[ HOME>キャリア・エリートへの道>人生の崖っぷちから大蔵省へ ] | |
一、はじめに 私は現在26歳の東大生である。自分の甘さから二浪二留という事態を招いてしまった。大学に入学する時、「社会に出る時にはこの二浪の借りを返してやる!」と強く思ったにもかかわらず、懲りずに同じことを繰り返してしまったのである。今何とか大蔵省から内定をいただき、落ち着いていられる自分は本当に幸運だったと思うし、自分でもよくがんばれたと思う。 「あんたは東大生だから何とかなったんだ。」と思う方もいることだろう。それを否定するつもりはないが、4年遅れれば……。 私は人に誇れるほど成績はよくないし、これといった資格も、職業経験もない。しかし、自分を信じてがんばり何とかしたのである。 私としては、自分の生い立ちを書くことで、現在進学や就職で悩んでいる人に少しでも役に立てればと思っている。また、同時に、私自身にとっても今までの人生を振り返る良い機会になればいいと思っている。 二、幼年時代私は三重県鈴鹿市という田舎に生まれ、両親、祖父母のもとで大事に育てられた。長男(七代目)ということもあり、愛情を一身に注がれていたらしい。父は地方銀行に勤め、母は専業主婦、祖父母は造園会社に勤めていた。とにかく欲しい物は祖父母にねだり、たくさんのおもちゃを買ってもらっていた。そのたびに両親から怒られていたような気がする。 私がちょうど幼稚園に入った頃に弟が誕生するのであるが、この頃私は無意識のうちに弟に母を取られるのではないかと思い、情緒不安定だったようである。ある授業参観日のこと、母が身重の体で教室に来ていたのであるが、そのとき私はとんでもないことをしてしてしまった。授業中大声を発するし、先生が「右手挙げて」と言えば左手を挙げて、「左手を挙げて」と言えば右手を挙げていて、母は気持ち悪くなって教室を出て行ったそうである。自分としては無意識のうちの反抗だったのだろう。誰にでもあることなのだろうか? それとも私だけなのだろうか? もし後者ならこのあたりから私のひねくれた性格は芽生え始めたのかもしれない。 幼稚園の先生(女性)にやたらとくっ付いていた。先生の家に遊びにいったこともあったぐらいである。幼稚園の先生に目をつけるなんて私も目が肥えていたのかもしれない(笑)。また、ピンクレディーの大ファンで、特に"ケイ"が大好きだった。幼稚園児のくせにコンサートに行ったこともあった。かなりませた幼稚園児だったのだ。 三、小学時代低学年の頃は、良い先生に担任をしてもらった(1〜2年生は同じ先生)。その先生は生徒一人一人の良い点をすごく大事にしてくれる先生だった。礼儀作法などは非常に厳しかったがそれが今となっては非常にありがたかったと思う。私は、算数が苦手でいつも居残りさせられていたが、読書感想文は得意だった。県のコンクールに1年・2年と連続で入選し、全校生徒の前で校長先生から直々にお褒めの言葉をいただいたことがある。これも担任の先生のおかげだった。先生がいつもほめてくれ、私はいい気になって思った通りのことを感想文に書けたのである。 また、この頃、初恋(?)をしたように思う。1年生の新学期に隣の席だった女の子が小学6年間ずっと好きだった。クラスは1、2年のとき同じだっただけだが、いつもその子のことが気になっていた。 3、4年生になると私は唐突だが太り始めた。もともと、祖父も父も太り気味で遺伝だったのかもしれない。当然、運動は苦手でいつもモジモジしていた。「デブ・デブ!」とよく言われていた。そんな私に大きな影響をもたらしたのは祖父の死であった。ちょうど私が4年生の夏で、それまでおじいちゃんおばあちゃん子だった私は、かつて経験したことのないショックを受けた。戦艦大和の乗組員だった祖父は、戦争の話を話してくれたり、旅行に連れて行ってもらったり、いろいろなことを私に教えてくれた存在だった。祖父の死によって私は初めて「死」というものを身近に感じたのだった。 この祖父の死を境に大きく私は変わった。ちょうど成長期と重なったことも影響したのかもしれないが、「このままではいけない!」と漠然と思い始めたのである。太っていた自分の体や祖父に頼りきっていた弱い心を変えたいと思ったのである。4年生の冬から毎朝3キロのジョギングを始め、5年生から剣道を始め、学校の勉強にも主体的に取り組むようになった。実は剣道については小学校1年生の頃父に勧められたのだが、「あんな野蛮なものはいやだ!」と言ってやらなかったのである。 4年生のときの校内マラソン大会では順位は真ん中ぐらいだったが、6年生の時には4番になっていた。また、剣道も6年生の時には市の代表選手に選ばれるまでになっていた。剣道の先生の影響も大きかった。先生はシベリア抑留を生き抜かれた方で非常に厳しい指導をしてくださった。「人より強くなろうと思ったら、人の2倍、3倍稽古しなくてはならん!」とよくおっしゃっていた。私は先生のことが怖かったが、祖父に年齢が近くていらっしゃったので、とても親近感を覚えていた。