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キャリア・エリートへの道


帰国子女、日本女子大から東京都庁へ −23年間を振り返って−

誕生〜幼稚園時代

 私は長崎県で生まれました。その後すぐ父の仕事の都合で名古屋に引っ越し、3歳まで暮らしました。それから小学校の終わりまで埼玉県で暮らしました。

 幼い頃の私は、おとなしい子だったと思います。外で遊ぶよりことよりも家の中であそんでいることのほうが多く、遊び相手もだいたい決まっていたと思います。今もそうですが、人見知りをするたちなのでお友達を作るのはあまりうまい方ではありませんでした。幼稚園のころの記憶はかなり曖昧です。母の話では、一人遊びに熱中していることが多かったそうです。

恐怖の小学校1年生時代

 小学校では1年生の時が一番印象深いです。人生ではじめての担任の先生が本当に厳しい人だったからです。今考えてみても、ちょっと尋常じゃないなと思ってしまいます。本当によく無意味に叱られました。懐かしいエピソードとしてこんなことを思い出します。ある時は「先生の前で土下座をして今までの悪行を言いなさい。」といわれ、みんなで先生の前に一列に並んだことがありました。給食が食べられなくて放課後まで縄跳びでイスに縛り付けられたままの子もいました。また、15分の休み時間中めいいっぱい遊んでいて、気付いたらもうとっくに授業が始まっていたことがありました。あせって(先生に絶対怒られる、と思ったので)小走りに駆け込んだらば、「教室の前までプラプラゆっくり歩いていたにちがいないのにわざと息をぜいぜいさせながら教室に入って来た。授業をさぼりたいから遊んでいたのにちがいない。ずるい子だ。」と、みんなの前でいわれたことがあります。むきになって弁解しても、うそをつく子だ何だといわれてしまうのは分かっていたので、黙ったままでしたが、一方的に決めつけられてしまったことに強烈なショックを受けてしまいました。またあるときは、授業中に「これが分かる人は?」と質問してだれそれを指したあと、「やっぱりやめた」と言って、いつも自信がなくてみんなが手を下ろしたときにちょこっとだけ手を挙げていた控え目な女の子を指したことがありました。その時に、「あたしはいつもあなたがそうやって人が指された後にしか手を挙げないことを知っているのよ。ずるばっかりして。ちゃんと答えられるんでしょうね」と責め立て、女の子を大泣きさせてしまったこともありました。体育でドッジボールを練習するときも1メートルくらいしか離れていないところから先生が思いっきり強く投げたボールをとる、という練習をやりました。しかもボールが先生の手から放れるまでは自分の手を後ろに組んでいなければならない、というとてもおかしな練習法でした。こればかりは今考えてみても、完全に先生のストレス発散のためではなかったかと思います。大人から見れば、それこそ軍隊のように規律のとれたクラスでしたから、お利口な子供達とその先生、といった風体だったでしょうが、本当にしんどい1年間でした。私は覚えていなかったのですが、そのころの私は、朝になるとおなかが痛いといって学校を休もうとしていたようです。隣のクラスの担任の先生はとても優しそうに見えましたから、自分の不運さを呪うしかありませんでした。

小学校低学年から高学年

 低学年の間はそれでもかなり目立っていたと思います。どうしてそうなったか今でも謎です。クラスのしきりやみたいなことをしていたと思います。高学年になると、何となく周りの雰囲気も落ち着いてきて、私自身もあまり我を押し通すことはしなくなりました。クラスのしきり屋から、一歩引いて状況を伺う派になっていたように思います。
 勉強面は概ね良好と言った感じでした。あまり勉強しなくともそこそこの点数は取れていたと思います。高学年になると、ぼちぼち塾に通い始める人もいました。それも今のように大手の進学塾ではなく、補修塾に通っていた人がほとんどだったと思います。結局私はどちらにも通わずに、比較的ゆったりと勉強していました。両親も特に口を挟むことはありませんでした。習い事といえば、習字を2〜3年間やったことと、2年間続けた英会話だけでした。英会話は、近所にある英会話教室で、先生は、バイリンガルの主婦の方でした。これが始めて本格的に英語を学ぶ機会となりました。中学で受験科目としての英語を勉強する前の良い準備ができたと思います。
 中学受験組はかなり少なく、まだまだ珍しい方でした。この頃は世間も今のように受験受験と騒いではいませんでした。みんな地元の公立の中学に通うのが当たり前だと思っていましたし、私もそう思っていました。
 私は特に体力面では本当に自信がありません。小学校時代も、サッカーの代表に選ばれたり、陸上の選手に選ばれたりしましたが、どれも練習がいやでさぼってばかりいたので身にはなりませんでした。さぼる理由は、恥ずかしい話ですが、当時ブレイク中だったファミコンにはまっていたからでした。ゲーム好きは今でも続いています。そんな中でも地元のポートボールチームは長続きしました。強いチームでした。春夏2年連続優勝したりしました。私はもちろん一番体を動かさない楽なポジションでした。
 小学校時代は全体的にあまりいい印象はありません。ごくごく普通の小学生でした。「学校に行きたくないなあ」と思いつつ、なぜか親が「休んだら…」と言っても無理をして学校に行っていました。

