[ HOME受験に役立つ書籍・ビデオ>2003年夏 火星大接近 ]
受験に役立つ書籍・ビデオ
「男たちの旅路」
○脚本/山田太一、演出/中村克史ほか、音楽/ミッキー吉野〈ゴダイゴ〉
○NHKで1976年から1982年まで放送された土曜ドラマシリーズ。1976年第1部として、第1話「非常階段」第2話「路面電車」第3話「猟銃」を放映。その後、1977年に第2部「廃車置場」「冬の樹」「釧路まで」(長塚京三出演)、1978年に第3部「シルバーシート」「墓場の島」(根津甚八出演)「別離」、1979年に第4部「流氷」「影の領域」(梅宮辰夫出演)「車輪の一歩」(斉藤とも子出演)各部3話のオムニバス形式で放送。スペシャル版「戦場は遥かになりて」を1982年の夏に放送後終了。脚本の山田太一を一躍有名にし、シナリオライター(脚本家)という存在がクローズアップされ、意識付けるきっかけになる作品。
○NHKエンタープライズよりDVD発売中(全5巻・9枚組)。
○2005年4月スカイパーフェクTVの「日本映画専門チャンネル」にて集中放映された。

 テレビドラマをこうしたレビューに載せるのは、NG(反則)かもしれない。一部のDVD化されたもの以外は、再放送でもなければ、ほとんどがオンエアのとき見なければ、出会えないものだ(この作品はNHKビデオやDVDでも発売されている)。また、かなり前のものでもあり、もはや同時代を生きた人間の記憶の片隅にしかないものに、こうしたオマージュをささげるのも変な話であるが、機縁があり、私は最近某デジタルテレビを通じて、「再会」した。そして、何か言ってみたくなった。大方は見たことなどない皆様には、我慢して読んでいただければ幸いである。ただ、機会があれば、ぜひ見ていただきたい作品だ。

 脚本家の山田太一は、知っている方もいるだろう。このドラマの放映の翌年、1977年にTBSで「岸辺のアルバム」が放送され、どちらかといえば、こちらのほうが一般には有名であるかもしれない。現実に起こった多摩川の洪水を舞台にした、精神的に崩壊した家族の再生のドラマだった。こちらは、ドラマになる前に新聞連載の小説であったので、角川文庫でも読める。「不揃いの林檎たち」は、パート3まであったので、見ている人も多いだろう。しかし、山田太一ドラマの登場人物の中では、私には、この「男たちの旅路」シリーズ全編を通した不思議なヒーロー、吉岡司令補が印象深い。そして、山田太一がこのドラマで描いた「古い日本人と若者」に向けているあたたかな視線が,他のドラマにも通っているのを感じる。

 山田太一氏によるエッセイが、いくつか文庫になって出ている。その中でも不思議とこのドラマについては、語られてはいない。私にとっては、はじめて見たシリアスなテレビドラマであり、脚本家(シナリオライターというのか)というものの存在感を意識した最初のドラマだった。また何より吉岡司令補の人物の魅力によって時おり思い出さずにはいられないのであるが、時代の流れだろうか。

 吉岡司令補は、その人物像から格好の設定とでも言うのだろうか、ある警備保安会社の管理職である。年齢は不詳ながら、太平洋戦争当事元学徒動員兵の「特攻隊の生き残り」なので、50歳にはなっていよう。終戦が1945年、このドラマの設定がオンエア時の1976年であれば、学徒動員が20歳前後であるので、そういうことになる。生え抜きのベテラン警備員で、めっぽう腕は立つ。冷静沈着、指示も命令調で軍隊っぽいが、普段は無口のわりに、少し道義めいたことを踏み外す言動がまわりにあると怒る。そしていう。「俺は若いやつが嫌いだ」なぜかということを、30年前の自分達特攻隊での経験を静かに語り始める。その場面を少し長いが引用する。

 第1編第1話の「非常階段」は、飛び降り自殺者が4人もでて、自殺の名所となっている高層ビルを警備することになった吉岡と吉岡のいる警備会社に入社したばかりの柴田(森田健作)、同期に入社した新米警備員杉本(水谷豊)の3名が、自殺を図ろうとそのビルにきたOLの悦子(桃井かおり)を助ける話である。

