[ HOME>キャリア・エリートへの道>東大経済学部から国 I 法律職合格 ] | |
1998年、私は国家 l 種試験法律職に無事合格し、内定をいただくことができた。私にとって、ここまでの道のりは長く、ようやく自分の就職が決まったという感じである。しかし、自分が第一志望にしていた官庁から内定をいただくことができ、いままで自分がやってきたことは決して無駄ではなかったと思っている。また、このような結果が出たことに満足している。 私は経済学部生だったが、試験は法律職で受験した。その理由はあとで詳しく述べるが、簡単に言ってしまえば、「法律に興味が持てたから」である。1回目の受験では、1次試験には合格したものの、力及ばず、2次試験で不合格となってしまった。そして、2回目の受験で最終合格を果たすことができた。 私の場合、国家公務員を志望する理由は概ね次の2点に集約される。 まず、国民のため、公益のために働きたかった、ということである。なんとも堅苦しくて演説調の理由ではあるが、これが素直なところである。民間企業の場合でも、国民・公益への奉仕をする部分が少なからずあるとは思うが、やはり、自分のやった仕事は究極的には会社の利益になるのであって、公益になる部分は少ない。もちろん、これらの民間企業が日本経済に与える影響は非常に大きなものなのであって、私益を追求することがよくないなどと言うつもりは全くない。ただ、私の場合、民間企業をまわった時の印象、官庁の説明会に行った時に受けた印象などを総合して考えてみると、やはり、公益のために働きたいという気持ちが圧倒的に強かったのである。また、私の価値観として、「みんなのため」になるような仕事をしたかった。そして、一口に公務員といっても様々な種類・職種があるが、私は一地域の住民よりも国民全体に影響を与えるような仕事がしたかったこと、それも、経済政策・治安政策・医療政策など、様々な政策の企画・立案を通じて国民・公益に奉仕したいと思ったことから、国家T種試験を受けたのである。 そして、もう一つは、法律の知識が活かせる職場で働きたかった、ということである。先ほども書いたが、私は経済学部生でありながら、試験は法律職で受けた。経済学部でも、民法、商法、行政法、労働法などの講義が開講されているのだが、これらの講義を通じて、私は法律に大きな関心を持つようになった。ある事件が起こった時に、法律に基づいて問題を解決していくプロセスが面白かったこと、そして、一見ごちゃごちゃとしている条文が実はある体系に基づいて配置されているのであって、その体系が見えた時の感動がなんともいえないこと、などが理由である。私は決して経済学が嫌いだった訳ではないが、法律のほうが素直に興味を持つことができ、将来自分にとって法律と経済のどちらが役に立つかと考えたとき、それは法律だと思ったのである。また、行政活動は法律に基づいて行われるのが大原則であり、法律の知識は不可欠であるし、実際、原局の方も六法全書は手放せないとおっしゃっていた。そこで、国家公務員ならば法律の知識を活用できると思ったのである。ほかにも細かい理由はいくつかあるが、試験勉強時、そして官庁訪問時を通じて常に思っていたのが上の2点であり、やはり、この2点が最も根幹にある。 アメリカの小学校時代ところで、私は日本の小学校には1年間しか通っておらず、2年生から6年生の時まで、親の仕事の都合で中米、そしてアメリカに5年ほど滞在していた。このうち、特にアメリカでの生活は私に少なからず影響を与えたと思う。そこで、少し詳しく書きたいと思う。 私は現地の私立校に行ったのだが、最初は英語が十分に話せなかったこともあって、いろいろと苦労した。初日からいきなりアメリカ人ばかりのクラスの中に放り込まれ、皆と同じような扱いを受けた。生徒は1クラスに14〜15人しかいないので、授業中に指されることもしばしばだった。そのたびに、「英語があまりできないと分かっているはずなのに、何で指すんだ?」と思ったものだ。そして、先生に、片言の英語で「僕はしゃべれませんから……」とモゴモゴと言っても、いつも「大丈夫だから」と言われるのみだった。とにかく、日本人だからといって特別扱いしないのである。しかし、6ヶ月も経つと、日常会話ならほとんど問題なくできるようになり、また、英語力を必要とする授業(例えば、“English”という科目があったが、これは日本で言えば国語にあたる。)にも段々ついていけるようになった。 