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キャリア・エリートへの道


筑波大、社会人を経て外務省へ

マイペースのベビーブーマー

 私は1970年代始めに茨城県南部のベッドタウンの平凡なサラリーマン家庭に生まれた。折しも第2次ベビーブーム。受験、就職等あらゆる人生の節目での競争は激しく、社会は偏差値という客観的な基準で子供たちをランクづけする傾向を強めていった。

 もっとも、私が育った首都圏郊外の田舎では、勉強における教育熱は高くなかった。むしろ、挨拶や礼儀といった躾け、さらに女の子であれば家事を覚えることの方が重視されていたように思う。私の両親も挨拶や家事の手伝いに関してはかなり口うるさかった。しかし、私は自分から進んで勉強もする子供だった。私は、幼稚園児の頃は「月で本当にウサギが餅つきをしているのかを自分の目で確認する」という夢を持っており、小学生の頃は学校の先生に憧れていたが、それには周りの人よりちょっと多めに勉強して大学に行く必要があるということを幼心に感じていたからである。結果的には、鈍感な田舎の雰囲気の中でのんびりと公立路線を歩んだが、両親は社会に対する好奇心がどんどん旺盛になっていく私の姿を見て、いろいろなことを吸収し、たくさんの価値観を受け入れるチャンスを与えてくれた。また、人生の恩師ともいえる先生にも出会えた。ゆっくりしたマイペースではあるが、実社会をなんとか自分の足で歩く土台を作ってくれたたくさんの方々に感謝している。

わがままなひとりっ子の変身

 私の学校教育は、地元のごく普通の幼稚園で幕を開け、その後は、公立小学校に進んだ。当時、私は小児ぜんそくで苦しんでおり、両親は健康な体づくりに何よりも重きをおいた。治療のために2年近く、母と週に1回、病院に注射をうちに通った。私も苦しかったが、両親はそれ以上に心配し、苦労していたと思う。そのおかげで私はぜんそくを克服し、風邪もひきにくくなった。

 しかし、それとひきかえに私は非常にわがままな子供になっていた。ひとりっ子である上に、風邪をひくたびに大切にされていたので、わがままぶりには拍車がかかった。協調性がなく、自分の思い通りにならないと、すぐに嫌な顔をする子供であった。学校の通知表には大抵、「頑張りやさんですが、もう少しお友達と仲良くしましょう」といった類の先生のコメントがあった。

 そんな私の性格を変えるきっかけを与えてくれたのは、小学校5年時の担任の女性教師H先生である。この先生は子供のやる気を引き出すのが上手なことで評判で、クラスの全員が勉強(とはいっても計算ドリルや漢字ドリルといったもの)はもちろん、マラソン大会、合唱コンクールといった学校行事も頑張っていた。私は絵や作文が好きだったので、それを発表する機会を与えてくれた。

 あるとき、展覧会に出す絵が仕上がらないという理由で、祭日にもかかわらず友達と学校に呼ばれたことがあった。先生と私が二人きりになったとき、先生は私にハッキリと、「あなたはわがまますぎる。もう少し思いやりを持ちなさい」と言った。自分でも他人に好かれる性格ではないことは分かっていたが、面と向かって欠点を指摘されたのはかなりの衝撃だった。1週間ぐらい自己嫌悪に陥った。さらに、先生は私を人の気持ちを考える立場に置くように仕向けた。宿泊学習のサブリーダーをつとめることになり、いやいやながらもそれまで冷たく接してきた精神障害児のクラスメートの面倒も見た。図書委員会の委員長をやったことで、膨大な数の本の配列を直すにはみんなの協力が必要であり、それを仰ぐにはどうすればよいかを実際の場で学んだ。いずれも自分の責任を投げ出すことのできない役目であった。おかげで、私をわがままという人はあまりいなくなり、小学校6年の修学旅行では'民主的な'選挙でリーダーに選ばれた。心配していた両親も、学校から帰宅するやいなや友達と出かけていく私の変身ぶりに安心したようであった。