 ドラマ後半で、3名が宿直して警備に当たっているビルの非常階段を悦子が上がってくるところを杉本が見つけ、3人は、階段を上り下りして探す。屋上にビルの窓清掃用のゴンドラが出ているのに目をつけた吉岡は、そのゴンドラにつかまって座っている悦子を見つけ「そこで、なにをしている」と話し掛ける。

悦子「もちろん、死にたいのよ。あんたたちに邪魔されないで死にたいの」
吉岡「元気がいいじゃないか。それだけ元気があれば死ぬことはない・・・どうやってここまできた。大変な苦労じゃないか」
悦子「電源入れてよ。来たら飛び降りるわよ。あと5分で電源入れなさい。10秒、20秒、30秒、40秒・・・」という悦子に吉岡は怒りを禁じられなくなる。
吉岡「ふざけたことをいうな。甘ったれたことをいうな!この場所は、週刊誌で選んだのか。ここなら派手でいいとと思ったのか。こんなところまでのこのこやってきた奴なんかに死ぬ資格なんてない。あんたにはな有り余って使い道のなくなった人生かもしれないがな、30年前にはな、30年前の戦争ではな・・・」
杉本が止めに入り、「どうしたんすか司令補、昔話はまずいですよ〜」
吉岡は杉本を「おまえなんかとはしゃべってる暇はない」と突き飛ばす。
吉岡「本当に、おまえは生きたか。ギリギリに生きてみたか」
杉本「野郎、こんなときにズレタ話なんてすんなよ」
吉岡「5分で死ぬだと。まるでゲームだ。俺たちをおどして1分立った2分立った、はい、さよならってか。気楽なことをいうな。ふざけたことをいうな」
そこで、傍らにいた柴田(森田健作)が激情にかられ意外なことを叫ぶ「勝手に死ね」
吉岡はそれに対し「それはいかん、死なすわけにいかん」と語る。
吉岡「あんたもよくきけ。死にたきゃ死んでいい。人助けじゃないんだ。仕事だ。このビルで誰も自殺はさせないという契約をした。だから死なせない」
結局悦子はバランスを崩してゴンドラから落ちそうになるところを吉岡に抱きかかえられ、無事ゴンドラの中に運び込まれる。吉岡は、思わず悦子の頬を何度も殴りつけ、杉本に後ろから止められる。
ビルの宿直室に戻った柴田が司令補に尋ねる。「本当に仕事だけですか。仕事じゃなかったら助けなかったんですか」杉本が「中年なんてそんなもんよ」と茶化す。柴田は、「じゃあ何で助けたあとであんなに殴ったんだよ。助けるだけでいいじゃないか」と食い下がる。そこで吉岡が語りはじめる。
「俺は―――若い奴が嫌いだ。自分でもどうしようもない。嫌いなんだ」と。
吉岡「昔の話をするなといったな。めったにおれは、昔の話などしない。しかし、忘れることはできん。30年前戦争中の若い奴は、つまり俺たちはギリギリのところで生きていた。死ぬことにも生きることにももっと真剣だった。昔だっていいかげんな奴はいた。今だってぎりぎりに生きている奴はいる。しかしな、明日になって特攻隊になって死ぬと決まってる奴と一緒に暮らしたことがあるか・・・
顔色がみんな少し青くてな。ある日『吉岡、星が出ているか』と聞いてきた奴がいた。出ていなかった。『見えないようだ』と答えるると、『そうか、降るような星っていうのはいいもんだったな』といった。その夜一晩中俺は、雲よ晴れてくれと祈り続けた。朝になるまでに降るような星空を見せてやりたかった。翌朝曇り空の中を奴は飛んでいった。そして帰ってこなかった。
甘っちょろい話じゃないかと今の者は言う。しかしな、翌朝確実に死ぬとわかっている人間は、星が見たいという、そのたった一つの言葉に百万もの思いが込められていたんだ。最後に奴と握手したときのぬくもりを忘れることが出来ない。そして、俺だけが生き残ったという情けなさが、おまえたちにわかるか。いや、わかってほしいとも思わない。いいも悪いもあの時代が俺を作った。だからな、いまの若いちゃらちゃらした奴が、生き死を弄(もてあそ)んだようなことをいうと我慢がならん。聞いた風なことを言うと『そんなもんじゃない、そんなもんじゃない』と思って、我慢がならん。俺はそういう人間だ。君たちに好かれようとは思わん」(1976年2月28日放送NHK土曜ドラマ『男たちの旅路,第1部第1話−非常階段』より)

