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キャリア・エリートへの道


新聞記者から国 I キャリアへ

はじめに

 わずか1年前まで第一線の新聞記者として「夜討ち朝駆け」の情報戦に明け暮れていた私が、今こうして、人生で2度目の長い休暇を与えられている……。1年前、迷いと悩みの中で仕事を辞め、公務員を目指そうと決めてから本試験まで約半年。何とか再びスタ−トラインに立てたのも、渡辺先生はじめ、早稲田セミナ−の先生・事務局の方々、学生時代の恩師・友人、新聞記者時代の先輩・同僚、そして家族・両親など、周囲の人の支えと理解があったからこそと思っている。すごく、すごく感謝している。

 なぜ私が仕事を辞めてまで公務員試験を受けようと思ったのか。そもそも、前の仕事をどういう気持ちで選び、一体何を求めていたのか。あらためて自分のことを振り返り、それを文字にするとなると、正直言って恥ずかしい。それに、あまり書きたくないことがあるのも事実だ。それでもこの文章を書こうと思うのは、そうすることで、何より自分の中の迷いや中途半端な気持ちを整理して、新たな気持ちで歩き出すきっかけになりそうな気がするからだ。

 もちろん、私のつたない経験が皆様のお役に立てるとはとても思えないが、同じような悩みを抱えつつ公務員試験受験を考えている人のために、何らかの参考になれば幸いである。ただ、受験勉強のやり方などは他の渡辺ゼミ生と大差がないので、私がどんな家庭でどんなふうに育ち、どんなことを考えて生きてきたのかに絞って書いていこうと思う。特に記者をやっていた頃のことなど、まだうまく整理しきれていない部分もあって、分かりにくくなってしまったかもしれない。しかし、自分の今の気持ちを正直に綴ったつもりなので、その点、ご容赦頂きたい。

家族のこと

 私は昭和50年に栃木県で生まれ、大学卒業まで22年間そこで暮らしていた。母は専業主婦で、父は地方公務員だった。「だった」というのは、私は父が40才の時に生まれた子なので、現在すでに定年退職しているからである。他に、弟と祖母、猫の5人+1匹の家族である。

仲のよい弟

 弟とは年齢が近いこともあって、仲がよかったと思う。よく喧嘩もしたが、一方で、私が小学校4年か5年になるまで枕を並べて寝ていたし、小さい頃は大抵どこへ行くにも一緒だった。寝ながら怖い話をし合ったり、なぞなぞを出し合ったりするのが眠る前のお決まりでもあった。当時私が住む町では、夜10時になると市役所からドビュッシ−の『新世界』が流れてきたのだが、なぜか子供の耳にはその音楽がとても怖く聞こえて、弟と二人で布団にもぐって耳をふさぎながら、「まだ寝てないよねえ」などと言い合っていたのもよく覚えている。

 我が家にも、私が小学校3年生の時にファミコンがやって来たのだが、昼間何時間もやっていると母に叱られたことから、両親が寝静まったころ二人でそっと起きて、毛布にくるまりながら遊んでいたこともあった。結局寒くて、1時間もやると布団にもどる羽目になったのだが……。

 一度、小学校5年生の時だったと思うが、弟の学芸会の作り物を手伝っていて、自分の宿題を忘れていってしまったことがあった。先生には怒られたが、そのくらい、弟をかわいがっていたのだと思う。今は、さすがに溺愛の対象は猫に代わったが……。

教育熱心な両親

 両親は、今考えると結構教育熱心だったと思う。父は私に、「女の子だから」というようなことは一切言わなかった。むしろ、「一杯勉強して自分の好きな道に進みなさい」というのが口癖だった。だから私は、小さい頃から将来は大学に行こうと思っていたし、仕事を持つのも当然のように感じていた。父も母も、そのための精神的・経済的なバックアップだけは十分にしてくれたと思う。特に父は、実際の勉強の面でも、私の「家庭教師」のような存在だった。中学生までは勉強で分からないことはすべて父に聞いていたし、私が理科で地球の動きが理解できなかった時は、電球と地球儀で手作りの「宇宙空間」を作って説明してくれたりもした。高校に入って私が数学で苦労していると、自分も高校生用の参考書を買ってきて、私に聞かれた時答えられるようにと勉強したりもしていた。私が塾にも予備校にもほとんど行かずにここまでやってこられたのも、父のおかげだと思う。

