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キャリア・エリートへの道


もう1つの道。国 I 受験から大手銀行へ。

中島 正剛

幼少期 −筑後川の思い出−

 私は九州の佐賀県、筑後川の河口近くの三角州にある小さな島で育ちました。本当に何もないところで、遊びと言えば、川沿いの土手での遊びなどしか思い出せません。今でこそ車でどこにでも行けますが、小学校に上がる前は行動範囲も狭く、その島の中が唯一の世界といった感じでした。

 筑後川は、潮の干満差がとても大きい有明海に注いでいて、そのため、川ではあるのですけれども、満潮にもなると潮が逆流してきて、僕が住んでいたところでも水面が2m近く上昇したりします。このため、子供にとっては危険なので、この川で泳いだことはありません。日本列島が大陸と地続きだった頃に黄河の河口だったので、筑後川の色はあの黄河のちょっと濁った色を想像してもらえばわかるかと思います。ですからもともと濁っていて、あまりきれいな川とは言えませんが、春にはつくしが一面にはえ、秋にはコスモスが咲き乱れます。

 思えば、子供の頃の夏は今よりもっと暑かった気がします。それでも川沿いには心地よい風が吹き、過ごしやすくはありました。今でもよく思い浮かべるのは、とんでもなく暑い日に、楠の木漏れ日の下、昼寝をしていたときのことです。お盆に帰省した折には、そういった幼少期を過ごした場所へでかけ、ただただのんびりしています。

佐賀大学教育学部附属小学校

 私が通った佐賀大学教育学部附属小学校は県下で唯一、入学試験がある学校で、今ほど教育熱が盛んではなかったものの、かなりの受験生がいたことは覚えています。ただ、試験自体は大したものではなく、最後にある“くじ”でほとんど入学が決まるので、今考えてみると、面白いシステムでした。

 バスで1時間弱という、小学生にとっては結構な距離ではありましたが、それほど遠くでも、小学校に通うということは、私にとってはとにかく嬉しいことでした。というのも、近所に同年代の子供がおらず、幼稚園の時には家に帰ると妹と遊ぶか、家が自営業でしたので、その従業員さんぐらいしか遊び相手がいなかったからです。そうした中では、友達と会えるということで、学校は楽しいところ、というぐらいにしか考えていませんでした。

野球部で学んだこと

 こうした中で、昼は楽しい学校、夕方は家で読書、といった感じの生活をしていたような気がします。そして、もっとみんなとの時間をつくりたい、ということで小学校3年生から野球部に入りました。

 小学校ではありましたが、かなり体育会系の気風でして、私が人間関係の基礎を学んだのは、この野球部時代だと思っています。先輩後輩のけじめをつけ、監督やコーチなど目上の方に礼を尽くす、といった当たり前といえば当たり前のことを、きちんと身に付けている、ということはその後の中学・高校・大学生活でも非常に役に立ちました。

 また、どこの野球部でもそうだと思いますが、練習・試合の前後にはグラウンドへ一礼します。外国人などから見ると不思議な光景でしょうが、そういったものにも感謝する、という謙虚な姿勢が大事なのだと思います。変な話ですが、私は小学校での授業よりも、この野球部でより多くのものを経験し、学びました。

 特に学んだものといえば、努力、ということについてです。野球部に入部はしたものの、私自身はかなりの運動音痴で、さらに肥満児でもありましたので、お世辞にも上手い選手ではありませんでした。同学年でも県下で数本の指に入るピッチャーや運動神経のすごくいい選手がおり、そういった選手が早々とレギュラー入りする中、私は控えのまま、後輩から追い抜かれたりもしていました。両親からも才能が無いから、と何度となく辞めるように言われたりもしました。それでもずっと練習し続けたのは、いつかきっとレギュラーになれると信じていたからとかではなく、途中で投げ出すことがどうしてもできなかったからです。私には一度こう、と決めたらなかなか譲らない頑固な面があり、その譲れないものが、この場合野球だったのです。

