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キャリア・エリートへの道


甲子園へあと一歩、専修大から千葉県トップ合格

幼年時代

 私は、1998年、やっと希望通り千葉県の職員になる資格を得ました。そこで、私が、どういった経緯で公務員をめざし、採用に至ったかを振り返ってみたいと思います。

 私は昭和51年2月6日千葉県の沼南町で生れました。私の家は30戸程の小さな集落の一角にあり、今でも辺りは田んぼや畑ばかりの農村地帯です。家族は、当時父母、祖父母、曽祖母、叔父、姉の8人家族で、そのうえ犬や猫も飼っていました。そういった環境で私はすくすくと育ったました。幼い頃は、体も小さかったせいか、おとなしく我慢強い子だったそうです。小学校にあがる前から、父親と毎日ナイター中継をみていた私は、3年生の時に、少年野球のチームに入れてもらうことになりました。そこで知り合った友達とよく野球の帰りなどにザリガニ捕りやクワガタ捕りをしたものでした。

手賀西小学校時代

 私のお世話になった手賀西小学校は、全校で200人位の小規模校で1学年1クラスでしたので、校長先生、先生方、上級生・同級生・下級生は、みんな友達のようで、家族的な雰囲気があり、それはそれは楽しい小学校でした。下校すると、誰いうことなくお寺の境内に集まり、サッカーや野球など小さい子から高学年までごちゃまぜで真っ暗になるまで遊んだものでした。勉強の方では、社会科が得意でした。小さい頃から両親にあちこち連れていってもらったり、世の中の出来事の話を聞かされていたために、ごく自然に興味を持つようになっていったためだと思います。このことは、世の中に広範に係わる仕事である行政官を目指すことになった要因の一つかもしれません。逆に、国語は苦手でした。文章を書くことが苦手なのは、この頃からで今に至っています。毎週土、日曜日は野球の練習がありました。チームは弱小で鬼コーチにしごかれました。余りの遊ぶ暇のなさに、5年生の時に退めたくなり、その事を両親に相談すると、反対せず「おまえの好きにしなさい」といいました。この時に限らず、両親は、何時も私の考えを尊重してくれることが多く、また「勉強しろ」ともけっして言いませんでした。結局この時は、監督に説得され、嫌々少年野球を続けることになりました。今思うと、このとき野球を退めなくてよかったなと、つくづく思います。

手賀中学時代

 中学も地元の手賀中学校に入学しました。私の地域では、私立に行く人はほとんどいませんでした。私もごく自然に公立中学に通うことになったのでした。中学ではより一層野球に熱中しました。当時パリーグでホームラン王になった門田選手に憧れ、右打ちの自分も左打ちの練習をしたりしました。上級生になった時には、キャプテンに指名され、チームをまとめることになりました。しかし試合では、なかなか勝つことができず、3年間で僅か3勝しかできませんでした。部活以外では、野菜づくりに励みました。当時、手賀中学校は、文部省の勤労生産活動の指定校になっていたので、校舎の裏の畑で、トマトや茄子、とうもろこしなどを作っていたからです。

二松学舎大学付属沼南高校時代 −甲子園へあと一歩−

 勉強は、野球ばかりやっていた割には成績はいい方でしたが、余り好きになれませんでした。因数分解や英単語を覚えることが、将来どれだけ役立つのかと疑問に思っていました。3年間、私の頭の中は野球のことで一杯でした。そのため、高校も、どこで野球をやるかという基準で、選ぶことにしました。先生方や、両親にアドバイスをしてもらい、結局、地元でしかも合理的な練習法を取り入れているということが決め手となり、二松学舎大学附属沼南高校へと進学しました。こうして、中学同様野球中心の毎日が始まりました。