 小さい時の父の思い出というと、机に向かって本を読んでいる姿が一番に頭に浮かぶ。というより、それしか思い浮かべることができない。以前ある雑誌で、大阪府警の刑事さんが、「仕事柄、とんでもない学歴、地位の高い人と話す機会が多い。知識、話題に遅れを取りたくない。大学で学ぶような勉強がしたかった」というような話をしているのを読んだことがある。その人は、高卒で府警に入り、仕事をしながら勉強を続けて警視にまでのぼった人だった。私の父も、多分、そんな気持ちだったのではないかと思う。

 父は、高校を出てしばらく別の仕事をした後県庁に入ったのだが、自分の父ながら、その努力と向上心には本当に頭が下がる。英語くらいしゃべれた方がいいだろうと、勤めをしながら独学で通訳の資格を取ったり、税金関係の仕事をしていたので、法律全集を買い込んで民法や租税法、商法などを勉強したり、経済の知識も必要だとなると経済学や会計学の本を読んだり……。少なくとも私が物心ついてからは、5時に勤めが終わるとまっすぐ家に帰ってきて本を読み、晩酌だけを楽しみにしていた。四角四面の、信じられないほどの堅物なのだろうと思う。

 ただ、時々父の言葉が、私にはすごく重たく感じられることがあった。「お父さんももっと勉強が続けられたらよかったなあ」とか、「おまえは好きなことを好きなだけ勉強していいんだぞ」とか。もちろん冗談めかして言うわけで、深い意味はないと思うのだが、それを聞くたびに、自分が父の身代わりで勉強しなくてはならないような、父の決めたレ−ルを歩き続けなければないような、妙な強迫観念を感じた。学生の頃、国 l という選択肢を多少気にしながら結局は受験しなかったのも、私がキャリア官僚になることを望んでいた父の意思をうすうす感じていたからだと思う。皮肉なことに、結局そこに戻ってきてしまったわけだが……。

家族旅行の思い出

 家族旅行の思い出というのは、片手で数えるほどしかない。父も母も出無精だったし(母はよく、「お金をかけて人込みに出るくらいなら家で寝ていたほうがいい」と言っていた)、あまり金銭的余裕もなかったのだと思う。初めての家族旅行は、私が小学校1年生か2年生の時の鬼怒川温泉だった。当時、父が勤続記念に県からペアの宿泊券をもらったのである。

 こういう家庭に育ったおかげで、私は「初めて」というのをすごくよく覚えている。初めて海を見た日、初めて東京に来た日、初めて新幹線に乗った日……。そうした体験をしたのが人より大分遅かったのだろうと思う。初めて海を見たのは小学校3年生の時である。初めて東京に来たのは4年生の時だった。初めて新幹線に乗ったのは5年生の時である。初めての東京は、サンシャインの水族館に行きレストランで食事をしただけだったが、とても興奮した。今だに何を食べたかまで鮮明に覚えている。母も似たようなものだったのだろう。「お腹が空いた時にお店がないと困るから」と、まるで山登りでもするかのように、お弁当と水筒の入った大きな袋を抱えていた。ただ、海も新幹線も、両親の話やテレビの映像を通していろいろ想像していただけに、現実を体験したときは、想像の方がはるかにまさっていて少しがっかりした。特に海は、白い砂浜とエメラルドグリーンの波を想像していたので、コンクリートで固められた岸壁に空缶の浮かぶ東京湾はかなりショックだったのを覚えている。

マイカーの思い出

 また、当時我が家には車がなくて、私が小学校3年生の時に自転車を買ってもらうまで、母と私と弟はどこへ行くにも母の自転車に3人乗りだった。弟が荷台に腰掛け、私が母と弟の間に立つのだ。今考えると信じられないが、母も必死だったのだろう。お巡りさんがいると私に、「おぶわれているふり」をさせるのが母の常套手段だった。それでも交通違反であることには変わりないと思うのだが……。そんな生活だったから、父が初めて車を買った時は嬉しくて仕方なかった。私は5年生だったが、嬉しさの余り「我が家に車が来た」という作文を書いてしまったほどだ。今思うと赤面ものである。父は、私が大学3年の時までこの車に乗り続けた。母は、たとえその週一度も乗らなくても、日曜日の朝になると必ず洗車をしていた。中古のファミリー・カーだったが、我が家のみんなに本当に大事にされていたと思う。

