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 『時頼と時宗』(奥富敬之、NHK出版) 1700円+税

 2001年のNHKの大河ドラマは「北条時宗」である。その時代考証を担当するのが、この本の筆者
である奥富敬之日本医科大学教授である。
 北条時宗は元寇の時の鎌倉幕府の執権である。したがって、その父である時頼より一般にはよく知られている。しかし、私には自信を喪失しかけた日本人にとって、時頼に為政者として、一人の人間・父としての理想と教訓を見出せるように思う。
 大河ドラマ「北条時宗」の前半を見るに際しての予備知識として、まず、この本に書かれていない彼の一面について記すこととする。
 北条時頼は鎌倉幕府の5代目執権である。父の時氏が若くして亡くなったため、4代目執権となる兄の経時と共に3代目執権の泰時に育てられたらしい。『吾妻鏡』には、御家人相互間の喧嘩に、兄の経時が御家人の一方に荷担したのに対して、弟の時頼は中立を貫いたことに対して、祖父の泰時が経時に謹慎を命じ、時頼に褒美を与えたというエピソードがある。この話から彼の冷静で厳正中立な性格を垣間見ることができる。
 また、時頼は謡曲『鉢(はち)の木』でも知られる。旅の僧に身をやつした時頼は、ある大雪の日に上野国の貧乏な御家人である佐野源左衛門尉常世のもてなしを受ける。旅の僧が時頼とも知らず、常世は一族に佐野荘を奪われた身の上話と「いざ鎌倉」の志を述べながら、大事にしていた梅・桜・松の三つの鉢を火にくべるのである。そして、「いざ鎌倉」の時に常世は言に違わず真っ先に馬で鎌倉に駆けつけるのである。その時、時頼は身分を明かし、常世には旧領に加え、梅・桜・松にちなんだ土地を与えたという話である。個人的な話になるが、15年ほど前に佐野君とあるパーティーで知り合いになり、偶然にも10年前から5年前まで近所に住み交流を深めることとなった。彼は日本を代表する有名な女優の甥に当たり、結構いい男だが、彼は自称「佐野源左衛門尉常世の子孫である」とのことであった。しかし、彼は馬ならぬパパの会社のアウディを乗り回し、独身のままである。佐野源左衛門尉常世の血流の一つも、彼で途切れてしまうのであろうか…?
 さらに、南北時代末期の『太平記』や『増鏡』には、出家後の時頼(最明寺入道)が、諸国を廻り、民
衆や御家人を救済した話が出てくる。しかし、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、その話が出てこない。そこで、時頼廻国伝説の真偽論争が今でも続いているようである。ここでも、個人的な話になるが、1995年6月、講義も一段落したので、伊勢志摩フリー切符で一人旅をした。伊勢神宮参拝の後、鳥羽から行き先もわからないバスに飛び乗り、途中下車すると、そこは志摩半島にある畔蛸(あだこ)という小さな浦であった。なんとそこには西明寺という北条時頼ゆかりのお寺があったのである。おまけに、「伊勢志摩や 畔蛸の浦に来てみれば いつも変わらぬ面白の松」との歌まで残されていた。 そこで、私は 時頼廻国伝説の肯定説に与したいと思う。ちなみに、伊勢志摩は鮑と伊勢海老でも有名である。後で述べるが、時頼が足利義氏の接待で出された食事の三品のうち二品は鮑と海老だったのである。鮑と海老は彼の好物だったのかも知れない。
 さて、話を元に戻す。以上のような話は、『時頼と時宗』には時頼廻国伝説(密偵説)以外書いていない。奥富教授は、考証家として信頼できる話のみを書いたからであろう。
 もう少し、北条時頼のエピソードを綴る。