 長いセリフ回しだ。自殺しようとする悦子に語りかけるときから吉岡(鶴田浩二)独特の口調でこれが山田節である。この吉岡司令補という人物は、山田太一と鶴田浩二の合作だろうか。吉岡司令補は、鶴田浩二の当たり役というより、これ以外のキャストは考えられない。また、この若い頃は仁侠映画で有名だった渋い俳優も、実際に学徒動員で海軍の元特攻隊だった経験がある。私はこのことを、ちょうどこのドラマシリーズの最終回『戦場は遥かになりて』を見たころ知った。民放で太平洋戦争を描いたある特集番組をやっていて、それに鶴田浩二が出てきて話をしていた。よって、山田太一が語らせる吉岡の戦争談に緊迫感のあるリアリティがあるのだ。最近知ったことだが、このドラマの制作にあたり、山田太一は鶴田浩二の自宅を訪れた際、何時間にも及び特攻時代の話を聞かされ、この人物像が生まれたという。

 吉岡司令補は、このドラマ全編を通じたヒーローだが、語り手は吉岡の勤務する警備会社に入社してくる若者であり、シリーズを通じて配役が変わっていた。(この点『北の国から』の黒板五郎と純親子の関係に似ていなくもない)

 第1期は、森田健作が演じる柴田であり、この青年の母親(久我美子)が実は吉岡の特攻隊時代の元恋人という設定だ。第1部の全3話の伏線には、この昔の恋愛があり、深みのある構成になっている。

 第2部、第3部は、森田の変わりに柴俊夫になったが、主役は水谷豊演じる杉本と桃井かおり演じる悦子(悦子は第1話の後、吉岡の入る警備会社に就職し、彼の部下=杉本の同僚となる。)になった感がある。

 第4部は悦子と杉本がいなくなり、彼らの代わりに清水健太郎と、当時フジカラーのCMで樹々きりんと一世を風靡した「元祖存在感女優」岸本加世子が兄妹として同じような役柄を演じた。(悦子は、吉岡のもとで働くうち、しだいに吉岡に恋心を寄せるものの、不治の病をわずらい第3部の最終話『別離』で亡くなる。)

 第3部までの全話を通じて水谷豊が吉岡と主人公の間をつなぐ脇役として異彩を放っている。吉岡もこの小うるさいハエのようにつきまとう、威勢のいい部下の水谷豊を最後まで突き放さず、彼を若者の価値観の代表として、自己の価値観を対決させる格好の相手として、彼に語り続け、自分の考えの表明を周囲に行うのである。そして、彼の周りの「若い奴」が確実に変わっていく。

 第1話から第4部の最終話「車輪の一歩」にいたるまで全編を通じ、若者たちは,この嫌われることに動じない「戦中派」の男に確実に影響を受け、自分達でなにかをやろうとする。第1話の「非常階段」では、吉岡司令補は、さっきの長いセリフの後に「俺が若い奴を嫌いなのは、本当には若い奴のことをわかってないからだろう」という。そして、若い奴である柴田(森田)と杉本(水谷)の配置換えを勧める。俺なんかと一緒に仕事するのは嫌だろう、という意味で。脚本の山田太一はしかし水谷豊にこういわせる。「俺はあんた嫌いじゃないですよ。中年にしちゃ歯ごたえがありそうですからね」そして、彼らは2人ともこの「元特攻隊」の司令補と働く道を選ぶ。これがこの長大な『男たちの旅路』シリーズのプロローグだ。

