実は課長以上になると日本の公務員の給与は世界一なのである )。公務員試験に受からず、民間に行った連中でも、何千万という年俸、何億円という退職金をもらうのだから、留学中に給与以外に日当9600円をもらっても(2年間で約700万円)、退職後に特殊法人を2〜3個転がって(天下り)、年俸を数千万、退職金を何億円かもらっても、それは当然の権利だ。特殊法人の解散・整理・統合は到底認められない」ということになる。もちろん、そんな生き方を潔しとしない人もいなくはない。しかし、「もらえるものは一応もらっておこう」と思うのが一般的である。

他学部・他大学出身のキャリア官僚の意識

 では、東大法学部以外の学部や他大学の出身者のキャリア官僚はどうか?

 東大法学部出身のキャリアが陥るような偏見から免れているかというと、もちろんそういう人もいるが、入省前の早い段階から「名誉白人」(かつて南アフリカ共和国ではアパルトヘイト=人種隔離政策が実施されたが、日本人はその経済力ゆえに例外的に「名誉白人」として特別待遇を受けた)になってしまう人もいる。例えば、合格・内定まで行ったのが、ゼミで1人あるいは大学で1人ということになると、先生や同級生・後輩からちやほやされ、すっかりその気になってしまい、入省前に目も当てられなくなってしまう人もいる。かえって、同じゼミで何人も合格している東大法学部出身者のほうが謙虚だったりもする。もちろん、自分は少数派だと自覚して、合格・内定後もひたすら実力を磨く人もいる。ただし、課長までは出世が保証されているから出身学部や大学は特に気にならない。しかし、それから上のポストとなるとやはり東大法学部が多いと感じるようになる。

若手のキャリア官僚の意識

 では、若手キャリアはどうか?

 もはや彼らの多くは当初から天下りを期待しない。主として私益を追求する民間企業よりも公益を追求する公務員を純粋に目指す人が多い。

 しかし、官庁訪問の段階で、省庁別・局別採用を実施しているから、国家公務員になるというより、特定の省庁に恩義を感じ、そこの職員になるんだという帰属意識を強めていく。さらに、内定後入省前に行われる各省庁対抗のソフトボール大会もますます各省庁に対する帰属感を強める。そして、内定後はマスコミに対する緘口令が布かれるから、ますます閉鎖的になる。

 入省庁後は月〜金までは忙しく、土・日は寝るだけ。他の業界に入った大学の同級生とも滅多に会うこともなく、恋人とデートする時間もなかなか取れない。組織では上司の命令には逆らえないし、日常の業務に追われるだけだから、長期的に物事を考える余裕は全くない。付き合いも同じ省庁の同じ部署の人間に限られてくる。次第に視野狭窄(きょうさく)状態になっていく。留学が唯一の救いであるが、全員が行けるわけでもない。

 しかし、一般的には「先輩の言っていること(例えば、「ゆとり教育」)はおかしい」とか、「今までのわが省庁(例えば、外務省)のあり方はおかしい」とは思ってはいる。しかし、「先輩に逆らっては出世できない。また、上司の命令には従う義務もある。それに、今更民間には行けない。外資は給料がいいようだが、使い捨てと言う噂もある。辞めて、司法試験を目指したり、ロースクールに入っても2〜3年はかかる。それにそんなお金はない。とにかく今はじっと我慢し、地位が上がるのを待つしかない」と思い始める。そのうちに「所詮現実はこんなもの」と理想を捨ててしまう。「仕事に誇りを持て!」と先輩に言われても、長時間労働に疲れているので、「とにかくゆっくり休みたい!」というのが本音である。