叔母とのこと

 これまで私が最も大きな影響を受け、様々な局面でどうしても考えざるを得なかったのが叔母とのことではないかと思う。最初の就職先に新聞社を選び、次に今の内定先を選んだのも、叔母のことなしには考えられない。

 叔母はいわゆる「障害者」(高校時代の病気が原因)で、施設で暮らしている。幼い頃祖母の家に遊びに行くと、叔母も私が来るのを楽しみに必ず帰っていて、二人で祖母の手伝いをしたり、近くに遊びに行ったりした。

 叔母との思い出はどうしても忘れられないことが多い。例えば、これは今だにそうなのだが、叔母は、およそ流行遅れと思われるような服やマフラ−などを大量に買い込んでしまう癖がある。母や私に着せたいというのである。母が、「お金はいざという時のために取っておくものよ」とか「服にも、はやり・すたりがあるんだから」と言っても、叔母には「流行」というのがピンとこないらしいのだ。叔母の優しい気持ちが分かるだけに、「こんな服着られないよなあ」などと思ってしまう自分がとても冷たい人間に思えて、何だか情けなかった。

 また、7つか8つの頃、枕を並べながら叔母の思い出話を聞くのが時々すごく辛かったことも覚えている。若い頃結婚しようと言ってくれた人がいたこと、その人と付き合っていた頃のこと、結婚していれば私くらいの子供がいたのかしら、といった話。幼い私に向かってそんな話をする叔母の淋しさを、当時の私は十分に分かってあげられなかったと思う。とにかく叔母の哀しそうな顔を見ると、子供心にかわいそうで仕方なかった。

 学生の頃、私は障害児と遊ぶボランティア・サークルに入っていたが、これも叔母がいなければやろうとは思わなかったと思う。昔、母に連れられて何度か叔母を訪ねた時、クリスマスや正月にさえ帰る家のない人がいることが、子供ながらにショックだった覚えがある。学生時代、私ははっきり言って暇だった。その有り余る自由時間を使って、子供たちに少しでも楽しい思い出を作ってあげられたらいいんじゃないかしら、と思ったのがボランティア・サークルに入った直接の動機である。実際には私の力など微々たるもので、得たものの方がはるかに大きかったと思う。

幼稚園時代

 子供の頃は、決して目端の利く、大人に気に入られるような子ではなかったと思う。かわいがられたいという欲求はあるのに、両親以外の大人にはなぜか素直に甘えることができなかった。自分の気持ちを「子供らしく」、素直に言葉や態度で表現するのがすごく苦手だった。

 だから幼稚園の頃は、明るく活発で目立つような子ではなかったと思う。ただ、背が高いのが嫌で嫌で仕方なかったこと、同じ組の、可愛らしくて絵のうまい女の子に憧れていたこと、しまり屋の母が、幼稚園用に初めてピンクレディーのフォークを買ってくれてとても嬉しかったこと等々を断片的に覚えている。毎日、近所の友達と暗くなるまで遊び回っていた。近くの川からあひるの卵をとってきてしまったり、空き家に忍び込んだり、いたずらもずいぶんして母には怒られてばかりいた。ただ、なぜか父には叱られた記憶がない。多分甘やかされていたのだと思う。

小学校時代

 引っ込み思案な性格は、小学校に入ってもしばらくは治らなかった。頭の中ではいろいろ考えたり悩んだりしているのに、いざそれを人前で話そうとすると、うまく言葉が出てこないのだ。

 ある日、母が留守の時に、ピアノの先生のところに弟を連れて行ったことがあった。ところが、いざ先生の家の前まで来ると、先生にご迷惑なのではないかとか、弟が静かにしていられるだろうかとか、急に不安になってしまった。先生に弟を連れて来たことをどう説明しようか思い悩んで、30分位ドアの前で「立往生」していたと思う。弟は弟で、先生の家で出してくれるお菓子を楽しみについて来ているので、どうしても帰ろうとしない。結局、先生が気付いて中に入れてくれたのだが、翌週、母に事の顛末を話し、「全く何を考えているのか分からない」「素直に、『弟を連れてきたのよ』って言えばいいだけじゃない」と呆れたように話していたのを覚えている。両親はそういうことがある度にひどく恐縮していたが、だからといって私のそういう性質を叱ったり変えさせようとしたりするようなことはなかった。

