The Future [ HOMEキャリア・エリートへの道>野村野球理論を受験に応用。東大法学部から自治省へ。 ]
キャリア・エリートへの道


野村野球理論を受験に応用。東大法学部から自治省へ。

木村 敬

はじめに―この文章を綴ることの意味について−

 今、こうしてやっと社会人にならんとする若輩者が、何を好き好んで自分の半生を振り返らねばならないのかと読者のみなさまは疑問を持たれることでしょう。

 しかし、この世知辛い世の中、私のような人間は一見、どこか浮き世離れした、世間の苦労とは無縁の輩と思われてしまいがちであります。ところがどっこい、そんな私もまたそれはそれで山あり谷あり、色んな想いを胸に生きてきました。

 昨今の日本社会の状況、愚劣な官僚、政治不信、学級崩壊、そして荒れる若い世代、そんな様々なことを考えて、さらに、考え直すための一助にこの文章がなるのではないか、との渡辺先生からのお誘いに、私自身も自分の原点を振り返り、それを通じてみなさんにも何か感じていただきたく、こうして綴らせてもらうことにさせて頂きました。まずは、渡辺先生に感謝の言葉を贈らせていただきます。

幼少期−頭でっかちで終わらせない−

 さて、この私、木村 敬は、昭和49(1974)年5月21日に東京・恵比寿に生を受けました。今や流行りの街−恵比寿−といえども、当時は渋谷の隣りに、大繁華街の隣の駅によくありがちな泥臭い、山手なのに下町っぽさの残る地味で目立たない小さな街でした。そんな街の、これまたぼろい小さな木造二階建ての、東京の古い街にありそうなごく普通の単なる家に育ちました。家庭はそんなに裕福だったわけではありません。祖母と母が近所の工場から引き受けた造花作りや箱作りの内職を私や妹が手伝ったりもしていました。勿論、極貧であったわけでもないのですが、年に何度かの贅沢は箱根にある渋谷区営の保養施設「二の平荘」に小田急の特急に乗って旅行することだけの、ごく普通の家庭でした。

時刻表を読む幼稚園児

 幼少期の私にとっての印象的な出来事として、私は小学校受験、いわゆる「お受験」に失敗しています。ただ、近年はやりのテレビドラマに見られるような特段変わった対策を練ったり、「お教室」に通ったりしてはいません。単に幼稚園に通っている普通の子どもの割には漢字をすらすら読んだり、足し算引き算が達者だったりしたので両親が受けさせてみようと思ったのでしょう。

 当時、私が漢字を読んだり演算が出来たりしたのは、幼稚園時代の、まさに「好きこそものの上手なれ」の結果です。そのころの私は、子どもによくありがちな「鉄道マニア」の子どもでした。普通なら電車に乗ったり駅名を覚えたりするレベルで終わるのですが、親が私に買い与えてくれたものは「時刻表」でした。それもB5版数百頁の“あの”分厚い奴です。幼稚園時代はあまり友達がいないおとなしい子どもだったのですが、当時の私はこの「時刻表」にはまりました。

 時刻表は駅名と列車の運行表が一面に羅列されています。私は時間の足し算をしながら自分だけの列車を走らせてみたり、表の左側にある駅名の漢字表記と右側にある平仮名表記を対照させながら駅名をどんどん覚えていきました。当時すでに「音威子府(おといねっぷ)」「酒々井(しすい)」などの漢字を読めたのを親戚が今でも懐かしく語ります。

お受験に失敗し、公立小学校へ

 こんなひとり遊びをしているうちに、御近所では評判の神童まがいの子どもであったことは確かです。しかし、これでは頭でっかちの子どもで終わったでしょうし、一方、「お受験」に成功して有名国立小学校に行っていたらその後の自分があったか疑問です。

 私が頭でっかちにならなかったのと、その後結果的に伸びたのは、近所の普通の公立小学校に行ったからだといまだに思っています。というのも、普通の小学校の中でこそいつまでも私は「優秀」であったからです。人との対比で能力を評価するのが良いというわけではありません。しかし、私は普通の小学校で、学校のブランドではなく、普通にクラスの他の生徒との対比から実力面で常に優秀な子どもと扱われてきたことで、一種のプライドを持って生活できたことは確かです。