 高校野球で、なにを学んだかと言うとハートと礼儀です。中学までは田舎のガキ大将のような私も高校へ行けば、多くの新入生の一人にすぎません。他の一年生と一緒に練習の準備に追われ、始めのうちは、自分の練習どころではありません。また、校舎や、廊下で先生や、野球部の先輩に会えば、大きな声で「こんにちは」、「失礼します」など挨拶をしなければなりません。これは、監督の七五三先生の方針であり、野球部員ということで、学校生活にしても、勉強にしても、特別扱いは許されません。逆に、坊主頭で目立つということもあり、一般の生徒より数段厳しい生活態度を求められました。そのうえで、野球があるのです。けっして始めに野球ありき、ではないのでした。この点が野球部での大原則でした。クラウンドでは、50名以上いる先輩の顔と名前を一早く覚えなければなりませんし、自分から先輩に気安く話かけるなんてことは言語道断、始めの一カ月は胃に穴があいたかと思ったくらい神経をつかいました。徐々に練習に慣れた頃、夏の大会のメンバーを選考する為のテストがありました。遠投、走塁、ノック、バッティングの各テストを全部員が受けてふるいにかけられるのです。私は、幸運にも20名ほどのメンバーのなかに選ばれました。が、それもつかの間、練習で、ボンヘッドを連発し、真っ先にメンバー落ちしてしまいました。この時、七五三監督に、「チャンスはまた来る。その時のために準備しておけ。」と言われたことは忘れられません。その言葉通り、チャンスは、やって来ました。3年生が引退し、新チームになってからの岩倉高校との練習試合で、1-3とリードされた9回ツーアウト1、3塁の場面ではじめて一年生にもかかわらず、代打として起用されたのでした。高校に入って初めての試合で、しかもこんなに大事な場面と言うことで緊張しどおしでした。ストレート、カーブであっという間に追い込まれました。もうダメだ、誰もがそう思っていました。私も半分諦めかけていました。しかし、3球目のストレートを強打するとジャストミート。センター前ヒットで1点差となりました。結局、試合には員けてしましたが、ワンチャンスに備えていた甲斐があったこと、自分がチームに貢献できたことに対してとてもうれしく思いました。

 しかし、このころはまだ自分の将来のことなど何も考えていませんでした。考えている暇がありませんでした。野球、野球で毎日充実していました。同年代の人たちは、バイト、旅行、デートで楽しんでいる頃でした。しかし、私は「毎日野球ができる」、こんな幸せなことはないと思っていました。

 子どもの頃、私はプロ野球選手に憧れていました。高校入学と同時にレギュラーになり、大活躍しマスコミを賑わせ、その勢いでプロ野球へと羽ばたこうと計算していました。しかし私のそれはとんだ計算違いでした。3年生が抜け、2年生・1年生だけの新チームになると1年生の私はベンチ入りこそ手に入れましたが、なかなか試合に出られない日々が続きました。それもそのはず、このチームは秋春と県大会で優勝することになる強豪だったのです。同級生でレギュラーは、投手の飯塚君とライトの阿部君の二人だけでした。飯塚君は、小柄ながら130キロ台後半のストレートと抜群の野球センスの持ち主ではじめてみた時から天才だと思っていました。一方、阿部君は入学と同時に4番バッターとなったスラッガーでこちらは怪物君のようでした。他にも格闘家のような体格の控えキャッチャーの安田君や足がとても速い佐々木君などライバルは多かったのです。こんななかで私は2年生になり3年生の先輩たちの最後の夏が始まりました。順調に勝ち続け目下県下に敵なしの21連勝で決勝に望んだ私たちは、この試合に勝って甲子園に行くぞ、と思っていました。しかし1-2で惜敗し、涙と共に甲子園への夢は流れ去ってしまいました。

 いよいよ最上級生となり「6番、ファースト」のレギュラーとなりました。しかし、チームは練習試合ですらほとんど勝てない日々が続き、そのうえ、監督辞任というアクシデントがチームを襲ったりもしました。その反動で、秋季大会もあっさり一回戦負け。このままではいけないとキャプテンの飯塚君を中心に何度も話し合いました。守備と打順の大々的なコンバートをしました。修学旅行にもバットを持参し、また夜遅くまでウェィトトレーニングもしました。そのためか、春の県大会は決勝戦までコマを進めました。しかし、暁星国際高校との決勝戦では、私のエラーで先取点を許し、一時は追いついたものの万事窮し、準優勝に終わりました。春の関東大会は横浜スタジアムで開催され、地元の法政二校に1-3で敗れたものの、2本ヒットを打ったこと、法政二校の応援の迫力に圧倒されたことが思い出深くのこっています。