 また、目立って成績のよい子でもなかった。ただ、本だけは大好きで、小学校5、6年生になると、夏目漱石や太宰治、『レ・ミゼラブル』のユーゴーや『罪と罰』のドストエフスキーなども読むようになっていた。もっとも、どこまで理解できたかは疑問である。とにかく、本に囲まれると嬉しくて仕方なかった。本を借りられると聞くと弟のピアノの先生の家にまで押し掛けたし、夜、母に部屋の電気を消されると、布団の中に懐中電灯を持ち込んで読んだりもしていた。市立図書館にもずいぶん通った。今でも、古い本のかび臭い匂いをかぐと、一瞬昔に戻ったような不思議な感覚に襲われてしまうほどだ。司書のお姉さんとも顔見知りになって、よく面倒を見てもらった。彼女は、子供の私が素直に話をすることができた、両親以外の唯一の大人だった。

 私が本好きになったのは、父の影響が強いと思う。子供の頃、父の真似をして、父の机に自分の机をつけ、よく並んで本を読んでいた。初めて黙読できるようになった時、父が誉めてくれてすごく嬉しかったことも何となく覚えている。子供の時にこうしてたくさんの本を読んでいたことが、今私が何か考えたりする際に、一番大きな影響を与えてくれているような気がする。

中学時代

 小学校の頃までは、受験とは無縁の、非常にのどかな生活を送っていたと思う。母に九九や漢字を覚えさせられたりすることがあっても、それは「学校の授業についていく」ためだったし、中学受験をする子など、同級生の中に一人もいなかった。私も、当然のように地区の中学に進んだ。

 中学に入ると、高校受験という重圧はあったが、私にとっては、先生に気に入られたかとか、授業中手を挙げたかといったあいまいなもので評価されない分、むしろ定期テストや模擬試験の席次や偏差値は気楽だった。勉強は決して嫌いではなかったし、勉強で苦労したという記憶はあまりない。毎日30分新聞を読む他は、勉強ばかりしていた。

 勉強よりむしろ、中学生くらいの女の子にありがちな「トイレまで一緒に行く」関係の方が私には苦痛だった。クラスの中では、ものすごく仲のよい友達もいなかったが、いじめられるようなこともなく、誰とも当たり障りのない位置にいたように思う。当時テレビでは、織田裕二&鈴木保奈美主演の『東京ラブストーリー』がブームとなり、WINKの『淋しい熱帯魚』が大ヒットしていたが、私はどちらもリアルタイムで見た記憶がない。私にとってそれは全く普通のことで、特に見たいとも思わなかった。ところがある日、密かに思いを寄せていた隣の席の男の子に、「おまえって芸能界音痴だよな」と呆れたように言われたことがあった。この時はさすがに傷ついて、「流行」を追うべく努力してみたりもしたが、結局私のこの思いは通じないまま、卒業を迎えてしまった。

 前に、父の何気ない言葉が重たく感じられることがあったと書いたが、それ以上の重圧だったのが母だ。特に中学時代は私の成績に一喜一憂し、よい成績を取って当たり前なのだという抑圧を感じて、ずいぶん反発した。「いい大学」に行って、人並みに幸せに暮らせるようになってほしいという、母親として当然の娘に対する愛情だったのだろうと思う。しかし当時の私は、母のための人生を生きなければならないように感じた。大人でも子供でもない中途半端な時期で、両親のことも含めて、いつも心の中に嵐が吹き荒れていた時期だ。わけもなく絶望感に浸ったり、いらいらが抑えきれなくなったりして、両親とも繰り返し口論した。結局、原因は自分の中にあるわけで、時期が過ぎてそれに気付くまで何も解決しないのだが……。