 社会に関心を持ち、勉強を一生懸命やるようになったのもこの頃である。H先生は、毎日重要ニュースをノートに書いて提出するという課題を課したので、新聞を読んだり、ニュースを見たりする習慣がついた。私のお得意は三面記事であったが、世の中の流れを知るには理解しなければいけないことがたくさんあるということに気づいた。仕組みはよく分からないけれど、大学に行こうと固く決心したのもこの頃だったと思う。そして、それにはもっと勉強をする必要があると感じ、学校の勉強はもちろん、それまで溜まりっぱなしだった通信教育のSゼミもきちんと消化するようになった。塾に通うという選択肢もあったが、田舎ゆえに補習を目的とする塾がほとんどであったし、何より遊びの時間がなくなるのがいやだったので行かなかった。とにかく友達との遊びも勉強も楽しくて仕方なかった。すべてが充実していて、風邪をひいても学校に行くと張り切る子供に変身していた。

失意の中学時代

 しかし、私のやる気は、中学校でことごとく打ち砕かれた。私の進んだ地元の公立中学 は、昔からそこに住む人が多い地域と新興住宅街が合わさった学区で、親・生徒の考え方も生徒の学力差も歴然としていた。古いものに固執する考え方、ちょっとのことで騒ぎだ す態度、自分とは異なるものに対する差別や偏見、何事も適当にやっておけばよいという姿勢。私が小学校生活で学んだこととは全く相容れないものだった。しかも、近隣では校 内暴力の代名詞とされるほどの荒れた学校で、私も心もだんだんすさんでいった。地元訛りでつまらないギャグを繰り返す不良の仲間に入るのはさすがにばかばかしく思えたが、充実した小学校時代を共に過ごした友達がグレていく姿を見るのは本当に悲しかった。もっとも、一見不良であっても、「根はいい奴」はいた。しかし、経験の浅い教師が多く、彼との対話に挑む教師はいなかった。担任の教師は彼の暴走を止められず、ただ見ているだけだった。H先生との出会いから抱くようになった教師への憧れは徐々に薄れていった。

 一方、勉強はひとりでもできるラクな作業だった。教師は勉強が嫌いな生徒のレベルに合わせてゆっくりと授業を進めたので、私はいつも机の下でSゼミをやっていた。今思えば、教師のプライドをたいそう傷つける失礼な態度だったが、成績は悪くなかったので文句は言われなかった。

英語との出会い〜高校時代

 高校は地元の公立高校を選んだ。進学校だったので生徒の間のライバル意識も強かったが、価値観を共有できる友達が多く、楽しかった。さばさばとした校風が心地よかった。

 勉強は頑張らざるを得ない状況に置かれたが、特に力を注いだのは英語だった。特に1年時の担任であったO先生には、やさしめの英字新聞の記事を和訳して添削してもらった。今振り返ってみると、これが国際的なことに対する関心の原点になったともいえる。さらに、O先生には職業に対する高い意識など、人間的にも尊敬できる点が多かった。中学時代は教師の力のなさにがっかりしたが、今度は反対に、自分にはO先生のように教育に注ぐ情熱はないことに気づき、教師の道は断念し、新聞記者を志すようになった。

 また、初めて学校以外の教育機関である予備校にも行ったが、苦手だった国語以外は学 校の授業の方が楽しかった。ただ、大学受験という全国的な競争に直面して、ひまだった中学時代にもっと勉強しておけば、もっと高校時代をエンジョイできたのにとエスカレー ター式の私立学校の生徒をうらやましく思った。

自分らしさの形成の第一歩〜大学時代

 新聞記者への憧れから、政治か経済を勉強できる大学をと思い、地元のT大学に進んだ。都会の華やかな学生生活とはかけ離れていたが、広大なキャンパスや国際的な街の雰囲気が魅力だった。また、1・2年時に社会科学全般の基礎を学んだ後に専攻を決定できるのも好都合だった。両親も娘を目の届く範囲における上に、国立大ということで大いに喜んだ。