 野球部の場合はこの後、遅咲きながらレギュラーに定着し、クリーンナップの一角を占めるほどには成長しました。が、それは結果の話であり、むしろそこにいたるまでの過程を逃げ出さずに頑張れたことを誇りに思っています。

 努力すればできる、ということもですが、それよりも私は、自分が努力することができる、ということを学びました。そして、この努力という言葉が僕のこれからの人生に大きなテーマとなっていきます。

佐賀大学教育学部附属中学校 −司馬遼太郎との出会い−

 中学はそのまま系列中学校である、佐賀大学教育学部附属中学校に進学しました。一応、入学試験みたいなものがありましたが、附属小学校からのほぼ全員が入学できることもあり、あまり大袈裟なものではなかったので、中学受験も経験したとはいえませんでした。

 小学校時代にはあれほどお世話になった野球ですが、中学では野球部がなく、他にやりたいことが特に見つからなかったので、とにかく本を読んでいました。父が司馬遼太郎さんの全集を持っていましたので、『竜馬がゆく』から始め、『坂の上の雲』『飛ぶが如く』等、ほぼ読み尽くしました。特に気に入っているのは、越後長岡藩の河井継之助を題材にした『峠』という小説で、あまり詳しい内容まではここでは書きませんが、その生き方に感銘を受け、都合4回ほど読み返しています。

 また、海外小説もよく読みました。といってもあまり有名どころではなく、ハヤカワ文庫でよく出版されている冒険小説が中心でして、ジャック・ヒギンズやA・J・クィネルなどの作品を読み漁りました。『鷲は舞い降りた』という作品なら結構有名ですので、知っている人も多いかと思いますが、そのジャンルの小説のことです。今での新刊が出れば必ず目を通しています。

 ところで、成績のほうは殆ど勉強していなかったわりにはそこそこ上位におりまして、その為、中学1・2年生の間は、名ばかりで塾には通っていたものの、友達と遊んでばかりで、集中して勉強する、といったことがありませんでした。親に聞いてもこの頃の私は本当に勉強しておらずに困ったものだと嘆いていたそうです。ですが、3年生になり、高校受験が近づいてきましてから、私にちょっとした意識の変化がみられました。

高校進学についての悩み

 中学3年生になるまでの私は、地方ということで選択肢もそんなにありませんでしたから、あまり考えもせず自分の偏差値に従った公立の高校に進むつもりでした。ほとんどの同級生も自分の偏差値でわりきり、少しでも高校のランクを上げるための勉強が受験勉強といった感じでした。私が考えていた高校は公立では県下で最上位といわれる学校でして、旧制高校の気質を色濃く残した校風にあこがれも感じておりましたので、当然そこを受験するものと考えておりました。

 しかし、同級生の中にはスポーツや芸術の面に秀で、その道を伸ばすために真剣に進学先を検討する者もいました。また、あまり努力もせずにそこそこの成績をおさめていた自分が気後れするほど真面目に勉強している者もいましたし、もともと成績優秀だった者の中には、さらなる努力を怠らず、有名進学校を目指す者もおりました。

 そのような中で、のほほんと、中途半端な自分がいることに気がついたのです。「自分はこれから何をしよう?」「将来になったら何がやりたい?」などと考え始めたのもこの頃です。そうして考えていくうちに、あまりいろいろな可能性に挑戦していたわけではありませんが、人より特に秀でた才能を見つけきれなかったということもあり、自分が伸ばすべきものといえば、面白味のない言葉ですが、勉強ができるということぐらいしか思いつきませんでした。

 すると、今のままの進学先では、中学と同じことの繰り返しになるのではないだろうか、という恐怖が襲いました。努力すれば伸びるかもしれないであろう才能を磨くもくすぶらせるも自分次第だという気持ちになり、環境を変えようという意味からも、志望校を変更しました。

 新しい志望校は、できたばかりの私立高校で、入学試験のハードルの高さも、自分が進学先を変更してから受験勉強を始めても何とか間に合いそうな感じでしたので、それから、中学時代でははじめてといっていいほど真面目に勉強に取り組みました。そうして晴れて合格し、私立弘学館高校へと進むことになりました。