思い出に残る先生

 中学時代には印象深い先生が2人いる。1人は2年時の担任のN先生である。当時30歳くらいで、社会科の担当だった。この先生は、「まじめでよい子」でない部分も含めて、私の存在をそのまま受け入れてくれた両親以外の最初の大人だった気がする。私も、N先生にだけはなぜか何でも素直に話すことができた。先生のほうでも、私が歴史が好きでしかも「質問魔」だったことから、私を含め数人の生徒のために早朝の特別授業を行ってくれたりした。私は、先生にすごく惹かれていた。当時は、先生にいつも注目していてもらいたくて一生懸命に勉強した部分もあるような気がする。私には、先生を好きになるとその科目まで好きになるという傾向が多分にあるようだ。高校生の頃も数学が大の苦手で、2年生までは授業についていくのがやっとだった。ところが、3年生になって30歳くらいの「若くて格好よい」先生に代わったら、急に成績が上がってしまった。

 もう一人はS先生という女の先生で、ああいう女性になりたいと感じた、私の「憧れの存在」である。当時27、8歳だったと思う。ご自分の中学生の頃のことや旦那様との生活についてオープンに話すような、すごくさばけた人だった。中学生くらいになると、大抵の子が異性のこと、家族のこと、受験のことなどいろいろと思い悩むと思うのだが、先生はそれらすべてに、正面から向き合ってくれた気がする。決して私たちを子供扱いしたりはしなかった。しかも、茶色い髪をふわっと肩までおろした、本当に綺麗な人だった。

高校時代

 初めての受験も、私はそれほど嫌ではなかった。

 私は中学時代、全出席日の半分近く遅刻している。当時はよく、朝勉強していたのだが、私の悪い癖で、いったん始めるとあと5分だけ、などと思いながら止まらなくなってしまうのだ。おかげで、学校の中庭に立たされることが多々あった。ところが、受験が近付くとだんだんこれにも目をつむってもらえるようになっていた。両親も先生もクラスメートたちもどんどん受験一色に染まっていったが、私はその中で、何となくそれに馴染めないものを感じていた。マルバツのゲームをしているような、そんな感覚がなぜか最後まで抜けなかった。それに、受験といっても東京の私立入試とは比べものにならないほどのんびりしたものだったと思う。

 第一志望に無事合格し、中学の友人たちとは離れて、県内で唯一私服が認められていた市外の女子校に進学した。勉強さえしていれば大抵のことが許されるという環境は、私には結構暮らしやすかった気がする。

 私服の学校を選んだのは、自由な雰囲気のところのほうが自分には合っていると思ったからである。スカートの丈や靴下の色まで決められた生活には、正直言って少しうんざりしていた。

 高校は、県内有数の進学校だったこともあって、世の中にはすごい女性がいるものだ、と驚かされるようなことがたくさんあった。数学や物理を苦もなく解いてしまったり、信じられないほど大量の本を読んでいたり、勉強もできるのに絵の才能もあって、美大を目指していたり……。彼女たちからいろいろな刺激を受けた。

 実は、私は子供の頃から医者になりたいと思っていた。前に書いた叔母のことと、小学生の時に『ブラック・ジャック』を読んで感銘を受けたためである。ところが、理数系の苦手な私には医学部なんてとても無理だった。結局迷った末、文系に進むことに決めた。

 同級生の中でも、私は結構熱心に勉強したほうだと思う。学校まで片道1時間以上かかったので、電車の中でも参考書を広げていたし、駅まで歩く間も日本史などの暗記をしていた。友達の中には、あまり勉強しているようには見えないのに成績のよい「天才型」の人もいた。しかし、私は決してそういう人間ではないし、自分でもそれはよく分かっていた。「偏差値の高い大学」へ行き「成功への片道切符」(笑)を手にするには、一生懸命に勉強するしかないと思っていた。だが、今だにそんな切符は見つからない。それに、自分なりに満足のいく人生を送るには、大学に入っても、そこから先も、ずっと歩き続けるしかないはずだ。当時は、大学が人生の終着駅であるかのように感じていて、その先を全く想像できていなかった。

キャリア・ウーマンと恋愛への憧れ

 高校にはOGの先生もたくさんいらっしゃったが、ほとんどが独身の方ばかりだった。そうした先生方の姿が、当時の私の目には「仕事に生きる女性」としてすごく「カッコよく」写った。あまりに幼稚で一面的な見方に今は笑ってしまうが……。私もずいぶん感化されて、「結婚なんてどうでもいいから、一生仕事に賭けよう」などと、一昔前のフェミニストたちが言いそうなことを結構真剣に思ったりもしていた(笑)。