先生には人の何倍も稽古をお願いした。このとき教わった剣道に対する姿勢が、今でも何事につけ私の基本になっているように思う。 これだけだと何だか小難しいガキのようだが、そんなことはなく、少年団でソフトボールの練習をやったり、テレビゲームをやったり、と友達とわいわい楽しくやっていた。また、剣道の他に書道、そろばんを習っていたのでかなり多忙な小学生だったことは確かである。 四、中学時代試験前以外は家では勉強せず、学校、塾での勉強に集中していた。なぜなら、部活は陸上部、習いごととして剣道、書道、英語会話をやっていたので、そうするしかなかったのである。ちなみに陸上は短距離で100メートル12秒5だった。しかし、無理に習っていたわけではなく、自分が好きで習っていたので体力的には少々きつかったが、自分なりに充実感を感じながら生活していたように思う。忙しさのなかでうまく時間のやり繰りをする術を自分なりに学べたような気がする。 私が通っていた公立中学は、入学当時スクールウォーズ状態だった。不良グループはいたし、いじめも横行し、かなり学校内の雰囲気は荒廃していた。自分自身それに立ち向かうことはできなかったけれど、ああいう世界のあることを実感できただけでもよかったと今になって思う。不良グループに囲まれて蹴っ飛ばされたこともあった。 勉強については、学年順位もさることながら、ライバル(K君)との勝負に熱中していた。K君とは中学校入学当初から卒業までの間の試験の通算成績を競っていたのである。彼は中学1年の頃から京大に行くと豪語していた奴で、実際その通り現役で京大の工学部(航空学科)に入っている。その勝負は1勝差で私の勝利だったと記憶している。 音楽は、ポール=モーリアが大好きだった。ある時、ラジオから流れてきた「恋は水色」に感動し、それ以来、大ファンになってしまった。中学時代にもポール=モーリア楽団が来日した時にはコンサートに行っていた。私の影響かもしれないが、弟は小学生の時からポール=モーリアのファンだった。 五、県立津西高校時代私は学区で1番の進学校(県立高校)に入学することができた。といっても、倍率は1.2〜1.3倍であり、実際には入学試験を受ける前に選抜はある程度行われているといった感じであった。 私はすぐに剣道部に入った。文武両道を実践しようと張り切っていたのかもしれない(笑)。中学時代、剣道の大会でたびたび入賞していた私は、真剣にインターハイ出場を夢見ていたのである。毎日授業終了後、二時間弱稽古していた。そんなに弱いわけではなく、県大会ベスト8あたりにはいた。 この頃の自分を振り返って思うことは、仲の良い友人数人といつも一緒にいたということである。クラスの仲間でもほとんど口もきかない人もいた。人付き合いが下手だったのかもしれないし、それでいいと思っていたのかもしれない。 将来に進路については、高2までは理系に行きたいと考えていたが、理系で何かがしたいという目標があるわけでもなく、国際関係に興味があり、検事にも憧れていたことからつぶしの利く法学部を志望することにした。それに東大を志望するなんて考えてもみなかった。ただし、「行けたらいいな。」と心の中では思っていた。 ところが、高3の春休みに友人3人と一緒に東京に遊びに来たとき、東大を見学したことが私を大きく変えた。このときの感動は今でも忘れない。あのアカデミックな雰囲気に私は思いっきり感化させられたのである。「自分もここで学びたい!」そんな強い思いがひしひしと湧きあがってきたのである。ここで私の志望は決まったのであった(なんと単純!)。 しかし、私の実力は東大なんてめっそうもないという感じだったので、誰にも告げずにこっそりと東大模試を受けたり、社会2科目勉強したり、という具合だった。高3のセンター試験の後、担任の先生に黙って東大に願書を出したときには、電話で担任の先生に笑われたくらいだった。本人は浪人覚悟で事を進めていたし、周りも当然そう見ていたと思う。一般には辛い浪人生活なのかもしれないが、私の場合、はやく浪人生活を始めたいくらいであった。一通り受験勉強をしてみて自分の弱点を把握した私は早くそれを補強してパワーアップしたいという思いの方が強かったのである。 六、浪人時代父の「やるからにはしっかりやって来い!」の一言に後押しされ、田舎を飛び出し、東京で浪人生活を送ることになった。とにかく1年間はできる限りのことをやって、故郷に錦を飾ってやろうと考えていた。3月の冷たい雨が降る中を駿台予備校の春期講習に通っていた自分が思い出される。