 いよいよ最後の夏がやってきました。泣いても笑ってもラストチャンスです。私達のチームは優勝候補の筆頭としてとして第一シードでもあり、注目されていました。今年こそはと周囲がはやしたてたりもしました。ただ、そこは高校生、自分たちもその気になり油断が生じていたのです。油断は、相手のやる気を誘い、2-6で敗れてしまいました。5回戦の東京学館校でした。全てを失いました。負けてから3日間は何もやる気になれず、食事もままなりませんでした。ふと、敗因を考えました。春はチャレンジャーのつもりで戦いました。しかし、夏は横綱ではないまでも、大関ぐらいにはなったつもりで、相手を見下して戦っていました。同じ高校生なのだから、ちょっとした気の持ち方でこうも結果に明暗が生まれるのかと遅まきながら気がつきました。高校野球を通じて、(1)年上の人に対して、挨拶をはじめとする礼儀を覚えること、(2)どんなことでもチャレンジャーのつもりでぶつかること、(3)結果を恐れず、プロセスを大切にすることを学びました。これらのことをこれからの生活に活かしていこうと思い、自分の気持ちを切り換えました。

大学受験に方向転換

 8月になると部員はそれぞれの進路に向けて動き出しました。大学で野球を続けるのはピッチャーの飯塚君とキャッチャーの安田君だけでした。私にはそれは夢のまた夢でした。彼らが誇らしくもあり羨ましくもありました。野球推薦の話もありましたが、私は一般受験で大学に行くことにしました。ちょうどその頃、『ザ・ファーム 法律事務所』という映画を観て、トム・クルーズ扮する正義感あふれる弁護士に憧れました。将来は、私も弁護士になろうと思い中央大学の法学部に入学しようと夢見るようになりました。そうすれば弁護士になれるだろうと勝手に思いこんでいたのでした。しかし、OBである叔父の勧めで専修大に入りました。それもまぐれで受かったようなものでした。何せ部活を引退してからわずか6カ月しか勉強の時間がなかったわけです。代々木ゼミの模擬試験の結果はDやE判定のオンパレードでした。そこで、私は、旺文社のラジオ講座のテキストを4月号にさかのぼって勉強し始めました。一番苦労したのが英語の長文でした。知らない単語をマーカーで塗ると、目に鮮やかな黄色でいっぱいになりました。これではまずいと考え、『able』のテキストを取り寄せ、3ヶ月ほどかけじっくりと勉強しました。

 現代文もさっぱりでした。「出口の実況中継」を読んだら少しはましになりました。今思うと、毎日、新聞を読む習慣を付けておけばよかったなあと思います。それだけでだいぶん違うのではないでしょうか。日本史は、目、耳、口、手をフル活用して暗記に励みました。

 何学部を受けようか、と悩む人も多いかと思います。でも高校3年生の時点で将来の道を完璧に決められる人は少ないです。私もただ憧れというアバウトな理由で、法学部にしたまででした。また部活と勉強の両立に悩む人もいると思います。私はこう思います。両方いっぺんに片づけようとするから共倒れするのです。部活をしている間は専ら部活に集中して、引退してから勉強に集中すればよいと思います。部活動に注いでいたエネルギーを勉強に置き換えるだけでよいのです。そうすれば、受験勉強を早々にやっていた人と比べても遜色のない結果を得られることと思います。

 私は、予備校や塾には通いませんでした。理由は(1)交通の便が悪いので、時間的なロスが大きい。(2)友達との話に夢中になり、集中的に勉強できないと考えたからでした。分からないところは、高校の先生に聞けば親切に教えてくれたため、ハンディは感じませんでした。そして、何よりも自分のペースで勉強できるところが自分に合っていたのだと思います。

 概ね、こういった高校時代を過ごしていました。このころは、弁護士の夢は別として、あまり将来は何になるんだと強く考えたことはなかったように思います。受験勉強は、時間的に辛いものがありました。しかし、高校野球という普通の高校生には決して味わうことの出来ない魅力的な2年半を送ることが出来たので、その代償と考えることによって乗り切ることが出来ました。

専修大学時代(前半)

 私の大学時代の前半と後半は全く対照的です。前半は受験勉強への嫌悪感から勉強に対する拒否症になり、旅行、麻雀、酒、煙草、草野球、アルバイトと一大レジャーランドにどっぷりと浸かってしまいました。逆に後半は、公務員試験の勉強とゼミがスタートし学問に目覚めました。

