https://kitanotenmangu.or.jp/
京都にある北野天満宮には50回以上は参拝している(東京都文京区には学生時代から結婚するまで10年以上住んでいたが、文京区にある湯島天神よりもたくさん参拝している)。
というのは、平成7年から令和5年まで25年間以上、京都で講義やゼミ等を担当していたので、毎年、国家公務員試験(Ⅰ種と総合職)の1次試験前の「戦勝祈願」と最終合格発表後の「お礼参り」に北野天満宮に行っていたからだ。
北野天満宮は、私にとって非常に馴染みのある神社である。先祖とのご縁もある。例えば、鬼退治にご利益があったとして渡辺綱(わたなべ の つな)が寄進した石灯籠が境内にある。
北野天満宮の御祭神
北野天満宮に祀られているのは、「学問の神様」である菅原道真(845~903年)である。
遣唐使の廃止(894年)を天皇に進言したのが菅原道真であるという歴史的事実は、公務員試験だけでなく高校の入学試験など各種試験で出題されているので、日本人の多くは、菅原道真=遣唐使廃止(「白紙(894)に戻した遣唐使」)と覚えている(*1)。
菅原道真は、藤原氏を牽制するために宇多天皇(867~931年)に重用されたが、宇多天皇の息子である醍醐天皇(885~930年)と左大臣の藤原時平(871~909年)によって大宰府に左遷させられ(901年)、そこで亡くなった(903年)。ここまでは日本史の教科書にも書いてある。
ここから先は試験には出ないが、いろいろ人生に役立つ教訓もあるかとも思うので、最後まで読んでいただきたい(多少の偏見、誤解、不敬もあるかもしれないが、ご了承いただければ幸いである)。
菅原道真は、宇多天皇に「皇太子(次の天皇)として私の息子のうちで誰が一番相応しいか」と聞かれ、彼は迷わず醍醐天皇を推薦した。
にもかかわらず、醍醐天皇は、道真が自分を推薦してくれた恩を忘れ、右大臣の菅原道真が非常に目障りだった左大臣の藤原時平に影響されて(洗脳というよりは利害が一致して)、道真を大宰府に追放してしまった。
NHKの歴史番組か読んだ本の中で誰かが例えていたが、先代の社長が引退するにあたり信頼できる専務に次期社長である息子の将来を託したのに、その息子が古参専務の忠告・アドバイスをうるさく思い、自分と比較的年が近く気が合う若手専務と一緒になり、古参の専務を会社から追放したという同族経営の会社で時々ありそうな話に似ている。
道真の祟りで、藤原時平は若死(909年に38歳で他界)し、道真の失脚に協力した周囲の人々にも祟りがあった。
ただし、時平の弟の忠平(880~949)は、もともと道真と仲良しで、失脚後も縁を切らず、彼とその子孫は、時平とその子孫が受けたような祟りは全く免れ、逆に忠平の子孫(注:藤原道長・頼通など)は繫栄していった。
ここで得られる教訓=①「人の恨みは怖い。」+②「友情は大事だ。」+③「情けは人の為ならず。」(注:「人に情けをかけると、回り回って自分にいい結果が跳ね返ってくる。」=「善因善果」の意味。「人に情けをかけることは、その人の為にはならない」という意味ではない。)
道真の死後、天変地異が続いたが、祟りのピークは時平が亡くなった909年と醍醐天皇が亡くなった930年であったようだ。
930年、道真の追放や大宰府での軟禁に関与した貴族も祟りに逢っている(清涼殿落雷事件)。
醍醐天皇(885~930年)には、聖宝(839~909年)という強力な庇護者(皇族出身。空海の孫弟子。醍醐寺の開祖)がいたせいか、藤原時平(909年に他界)よりは20年以上長生きした。
醍醐天皇は清涼殿落雷事件でも難を免れたが、この事件の3か月後には、この事件の衝撃とストレスのせいか崩御した。
藤原氏の主流は、時平の子孫から忠平の子孫になったが、聖宝とその後継者(醍醐寺)の祈りによって、醍醐天皇の血を引く皇統は続いて行った。
北野天満宮の由来
当時、「祟る悪霊はちゃんとお祀りすれば守護神になる」という信仰があった(注:平将門もそうである。平将門は藤原忠平に仕えていた。興味深いことに、忠平は関係者二人(友人と部下)が怨霊→神となっている人物である)。
菅原道真の乳母だった(または巫女だったともいわれる)多治比文子は自宅の祠で道真を祀っていた。
【文子天満宮ホームページ】
【文天天満宮Wikipedia】
ある時、霊界の道真からテレパシー(以心伝心)で「私をちゃんと祀れば、祟りはなくなり、以後、民を守護する」と伝えてきた。
それが、北野天満宮が建立されるきっかけともなった(詳細は後日)。
北野天満宮の他の御祭神
北野天満宮には、主神の菅原道真だけでなく、その父母・祖父などの家族(*2)・親族や多くの神様も祀られている。
北野天満宮は学問だけでなく、ご利益の総合商社である。
北野天満宮(注:太宰府天満宮、亀戸天神社、湯島天神については後日)と菅原道真については、個人的に不思議なご縁(*3)もあり、一度で語り尽くすことはできない。(2回目に続く)
<交通手段>