 幼少期におけるメンタル形成は非常に重要だと思います。“がんばる”ためにはそれを促すものがなければなりません。仮に「有名小学校」の中で優秀な子どもの中にいたら、当時の自分のように、試験は解けるものと95点でも悔しいと思える環境にはならなかったと思います。みんな優秀だからいいや、自分は頭悪いから、、、そう思っていたことでしょう。こと勉強に関しては、自分の自信が何よりも必要です。そのためには何よりも人に誉められること、自分の実力が評価されることが最高の原動力です。私の場合、中学からはいわゆる有名私立中学に通ったのですが、そこでの私はあまり勉強をしませんでした。優秀な子に囲まれ、自分が優秀でないことに慣れてしまったのでしょう。これは不遜な言い方とは思いますが、私はもう少し格の低い中高にいた方が東大にもっと楽に入れたと思っています。有名中高の受験に失敗してしまった人に聞いて欲しいのは、むしろ、二番手三番手の学校でトップでいることの方が、自分の原動力になることです。その点で、私は近所の公立小学校で勉強したのが自分の向学心を醸成する格好の舞台装置になってくれたと思っています。

学級崩壊から生まれた自立心

 加えて、公立小学校で「優秀」たりうるには勉強だけではダメです。とことん中心になって遊んだことが、仲間をまとめていく、いわゆるリーダーシップのようなものを当時から養ってくれたのでしょう。昨今言われる「学級崩壊」的な状況は私の小学校時代にも現実として降りかかってきました。まぁ、私の場合は教師の「授業放棄」であったので、それは「学級崩壊」ではないとの反論もありましょう。しかし、最近の学級崩壊の原因には、非常識な子供の存在があるのですが、他面、教師の無能力もまた指摘されてしかるべきでしょう。そう考えますと、教師の「授業放棄」という私のケースもまた今で言う「学級崩壊」のひとつと言えましょう。それはそれはひどいものでした。私のその時の担任は当時よく居た「金八先生病」のいい例で、自分のクラスに目標を立て、生徒がそれについてこないでいると生徒に反省を迫り、ひとしきりどやしつけても改善されないと、自ら教室から出ていって生徒の反省の弁があるまで授業を放棄してしまう有様でした。もちろん、生徒側に私語や教師への反発などが多かったのは確かですが、教師のこの態度は明らかに生徒と同じく、はたまた生徒以上に悪質です。

 しかし、そんな状況とは面白いもので、生徒の方の「自主性」や「団結心」をもたらしてもくれたのです。今から思えば笑ってしまうのですが、教師に「放棄」された授業を私を含めた生徒が「代講」していたのです。私たち生徒による授業の方が教師がやったときと違って、私語もなく質問も出たりと充実したものだったと後で聞きました。つまり、ここで言えるのは、教師の非常識行動に反発して「生徒による授業」に出た私たちには、生徒同士に団結心という名の「信頼感」があったことであります。今の教育システムの誤りは、そうした関係構築に行政や社会はおろか、教師も家庭も何の用もなしていない点にあるのです。

 私は当時の仲間と今でも月に数回、集まっています。私なりに感じる昨今の「お受験」ブームの最大の弊害は、このようなこどもの時代からの人間関係の構築が出来ないことにあると感じています。「お受験」は所詮、“親”の話に過ぎないのではないかとも思わずに入られないのです。

偶然の出来事から変わる。「好奇心」から「実力」へ

 とは言っても、当時の私は殆ど勉強をしておりません。そもそも、しょせんは小学生なのですから、日々の遊びこそが日課の毎日でした。

 単なる小学生が勉強を自発的にするようになるには、何らかの「契機」が天から降ってくるように訪れるのでしょう。

 小学校に入学したときから自分用の勉強机を買ってもらったのにもかかわらず、草野球ばかりで遊びほうけていた私にはその勉強机に向かうことは一度もなかったものです。特にひどかったのは国語力で、藤子不二雄のマンガを読む以外はテレビばかり見ていた私には、児童文学何ぞは一度だに手にしたことがなかったのでした。