 彼は事実上の最高権力者の地位にありながら、質素倹約を重んじ、実践していたようである。兼好法師の『徒然草』には、北条時頼に関連する話が私の知る限り三つある。第184段では、母の松下禅尼(まつしたぜんに)が、息子の時頼に質素倹約を教えるために、障子の破れに、あえて破れた部分だけ紙を貼ったという有名な話がある。時頼の母は身をもって道徳教育を実践していたといえる。
 また、第215段の話も有名である。平(大仏)宣時(時頼の父である時氏の又従弟)が、夜、急に最明寺入道(北条時頼の法名)に二度も呼ばれたので、着るものもかまわず行ってみた。時頼は単に酒を一緒に飲みたかっただけなのだが、台所で宣時が捜してきた小さな器についた味噌を酒の肴としては充分だと満足して、二人で酒を飲み興に乗ったとの話がある。彼は心を許した人と楽しく適度の酒を飲むのが好きだったようである。
 次の、第216段の話も興味深い。鶴岡八幡宮の参拝の後、足利義氏(時頼の義理の叔父)の接待(食事はわずか三品のみ)を受けるのだが、時頼は、「毎年いただいている足利名物の染物が欲しい」と叔父・叔母におねだりをしているのである。質素倹約を常としてはいるものの、彼にはおしゃれな一面もあったのかも知れない。このように、『徒然草』では、時頼の質素倹約を振りが強調されるだけでなく、人間的な側面も強調されているのである(逆に言えば、そうでない為政者が多かったということである)。
 『時頼と時宗』には、最初の二つの話は紹介されているが、この本に書いてあるのは主として冷徹な政治家としての側面である。
 彼はかなりの戦略家であったらしい。彼は、兄の経時が追放することのできなかった4代将軍九条頼経を追放することに成功した(宮騒動・寛元の乱)。ただ、一人も斬首することがなかったところに彼の寛大な性格が表れている。また、安達一族の力を借りて三浦一族を滅ぼした(三浦合戦・宝治の乱)。彼の本意としては、非戦だったようだが、外祖父である安達景盛(母である松下禅尼の父)らの意向には最終的には逆らえず、祖母の矢部尼の一族である三浦氏を滅ぼす覚悟を決めたようようである。その様子が、この本には詳細に書かれている。ドラマでは、政治家としての彼の側面がどのように描かれているか、大変興味深い。
 彼はまた、北条一族に連なる正妻に産ませた時宗には、溺愛ともいうべき徹底した保護を与え、周囲を信頼できる親族で固め、帝王学を施している。しかし、女官に産ませた長男(時輔)を三男とし、粗略に扱い、将来に禍根を残した。時代的制約としてやむを得ないというべきなのかもしれないが、ここに人間としての彼の限界が見られるのかもしれない。ドラマでは、時頼が、夫として父として、妻達や子ども達にどう接して、どんな結果が生まれたか、がどのように描かれているかも興味深い。
 彼は、宗教の面では、禅宗を支持したが、同時に天台宗や律宗にも理解を示した。さらに、日蓮の活動も黙認している。『立正安国論』にも目を通していたらしい。生死をさまよう大病をきっかけに出家した彼は、一度捨てかけた命を神仏に拾われた…という想いで一宗一派にとらわれずに政治を行ったに違いないと私は想像する。
 彼は、政治的には、建前としての合議制(評定衆・引付衆)という制約のもとに敵を排除し、リーダーシップを発揮した。リーダーシップは時として独裁を招く危険性がある(「得宗専制」)。しかし、彼は、人間的な魅力でその弊害の多くをカバーし、後世の人々の支持をも得た。しかし、その子の時宗の後、鎌倉幕府は一気に衰退に向かう。鎌倉幕府を倒したのは、足利・新田という北条一族から阻害されていった御家人だった。我々は、ここに何を学べきであろうか?
 色々な意味で今回の大河ドラマも目が離せない。特に、受験生諸君は、日曜の夜は頭を休めて、日本の歴史に学び、将来を見つめてほしい(温故知新)。
(01/1/5 渡辺一郎)
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