映画『千と千尋の神隠し』
製作総指揮:徳間康快
原作・脚本・監督:宮崎駿
制作:スタジオジブリ
配給:東宝
この作品の書評を私が書くきっかけとなったのは、渡辺先生との以下の会話である。
W 「ところで、試験が終わってから、何か面白い映画とか観た?」
O 「『千と千尋の神隠し』、けっこう面白かったですよ!」
W 「そうか。では、書評を書いて」
私が先生に「面白かった」と言った理由は幾つかある。
1つめの理由は、先生のお子さんが主人公と同じ小学生の女の子(11歳と9歳)であったからだ。原作者でもある宮崎駿監督によれば、「この作品を10歳の女の子のために作った。今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、侵食し、喰い尽くそうとする世の中をファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。」
今日の子供たちは、囲われ、守られ、遠ざけられて、生きることが薄ぼんやりにしか感じられない日常の中で、ひ弱な自我を肥大化させるしかない。私は子どもが今日の親や学校や社会に教えられてこなかったものがきっとこの作品の中にはあるような気がしたのだ。その証拠に、見終わってから私自身が新鮮な気持ちになれた。
自分自身がこの作品で描かれている不思議な世界へと一緒に入り込んだような気持ちになれたことも、この作品の面白さの1つである。主人公である千尋の目線で世界が描かれているためでもあるが、私自身の現実ともかなり重なり合う共通点があったからである。
千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。不思議の町を支配し、日本に棲む神様やお化けが疲れと傷を癒しに通う湯屋を経営している強欲な魔女「湯婆婆」においても、千尋が「ここで働かせてください」と言葉を発すれば、その言葉を無視することはできないのである。逆に、「いやだ」「やめたい」と一言でも口にすると、さまよい消滅するか、ニワトリとなって一生、卵を産みつづけることになってしまう。
私自身、官庁訪問を経験し、志望官庁に対して「ここで働きたい」と何度も言ってきた。その時、自分の発する1つ1つの言葉は重い意味を持ち、その言葉が自分の人生を切り開いていくのだと感じた。言葉は意思であり、自分であり、力なのだと痛感した。また、私は、官庁訪問を通じ、「生きる力」を獲得していった。本作品における「生きる力」とは現実がくっきりし、抜き差しならない関係の中で危機に直面したとき、本人にも気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命そのものが持つ力を指している。私も、今回の国家1種試験という人生の重大局面の幾つかの場面で、わずかではあるが、自己の中にある生きる力を感じ、そのたびごとに少しずつその力を獲得することができたような気がする。
千尋は生まれてから10年間で、初めての困難に直面するが、映画の後半では、自らの判断で自分の仕事を見事にこなしていけるようになっていく。自己の生きる力によって自分の名前は「千」ではなく「千尋」であると思い出し始め、自分自身を取り戻していく。そして、この不思議の世界に迷い込んだばかりの頃から、ただひとり助けてくれた少年「ハク」が瀕死の状態に陥ると、己の危険も顧みず、敢然とハクを救う唯一の方法に挑もうとする。与えられ続けてきた千尋が人のためになにかをしようとする。映画の中の世界と現実の世界、主人公と私はどこにも変わりがない。多かれ少なかれ、多くの人が主人公と自分自身が重なり合う部分があり、ごく自然にこの作品の不思議の世界に入って行くことができる。
この作品は、現代社会が孕む色々な問題を現代人的なパーソナリティーをもった異世界の様々なキャラクターを通して我々に訴えかけている。それが本作品のもう一つの魅力である。他人とコミュニケーションを取ることが苦手で、金をばらまいて相手を支配しようとする「カオナシ」という男が登場する。カオナシは千尋に求愛するが、拒絶されるとキレて、暴れまわり、「カエル男」たちを呑み込んでしまう。カオナシは呑み込んだ彼らの言葉を借りてしか話すことができない。ストーカーや引きこもり、キレてしまう少年を連想させる。カオナシというキャラクターは、現代人がもつ人間の本質を宮崎駿監督が描いたものである。しかし、そのようなカオナシも「銭婆」によって最後には救われる。
悪臭を放つヘドロのかたまりの「オクサレさま」は実は高名な河の神様なのであるが、自分の体が、棄てられた自転車や冷蔵庫が混じったへどろの固まりになってしまった。ヘドロが膿みのようにしぼり出され、ごみが芋づる式に大量に溢れ出るシーンは、環境破壊や不法投棄の問題を連想させ、胸が痛んだ。「湯婆婆」は金がすべての冷徹な経営者であり、高価なものを身に纏い、所有し成金的な生活をしている。一方、「銭婆」は湯婆婆の双子の姉で容姿は全くそっくりであるが、生活はヨーロッパの農家のような家に住み、質素ではあるが、暖かみの感じる生活を送っている。湯婆婆は自分の能力である魔法をたくさん使う。しかし、銭婆は魔法をできるだけ使わず、あくまで自分の手でものを作ることを大事にしている。湯婆婆の湯屋で暴れちらしたカオナシは銭婆のもとで自分を取り戻そうとする。人間性のある豊かな生き方とは何かを二人の生活を描きながら問いかけている。
千尋は最後にはこの不思議の世界から脱出できるのだが、神様やお化けがいる魔法が使える世界での出来事を思い出せなくなる。しかし、銭婆が自分の手で作り、千尋に贈った髪留めは現実世界に戻っても消えなかった。この髪留めをして凛とした表情をしながら前に歩んで行く千尋の姿が今も強く心に残っている。
(01/9/3 小山田 博)
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