 私が机に向かう契機になったのは、親の絶妙の配慮だったと思います。私が全く本を読まないので親があきれていた小4の時、私は毎晩、テレビの野球中継を見ていました。中でも、当時解説者だった野村克也が中継画面にストライクゾーンを描き、配球を読みあてる「野村スコープ」なるものに私が感動し、彼の予想に「なるほど」「うーん」と唸り、試合の経過よりも野村の分析に釘付けになっていました。その姿を見た父親が、ある日、本屋で見つけた野村克也の『裏読み』なる本を私に買ってきました。この本はKKブックセラーズ出版の、いわゆるサラリーマンが通勤途中に読むような新書本で、野球での配球の「裏読み」術からビジネスマンが企業社会で物事の「裏」をどう読んでいくかを叙述した本でした。とてもまだ10才の子どもが読む代物ではありません。しかし、父親はそんな「常識」に反して、そのビジネス書を私に買い与え、私はそれを貪るように読みました。あこがれの野村克也の、分析の論理的根拠が実に詳しく述べられ、何十回と読んだのです。

 この効果は言うまでもなかったです。初めて純粋に本が読めるようになったのみならず、テレビの音が邪魔なので自分の部屋(当時は妹と相部屋)の机に座って読むようになったのです。これらはこの本が私の関心にジャストフィットしたからに他なりません。たとえ常識では到底子どもの読む内容・レベルの本ではなくても、子どもの最も関心のあることに関する内容ならばついていきます。「好きこそものの上手なれ」といいますが、好きなものなればこそ、更に「一歩上のもの」に食いついて行くことが自分を伸ばすのではないかと今では信じています。

 私はこうしてひょんな偶然から机に向かうことが可能になったのですが、さらに、この本にまつわる偶然はむしろ、その本の内容にあったと思います。前述のように、この本は野村克也の配球分析についての「裏読み」の本だったのですが、彼の提示する分析とその論理的な根拠、つまり、「この状況ではこうこうこういう理由だからこうなるはずである」と考える癖が付くようになったのです。こんなことを言うと「ほんまかいな」と笑われるでしょう。当然、このビジネス書を読んだことですぐに勉強面で効果が出たわけではありません。しかし、私はこの本を読んで以降、野球中継を見るときには必ず野村克也の提示する「裏読み」を実践していたのです。「今はワンアウト1塁だな、振り回す外人打者なら外角にややボール気味のスライダーを投げて、引っかけさせてゲッツー狙いだな。」様々な情報から状況を瞬時に判別して、予想を立て、的確な判断を下す、これをたかが野球中継でも毎日実践してきたのです。まさしく「野村ID」以外のなにものでもありません。

野村野球理論を中学受験に応用

 こうした実践は、その翌年から中学入試の勉強をする際の私の「土台」になってくれたと感じています。なぜなら、算数や国語、あらゆる科目が有名私立中学の入試になると高度な「思考力」を試す問題になります。そこで必要なのは、まさに問題で何が問われているのかを判断する「裏読み」の思考だったのです。子どもにとっては普通は苦痛にしかならないかように報道されている感のある中学入試ですが、私にとっては高度な問題になればなるほど、その出題の裏を読み解く面白さにはまり込みました。算数は全て楽しいパズルのように思えていたのです。

 当初は単なる好奇心だったのが、ひょんな偶然から自分の勉強を支えてくれるものになるチャンスは人間ひとりひとりの周りにきっと数多くあるのでしょう。こうしたチャンスを活かせるカギは「思考力」を鍛えられる機会やツールを見つけだすことです。「好きこそものの上手なれ」が「思考力」と結びつくことで、こと学問に関しては自分の底力が徹底的にかつ自然に生まれてくるのだと私は今、振り返って思うのです。