 大学にはいると、まず、人の多さと活気に驚きました。長野から来た人、鳥取から来た人、鹿児島から来た人などいろいろな人がいました。私は、多くの新入生がそうするようにサークルに入りました。野球サークル「ホールズ」です。しかし、わずか1ヶ月でやめてしまいました。なぜかというと、野球サークルのはずがいきなりサッカーをやるではないですか。おかしいと思って聞いてみると、楽しければ野球だろうがサッカーだろうがなんでもよいということでした。もし私がもう少し寛容な人間でしたら、そのルーズさに目をつぶり活動を続けていたでしょう。しかし、半年以上も野球から遠ざかっていた私は、野球がやりたくてやりたくてうずうずしていたのでした。ですから、お遊びサークルはやめて中学時代の友人と草野球チーム「ラッシュ」を結成したのでした。どうせもう一度野球をやるなら真剣にやってみたいし、勝つ喜びを味わいたいと思ったので、練習も毎週のようにやりました。何度か優勝することもできましたし、今でも活動が続いているのでこの選択は正しかったのだと思います。

 専修大学は、生田と神田にキャンパスがあります。私の学んだ法学部は、1年生が生田校舎、2年生から神田校舎でした。自宅から生田キャンパスまでは2時間以上の遠距離です。一人暮らしも憧れましたが、一年だけということもあり実現しませんでした。講義はほとんど欠席という有様でしたが、高校時代にほとんど本を読む機会のなかった私は図書館で一日中、文学図書を読みあさりました。生田キャンパスの図書館の充実ぶりには目を見張るものがありました。そのような中で唯一、欠かさずに出席した講義がありました。渡辺重行先生の文化人類学です。この講義では私達が当然と思っている現代社会が時代的にも地理的にも、いかに特異であるかを学びました。現代文明は「豊かさ」を求め、次々と森林を削り、大気を汚染し、生態系を破壊してきたのです。その結果存在するのが、現在の私達の生活なのです。先生はアフリカや東南アジアの原住民の生活こそ理想であると考え、現地にフィールドワークに行かれたそうです。そして、その経験で感じたことを事細かに説明してくださいました。環境問題に多少の関心のあった私は先生の講義に知的好奇心をくすぐられ、真の豊かさとは何だろうと考え始めました。そしてこのころから、行政官という職業を意識し始めました。前にも書いたように、この講義以外は自主休講だったので、学年末試験が近づくと、コピー代だけで1日に1万円近く遣う日もありました。

 大学生になると何かとお金が必要になります。そこで、アルバイトをやるわけですが、私はトータルで10種類ほど職種を経験しました。これらは良い社会勉強になりました。中でも一番長く続いたのは「ピザーラ配達」のバイトでした。同年代の気の合う仲間が大勢いたからです。仕事もピザの宅配、電話の応対、接客、店舗の清掃など忙しくもそれなりに楽しくありました。冷めたピザを届けて土下座して謝ったこともありました。つまづいてピザを台無しにしてしまったこともありました。夜、犬に吠えられたり、噛みつかれそうになったこともありました。とびきりの美人の家に配達し、心がときめいたこともありました。

 1年生の冬にはガードマンのアルバイトもやりました。動機は、ただ立っているだけでお金もそこそこもらえるし、と軽い気持ちでした。しかし、仕事を始めて即、後悔しました。10分と我慢してられないのです。仕方なく通行していく車を意味もなく眺めたり、ヘルメットや誘導係の棒を悪戯したりまるで子供のようなことをして時間つぶしをしていました。ただ、このバイトを通じて「社会」というものを少しばかり学んだと思います。家族のために青森から出稼ぎに来ている方や、リストラされ、仕方なく「つなぎ」として働いている方などと出会ったらです。私は朝8時から夕方5時までで精一杯なのに、その方達は更に夜8時から朝5時まで働き、また朝から働くのです。お金のためとはいっても、私にはとてもまねできません。バブルが弾け、不況が始まった頃だと思います。劣悪な環境でも働かざるを得ない労働者の現状を目のあたりにして、さすがの私も考えさせられました。

 2年生になると神田キャンパスで学ぶこととなりました。生活は相変わらずアルバイト中心の毎日でした。そして夏は海、冬は山で遊んでばかりいました。徐々に、2年生も終わりに近づくにつれて、堕落した生活を変えなければと思い始めました。