6年生になると、科目が更に増え、スペイン語などの第2外国語が入ってきたり、数学の授業などはクラス分けが行われ、普通の数学のほかに“Algebra”(代数学)が加わった。また、成績によってグループ1からグループ4までのグループ分けが行われた。ほぼ毎日、“Study Hall”(自習)の時間が午前、午後に設けられているのだが、グループ1の人は全ての自習時間を好きに使え、逆にグループ4の人は全ての自習時間を自習室で過ごさなければならず、残りの人は指定された時間に自習室で勉強するというシステムである。そして、毎日のように宿題が出されたが、きちんとやっていかないとペナルティ−が課され、属するグル−プにかかわらず、自習室に行かされたり、学生食堂でおばさんの手伝いをさせられたりした。このように書くと、この学校はとんでもないところのように思えるかもしれない。しかし、授業はどれも楽しかったし、先生も熱心な人ばかりだった。1クラスの生徒数が14〜15人ということもあり、面倒見も非常によかった。授業内容は難しいものも結構あったが、強制的に勉強を「やらされている」と思ったことはほとんどない。むしろ、こちらから積極的に授業に参加していたという記憶のほうが強い。これは私に限らず、クラスの多くの友人がそうであったように思う。とにかく、努力をすれば何の問題もなく、楽しい学校生活が送れるのである。グル−プ分けの制度などは、一見、威圧的なものかもしれないが、私は、これは各自の自覚を促し、勉強をすることの意味を教えるためのシステムだったと理解している。そして、これはいわゆる「スパルタ式」と言われるものとは全く違ったものであったと思う。 私は6年生、7年生(アメリカでは約半年、日本よりも入学が早いため、7年生もやった)の2年間、グル−プ1に属することができ、また先生の推薦で、代数学のクラスに入ることができた。多少英語がおかしくても、一生懸命にやれば、必ず評価してくれた。その点は、非常にフェア−だったし、やる気にもつながった。 この学校で私は何を学んだか。 さて、帰国後は、地元の市立の中学に入学した。両親は多少心配していたようだが、いじめにあうようなこともなく、楽しくやっていた。先生もけっこう面白い先生が多く、また、印象に残る先生もいた。例えば、中2の時の担任の先生は数学を教えていたのだが、ある時、アメリカでどんな数学の授業を受けていたのか知りたいと言うので、800ペ−ジ近くある初級代数学の本を持っていった。すると、本を貸して欲しいと言われた。あとで聞いたのだが、先生は辞書を片手に、この本を読んでいたそうだ。公立の中学にだって、こういう熱心な先生がいるのだ。先生の数学の授業は少し変わっていたが、おそらく、先生は数学の本質を教えようと努めていたのだろう。アメリカの代数学の本を読んでいたのも、そこから何かヒントを得ようとしていたのだと思う。 中学卒業後は、地元の県立高校に行った。ここでも、3年間、楽しくやっていた。この学校では「文武両道」が重んじられ、勉強も重視されたが、50キロのマラソン大会(実際は競歩に近い)などといったユニ−クな行事もあった。高3の時も、週に3回は体育があったし、音楽もあった。また、大学受験で選択していなかった日本史も必修だった。高3の2学期あたりからは受験のことで多少ナーバスになっていたこともあり、日本史が必修だったことに関しては不満を感じていたが、きちんと現役で受かった友人もけっこういたので、自分の努力が足りなかったのだと思っている。大学受験という点からすれば、いわゆる有名私立校のほうがやはりよいのかもしれないが、結局は本人の自覚の問題ということになるのだろう。 浪人した後、最高学府と呼ばれる大学に入学したが、私は経済学部を卒業後、再び経済学部に学士入学したりしており、現役の連中に比べると就職するまでに随分と余計に時間がかかってしまった。世間の人から見れば、あの人は何をやっているのと言われてしまいそうな状況だった。しかし、その分、色々と考えることができたし、自分の好きなことをやれたし、勉強のほうもある程度の余裕をもってすることができたので、結果的にはプラス面が多かったと思う。もっとも、両親の理解があったからこそこんな事ができたわけで、私に機会を与えてくれた両親には感謝している。私も生半可な気持ちであれこれやっていたわけではないが、両親にとってみれば大きな負担だったと思う。なにはともあれ、自分が本当にやりたい仕事に出会うことができたという点で、この時間は決して無駄ではなかったと思っている。 国 I の勉強法では、ここで私が試験を受けるにあたり、実際にどのような勉強をしていたのかにつき、以下、述べていきたいと思う。