 加えて、今、小学生の頭が疲労しきっていることに危機感を覚えます。

 私が中学受験をしていたことに比べて現在は小学生の通塾開始年次が著しく下がっているそうで驚いてしまいます。有名私立志望者の間では私の当時は5年生から塾に行くのが一般的でしたが、今や3年生になり、1年からという大手進学塾も数多いと聞きます。私は4年生まで徹底的に無目的に草野球などで遊んでいました。中学入試は、前述のように楽しさ半分というところはあるのですが、やはり「受験勉強」という一定の枠組みに沿った勉強です。ですからその「枠」に私たちは合わせざるを得ない以上、どこかで興味旺盛な子どもには無理を来すと考えます。3年生、中には1年生からその「枠」に生活の多くを縛られるともなれば、私にはいささかの疑念が生じます。頭でっかちになってはいけません。そのためにも子どもたちをもう少し受験勉強という勉強の「枠」から解放してあげる必要があるのではないかと思えてなりません。

武蔵中学時代−官僚を目指す瞬間。久米宏を追いかけて−

 中学から私はいわゆる有名私立中学に通うことになりました。ところが、同校は自由放任主義の学校で大学受験に沿うような授業は一切なし、その上、前述のように周りが優秀な子ばかりなうえ、高校入試もないので私は全然勉強をしたくなくなり、ただだらだらと日々をファミコンをしながら過ごしていました。

 ただ、父がジャーナリズムの世界に居たせいで新聞やテレビには日ごろからよく親しんでいました。特に、小学生の頃に「ザ・ベストテン」の司会者で、私の特にお気に入りだった久米宏がこの時ニュースキャスターだったことは、私と政治の世界をものすごく親近感のあるものにしてくれました。

 毎日、久米を追いかけるように夜10時にはテレビの前でその日の様々な事件のひとつひとつに、「なぜだろう」と野村克也的読みを働かせながら考えていました。私が中学の頃は売上税から消費税に至る過程で政治が混乱し、1989年の天安門・東欧革命・翌春のドイツ統一といった激動の時代にありました。そんな一連の出来事を私は「ニュースステーション」の画面を通して毎日、見ていたのです。

「大蔵省」との出会い

 そんな折、ひとつの本に偶然出会ったのも数奇な運命でした。その本は『大蔵省』(川北隆雄著)。当時、講談社現代新書のブックカバーが格好良かったので、内容に関係なく本屋で気に入った表紙の本があれば買っていました。その中の一冊がこの本。一読してその内容に圧巻させられました。「日本はこれで動いていたのか!」激動する社会の中で、その「裏側」のからくりと力学がよく分かったのでした。何故自民党は強いのか、消費税が画策されるのか、当時の自分の中にあった難題が一気に解けてゆくのでした。野村克也の「裏読み」精神が故に、日本の政治の背後にある予算を軸にした「大蔵省」の存在に謎解きのカギを見た気がしていました。

 特に、その中にあるひとつのエピソードに強く惹かれました。そのエピソードとは、整備新幹線問題に関し、その予算を求めて圧力をかける自民党議員団に抵抗した主計官(大蔵省で予算の策定を担当する人)が、「(採算が成り立たない整備新幹線は)これではオンブ(補助金)にダッコ(特別減税措置)にオシッコ(赤字)たれ流しだ」とのどぎつい言葉で推進派を罵倒したとのエピソードでした。政治家にお仕えするはずの一官僚とは思えないこの発言と必死の抵抗に、「政治家=悪い人」の図式の上にいた当時の私には、その官僚の姿が「カッコイイ」と思えたのでした。この主計官とは、田谷廣明。二信組問題での過剰接待で大蔵省を追われたあの田谷その人でした。

 その瞬間の雷が落ちたような衝撃の後、大蔵省関係の書物や新聞記事を漁って事実を観察していくうちに、大蔵省は予算を握っているから政治の実権を握っているのだということ、大蔵官僚になった人は東大出の人で生まれは普通の人、むしろ苦労人が多いということなどがわかり、自分に近い人たちだと感じたのでした。