私立弘学館高校

 先に環境を変える、と書きましたが、弘学館高校を志望した理由の1つに、この学校が全寮制だということがありました。この寮が学校の敷地内にある上、市街地からかなり離れた山裾にありましたので、日常生活そのものが、一般的な高校生とはかけ離れたものでした。実際、市街地までバスで1時間ほどはかかり、めったに「下界」におりることもできないので、こういった、ある意味極端な場所で自分を試してみたい、という気になったのです。

 実際、親元を離れて集団生活を行うということには不安もあり、入寮当初はとまどってばかりでした。ですが今にいたってみて、高校生活があれほど充実していたのも、寮生活があったからこそ、と胸を張って言うことができます。

 とにかく全員寮生活を送っているのですから、昔風に言うと、「同じ釜の飯を食った仲」になるわけで、仲のいい友人がたくさんできました。その多くは仲間と、いい意味でライバル関係を保ち、お互いに切磋琢磨することができたという点で、高校生活は非常に環境に恵まれたといえます。

 良い点ばかりを書き連ねてしまいましたが、本当のところで、最初は弘学館高校という高校自体は大嫌いでした。なぜかというと、寮生活のスケジュールの学習時間が強制的に含まれていたりするなど、学力至上主義の教育方針だったからです。首都圏では珍しい、スポーツ校でもない普通科高校が全寮制をしく理由がここにありました。

寮生活・部活動

 今思い出せるスケジュールを書いてみますと、7:20起床→朝食・登校準備→8:30始業→16:30終業→部活動18:00まで→下校・夕食・入浴→19:00学習開始(途中30分休憩)→23:00学習終了→消灯23:20(希望者は24:00まで延長可 受験生は2:00まで可)といった形になり、こういった型にはまった生活というのは、高校生の自分にとっては実に味気なく感じたものでもありましたし、強制されてまでの勉強というものに甚だ疑問を感じたりもしておりましたので、1年生の頃は学校をやめるかどうか本気で悩んだものです。

 しかし人間は不思議なもので、慣れてしまうと、嫌でしょうがなかったものにも愛着を感じるようになり、2年生の半ばには生活のリズムが整っていることに対して、充足感を覚えたりもしました。受験生となる3年生の時には、他の高校であれば、自分が、さまざまな誘惑に負け、ろくに勉強もしなかったであろうことを想像し、この高校を選んで正解ではなかったかとひとり満足していたものです。

 また、そういった生活の中でも部活動は3年間続け、卓球部のキャプテンを務めたりもしました。振り返ってみると、今風の刺激の多い高校生活ではありませんでしたが、華やかさよりも堅実な生活を尊ぶ私の性格に合っていたこともあり、高校生活はよき思い出の場所となっています。

高校での勉強

 ただ、私自身、決してのんびりと高校生活を送っていたわけではありません。実際、高校入学当初は学年でも最下位から幾番という成績でしたので、相応の努力をして、今の自分に至ったつもりです。

 なによりも驚いたことは、私の半分以下の時間でゆうに私の倍以上の成績を修める人間を目の当りにしたことです。彼らの集中力・記憶力のすごさは、多少勉強ができるのではと自惚れかけていた自分の考えを改めさせるには充分すぎるほどのものでした。

 そこで彼らのような人間もいるのだから、と逃げ出してしまえば楽だったのですが、生来自分は負けん気が強く、なんとか見返してやろう、という気で勉強していたのを覚えています。才能はちっぽけでも、それは他の分野で補おう、とそういう気持ちでした。もとより他にすがるものもありませんでしたので、泥くさいかも知れませんが、がむしゃらに勉強していました。そして、そういう努力を積み重ねているうちに受験のシーズンが近づいてきました。