 ここでの生活が自分の性格、職業選択を決定する上で最も大きな影響を与えた。  特に寮生活から学ぶことは多かった。慣れない頃は食事の準備と洗濯で疲れてしまう有り様。母の偉大さとともに、仕事と家事さらには育児の両立は並大抵の努力じゃできない!と働く女性の大変さが分かった。企業が女性の採用にしりごみする理由も十分理解できた。

 友達とは頻繁に部屋を行き来し、週末にはお得意の料理を囲んで色々なことを語った。自分の出身地、家族、高校時代、学問のことがよく話題に上がった。そこでは自分の無知をひしひしと感じた。仲の良かったひとりは留学経験があるので英語は堪能。社会学をこよなく愛し、1年の夏頃には教授とマックス・ヴェーバーに関する議論をしていた。そんな彼女を見て、自分の意見をきちんと言える人間になろうという目標を立てた。親と離れている分、早く個としての自分を確立しなくてはという気持ちが強かったように思う。

 お気楽なテニスサークルに入って、彼氏でも作ろうと考えていた私が、英語サークルの ESSでディベートをやろうと思ったのも彼女の影響が強い。ここでは論理的思考と多忙生活のやりくりを身につけた。夕方6時に授業を終え、深夜までサークルという生活が始まった。論理的に考えられるようになっていくのは楽しかったし、授業での発表やレポートも分かりやすいと教授にほめられた。しかし、こんな生活をずっと続けていては参ってしまう。やる気あふれる先輩を前に冬頃にはぐったりしてきた。朝起き上がれないほどの神経性胃炎になったり、やる気が起きない自分が悔しくて図書館のトイレで泣いたりした。一度、限界に達した私はディベートをやめると言ったものの、大学院生のOBに説得され、少し休んだ後に良い成績を収めて引退することができた。その時は非常に辛かったが、おかげで鍛えられ、社会人生活では笑えなくなったことはあっても、仕事がつらくて泣くことはなかった。

 一方、学生ばかりの街ゆえに、実社会への関心が薄れ、常識知らずになる危険もあった。そこで、ディベート引退後の3年時に視野を広げる目的で東南アジアとの国際交流プログラムに参加した。2か月に及ぶ船上でのプログラムであったが、両親はそれまでの大学生活が忙しかった分、よい骨休みになればという程度で私を喜んで送り出してくれた。だが、このプログラムは期待以上に、私の考え方や職業選択に決定的な影響を与えた。常に前向きな態度で物事に取り組む日本人参加者からも多くの刺激を受けたが、アジアの同世代の人が国家の行く末を真剣に考えている姿に接し、自分がとても恥ずかしくなった。自分が生まれ育った日本という国にもっと責任を持たなくては。それには何ができるか。そんな気持ちが高まり、外交官という職業が具体的な選択肢として浮かび上がってきた。新聞記者への憧れはマスコミ関連のアルバイトを通じて実態を知り、この頃すでに色褪せつつあった。

社会人時代の苦悩

 しかし、決断した時期が遅かった。ほとんど勉強せずに受けた外交官試験は失敗。その後、周りの勧めもあって大学院進学を考えたが、何を勉強したいかが明確でなかった。そこで、内定をもらっていた流通業の会社で働くことにした。日々の生活に深く関連する流通業にはもともと興味があったが、海外幹部候補生として近々アジアで働けるというのが何より魅力だった。そして、入社した年の8月にはシンガポールの日本食品貿易・卸売りの部門に赴任。英語力も不十分な自分が本当にやっていけるのかという不安もあったが、ようやく両親から自立の一歩を踏み出せたという思いの方が強かった。

