『教育改革の幻想』(苅谷剛彦、ちくま新書) 700円+税
筆者は東京大学大学院教育学研究科教授の苅谷剛彦氏。2002年4月から新学習指導要領が実施される。それへの危機感から本書は書かれた。しかし、彼は社会科学者らしく客観的データを踏まえ慎重に議論を進める。最初、私にはもどかしくすら感じられた。しかし、それは議論が空回りしないための配慮からであった。彼の言葉を借りれば、「『制度としての教育』は理想論だけでは語れません。調査研究を通じて冷静に現実を見つめる作業を続けたいと思います」(2001年朝日賞贈呈式にて)。本書でも、慎重な問いかけを提示しつつ、豊富なデータを駆使しながら、結局は以下のように結論付ける。(1)今回のめざすべき教育改革は正しい現状分析によっていない。また、(2)教育を望ましい方向へ変えるための手段が教育の現場には与えられていない。したがって、(3)今回の教育改革は不十分な現状認識をもとに、実現のあやふやな「まぼろし」を追いかけているにすぎない。結局、彼は今回の新学習指導要領の実施は失敗に終わると予想している。特に、彼が他の著作(『階層化日本と教育危機』)でも強調するように、階層化した日本の現状では、富裕層は私立小学・中学・高校に逃げ、経済的・文化的に恵まれない家庭の子(普通の家庭の普通の子も)が、3割の学習時間削減で一番損をするのだ。実はこの点、カリフォルニアで実証済みなのである(「「たらいの水と一緒に赤ん坊も流してしまったようなものだ。学習には、必ず、むずかしことや、楽しくはないが大事なことも含まれているのだから」)。確かに、従来の教育に問題があるとしても、今回の文部科学省の改革案が唯一正しい政策とは限らない。文部科学省関係者からの反論が期待される。
しかし、そもそも国家の将来にかかわる重大な問題が国会でまったく議論されることなく、国民には所与のものとして受け入れるしかないという選択しかないのは全くおかしい(憲法26条参照)。また、有力官僚(現文部科学省審議官の寺脇研氏)の発言一つで、今まで最大基準だった学習指導要領がいつの間にか最低基準になっていたりもする。しかし、教科書検定の段階では従来どおり最高基準(学習指導要領以上の記載を認めなかった)として機能していた。学習指導要領が最低基準だと言うのは、私は正しい認識だと思うが、教科書検定制度との関係では矛盾している。さらに、そもそも学習指導要領がいかなる法的根拠に基づくのかも曖昧である(最高裁は法規性を認めているが、教育学者の多くは反対している)。また、その変更を一般の国民の多くはおかしい(反対だ)と思いつつも、「頭のいい人達のやることだから、きっと正しい(間違いがない)に違いない」(ある教師の発言)「我達一般国民がいろいろ言ってもしょうがない」(ある父母の発言)としてあきらめ受け入れてしまっている。
これらの疑問や発言が出てくるのは、未だに日本が戦前から続く上からの権威に基づいて政策を実行する官僚主義の国家であって、国民の合意に基づいて政策を進める民主主義国家でないことを物語るものではなかろうか?(選挙の洗礼を受けていない事務次官が選挙の洗礼を受けている大臣の職務命令を無視するというのも、日本が実質的には民主主義国家とはいえない証拠である)。現場の教育関係者の具体的な現状分析・議論(そういう場を設けることが重要である)を踏まえ、国会でもっと審議し、教育政策の大枠は法律で定め、文部科学省の本来の役割と学習指導要領の法的根拠を明確にする必要があることも痛感させられた。
【参照】
憲法26条 (1)すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
(02/01/02 渡辺一郎)
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