志望校選びと大学受験

 高校3年生になっての志望校選びは、文系選択ではありましたのでその分限られていましたが、学校の方針が直前まで私立型や国立型などに分けないということだったので、幅広く選ぶことができました。私はその際、漠然とながら、将来的には国家公務員試験を受験しようという希望があり、文系では法律・経済・行政の3科目を学べるところというのが条件でした。そして、この条件に沿って考えていたため、どの大学に受かりたい、という希望はさほどありませんでした。ただ、土地柄的に国立大学への崇拝が強く、そういった大学を目指すことで家族や親類を喜ばせようとは考えていました。

 実際に受験したのは結局のところ、2校3学部で、どの学部もそこそこ手応えがあったようには感じたのですが、合格できたのは早稲田大学法学部のみでした。私立大学は公務員試験に不利ということや、親への負担なども考え、もう一年浪人しようかという気持ちもあったことを覚えています。しかし、父親の母校である早稲田大学のことを知っていくうちにその校風に魅かれたりもしまして、早稲田大学法学部に進学することにしました。

早稲田大学法学部

 大学に入学してからというもの、最初の1年はさほど羽目を外すこともなく、高校生活の延長上で、割と真面目な学生生活を送っていました。1年生の時だけでは、総欠席数は全単位合わせても10コマなかったと思います。が、実際試験に臨んでみるとむしろ要領のよさが必要で、実際に授業に出ているか否かはあまり関係がないことがわかり、2年生以降は授業中心といった生活リズムは跡形もなくなりました。

佐賀県奨学生寮

 一人暮らしの割には大学から遠い場所に住んでいたため、学校に通うこと自体が結構おっくうだったこともあります。というのも、佐賀県出身者の奨学生寮に入寮したからでした。高校が同じ人間も多くおり、一人暮らしの寂しさも感じたりせず、また多数のよい先輩に恵まれたりもしまして、東京生活も、思っていたよりは無難にこなしていきました。

稲門会

 そういう寮生活を満喫していましたので、サークルなどはあまり考えていませんでした。法律サークル、仏教系のサークルなどに在籍はしていましたもののほぼ幽霊部員ですごしていたのですが、そのうち地方出身者の会である稲門会に誘われ、ここに落ち着きました。早稲田大学に約30ある稲門会のうちの一つである佐賀稲門会に入っていたわけなのですが、人口80万人そこそこの小さな県にも関わらず30数名は在籍し、東京にいつつ方言で話すことのできる、僕にとっては居心地のいい場所でした。

 この稲門会は、地方単位で存在していますが、各稲門会の交流を図るために全国早稲田学生会同盟(略して全早連といいます)という組織があり、最初は全学連などと同じようなものかと勘違いしていたのですが、飲み会や各種スポーツ行事などに参加することで、他の稲門会の知り合いなども増え、このサークルだけでも多くの友人をつくることができました。なにせ、全ての稲門会の会員数を合わせると2000名近くになるわけですから、やろうと思えばどのような行事もできたわけなのです。

 そういった行事運営と言いますか、多くの人数に対してイベントを提供するといった仕事に興味を覚え、稲門会の幹事長職を3年生で引退した後に、この全早連の常任委員に立候補しました。その委員の中では企画事業といった役職に関わりたかったのですが、役職としては外務職に就きました。

 私が請け負った外務職は主に他校との交流、連絡を担当する役職で、当初の希望とは異なりますが、かなりのやりがいを感じていました。というのも慶応・専修・亜細亜大学など同じような地方学生会組織がある大学や、女子大などと交流グループをつくっており、早稲田大学内にとどまらす、そのような他の大学の学生と交流を図る仕事も面白いのではないかと考えたためです。

 もちろん、自分一人だけが知り合いを増やすというのではなく、全早連に参加している多くの学生にその機会をつくる、ということが大事なので、そういった交流の大々的な場をつくるといった意味で、600人規模のイベントを運営したこともあります。このイベントの運営に関しましては私が責任者でしたので、所詮学生のなすことではあり、社会人の人から見たら全く甘いことではありましょうが、人を動かすことの難しさと、多くの人間と何事かを達成したときの充足感は得難いものがありました。