 同じ課のノンキャリアとたまに飲むことはあっても、同期のノンキャリアとは飲むことは滅多にない。もともと同じ大卒であっても、採用試験が違うので、そもそも誰が同期かも知らない。年配のノンキャリアから敬語で話しかけられて最初は戸惑うものの、そのうち自然と慣れて、それが当たり前だと思う。そのうち現行のキャリアシステムに疑問を全く感じなくなる。また、上からの命令ではあるが、社会的経験に乏しい30歳そこそこで税務署長、警察署長、教育長になったりもする。その結果、ポストの力を自分の実力と過大評価し、ノンキャリアだけでなく地方公務員までを自分達より下だと思うようになる。そうこうするうちに内心では軽蔑していた先輩キャリアと同じ意識になってしまう。最近は新人研修に力を入れている(夜は酒ばかり飲んでいると指摘する人もいる)が、本当に研修が必要なのは、10年目、20年目の一般国民から隔離され頭の固くなったキャリアなのかもしれない。

政治家の責任

 しかし、キャリア官僚には同情すべき余地がある。前回も指摘したが、政治家に問題があるからである。西村健『霞が関残酷物語』(中公新書ラクレ)でも、いかに族議員が日本の政治過程をゆがめているか、詳しく描かれている。

 キャリアに言わせれば、「国会議員はまともな法律一本つくれない。こちらで法律案や予算案を作っても、業界や地元の意向を受けて色々な横槍(圧力・干渉)を入れてくる。また、国会議員は一般的に勉強不足でろくな質問もできない。質問すら我々に頼んでくる(質問は自分の政策担当秘書に作らせろ!)。しかも、各省庁のトップである大臣もろくな答弁もできない(自分で答弁できないなら、副大臣か大臣政務官に頼め!政策担当秘書もいるだろ!)。だから遅くなっても帰れない。毎日疲れている。終電は混むから座れない。税金の無駄遣いとはわかってはいるが、体がもたないからタクシーで帰らせてもらって当然である。国民や国会議員が我侭で駄目だから我々が日本のために夜遅くまでがんばっているんだ。マスコミは俺達のことを一方的に批判するだけで全然わかっていない」ということになる。それはわからないでもない。

マスメディアの責任

 マスメディアにも責任がある。キャリア官僚の実態を正確に書かない。情報が取れなくなることを恐れて、遠慮したりもする。また取材も不十分である。書いても売れなければ話にならないから、新聞や電車の広告の見出しに見合った一つの視点・色眼鏡でしか書かない。書いても、いい話よりは悪い話を好む。そこで官僚は、「取材に応じても応じなくても正しいことは書いてもらえない」とますます口を閉ざしてしまう。その結果、国民には公務員や公務員制度やキャリア・システムの実態(例えば、官庁訪問の実態)が伝わらない。

今回の結論

 やや悲観的な分析をしたかもしれない。しかし、展望はある。

 将来的には、省庁別・局別採用を前提とした官庁訪問を止め、一括採用とする(地方公務員では問題がない)。国民主権の観点から人事院面接には民間人を入れる。地方公共団体や民間との人事交流は対等なものとする。国 I ・国 II の分離採用を止め、大卒レベルで統一し、競争原理・実力評価を取り入れる。

 国会議員による官僚に対する質問作成の依頼は、立法権が行政権を監視・コントロールするという議院内閣制の趣旨に反するので禁止する。また、大臣の答弁についても、書類をまとめるのは、大臣・副大臣・政務官の秘書がすべきであって、官僚は必要な情報の提供と説明に止めるべきである。さらにイギリスのように政府に入っていない国会議員(野党議員のみならず与党議員も)と官僚との接触を禁じる。

 国家公務員、特に若手には時間的・経済的ゆとりを与え、各界の人と交流したり、文学・芸術に親しむ機会を増やす。こうした制度改革が必要である。

 入省庁後にも幅広い教養と社会性を身につけ、真の実力を蓄えることが公務員の国民に対する信頼回復の鍵である。そうすれば、国民が自然に官僚を信頼するようになるだろう。それを実践しようと努力している人も少なくない。これからの若い力に期待したい。

※本稿は、『Civil Service』(早稲田経営出版)2002年12月号と2003年1月号に掲載された原稿を一部抜粋し、加筆したものです。
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