武蔵高校生徒会での挫折

 実はこの前者の、予算を握って社会を変えようという淡い欲望は奇しくも高校の生徒会で実践して破綻してしまいました。前述のように自由放任主義だった私の高校は、教師と生徒の信頼関係で全てのことが運んでいました。部活の予算もまた然りで、一定の総予算額が学校側から生徒側に提示され、生徒会事務局を幹事にして各部・クラブ・同好会の代表者会議での調整で細目が決められるという生徒の主体的な判断に任せたシステムでした。それは現在の政府の予算策定にも似たシステムでもあったため、私としては例の「大蔵省本」を実践すべく、「変革のための予算」を作ろうと各部・クラブ・同好会のうち、前年度業績を残したところには重点的に配分し、何もやっていないところは減額するとの実績に即した予算査定に躍起になったのでした。しかし、結果は無惨な敗北。各部・クラブ・同好会が横並びの談合で調整を済ませ、事務局の調整に大反発。何をやってもみな守りの姿勢で援軍はなく、膨大な徒労感だけが私たち事務局に残ったのでした。各参加者が死に物狂いになり、また、細目は専門性が高く部外者には突っ込めないなど、「予算」を通じたコントロールには限界があることをしみじみと私は悟り、自分の中で方向転換しました。ただ、実際、日本の政府機構においても、80年代以降の財政危機の状況に対して大蔵省のやったことはこれと大して変わらなかったことが後にわかったのですが。

 一方、後者の大蔵官僚になった人は生まれは普通の人であるということについては、学を積んで頑張ればいつか社会の中枢で活躍できるだろうと、その後の自分をずっと支え続けてくれました。社会の中心=大蔵省=東大出=東大に行こう、との学歴社会を絵に描いたような安直な図式の思考に反感を持たれる方もあるでしょう。しかし、私としてはそれでも勉学を積めば親の職業や出自・財産に関わり合いなく評価されるシステムだと自体には誰も文句がないのではないでしょうかと考えるのです。評価する基準が単純画一化したこと自体が問題なのであって、また、今後、社会のニーズが多様化する流れの中で必然的に学歴オンリーの評価システムは淘汰されていくことでしょう。むしろ、その中でいかにして明治以降の日本の成長を支えてきた学歴を軸にした競争システムの「公正さ」という基本理念を別の形で維持出来るかが、今後の重大な課題であろうと思っています。

東京大学というところ

 大学受験というのは中学受験以上にさらに「自由度」の少ないもので、何の感動も中身もない高校の教育内容を反映せざるを得ないせいか、私にはその過程は苦痛の連続でした。無論、そんな私がストレートに行くわけがなく、予備校の世話になってようやく駒場のキャンパスにたどり着きました。

 まぁ、当然、モラトリアム化し大衆化した現代の大学は知的刺激を与えてくれる場と呼ぶには程遠く、社会を憂い刺激的な話をしてくれる友人は様々な場所に顔を出すことで自分で探し当てるほかありませんでした。

 いわゆる「最高学府」と言われる東大には、実のところ、かなり頭の悪い学生がいっぱいいるのです。世間一般水準以上に。先日、東大生同士での殺傷事件がありましたが、それがあくまで「例外」と言い切れないほどに常識に欠けた人が多いのです。宗教団体やオカルトサークル、怪しい政治組織は言うに及ばず、個人レベルでも「ストーカー」事件は頻発しています。ある学部では事件を避けるため、“学生の自主的な”掲示板にすら電話番号を載せることを控えるよう指導しているところもあるようです。

 そんな同じ大学の学生を見るにつけ、彼らの多くが実に「自立していない」ことに特に思い知らされます。ある知り合いの例では、採用段階で断られた官庁に対して「このことを親に言ってやる。そうしたらきっと(親が)火を付けてくれるだろう」と真顔で述べる奴もいます。また、ゼミの合宿のために、幹部が親に「大丈夫ですから」と説得しなければならないこともありました。このように昨今の東大生にまつわる問題として、その理由のひとつには親と子供の距離感があまりにも取れていない、親側を主な原因とする問題があるのではないかと思うのです。