 全編を通じ、周りの若者が代替わりし、悦子との死別も得て、吉岡本人も、変わっていくのを見逃せない。戦中派の思想がどう現代に働きかけ,その思想がいかに変容を迫られるかを見る視点がある。そこに、脚本家山田太一のメッセージが見える気がする。

 ドラマの放映当時「30年前」だった「戦後」がいまや60年前となった。だから、今の若い人がこのドラマを見て、どう思うか関心がある。今見てもこのドラマは意外と古びていない。

 このドラマの始まった1976年、私は中学生だった。関心はもっぱら音楽で、たしかオリビア・ニュートンジョンや小椋圭がヒット曲を歌っていた。この年の少し前1972年のオイルショックあたりを日本の「戦後」の終結とする関川夏央氏の説がある。関川さんは、山田太一の『岸辺のアルバム』について書いた文章で、この『男たちの旅路』に触れ、こう書いている。

 '70年代なかば、ボクシング人気は落ち、「社会派」は、小説でも映画でも影響力を失った。拒食と過食、花粉症、子供のアトピーが急増した。'60年代なかばから終わりかけていた「戦前」は、このとき完全に命脈を絶たれ、ゆえに戦中派もようやく物語の中に場所を得られたのである。(岩波新書「本読みの虫干し」関川夏央著、P.131)

 舞台である警備会社の仕事現場として、そのころから大規模になり始めたショッピングセンター、高層ビル、遊園地の大規模な駐車場などがテレビに現れる。高度成長の立役者だったメーカー中心の社会から、サービス情報社会へと時代は変わり始めるところだった。その反映として警備会社という異色だが格好の舞台で、鶴田浩二という絶妙な配役を得て造形した吉岡司令補という人物は、戦後30年経て、全共闘や70年安保のあと、「社会化」をどこかで拒んでいる若者にあえて「戦争」を語る、現われるべくして現われたヒーローだったのである。彼は、後年もいろいろなドラマで自らを語る中高年の主人公と同じく、山田太一による独特のせりふ回しにより、淡々とわたしたちに当時のことを語りかける。口を閉ざすことは選ばず、話す人間として、自分達世代の価値観を「そうじゃないのか」と若者にぶつけるのだ。

 こうした吉岡のような人物を造形できたことにテレビドラマという表現形式の真の新しさがあったのだ。

 「モンキーマジック」「ガンダーラ」がヒットする直前のゴダイゴのミッキー吉野の音楽(吉岡司令補の回想場面やクライマックスで優れた効果を発揮する)、当時ほとんど無名の新人でしかなかった桃井かおり(この前年の1975年に同じ山田の脚本による『それぞれの秋』というこれも有名なドラマに出ている)、水谷豊の準主役での起用などこの時代の新しさを集めた頂点にこのドラマがある。この物語の表現はおそらく一度しか放映されないテレビドラマでしか出来なかったことであり、その証拠に忘れられない歴史的な作品としてデジタル衛星の電波を通じ、こうして私の前に再度表れることになったのだろう。(このドラマはNHKがビデオ販売化した初めての作品だという)

 このドラマの2年後1978年に長寿番組『3年B組金八先生』(脚本 小山内美江子、TBS)が武田鉄也というこれも格好の配役を得てスタートを切ったのも、テレビドラマとともに「シナリオライター」という存在が全盛期になる先駆けだったという気がする。さらに3年後の1980年に『北の国から』(脚本 倉本聡、フジテレビ)が始まるのを思えば、その感は増す。

 関川夏央さんが「『戦後』が終わった」といった1970年代中ごろ、くしくも私はこのドラマを中学から高校時代にかけて出会い、テレビを凝視していた。そして、「戦争」と「戦後という時代」にはじめて向き合ったように思う。テレビドラマにも一期一会の宿命があり、見ていた人にしか伝えられないというのは本当に残念なことである。

 しかし、それが歴史という「物語」の宿命であり、だからこそ人々の記憶に残るのかもしれない。

(05/08/05 高野川健)
©2005 The Future