京都駅から北野天満宮まで交通の便はあまりいいとは言えない。
京都駅からバスに乗ると、かなり時間がかかる(通常で35分だが渋滞もある)。
地下鉄で京都駅から今出川駅まで行き、そこから北野天満宮にバスに乗って行くのがベストではないかと思う(*4)。
【注】
(*1)遣唐使と菅原家
祖父の清公(きよきみ。770~842年)は遣唐使だった。天台宗の開祖となった最澄や真言宗の開祖となった空海と遣唐使の同期だった。また、伯父の善主(よしぬし。803~852年)も遣唐使だった。道真(845~903年)は既に他界していた祖父からは唐の話を聞くことはできなかったが、伯父からは唐の話を聞く可能性はあっただろう。また、菅原家には私塾(山陰亭・菅家廊下)があったので、その門人から唐の話(情報)は沢山聞いていたと思われる。
道真は、遣唐使は疲弊した民にさらに重い負担(税金)をかけることと航海のリスク(注:片道の生存率は50%、往復では25%。だから遣唐使は四隻で行った)を考えると、衰退した唐にはもはや行く必要性(価値)がない、学ぶものもないと考えたとの同時に、「唐のことは、とうにわかっているよ!」と思ったのではないかと思う。
(*2)北野天満宮にある社(今回は家族関係) 北野天満宮にはいろいろな社がある(約50社)。今回は二社だけ取り上げる。
まず、本殿の裏側の社には、文章博士であった父親の菅原是善(これよし。812~880)と遣唐使だった祖父の菅原清公(770~842)が祭られている。研究者(人文科学・社会科学)、文科省や外務省希望者向きの社といえる。https://kitanotenmangu.or.jp/guidance/setsumatsusha/
なお、江戸時代は、こちらの社から本殿にお参りするのが順路だったようだ。そのことを知らず、立命館大学の学生で講義の後に(地理的理由から)江戸時代のお参りの仕方で参拝していたゼミ生がいた(彼はある省で内定を得たが、留学もし、外国と非常に関わりの深い仕事をしている)。
「伴氏社」は参道の左にある小さな社である。
ここには道真の御母堂(少納言・伴善績の娘。「伴氏」はもともと大伴家持で有名な「大伴氏」。ただし、承和の変で「伴氏」は衰退していた。)が祭られている。
「伴氏社に母が願掛けして、私が生まれました」というゼミ生がいた。「さすが京都だ」と思った。
また、あるゼミ生は今出川駅からのタクシーの運転手に「伴氏社」の参拝を勧められたが、彼は外務省の内定を得た。聞くと、彼は本殿の裏にある遣唐使だった祖父が祀られている社もちゃんと参拝していた。
(*3)菅原氏と渡辺氏
渡辺綱の先祖は嵯峨天皇だが、その父の桓武天皇の外祖母は土師(はじ)氏の出身だった。一方、菅原氏は道真の曽祖父の古人(ふるひと)の時に「土師(はじ)」氏(注:菅原氏の先祖である野見宿祢(のみ の すくね)が、垂仁天皇の皇后の葬儀時に、天皇に殉死の風習を止めて埴輪を並べるよう進言し、「土師」という姓を賜った)から菅原氏に改名している。
したがって、渡辺氏と菅原氏は土師氏を通じた血縁関係があった。
渡辺綱は鬼退治をした時に、「いかなるご縁かは知らないが、北野天満宮のご加護のお蔭で助かった!」として、後に石灯籠を寄進したと何かに書いてあった。
私は、暫くその理由が非常に気になっていた。
その答えは、北野天満宮の社務所で買った『わかりやすい天神信仰―学問の神さま』(鎌倉新書)に書いてあった(今から20年前の2004年4月27日である)。何気なく12頁を開くと、「桓武天皇の外祖母が土師氏の出身だった」(→土師氏から菅原氏への「改姓の請願はスムーズに認められました」)と書いてあるではないか(少しびっくり)。
その時、菅原氏と渡辺氏の土師氏を通じた縁(遠い親戚であること)がわかった。
私の隣家には今は藤原系の方が住んでいるが、菅原氏と渡辺氏が遠い親戚だと知った20年前には、菅原さんが隣に住んでいたので、平安時代からの縁は微妙に現在に続いているのではないかと思うに至った。
(*4)菅原院天満宮神社
ある時、北野天満宮の参拝を終え、今出川駅に戻るつもりでバスに乗ったところ、路線を間違えた(注:京都市内のバス路線は複雑で、地元の人でも分かりにくい)らしく、丸太町に着いてしまった。
すると、地下鉄の出入口の近くに「菅原院天満宮」(Wikipediaはこちら)が近くにあった。
そこは何と、道真の父・祖父・曽祖父の家があった場所であった(注:今はかなり狭いが、昔は、今の京都府庁や京都府警本部を軽く含むような、非常に広大な敷地だったようだ)。道真が産湯を使ったという井戸もある(注:ただし、出生地については諸説ある)。
その時、北野天満宮を出てから30分も経過していなかったので、先ほど会った道真公から彼の実家に招かれたような不思議な気持ちになった。
それからは、菅原院天満宮にも参拝するようにしている。
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