 もっとも、仕事では、学生時代のように「異文化を越えて分かり合いたい」などというきれいごとは言っていられなかった。留学などと異なり、利益が絡んでくるので、国民性が真っ向からぶつかってくる。生活習慣、ビジネス慣行違いを認め、どこで妥協するかが重要だった。この点、シンガポール人はタフでなかなか譲らない。将来は独立して一旗あげたいというベンチャー精神の持ち主が多く、少々の失敗にめげない。会社が休みの日にはサイド・ビジネスで独立のための資金作りに励む者も珍しくなかった。また、他民族国家であるから民族性に応じた付き合い方も求められた。例えば、中国系は人に管理されるのが嫌いなので、仕事はまとめて任せて、彼らの裁量の余地を広く与えるとしっかりやってくれる。しかし、マレー系はいつもマイペースで、一緒に作業をしてあげるという姿勢を示すことがポイントだった。コミュニケーションがうまくいかず、もどかしいことも多々あった。しかし、日ごとに現地化していく私に対し、現地スタッフはプライベートでも徐々に心を開いてくれた。特に、「僕はやり手のセールスマンになる自信がある。でも、どんなに頑張っても中国系中心の社会で成功するのは難しいんだよ」ともらしたマレー系シンガポール人の同僚の言葉は重かった。調和のとれた多民族社会といわれるシンガポールのもうひとつの現実を目の当たりにし、言葉に詰まった。「違いを受入れ、楽しめる人間になってほしい」という国際交流プログラムのリーダーの言葉の重さを噛みしめる日々だった。

 悩めば悩むほどただ落ちこんでいくだけの問題もあった。特にジレンマに立たされたの は、女性の社会的地位に対する認識だった。この点、シンガポールは非常に欧米的な考えをしており、男女問わず、営業力や実務能力のない人は相手にされない。外食文化やベビーシッター等の習慣がしっかりと根づいていることもバリバリと働く女性の数に影響していよう。このような社会だから、仕事が終わった後、自己啓発に励む人も多い。私もうかうかしてはいられないと思い、貿易実務の学校やビジネス英語の学校に通った。

 ところが、貿易の知識もほとんどない、バブル期入社の日本人上司は、女の子は可愛くて控えめであるべきという考え方の持ち主だった。そんな彼には私のような好奇心いっぱいの新入社員はけむたい存在だったらしい。業務に関する質問をしても、自分が知らないことを尋ねられると、質問したこと自体をとがめた。私の仕事への意欲は急速になくなっていき、笑えない状態にまでなっていた。加えて、会社の経営は傾きつつあり、幹部が守りの姿勢に入っているのは新米でも実感できた。いつやめるかが若い社員の間の一番の関心事であった。不安が常につきまとい、ストレス解消と思ってパーティーやディスコに出かけても、帰りの足取りはすでに重くなっていた。自分に自信がないから、新しい友達をつくることも億劫だった。

再チャレンジの決断と母の存在

 こんな状態を続けていたら自分がだめになってしまう。旧正月休みを親しいタイ人の家庭で過ごし、すっかりリフレッシュした私は、決断を急ぐようになっていた。しかし、社会人1年目は何かと誰しも迷いが多い時。衝動的に会社をやめることは避けたかった。そこで、苦しみながらも自己分析を行ったり、信頼できる方々によく相談した。そして、その過程で浮かび上がってきた最も自分らしい職業は、やはり外交官であった。しかし、それには外交官試験に合格しなければならない。シンガポールで転職することもできるのに、リスクの高い試験に挑戦する価値はあるのかという迷いがあった。

 そんな私の迷いを固い意志に変えたのは母だった。私がそれまでの悩み抜いた経緯をふ まえて、やはり外交官を目指したいということを打ち明けた時、「まだ若いんだからチャンスはある。家のことは心配しなくていいから、自分の目標に向かって頑張りなさい。でき るかぎり応援するから。早く日本に帰っておいで。待ってるから。」と言ってくれた。うれしくて涙が止まらず、「ありがとう」というのが精一杯だった。同時に、また心配をかけることになるのが申し訳なかった。仕事で忙しい父にかわって私の教育担当だった母は、勉強を無理強いしたことはほとんどなく、勉強の合間にそっとお茶を持ってきてくれたり、自ら受験制度の把握に努めたりと、私が気持ち良く勉強をするための環境作りをしてくれる存在だった。自分のためでもあるが、母のためにも頑張ろうと決意を固めた。