 また、このイベントの他に東京名所観光ツアーや花見、ソフトボール大会など、多くの企画の運営に携わってきました。もともとバイタリティーはあるほうなので、外務職としての事務的な仕事の他にこれらの仕事をこなすことは、私にとってやりがいが増えるというだけのことであり、毎日が忙しかったこの時期は、それまでの学生生活からは考えられないぐらいに充実していたように思います。

大学生後半 −進路について考える−

 そんなこんなで賑やかな学生生活を送っていましたが、進路について考えなければならない時期が来ていました。全早連の委員を務めたのは大学3年生から4年生にかけてでして、普通の学生ならば就職活動の真最中のこの大変な時期に何をしていたかというと、実のところ何もしていませんでした。委員に立候補した時点で就職活動と課外活動を両立させるのは大変難しいと感じていましたし、自分自身あまり要領のいい、器用な人間ではないので、どっちつかずで両方共うまくいかないということをおそれたためです。また全早連の仕事が責任とやりがいのある、就職活動を1年遅らせてもそれに見合うだけの価値のあるものだったからでもあります。ですので、単位が足りなかったわけではないのですが1年留年して5年生の時期に就職活動を行おうと決めていたのです。そして4年生の前期終了後、普通の4年生ならば就職活動を終えた時期に全早連の仕事も大体落ち着き、そこから私の就職活動が始まりました。

公務員試験受験を決意

 具体的な職種なのですが、前に一度触れたように公務員を志望していました。より多くの人たちと関わることができ、また公に関することですので仕事に誇りを持つことができるのではないかと考えていたからです。

 大学1年生の頃に大学の公務員対策講座で少しかじったこともあり、かなり難しいとは感じていましたが、せっかく1年フルに使えるのだからと、国家公務員 l 種(国 l )に照準を定め、具体的な行動に出てみました。自分一人で学習するのは、ばてもきますし、国立大学に比べ情報量が少ない私立大学でもありましたので、最初は公務員受験の為のセカンドスクール選びから始め(大学で殆ど勉強していなかったのでセカンドスクールもなにもありませんが)、友人・先輩の勧めなどから、早稲田公務員セミナーに通うことにしました。

 法学部に4年間在籍していたとは言え、公務員試験に必要な科目を全て学習していたわけでもありませんし、試験に必要なテクニックをマスターする上でもこういったセカンドスクールに通うのは利点があったと思います。また、志望を同じくする、大学の枠を越えて多くの友人に知り合うこともでき、味気ない受験勉強ですが、そういった仲間からの刺激などもあり、全早連のころとはまた違った充実感がありました。とはいえ、勉強する生活から遠ざかっていたこともあり、7月ぐらいには準備を始めたのですが、調子が乗り出してきたのは10月ぐらいでした。受験勉強は正味10月から5月までの約7カ月だったと思います。

渡辺ゼミに参加

 渡辺ゼミに参加 そして、このようなスクールに通うことの利点を集めたような、公務員試験ゼミがあることを知り、そちらに参加しました。大学内でも公務員受験ゼミと呼ばれるゼミや公務員受験サークルに在籍していましたが、もっぱらお世話になったのはこちらのスクールでのゼミ(渡辺先生主宰)でした。気軽に質問できるという雰囲気がありまして、一人で黙々とこなすより勉強がはかどることができました。なにより熱意ある人たちが多く、そこで知り合った人たちは、先生も含め、今でもいい繋がりを保っています。

 そして、勉強する態勢が整ってきてから、私はそれまでの大学四年間の怠惰を吹き飛ばすぐらいに勉強しました。勉強場所はもっぱら大学の図書館や自習室で、スクールの講座に出るか、勉強するか、という感じでした。当時は高田馬場に住んでいたのですが、行動範囲は駅前の早稲田公務員セミナーから大学のある早稲田までの間だけでしかありませんでしたし、数カ月というもの電車にすら乗らないという生活をしていました。