 何となく公務員になろうと考えていた私には、白藤博行教授の行政法総論の講義は唯一の楽しみでした。行政法が素人の私達学生にレジュメやVTRを使って分かり易く説明してくれました。この講義で公務員試験における行政法の基礎が出来たように思います。一方で他の講義にはあまり出席せず、今思うともっと出ておけば良かったなあと悔やまれます。

公務員への道

 大学3年にもなる頃、高校の友人の高橋君が早稲田公務員セミナーに通うと言い出しました。私も公務員になりたいとは思っていましたが、今更勉強する気にもなりませんし、コネで近くの市役所にでも入れればいいやという程度にしか思っていなかったので、その時は他人事のようにしか受け止めていませんでした。

 そんな折り、専修大学で公務員試験講座を開講することを耳にしました。それも高橋君が通う早稲田公務員セミナーとの提携により格安料金で同レベルの講義を受けられるというではありませんか。しかも学内で行うために、わざわざ高田馬場まで通う必要もないのです。私は、さっそく遊び友達の新谷君と井原君3人で申し込みました。

 講座は火曜3時間、土曜3時間の週2コマです。5月からこの講座のおかげで、それまでの生活とはうって変わって充実した日々が始まりました。講座のウリは何と言っても講師陣です。中でも、憲法と行政法担当の渡辺一郎先生は、論点を明確に説明してくださるので、体系的に勉強したことのなかった私でも理解できるようになりました。「難しいことを易しく説明する」ことはなかなか難しいと言います。これが出来る先生はすばらしいと思います。先生とは自宅が近いということもあり、親近感を抱きその上講義も楽しいので一度も休まずに出席しました。また今尾先生は天気予報の森田さんのようなルックスで、条文が多く難解な民法を、事例など交えながら分かり易く説明してくださいました。休憩時間に煙草を吸いながらした世間話も思い出深いものがあります。私にこんな充実した講義を提供してくださった専修大学と早稲田公務員セミナーには感謝してもしきれません。

 専修大学ではやる気のある学生には公務員講座だけではなく、司法試験講座や秘書検定講座、HEIB講座など様々な課外講座を開設しています。一般にこれらの資格を取得するには高橋君のように、大学とは別に専門学校に通うのが現状です。このように時代のニーズをいちはやく取り入れる大学は全国にもそう多くはないと思います。これからは、本格的に少子化が進み大学経営も今までのようにはいきません。淘汰される大学も出てくるでしょう。しかし、私は、専修大学は必ずや生き残ることと確信しています。

 3年生になるとゼミも始まりました。私は、数あるゼミの中で前田教授の労働法ゼミを選びました。見学に行ったゼミのなかで一番活発に議論していたことと、教授と学生の距離が近いことがその理由です。ゼミでは予習が欠かせません。図書館で慣れない専門書を読み込むことが多くなりました。そして毎週、今後の労使関係の在り方について議論しました。これまでの大教室での講義では経験したことのない緊張と喜びの時間でした。

 こうなると、公務員講座と労働法ゼミを中心に大学で過ごす時間が多くなってきました。それと共に専修大学の良さを実感してきたのでした。アルバイトも以前ほどではないにしろ、続けていました。また、8月には伊豆、9月にはソウルにも旅行に行きました。

 秋になって私は公務員講座に欠かさずに出席し、予習・復習もしました。一度でも休んでしまうと全てがフイになってしまうような気がして必死についていったのです。はじめは大教室にいっぱいいた受講生もこのころは半数ほどになっていました。私が休まずにいられたのは新谷君と井原君の存在が大きかったと思います。彼らにはとても感謝しています。徐々に成果も現れ始め、憲法・民法・行政法は一通り理解できるようになりました。問題は経済学でした。講義内容はある程度、理解できましたが、問題にあたってみるとまるで解けませんでした。そこで質問に行けば良かったのですが、それが出来ませんでした。恵まれた環境を活かしきれていませんでした。

 2月の学年末試験が終わると、月水金の週3コマ×2コマの合格力養成講座が始まりました。ここでも私は休まずに必死でついていきました。ただ、それが精一杯でマイナー科目の対策などの面において自主的な勉強が殆ど出来ませんでした。

サクセスロードからの転落

 4月に早稲田セミナーの模試を2回受けました。結果は共にB判定でした。概ね栄光のサクセスロードを順調にひた走っているかに見えました。しかし、6月に入ると集中力が一気にとぎれ、ずるずると後退していきました。「これまでの努力で充分だ、今更やっても…」と勝手に思いこみ、勉強があまり手につかなくなりました。