 その一方で、『プリティーウーマン』や『ゴースト』『シザーハンズ』といった恋愛映画が大好きで、繰り返し見ていたし、『あすなろ白書』などの恋愛ドラマにはまったりもしていた。周囲に男の子がいなかった分、「恋に恋する」みたいな気持ちがあったのかもしれない。今はもちろん、結婚もしたいし仕事も続けたいと思っている。結婚することで、自分の世界が広がりそうな気もする。

女子校について

 女子校については大学でもいろいろと聞かれたが、基本的にのんびりしていると思う。私が恵まれていただけなのかもしれないが、人を出し抜いてまでよい成績をとろうというような雰囲気はなかった。何より、中学校の頃のような妙な陰湿さがないのは気楽だった。今の私の「人は人でいいんじゃない?」という意識はここで培われたように思う。ただ、10代後半の一番多感な時期を女の子だけの環境で過ごしたことは、今思うと少し残念だったかな、という気もする。逆に大学は男子校のようなところだったので、最初の半年くらいはなかなかなじめなくて本当に困った。男の子たちとどんな話をしてよいかも分からなかったのだ。

一橋大学

 大学は、一橋の法学部に進んだ。高校でも日頃からよく勉強はしていたが、高校2年生の夏休みからは、長期の休暇は東京の予備校に通った。実は、東大に入りたかったのだが、高校の先生に「ちょっと難しいかな」と言われたので、無理せず素直にその忠告に従った。法学部を選んだのは、父の勧めと、当時何かの映画で見た弁護士への憧れと、将来つぶしがききそうだという現実的計算によるものである。文学や日本史が好きだったことから文学部に惹かれる気持ちもあったが、父の反対で諦めているのだから、そんなに大きなものではなかったのだろう。

 『東京大学物語』の中で、主人公・村上直樹が恋人である遥ちゃんの友達に「どうして、東大なの?」と問われるシ−ンがある。村上君は、「どうして東大にこだわっているんだ!?」「なんとかこの女をあっと言わせる理由を……」などと頭の中でリフレインしながら、結局、「東大は、日本一だから……」と答えてしまう。当時の私も、ほとんどこの「村上君状態」だったと思う。おかげで、大学に入るとしばらく目標を見失ってしまった。膨大な自由時間を持て余すばかりで、もっと勉強しておけばよかったとか、いろいろ後悔もある。

 ただ、一橋を選んだのは私の人生の中でも最良の選択だったと思う。一橋の4年間は先生や友人にも恵まれ、本当に楽しかった。勉強とは少し違うが、サ−クルや友人関係から得たものも多い。

 先生方の中でも特にお世話になったのが、卒論の指導をして下さったU先生である。先生は、非常に変わった経歴をお持ちの方だった。大学を出られた後外国に渡ったり、大学院に行ったり、会社も何度か代わられたり……。当時まだ一橋に来られたばかりだった。先生のお話は、ビジネスの世界で生きてきこられた方だけに実社会と結びついたもので、すごく面白かった。教室も、一橋には珍しくいつも一杯だった。

 私は、いったん就職したら、定年までそこで勤め上げるのが「普通」だと思っていた。だから、先生のような方のお話はとても新鮮だった。知らず知らずのうちに、私にはない価値観を与えて頂いた気がする。

 また友人たちは、今も何かある度に集まるよい仲間である。私のことも、キャリアの知り合いを紹介してくれたり、食事に誘って励ましてくれたり、いろいろ力になってくれた。同じ大学で4年間過ごしたというのは、仕事を通じた知り合いとはまた違う、不思議なつながりだと思う。

新聞社を選んだ理由

 3年生頃になると、就職先はマスコミ、それもできれば新聞社に入りたいと思うようになっていた。それにはいくつか理由がある。まず、新聞社の場合、少なくとも他の企業と比べると自分の信念を曲げずに仕事ができそうだと思った。昔から文章を読んだり書いたりするのも好きだった。また、数字やコンピューターではなく、人を相手にした仕事がしたかった。何より、小学生の頃から新聞の切り抜きをしたり、学級新聞を発行したり、新聞という媒体に魅力を感じていた。