 結局、希望していた通りに行動したのですが、第一志望の国家公務員 l 種試験しか受験しませんでした。他の職種にあまり魅力を感じていなかったということもありますし、あまり手を広げすぎて、国 l の勉強自体がおろそかになってしまいかねないとも思ったからです。もし落ちたときはそれからでもどうにかなると考えていたこともあり、今から考えると、相当甘い見通しを立てていました。このため、その後相当苦労することになります。

国 I 試験と官庁訪問

 国家公務員 l 種試験の受験日は6月14日でした。折悪く風邪をひいてしまい、また一睡もできずに試験会場に行ったことを思い出します。そのときは、自分自身、案外プレッシャーに弱いんだなと感じていただけですが、どうもそれが響く結果になったような気がします。

 合格発表までに官庁訪問をこなしていなければならないこともあり、精力的に志望官庁をまわっていました。体力には自信があったのと、官公舎の中に入り、じかに話を聞くことができるというのが面白かったということもあり、連日帰宅が深夜になっていました。とにかくこの時期は無我夢中だったと思います。

 合格発表は7月1日でした。人事院の前に掲示されるので、直接見に行ったのですが、自分の受験番号はありませんでした。正直、あれっという感じで、目の前が真暗になるとかそういう気持ちではありませんでした。実際、その時点では不思議なぐらいあっさりと受け止めていました。

 そして公務員対策は必然的に終わりとなり、アパートに帰りまして、両親に報告したときに、不意にこみあげるものがありました。あれだけ頑張ったのに無駄になったとか、あの時もう少し努力しておけばとか、そんな気持ちではありません。やれるだけのことはやったと自負していましたし、もしそれで落ちたとしても、そこまでの資格が私になかっただけのことであり、私がいくら行政の仕事を志望していようが、自分より能力の高い人間が官庁に入ることのほうが国政には喜ばしいことだと自分自身に言いきかせることができたからです。ただ、これまで私を、いろいろな面で支えてくれた人たち、とりわけ両親の期待に応え、報いることができなかったということが悔しくてなりませんでした。

敗因

 ただ、ここで立ち止まる訳にはいきませんでした。就職活動をするにしても、もう内々定は大方出尽くしいるという、厳しい状況の中にいたからです。

 不合格に終わったことからなにがしらかのことを学ぶのは大切だと思い、敗因を分析することにしました。過去にとらわれることは次のステップに進む足枷になりますが、未来に生かすための反省は大事です。だから後悔とかからではなく、謙虚に自分のまずかった点を考察してみました。

 そうして考えてみて、リストアップされたのが次の2点です。

[1] 情報の収集と分析を怠った。
  (→出題傾向の分析などにもう少し時間を割くべきだった)
[2] 力の入れ具合を誤った。
 (→自分の得手不得手を正確につかみそれに沿った計画をたてるべきであった)

 2つともに通して言える事などですが、結局のところ、要領の悪い努力をしていたのだと思います。努力すれば報われるという、ある意味精神論で物事をはかっていたふしもあり、効率性をもう少し考えるべきであったと思い至り、こうした点を反省した上で、それからの就職活動に臨むことにしました。

就職活動

 先ほども書きましたが、立ち直りまでにはさほど時間はかかりませんでした。今一番大事なことはそれからの就職活動をいかにこなすか、ということだったからです。想定していなかった就職活動に不馴れなまま臨むわけにもいかず、その準備などに追われ、落ち込んでいる暇などなかったというのが本音のところです。

 秋採用は春採用に比べ、採用数も限られており、業種を選んでいる余裕などありませんでした。志望動機や自己PRなども官庁訪問で多少求められたりはしましたが、民間企業ほどではなく、最初は手探りの状態でした。期間が短いにも関わらず、訪問企業はメーカーから金融、マスコミと多岐に渡り、その都度対応を考えねばならず、しんどい時期が続きました。それでも、私がこれまでの生活の中で学んだこと、感じたこと、考えてきた事を洗いざらい伝えたので、それが評価されたかどうかはともかく、自分を見つめなおすいい機会となりました。一足早く就職した友人などが就職活動は大変だけど面白かったと言っていたのがわかる気がします。