 6月15日、国 l の試験の日には神宮球場にいました。試験には行かず、友人が出場してる大学選手権を見にいったのでした。もともと国 l は記念受験のつもりでしたので、諦めもすぐつきました。

 6月22日、東京都 l 類の試験の日、この日は自分の野球の試合がありました。どっちにしようかととても迷いましたが、野球を選びました。ヒットを打ちましたが、「やばいな、俺の人生はこれでいいのかな」と思い始めました。

 6月29日、千葉県庁の試験日です。待ちに待った本命の登場です。この日も野球がありましたが、さすがに断って試験に臨みました。初めての公務員試験でしかも本命ということでガチガチでした。結果は、緊張云々以前の全くの力不足で、惨敗でした。しかし、明日から遊べると思うと嬉しさでいっぱいでした。

 7月6日、国 ll の試験日、この日は草野球の決勝戦がありました。試験にいっても合格は厳しいと判断し野球にいってしまいました。そして優勝し、県大会出場を決めました。

 8月3日、野田市役所を受験しました。「市役所ぐらいならさすがに受かるだろう」と思って甘く見ていました。試験が始まると、予想外の難しさに脂汗をかいている自分がいました。もちろんここも落ちました。

 そんな折、友人が甲子園に行こうと誘ってくれました。男5人、ワゴン車で夜通し高速を西へ西へ走りました。生まれて初めての甲子園でした。マウンドでは平安高校の川口投手が奪三振ショーを演じていました。

 9月21日、印西市を受験しました。しかしこれも駄目でした。一方、高橋君は概ね最終合格を手にしていました。一年間、集中力を切らさなかった彼と私の差がはっきりと表れたのでした。

 結局この年は千葉県、野田市、印西市を受けて全て一次不合格という結果でした。そこで、自分なりの敗因を詳しく分析して考えてみると、(1)講座にまかせっきりで自主的な取り組みが出来なかった。(2)アルバイトなどで思うように時間が確保できなかった。(3)マイナー科目を甘く見ていた、等の点でした。

 この反省を活かすべく、早速11月の中旬から大学の図書館で勉強を再開しました。1年目である程度の基礎力が出来ていたこと、本試験を経験したことで自分の弱点とその対策が分かっていたことが強い味方となり、浪人という悲壮感もそれほどなく順調に勉強に取り組むことが出来ました。11月といえば民間企業に就職する友人たちは内定式も終え、そろそろ卒業旅行の話も出始める頃です。羨ましくないといえば嘘になりますが、私も目標に向かって毎日充実していたのでそれほどは気になりませんでした。中には私に気をつかって励ましの言葉をかけてくれる友人もいましたが、「ありがとう、でも本当に気をつかわないで」という気持ちでした。

浪人時代の勉強法

 まずは経済原論の『バイブル』を一から読み直し、頭の中で体系化することを心がけました。この科目は、はじめのうちはなかなか理解できませんが、ある時から各項目がつながってきて、面白いように解けるようになります。この過程が面白く、大の苦手科目から得点源へと変わっていきました。

 それと並行して、『一般知能マスター』(早稲田公務員セミナー)の資料解釈の部分を持ち運びやすいようにコピーして毎日2、3問ずつ丁寧に解いていきました。資料解釈は一見複雑で手をつけない受験生が多いようですが訓練さえ積めば、判断推理や数的推理より得点しやすいことを知りました。

 また『行政5科目まるごとパスワード』(実務教育出版)を買って電車の中で読みました。この本はコンパクトなわりに詳しいので大変役にたちました。

 12月になると、自習室に通うようになりました。自習室ではカードを作れば無料で自習室を利用できるので受験生にとってはお勧めです。

 1月は学年末試験がありましたが、私は三年生までに殆どの単位を取得していまして、1科目だけ受験すればよかったのでかなり楽でした。そして、試験が終わってから本格的に勉強がスタートしました。

 法律系の科目は、公務員講座で十分に理解していたので後は細かな判例を覚えるだけでした。その際、『判例六法』(有斐閣)にインデックスをつけること、色鉛筆で線を引いて整理することがポイントです。ふつうの受験生は、法律系の学習にかなりの時間を割かなければならないのですが、私は公務員講座に出ていたのでそれほどの時間をかけずに済みました。そして、その分、他の科目の勉強にたっぷりと時間を使うことが出来ました。