香港での中学時代

 中学時代は香港で過ごしました。はじめての海外、はじめての転校、でかなり不安だったことは確かです。私の予想では、海外にいる日本人の数は少なく、きっと中学校も小規模なんだろうとばかり思っていましたが、香港日本人学校中学部はシンガポール校に次ぐ東南アジアで2番目に大きな中学校でした。中学時代は本当にすばらしい思い出ばかりです。この3年間が私の人生の中で非常に意味深いものになったと思います。
 まず、とても良い友人に恵まれました。そのころの私には想像もできない生活を送っている人が多くいました。生まれてからずっと香港で生活している人、テニスがとても上手くて頻繁に海外の試合に遠征に出て頑張っている人、ピアノのレッスンのために頻繁に日本に帰っている人、ハーフやクオーターの人、など様々な人がいました。みんなとても純粋で、何事にも一生懸命でした。体育祭も文化祭も合唱祭もすべて大まじめにやり、完成度もかなり高いものでした。当然いじめなどもなく、中には日本でのいじめがひどくて香港に来た人もいましたが、みんなで暖かく迎えていました。不良風の人も何人かやってきましたが、いつの間にかクラスを引っ張るムードメーカーになったりしていました。何と言っても煙草、お酒というよりも、「トイレにアメの包み紙が落ちていた、誰が持ってきたんだ、けしからん」といって怒られたりしていたのですからそののんびりさがうかがえると思います。先生も良い先生ばかりでした。印象深い先生、尊敬できる先生はこの時期に出会った先生がほとんどです。
 校風も自由で本当に居心地の良い学校でした。靴も鞄もブレザーも体操着も髪型も特に指定はなし。校舎は8階建てで体育館にはクーラーがついている。お掃除専用のあまさん(現地の主婦の方で、4〜5人いた。確か、4階はあまさん達専用のフロアーだったと思う。ちゃんと卒業アルバムにも写真が載っています。)がいる。校内は土足。家から学校までスクールバスがチャーターされている。玄関には現地の方のガードマンが守ってくれている。水泳大会も、体育祭も学校には十分なスペースがないので国立の競技場を借り切って行う。今から思うと非常に恵まれた環境だったと思います。

 そして、日常生活では様々なカルチャーショックを受けました。単純なことですが、使う通貨も違いますし、言葉も通じないということにあわててしまいました。覚えたての英語を使って切り抜けるしかありませんでしたが、後々には私の英語でも何とかなる、という大きな自信になりました。また、家の近くを歩いていたら、フィリピン人のあまさんに卵を投げつけられました。その人は相当日本人に恨みをもっていたのでしょう。同じ経験を二度しました。ある時は、ファスト・フードの店で物言わぬ中国人に麻薬を売りつけられそうになりました。日本人観光客に香港人と間違われて横柄な態度をとられたこともありました。私の日本語の先生になってくれ、と道で声をかけられたり(新手のナンパ)、地下鉄に乗っていて、気付かぬうちにスカートにガムをベタベタとつけられていたこともありました。こういった経験を通してはじめて、日本人とは?外国人とは何なのか?を考える機会をもつことができました。語学に興味を持ち始めたのもこの頃です。幸いタイやマレーシアや中国など他の国にも旅行する機会をもつことができ、私の中の世界観はおおいに広くなりました。