 希望通りの職に就けたわけだから、内定が決まった時はさすがに嬉しかった。内定式の日の朝の新鮮な気持ちは今でも忘れられない。4月の新入社員紹介の社内報にこんな言葉を書いたのを覚えている。「一枚の葉書が、私を新聞記者の夢へとつないでくれた。葉書に託した思いを忘れずにがんばりたい」

新聞記者を辞めた理由

 では、ここまでして手に入れたものをなぜ1年も経たないうちに手放したのか。多分、新聞記者に対する私の憧れが強すぎて、気持ちだけが上滑りしていたのだと思う。1日中クラブにつめている生活には、私はどうしても馴染めない。事実の断片を拾い集めていくより、いつも全貌を眺めていたいと思ってしまう。それと、この国でサラリーマンをやるには最悪なのかもしれないが、酒を飲んで心を開く、みたいな日本的なウェットな付き合いが私はあまり得意ではない。キャリアの方と仕事をする度に、私には彼らのような社会のシナリオを書く仕事の方が合っているのではないかという思いが増した(人のものは羨ましく見えるというのも多少あるかもしれない)。また、テリー伊藤氏や(故)宮本政於氏の本を読む限り、キャリアになるのはガチガチの「お勉強マシーン」のような人ばかりであるように感じていた。だから、実際にはすごくさばけた人が多いのも驚きだった。

 ただ、不必要なプライドのみから成り立っているような人間である私にとって、辞めるという決断はすごく辛かった。何日も、時には夜も眠れないほど思い悩んだし、精神的にも多少不安定になった気がする。

 最終的に辞めようと決断したのは、自分で納得できるのなら思ったようにやればいいのではないかしら、と思ったからである。少し前に、出版社に勤める知人が突然亡くなったりしたことも影響したと思う。「何だか生きていられる時間って意外に短いのねえ……」というのが実感だった。「私が今生きているのだって、ルーレットでたまたま賭けた目に入り続けているような、そういう偶然の連続にすぎないのではないかしら……」という気がする。両親が全面的な協力を申し出てくれたこと、唯一相談した学生時代の友人が、「人がどう思うかなんて、関係ないんじゃない?」「きっと受かると思う」と背中を押してくれたことも大きい。決して自分一人で決められたわけではない。

後悔

 ただ、本当に一度も後悔しなかったかというと、情けない話だが、決してそうではない。辞めた後、しばらくは誰にも、特に前の会社の人間には会いたくなかった。官庁訪問中に一度だけ、会社の前に行ってしまったこともある。どこからも内定がもらえそうになくて、心底落ち込んでいた時期だ。夜中だというのに明かりの消えない編集局の窓を見上げながら、そんなことをしている自分が情けなくて、涙が出た。

現在思うこと

 今は、何とか志望していた省庁の一つで働かせて頂けることになり、正直ほっとしている。だが一方で、私が決めたことは本当によかったのかどうか、しばらく迷いが消えなかった。もちろん、セカンド・チャンスを与えて頂けたことにはすごく感謝している。自分がラッキーだということも十分に分かっているつもりだ。ただ、ここまで来るのにすごくたくさんのものを犠牲にしてしまった気がする。前の会社で私を採用して下さった方の期待、上司や同僚の信頼、他にもいろいろと。私が望んだものは、そこまでしなければ手に入らないものだったのかどうか。記者をやっていたのではそこに辿り着けなかったのかどうか。

 二次試験の後ずっと、そういう気持ちで逡巡していた。ジャーナリズムの本などもずいぶん読んだ。自分の決断は正しかったのだと、その証拠を見つけ出そうと躍起になっていた気がする。

ジャーナリストの友達からの手紙

 最終合格が決まり、以前の仕事仲間に会った時、その気持ちを少しだけ話したことがある。しばらくして、私が話したことすら忘れた頃になって、その人から手紙をもらった。彼は私をこんなふうに励ましてくれていた。

 「『そこまでして何を手に入れたいのか』なんて今考えたって仕方ない。今は国 l 合格のテクニックを知っているだけのこと。役所で働く権利は持っているけど、決してそこのことをすべて知っているわけではない。そこで君に何ができるのか、美味いのか不味いのか、それは『食う』時まで取っておけばいいんじゃない?」

 新聞社を辞めた後、それはもう嫌になるくらい(笑)、繰り返し繰り返し言われた。「どうして?」「もったいない」。「女の子だからね」とか「警察で人の嫌な面を見すぎたのだろう」とかいろいろに解釈してくれる人もいた。それらはある一面では真実なのかもしれない。だが、そうした質問、解釈すべてにうんざりして、大抵あいまいに笑ってごまかしていた気がする。