 2月頃から新聞のスクラップを始めました。テーマを大きく5つに(市民参加・政治経済・環境・高齢少子化・国際関係)に分け、整理しました。そして、分からないところは『朝日キーワード』を使い調べました。このスクラップは、時事問題だけでなく課題式論文や面接にも役立ちました。

 3月から4月にかけては『合格情報シリーズ』(実務教育出版)で国 l と地上の過去問にあたりました。そして分からないところは『判例六法』、『入門経済ゼミナール』、『行政学』、『図説日本の解説』、『憲法』などの該当ページを読み理解しました。

 1点を争う公務員試験では教養対策も忘れてはなりません。多くの受験生は専門対策は比較的やっているようですが教養まで手がまわらないのが現状です。私は、この点に合否の分かれ目があると考えました。そこで『一般知識マスター 人文科学1・2』、『一般知識マスター 自然科学』(早稲田公務員セミナー)、『頻出問題シリーズ』(実務教育出版)を使い世界史、日本史、思想、地理、生物、地学をやりました。また教養ではクローン羊、蛇使い座、エルニーニョなど時事的な問題も出題されるので『朝日キーワード』はここでも非常に役立ちました。

 だいたい3月頃から毎週のように模試を受けました。早稲田セミナー、LEC、サンケイ、受験ジャーナルと13回ぐらい受けました。これによって、自分の学習進度と時間配分を知ることが出来ました。そして、間違えた箇所は単語カードに書き出し、暇な時間を使い暗記に励みました。慣れによって無駄な時間も減り、同じミスを少なくすることが出来ました。

 朝はTOKYOFMのモーニングハイウェイで目を覚まし、9時に愛車のSRで自習室に向かいます。午前は一般知能などで頭をほぐしました。課題式論文を書いたりもしました。そうしている間にお昼になります。食事は、おにぎり2個と紅茶で十分でした。食べ過ぎると眠くなってしまうからです。

 午後は、一般知識や経済学、政治学を中心に勉強しました。勉強をする上でのポイントは効率の良い時間と悪い時間を使い分けることです。得意の科目は多少眠くてもこなせますが、経済学などは心身が充実していないとなかなかやる気が起こらないからです。

 自習室での約6ヶ月の期間中は大きなスランプもなく順調に勉強がはかどりました。それは私が強い精神力の持ち主だったからではありません。他の受験生の存在が大きな刺激になったからです。自習室には、公務員試験だけではなく司法試験や社労士を受験する人も多数います。中でも60才で、退職し社労士を目指して勉強されている方の後ろ姿には悲壮感があり、私も頑張らねばという思いを新たにさせられました。

リターン・マッチ

 本試験の季節がやってきました。今年は本命は千葉県でしたが、自信がなかったので一通り受けることにしました。

 6月14日、国 l 行政職。受かろうなんて気は毛頭ありませんでした。ではなぜ受けることにしたのかというと、本試験の雰囲気に慣れることと、今年の傾向を知り次週からの試験に役立てようということが目的でした。

 6月21日、東京都特別区。ここでは、幸運にも教養論文のテーマが予想通り地方分権についてでした。また、択一でも実力以上のものがでて、かなりの手応えをつかみました。

 6月28日、千葉県上級。いよいよです。この日のために頑張ってきたのです。しかし、会場に行くと他の受験生が皆、賢そうに見え、自信がなくなってきました。倍率96倍という新聞記事が脳裏をよぎりました。しかし、ここは割り切って自分なりに頑張ればいいやと思い緊張をほぐしました。それが功を奏したのかまあまあできたように思いました。しかし、倍率が高いだけに自信は全くありませんでした。

 7月1日、いつも通り自習室での勉強を終え帰宅すると、国 l の合格通知が届いていました。寝耳に水とはこのことです。私は、この日が合格発表ということすら忘れていたのでした。嬉しいというよりは、むしろ困惑という言葉がぴったりでした。通常、国 l ではこの時点で内々定が出ているので、官庁訪問すらしていない私は、二次試験に行く価値がほとんどないのです。そのため、はじめは行くつもりはありませんでした。そんな私に、自習室の友達や家族は、せっかくだからと試験に行くことを勧めました。行けば何か良いこともあるだろうし、何よりも面接の良い練習になると思うようになり、人事院面接にも行くことにしました。