 勉強面では、この頃が一番一生懸命勉強したと思います。なにしろ見るテレビもないし、友人の家だって近くはありません。家ですることと言えば本を読んだり適度にテレビゲームをしたり、両親と世間話をしたりすることぐらいです。勉強をする環境としては最高です。しかしはじめての学科試験で私はそれまでで一番悪い成績を取り、大きな挫折を味わいました。中の下位だったと思います。ちょうど挫折した頃にはじめて塾に通いたいと思うようになりました。日本の会社の塾が2〜3社あったのでそのうちの一つに入ることにしましたが、すごい人気で誰かが日本に帰ったりして抜けない限り入れないと言われ、しばらく待ってから入りました。入っていきなり一番上のクラスに入れられて四苦八苦しましたが、競争心をあおられてそこそこ頑張っていました。それから真面目に勉強し、最終的には学年で一桁には入るようになりました。中3の頃にはそこに缶詰になって猛烈に勉強しました。あんなに勉強したのは後のも先にもこれだけだと思います。

 部活動などは相変わらずの根性無しの性格と、飽きっぽい性格を反映して、広く浅く経験しました。テニス部、パソコン部、バレーボール部、ローラースケート部、香港研究部、などを転々としました。どんなに頑張っても、対校試合をする相手もいないので、自然に趣味的なものになっていましたので、日本の部活動のように命をかけるようなものではありませんでした。

 とにかく、この3年間の経験は本当に私の人生にとって貴重なものとなりました。普通に地元の中学に行っていたとしたら、おそらくそこそこ勉強して地元の普通の高校に進学して短大でも出て、今頃はOLでもやっているんじゃないかと思います。大きなステップアップができたと思います。

西武文理高校時代

 高校は埼玉県の私立高校に通いました。香港にいたのでろくに学校見学も行かずに紙面の情報のみで決めてしまったので、通学時間が片道2時間もかかる高校に通うことになってしまいました。それでも皆勤賞を取りました。西武文理高校の英語科というところに入学したのですが、ここは本当に変わった学校でした。校長先生はまだ亡くなってもないのに校内にお墓があったり、訳の分からないオブジェがニョキニョキ立っていたり……。修学旅行がオーストラリアだというところと、制服がかわいいところに惹かれて入学してしまったのかもしれません。

 高校でも勉学遊び共によいライバルを見つけることができました。常に試験の結果は張り出されていたのですが、彼女には一度しか勝つことができませんでした。それでも高校一年の時には優秀賞を頂くことができました。ここまでが華々しい時期だったと思います。それから以後は堕落しっぱなしでした。テレビがいつでも見られることに感動して、止めどもなく見てしまったり、予備校にも通わずに受験勉強をしていたのですが、意志の弱い私はいろいろな誘惑にまけてしまって、勉学面での自己管理ができなくなってしまったのでした。成績は落ちていく一方でした。それでもプライドだけは高くてレベルの高い大学を目指してちょこちょこと勉強していました。受験勉強は、学校をメインに勉強していました。冬休みや、春休みには、ゼミが開かれ、20講座くらいは毎回開講していましたのでその中から自分のニーズに合うものを選んで勉強していました。先生方も、熱心な方ばかりでしたので分からないところは先生に聞いたりしていました。

 また、良い思い出作りにとフィリピンにホームステイをしに行きました。期間は10日くらいで非常に短かったのですが、久々に海外に出て、忘れかけていた国際感覚?を少し取り戻しました。

 部活は何かしらインスピレーションを感じて即決で奇術研究会というとても怪しげな部活に入りました。これは珍しく3年間全うしました。主将にまでなりました。活動はオールラウンドのようなものでしたが、それなりに手品のまねごとはやっていました。恥ずかしくて、あまり人には言えない過去の一つです。

日本女子大学時代

 大学はなんとか引っかかって日本女子大学に入ることができました。女子大に入るとはまさか思ってなかったのでいっそのこと浪人しようかと思いましたが、両親が「同じ一年をかけるならイギリスに留学した方がよいだろう、留学させて上げよう」と言ってくれたのでその言葉を信じて入学したのですが、すっかりだまされてしまいました。結局5週間ほどホームステイをしただけで終わったしまいました。良い思い出には変わりないですけど。