再び受験勉強、不安、そして合格

 まだ肌寒さを感じる5月中旬に帰国した。退社に関する事務的処理を済ませた後、情報収集をしながら、とりあえず勉強を始めた。そして、5月下旬には都内の公務員試験予備校(早稲田経営学院外交官セミナー)に通い始めた。独学という方法もあったが、それではだらけてしまうことが目に見えており、もう回り道は許されない私にとって予備校を利用するのが最も合理的と考えたからである。幸い、志を同じくする友達もできて、徐々に自分らしさを取り戻していけたのはうれしかった。しかし、今振り返ってみると、ちょっとしたことで将来に対するとめどない不安が押し寄せる、精神的に不安定な1年だった。母や大学時代の友人、仲のよかった会社の同期の励ましがなかったら、途中でくじけていたかもしれない。

 私が当初掲げた目標は外務公務員 l 種試験合格だった。しかし、結果的には受かりやすいといわれる外務省専門職員試験という枠で内定をいただいた。この2つの職種の大きな違いは出世にある。 l 種が将来、大使となるキャリア組であるのに対し、専門職はノン・キャリアといわれている。外務省の内部を描いた本には、両者の確執を面白おかしく描いたものも多い。私が当初、 l 種を目指したのもこのようないわゆる暴露本の影響があった。また、民間企業に総合職で入ったのだから、今度もキャリア組でなくてはというプライドもあった。しかし、なぜ、会社をやめてまで外交官を目指すのか、外交官として何をやりたいのかということを突き詰めていくうち、世界各地を2、3年おきに転々とする l 種が自分に合っているのかという迷いが強まってきた。そして、日本と特定の地域、とりわけアジアの関係構築・発展にじっくりと関わっていく方が自分に適しているのではないかと思うようになった。そして、試験の4ヶ月前に専門職志望に転向した。勉強からしばらく遠ざかっていた既卒の私が、1年という与えられた期間で合格するには、 l 種は難しすぎると思ったことも否定できない。しかし、自分が具体的に何をやりたいのかが明確になった上での決断だった。勉強面でも、専門職試験では試験科目が少ない分、完成度の高い答案が要求されるので、楽になったという気はしなかった。

 そして、迎えた本試験。一般教養で失敗し1次落ちを確信した。何のために会社をやめてまでお金と時間をかけて勉強したのか。自分が費やした1年は一体何だったのか。いろいろなことが頭の中を駆け巡り、試験が終わった日の夜は眠れなかった。しかし、くよくよしていても仕方ないという結論に達し、焦る必要はないという母の助言を顧みず、翌日から転職雑誌を片手に就職活動を始めた。そこで私を待っていたのはもっと厳しい現実だった。1年程の社会経験しかない私の市場価値は無に等しかった。だが、外交官試験のことは(無理やり)忘れて、民間企業で何をやりたいことをつきつめていった頃から、素直に自分を出せるようになり、結局、2週間程で内定をいただいた。これで無職を脱出できるとほっとした。そして、気持ちの区切りをつけるために、より厳密に言えば、諦めをつけるために、外務省の1次試験の発表を見に行った。そこで自分の名前があるのに驚いた。まだ、外交の実務家になるチャンスが残されている!そう思うと、初心にかえって努力する気力が湧いてきた。いざとなれば、就職する所はあるのだから、落ち着いて自分を素直に表現しようという気持ちになった。1次試験の合格者で集まって面接の練習をし、就職活動ですっかり民間モードになっていた頭を切り換えた。もっとも、そんな私の思いに反して、2次試験の面接はシンガポールでの生活・仕事についての簡単な質問だけで、あっさりと終わり、2次落ちを確信した。しかし、うれしい期待はずれはまた起こり、無事に最終合格。しかも、担当国は希望どおり、大好きな東南アジアの国に決まった。大学時代、会社時代の友人や先輩、そして何より母が、私の新たなスタートを大変喜んでくれた。

 しかし、私自身が問われるのはこれから。試験の結果待ちの間、就職活動を行ったおかげで、公務員、そして外交官とは何なのか、民間企業と政府の関係はどうあるべきかなど考えることも多かった。試験に合格した喜びもさることながら、自分が理想とする人間に近づける職業へのチケットを手にしつつ、今何を準備しておくべきかという思いの方が日に日に強まっている。

以上

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