 こうして、7月中旬から準備を始め、10月中旬までの3カ月の就職活動でしたが、就職難の時代と言われ、さらにその中でも競争倍率の高い秋採用に応募したにもかかわらず、それまでの学生生活での頑張りが認めてもらえたのか、計三社から内々定を頂きました。

 せっかくですので就職活動を行う際に自分がつかんだこつを1つ述べます。それはとにかく自分で一生懸命考え、自分の言葉でその考えを伝える事です。よくある就職用の本を読むな、とは言いません。最初何から考え始めたらいいのか、という点で、ガイドラインとしてはもってこいですので。ただ、大事なのは答えだけを用意するのではなくて、その答えに至るまでの道筋もしっかり用意しておく、ということです。うわべだけの模範的な答えなど、薄っぺらなものでしかありません。答えは十人並みでも、なぜ、どうしてその答えを選んだかという点は、その人だけのものですので、面接者はむしろその点を興味深く聞いてくるからです。ピラミッドの頂点のように、その部分は小さくとも、それを支える部分がしっかりしておく事が大事だと思います。

大手都市銀行に決定

 話は戻りまして、私は最終的に金融業を志望するようになり、就職先を最後に内定をもらった大手都市銀行に決めました。世の中は人の流れとモノの流れでできており、その流れを扱っているところにはやりがいのある仕事があるのではないか、そしてそのうち人の流れを主に調整するのが行政の役目であり、ならばモノ、またその代替価値である金の流れを扱っているのは金融であろうと考えたのがその理由です。

 こうして就職先を決めたわけですが、もう一年勉強し、公務員を再度受験するといった選択肢もありました。しかし、その選択を選ばなかったのは、こらえ性がないという私の欠点が災いしたこともありますが、むしろ、これ以上学生を続けるよりも一時も早く社会に出てみたかったから、というのがあります。私は学生生活をこれ以上ないというほど満喫しました。課外活動では滅多に得られないような経験を積むことができましたし、法学部の学生として一年間ではありますが、本気で勉強したことにより、最低限の知識は得ることができたと言えるからです。

 公務員を再度受験して、合格したあかつきにはそれが僕の人生をもっと輝かせるものであるのかもしれません。しかし、先のことは本当にどうなるのかわかりません。そして、それよりももっと現実、今を考えてみた場合に、受験勉強を続けるよりも、社会でもまれ、さまざまな経験を積むことのほうが魅力あるように思えたのです。

振り返ってみて

 公務員受験の勉強が決して無駄になったとは思っていません。試験勉強で培った知識はわずかながらも私の能力の一つですし、繰り返しになりますが、目的のために努力することができるというのも才能の一つだと思います。そして、試験に落ちたのも自分です。このことから目を背けるわけにはいきません。そうしたものやこれまでの生活を全てひっくるめた上で今の私がいるわけで、その足下を見つめた上で今の自分に何ができるか考えることが一番大事なことではないでしょうか。

 また、もう一つ私が考えていることがあります。あのときああすればよかった、と考えることは誰にでもできます。しかしできなかったのが自分です。私はそのような後悔をしたくはないのです。だから頑張ることにしています。中途半端ではなく、全力で。そうすることで、結果が得られたときにはそれ以上のものを、得られなかったときにでもなにがしかの貴重な体験を積むことができると思えるからです。

 結果よりもプロセスを大事にしたい。そう考えています。いくら努力しようが駄目なものは駄目、といわれるかも知れません。しかし、絶えず前に進んでいかなければならない人生をプラス思考でうまく切り拓いていくために、ありきたりのフレーズではありますが、一生懸命、前向きに頑張りたいと思っています。(これに効率性も持たせる、ということが今後の課題ではあります。)

*  *  *

 書き忘れていたことがありました。今の私がある理由に、これまで私を支えてくれた先生、先輩方、友人、家族、両親など、さまざまな人達の存在があります。自分一人では決して生きていないのですから。そうした人たちへの感謝の気持ちを、忘れることなく、大切にしていきたいと思います。

以上

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