 しかし、住めば都とはよくいったもので、女子大にも割合早い時期にとけ込むことができました。大学時代で私に大きな影響を与えたのことは、作家の三浦綾子さんの存在を知ったことだと思います。読書の虫である私が何かいい本はないかと探していたときに女子大の友人が進めてくれたのが「氷点」だったのです。何しろ受験勉強時代には忙しくて本などおちおち読んではいられませんでしたからようやく大学に入って本がゆっくり読めるようになっていたので、いったん三浦綾子さんにはまってからは、あっというまにほとんどの作品を読破しまくりました。

 女子大ではかなり真面目に勉強をしました。真面目にというのは授業によく出て単位をたくさん取ったと言うことで、優秀であったという意味ではありません。でも、それは1、2年のことで、2年の時にサークルに入って以来すっかりサークルにはまってしまい、日々の生活はサークル一色になってしまいました。何のサークルかと言えば、音楽サークルです。私はベースをやっています。大学を卒業した今でも5年生と偽ってまだ活動しています。今まで飽きっぽかった私がかれこれ5年も続けてやっているのですから、自分史上これはかなり珍しいことです。良い友人に恵まれたからでしょうか。それとも性にあっているのでしょうか。それは謎です。これは、もうしばらく続けていきたいと思っています。両親も、私が始めてベースを持って、スタジオへ出かけていったときは、やれ不良だ何だと珍しく口を挟んできましたが、今ではもう何も言わなくなりました。慣れは怖いものです。

 一方、女子大で、「女性の自立や社会での厳しさ」などをたたき込まれ、いつしか私は激しいフェミニストになっていました。一時期は女性は……云々、といっていましたが、すぐに飽きて(もしくはあきらめて)しまいました。この時くらいからぼちぼちと一生働かないとダメなんだ、どうせ社会に出るならできるだけ長く働こう、などと漠然と考えるようになりました。大学3年になるとそろそろ就職のことも真剣に考えるようになりました。当初、わたしは国際線のスチュワーデスになって、自分の英語や国際感覚などを活かしていきたいと思っていました。ところが調べていくうちに契約社員として働くということ、長期間働くということは体力的にも会社のシステム的にも難しいということが分かったので、長期的にも安定して働け、かつ、空港の近くで働ける仕事はないか、と探していたところ、入国管理局を知るに至ったのでした。ここの仕事は私にあっているかもしれない、よし、これになろう、とこれまた即決して大学3年の6月には早稲田セミナーに足を運ぶようになりました。私の意思は思いのほか固かったので、民間には全く興味を持もつこともなく公務員一本で就職活動をすることにしました。この時期は今までで一番ストイックに勉強をしました。それでも1年目は落ちてしまいました。自分では結構やったつもりだったので、かなりショックを受け、立ち直るのに1ヶ月間くらいかかってしまいました。これで、それまでストレートできていたので、はじめて人生のレールを踏みはずすこととなり、不安でしたし、大学を卒業してしまうことに勇気が入りましたが、なんとか2年目で受かることができたので、結果論でOKということになりました。

 1年目と2年目の勉強方法の違いは、一言、要領の良さ、に尽きると思います。2年目は苦手科目のみ、単科で授業をとったり、残りの科目は独学でやっていましたが、論文や時事対策などはセミナーのオプション講座でカバーしたりして、効率よくセミナーを利用しながら勉強していました。1年目と違い、大学も卒業したので時間に余裕をもって計画的に勉強することが出来たのもよかったと思います。

 セミナーは一種独特の雰囲気に満ちあふれていますので、はじめの頃はそれに慣れるのに苦労しました。大学と違ってみんな真剣に勉強をしに来ていますから、気が引き締まります。逆に少しでも手を抜けば一気に落ちぶれてしまいます。いろんな大学の人や、社会人経験のある人などと知り合うことができ、新しい世界が開拓されました。大学の友人とは違って、みんなまじめに将来を考えて公務員をめざして通ってきているので、お互いをよく分かり合える仲間として、またはライバルとして、適度に刺激を受けながら勉強することが出来ました。今は、社会の仕組みは私にとってまだまだ分からないことだらけですし、激しく、長い勉強生活が終わって気が抜けきってしまったようです。しかし、自分で精一杯やってようやく手に入れた仕事ですから、誇りを持って仕事をしたいと思っています。

以上

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