両親との関係

 今、大学を卒業し、まさに社会人にならんとするにあたって、このように自分のこれまでを振り返ると、私個人の場合、親との関係が実に絶妙だったことを感じずにはいられません。野村克也の本や時刻表を買い与えたり、親の選択は実に効果覿面でした。しかし、私の場合、親は教育ママでも過保護でもなく、早い段階から私を一個の人として見ていてくれたと思います。私が大食いだったせいもあるのでしょうが、私はお子さまランチといものを食べたことがありません。旅先の旅館でも親と同じものを食べて来ました。勿論、親が意識的にそうしていたのかは分かりませんが、多分、あまり深くは考えていなかったと思います(大体、普通考えれば、幼稚園児に時刻表、10才の子に野村克也のビジネス書は買い与えない)。でも、子どもの興味を巧みに見つけだし、モノを提供した点は絶妙な水先案内と言えるでしょう。また、中学に入るとほぼ一切の指示をせず、私の自主性に任せた「子離れ」の早さも私には有り難かったです。無論、養って頂いて貰っている以上、応分の「説明責任」が課せられました。それは、何か事を起こすときにその理由を事前に話して納得してもらう類いもので、例えば、「何故東大を受けるのか」「何故浪人するのか」「大学に行って何をするのか」「どんな将来像を持っているのか」など、時に応じて私は自分から親に話すようにしていました。「まぁ、こうしたら」と時折アドバイスされる以外は黙って聞いていることが多かったですから、両親の私への信頼は手に取るように分かりました。

 親の信頼があればこそ私は私なりに好きなことをしつつも、自分の行動・判断への責任は常に感じていました。

 今の家族関係云々については私は何のコメントも述べられるたちではありませんが、私が本当に我が道を行こうと思い、勉学に一気に気が入ったのも、中3〜高1あたりにこのような両親からの無形の信頼を感じた瞬間からだったのではと、今になって考えればそう思うのであります。大学の何とも詮無い連中に会い、語らうたびに、彼らの背後にある信頼の薄い、過保護と反発の空虚な世界が垣間見られると哀しく思わずにはいられず、また独りこうしてその信頼構築を皆に求めずにはいられないのです。

公務員になるにあたって−行政への原点−

 「なぜ、“官僚”を目指したのか」とよく聞かれます。人それぞれ、人生には様々な岐路がある中で、就職は今後の自分の人生設計の基軸になる以上、自分が生きてゆく上で最もやり甲斐を感じるベストのものを選ぶべきであります。私の場合、研究者になろうかどうか、最後までずっと悩んでいたのは確かです。研究者もマスコミも有難いことに私の中では選択可能なチョイスでした。その中で、あえて公務員を目指したわけは、ひとえに、現場に出て、かつ、現実に実効的な対応策(すなわち、制度設計)を立てることで社会を支えてゆくことが、自分の人生において最も「心地よい」と感じているからに他ならないのです。

 当然のことながら、近年、私の学ぶ東大法学部では優秀な学生が国家公務員から離れていってます。人それぞれの人生でありますし、他大の学生がその分入り易くなる結果をもたらしているので、それはそれで結構なことなのかも知れませんが、何だか物足りなさが残ります。官僚志望者の理由は様々で、安定を求める人、社会的地位を求める人、色々ありましょう。しかし、官僚にならんとするにあたっては、世俗な出世欲や名誉ではなく、この国で生きている人々の苦労や今の社会の矛盾に、心から、我がことのように悩み、想い馳せ、少しでも役に立ってみようという信念を持って欲しいと切に願わずにはいられませんし、それが私の行政官への初心であるのです。この初心を原点に、新天地で一暴れしてみようと、今、わくわくとこころは高まっております。

 これが今、社会人になるにあたって、これまでの自分を振り返った中から出てくる想いのしずくであります。この原点を想い、明日に向かって行きたいと考えております。

©1999-2001 The Future