 面接では、ゼミやバイト、ボランティアについて聞かれました。緊張しましたが何とかなりました。面接の後、近くの公園で数人の未来のキャリア官僚と雑談しました。彼らはなかなかのお人好しでテリー伊藤の本に出てくるキャリアとは大違いでした。中でも、K大学のK君の人格者ぶりには驚かされました。それまでは、キャリア官僚というと悪いイメージしか無かったのですが、彼に会って私の偏見は揺らぎました。「日本を変えたい。そのためにはキャリアになる必要がある。」と彼は言いました。こんな志の高い人を知りません。ただ、キャリアになるぐらいの人は初めは皆こうなのかもしれません。そして、徐々に「悪く」なるのかもしれません。でもK君には「この志を忘れないでほしい。そして本当に日本を変えてほしい」、そう思いました。

 7月18日、千葉県上級の合格発表の日です。自信がなかったので見には行きませんでした。案の定、郵便物には、合格通知はありませんでした。とてもがっかりしました。しかし2日後、合格通知が送られてきました。郵送は18日に届くのではなく、18日に発送するということを忘れていたのでした。天国と地獄を味わった数日間でした。二次の集団討論と面接も駄目もとで頑張ることにしました。

 7月29日、集団討論の日です。目的は、討論の受け答えを通じて、受験生の人格を総合的に見ることだと思います。つまり、職員の方が、「こいつとなら一緒に働いてもいいなあ」、と思える人を見分ける作業なのです。そこで私は次の3点に気をつけて討論に臨みました。(1)他の受験生の発言はしっかりと聞き、話の途中で割り込まないこと。(2)皆に聞こえるような大きな声で話す。(3)細かな論点にはこだわらず、マクロ的な視点を忘れないこと。「なんだ、どれも当たり前のことじゃないか」と思うかもしれません。しかし、これが出来ない人が結構いるのです。

 テーマはインターンシップ制についてでした。予備知識がなかったので、終始緊張し通しでしたが、上の3点に気をつけることによって乗り切ることが出来ました。

 7月30日、個別面接です。公務員試験の面接は、一般企業と違い概ね穏やかな雰囲気のもとに行われます。千葉県の面接も例外でなく、3人の面接官は、私のしょうもない話にも懸命に耳を傾けてくれました。おかげで無事面接も終わり、結果を待つだけとなりました。発表までの1ヶ月間は肩の荷がおりたようなおりてないような、微妙な日々でした。

 8月29日、千葉県の合格発表の日です。この日も自宅で通知を待ちました。封筒を恐る恐る開けると、合格通知と書いてあるではありませんか。この時の喜びは忘れられません。戦後最悪の不況に、就職浪人の私を採用してくれるとは、なんと千葉県の懐の温かいことでしょう。この恩を忘れず、千葉県の発展のために働こうと思いました。こうして、2年に及ぶ就職活動が終わりを告げました。

公務員を目指した動機と将来の目標

 行政官になろうとする動機は人それぞれです。私の場合は、(1)身近な人に公務員が多かった。(2)自分の視野を拡げられる。(3)安定している。(4)渋めのところが自分に向いている、といった点が主な理由です。

 やりたい仕事としては、まず行政改革です。なんだか大げさですが、要するに行政の仕事、時間、金の無駄を減らそうということです。最近ではオンブズマンによって様々な成果が現れています。しかし行政を行うのは行政官です。自分がその行政官になって改革していくことが一番手っ取り早いのではないかと思うのです。身近なところから、早速やっていこうと思っています。

 第二に手賀沼の水質浄化です。父が子供の頃は、まだ水が透き通っていて夏になると泳いだり、魚捕りをして遊んだそうです。しかし近隣の都市化につれて水が汚れ始め、今では日本一汚い沼になってしまいました。これをなんとか昔の姿に戻したいのです。それには、県民の意識の改善、下水道の整備、水性植物などによる有機物の除去などをより進めることが求められるでしょう。

 最後に、今の私があるのは数え切れないほどの多くの人々のおかげであることを忘れずにい続けたい、そして、行政官として、同じくらい多くの人々の幸せ作りを手伝いたい、そう思います。

以上

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