 これから先もきっといろいろなことについて、本当にこれでよかったのか、と迷うことがあるはずだ。でも、今あるものは一つなわけで、長い目で見ると「よい」選択も「間違った」判断もないのではないかと思う。あのまま新聞記者を続けるのも私の人生に対する一つの解答だし、こうして役人になったのもまた別の解答であって、多分、どっちが正しいとかいうのはないのだろう。ただ、自分の人生で何が重要で絶対に失うべきでないのかを、ごまかさずにちゃんと考えていけたらいいかな、と思っている。

 前に述べた私のジャーナリズムに対する見方は、かなり皮相的だったと思う。今は別の見方があることもよく分かるし、長く続けていれば私もきっと違う考えを持つようになったと思う。ひょっとしたら、もっといろいろな可能性が見えたのかもしれない。

公務員になるに当たって

 役所に決まった後一番よく聞かれるのが、出世したいと思っているのかどうかである。確かに、 l 種で入省するとそうでない人の3、4倍のスピ−ドで出世していく。キャリアになるような人間はよっぽど出世欲が強いと思われているのだろう(笑)。今のところ、この問いに対する私の答えはYESでありNOである。

 確かに、人に認められたいという気持ちが全くないといえば嘘になる。特に学生の頃は、『家栽の人』や「交番のお巡りさんになります」とあっさり身を引いてしまう青島刑事のような生き方が、「負け」のような気がして理解できなかった。一方で、他人を出し抜くような、ガツガツとした出世競争の波にのまれたくないという気持ちも強かった。

 今は、仕事に楽しさを見つけることができ、しかもその仕事が誰かの役に立っている、という程度の満足感が得られればそれで十分かな、と思っている。人に認められることよりむしろ、自分が何とか生きていけるだけのスぺ−スを探すことの方が、今の私には重要問題である。ただ、ある程度上にいくと、責任感と同時に仕事の面白さも増すのかしら、と思う気持ちもある。

 次に言われるのが、女性でキャリアというのは珍しい、ということ。以前『アエラ』で、ある地方公共団体の女性課長のこんな発言を読んだことがある。「肩書のボリュームが大きくなると、女を意識しないですむ」

 私は多分、すごく恵まれているのだと思う。仕事を「得る」段階では民間でも役所でも女性であることを強く意識させられたが、仕事を「する」上で女性であることを意識したりさせられたりしたことはほとんどなかった。もちろん、女性であることのデメリットはあったと思うが、その分メリットもあったので、プラスマイナスゼロかな、くらいに思っている。男性に伍してやっていこうという意識も特にない。記者や役人になったのも、自分に向いていそうなスタイルを探したらたまたまそうなった、というだけのことである。

 また最近、公務員の不祥事がマスコミを賑わすことが多い。そのような中で、どうしてあえてキャリアになろうとするのかとも問われる。確かに、公務員の中にあまり尊敬できない人がいるのも事実だ。だが、常識のない人はどんな業界にもいるだろう。ただ、キャリアの場合これまでは官主導という立場で手にする権限も大きかっただけに、いったん歯車が狂い出すと止められなくなってしまったのではないか。しかし、自分の今ある力を公のために十分に発揮したいという人はいつの時代でも必要なのではないか。

 ただ、今はもう、「官の力で国民を従わせる」時代ではないと思う。以前のようなキャリアの「旨味」も今後はほとんどないだろう。ただ、民間企業以上に人の目が厳しいことだけはよく認識しておかなくてはならないと思っている。

 私は、公務員になったことが私の人生の終着駅だという気はしない。これから、意図的にか意図せずにかは分からないが、今は予期できないようなことがきっと起こるだろう。キャリアになることが本当に「一番」面白い仕事で「一番」自分に合っているのかといったら、決して心の底からそうとは言い切れないかもしれない。

 ただ、どんなことをしているにしても、自分の理想を見失わずにいれば、仕事に興味を見いだし、結構楽しく生きられるのではないかと思っている。とにかく今は、このチャンスを生かせるよう、焦らず、慢らず、淡々と歩いていくつもりだ。

以上

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