【教養】 私は一次の教養が苦手だった。1次の教養は、大きく分けて、一般知能(文章理解、判断推理、数的推理、資料解釈)と一般知識(社会科学、人文科学、自然科学)に分けられるが、私は特に一般知能の数的推理、判断推理が苦手で、この2つに足を引っ張られていた。そこで、たとえこの2つで3点くらいしか取れなかったとしても、全体の6割(つまり、27点)は確保できるように心掛けていた。 【専門】 まず、すべての科目について言えることだが、過去問10年分は、最低1回はやっておくべきである。近年の問題は、過去問だけでは対処できないものも多くなっているが、過去問と似た問題がいまだに出題されているのも事実であるし、また過去問は様々な意味で「基本」であるから、是非やっておくべきである。『セレクションシリーズ』(早稲田公務員セミナー)が過去問集として一番よいと思う。
【論文試験】 【人事院面接】 最近では面接も重要視されるようになってきたようなので、あまり油断できない。ただ、あくまでも面接であって、特別なことをやるわけではないのだから、普通にやればよい。相手に失礼のないような態度で(これはごく当たり前のこと)、国家公務員を志望する理由・志望する官庁の志望動機をきちんと言うことができ(これも当たり前)、相手の質問に対して自分なりの考えを述べられればよい。 また、官庁訪問についてもふれておく。近頃思うこと(将来への展望) 公務員の不祥事が続き、公務員に対する国民の風当たりが強くなっているが、私はそれを厳粛に受け止めねばならないと思う。公務員の不祥事は、古い行政の体質・構造に起因する部分が大きいと思うが、ここ2、3年、まさに行政改革が話題になっているところである。こういった時期に国家公務員になる我々は、この古い体質・構造を積極的に変えていく使命を負っていると考える。 また、経済問題も早急に解決されなければならない問題である。ここのところ、どうも日本経済は元気がない。どうしてしまったのだろうか。なかなか回復軌道に乗れずにいる。不良債権問題により日本の金融システムは信用を失い、それに伴って株価は下がり、貸し渋りによって中小企業は苦しい立場に立たされている。日本経済の停滞はアジア経済の停滞の主要因とさえ言われ、また、世界規模においても、日本の現状、とりわけ金融システム不安に対する批判は厳しいものである。いま、日本経済が立ち直るためには、不良債権処理を早急にすすめ、金融システムの信頼を回復することが一番肝要だと思う。そして、税制改革などを通じて消費を喚起するべきだ。信頼を回復し、経済を立ち直らせることで、再び「経済大国日本」を世界に知らしめたい。そして、世界における日本の役割をより大きなものにしていきたいと思う。 かつて、日本は敗戦の混乱を乗り越え、高度成長を迎え、多少の波はあったものの、その後も堅実な成長を続けた。そして、バブルの時代を謳歌したわけだが、バブル崩壊後の不況からなかなか抜け出せずにいる。もしかしたら、日本はかつてのような好景気を迎えることは二度とないのではないか、そんな不安さえも抱いてしまう。しかし、何か方法はあるはずだ。いままでも数々の困難を乗り越えてきたのだ。微力ながら、私も国家公務員として、その方策を探していきたい。 他にも、問題はまだまだある。高齢化社会に伴う医療問題、年金問題、再雇用問題なども、国家公務員が取り組み、解決していかねばならない難問題である。 そして、これらの問題に取り組む際、国民の考えが十分反映されるようにし、国民から乖離した「机上の空論」とならないようにするために、行政と国民とを結ぶシステムを構築することも重要であると考える。例えば、国レベルでの情報公開制度をつくることなどは、大きな意義があると思う。 もっとも、言うは易し、行うは難しであって、行政改革にしろ経済対策にしろ、実際にやるとなると、相当困難であると思う。仮に実行に移したとしてもうまくいかない事項もたくさんあるだろう。しかし、私は公益のために働くというポリシーをもって、私なりの理想を少しでも現実にできるよう努力していきたい。 以上 |
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