私は昔親戚がお世話になっていた下宿に住まわせてもらうことになった。ちょうど近くに神田川も流れていて築30年4畳半ということもあって、なんかタイムスリップしたような感じだった。浪人生だから贅沢なことはいえなかった。しかし、下宿の住人の構成はかなりユニークだった。私以外の住人(5人)のうち4人がドイツ人留学生、あと1人が東大博士課程の学生だった。「体の大きいいドイツ人が4畳半の下宿に文句も言わずによく住んでるなー」と感心したものである。その当時のドイツ人留学生とは部屋で一緒に酒を飲んだり、食事に行ったり、と楽しくお付き合いさせてもらった。私は浪人生だったけれど。彼らはかなりシビアに日本や日本人のことを見ていたという印象がある。「日本人はドイツのことをかなり好意的に見ているが、ドイツはそんなこともない」と感じたりもした。また、下宿においては彼らの方が先輩であったので、日本にいながらドイツ人に日本や東京のことを教わるという面白い現象も体験することができた。
私の浪人生活は駿台に始まり、駿台に終わったといっても過言ではない。浪人するまでほとんど予備校を利用したことのなかった私は、駿台講師陣の授業に大いに感動させられた。問題を解くことにおいてもそうであったが、何よりも講師陣の考え方・主張においてそうであった。そこにはただいい点数をとって合格すればそれでいいというものではなく、もっと大きな世の中に対する見方のようなものがあった。それに比べて高校時代のあの意味不明の授業は一体何だったんだと思ってしまった。今でも駿台の先生方の言葉を思い出して考えることがある。
私と高校時代仲良しだった友人2人も浪人してしまった。2人とも医学部を目指していたので、なにも後ろめたいものはなかったようだ。1人は名古屋で、もう1人は京都で、浪人生活を送っていた。3人とも別の所であることが面白かった。よく電話していた。彼らとは高校1、2年生の時に同じクラスで、特別なきっかけがあったわけでもなく自然に3人組ができあがっていた。不思議だ。
がんばった浪人1年間にもかかわらず、東大受験に失敗した私は某私立大学に通うことになった。しかし、気持ちはもう1回受験することに固まっていた。どうしても諦めきれなかった理由は、いろいろあったように思う。入試当日体調が悪かったこと、上京して浪人させてもらっているんだからという思い、などあったが、やはり最高学府で自分の力を試してみたいという思いが強かったからだろう。
高校までずっと部活動をやってきた私も、浪人になってからは何も運動をしておらず、かなり体がなまっていた。また東大剣道部に入ってがんばろうと思っていたので、何かやって体を鍛えないといけないと考えた。そこで私の頭に思い浮かんだのが水泳であった。小学校まではプールがあったが、中学・高校とプールがなかったので、一応50メートルぐらいは泳げるがあまり自信はなかった。自分ひとりでやるのもいいが、どうせならしっかり泳げるようになりたいと思い、スクールに通うことにした。電話帳で適当に調べかけてみることにした。1つ目にかけたところ、先生らしき人が「うちは女性が多いし、授業料は安い!」なんてことを楽しそうにおしゃるので、とりあえず体験入学させてもらうことになった。先生の発言は授業料については正しかったが……。しかし、そのスイミングスクールの会員になってしまった。
近所の歯医者にかかっていた時、ふとしたことから私は自分が仮面浪人をしていることを先生に言ってしまった。その先生は、かなり腕のいい先生で開成出身の方だった。ご自身の周りにも東大行かれたお仲間がたくさんおられ、何か思う所がおありだったのだろう。きっぱりと「やめろ!」と忠告いただいた。そして山本周五郎の『ながい坂』でも読んで考えてみろと言われた。下級武士の子として生まれた主人公は幼い頃に受けた身分制のもたらすある事件をきっかけに勉学に励み異例の出世をしていくのだが、その中でお家騒動に巻き込まれたり身分の低さゆえの逆風を受けながら、人生という長い坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく1人の男の孤独で厳しい半生の話である。
さて、2年間の浪人生活を終えてやっと東大文一に入ることができのだが、自分としては勉強だけで大学生活を送るつもりはまったくなかった。合格発表の当日には剣道部の部室を訪ねていた。これも何かの縁なのだろうが、地元の剣道道場の先輩(1つ上)がちょうど東大剣道部の主将になられる時期で、私としても溶け込みやすかったのである。受験生時代には最高学府で自分の力を試したいなんてのたまわっていたのはどこへやらである。
家庭教師のアルバイトを探していたがなかなか見つからず、アルバイトの王道ファーストフードでバイトしてみるのも面白かもしれないと思い、マックでバイトすることにした(そうするとその後すぐに家庭教師のバイトも見つかった)。1年の冬から2年間お世話になった。当初は肉体労働ばかりだったが、徐々にカウンターで売り子さんをやるようになり、終いにはバイトをまとめる立場になってしまった。マックではこれをスウィングマネージャーという。まあ、一応自慢にはなるのだが、自分自身マネージャーになった頃にはバイト以外に試験勉強、部活が忙しくなってしまって不本意なマネージャー活動しかできなかった。その点悔いが残っている。バイトといえどもサークルのようなものだと思った。それ故、私のように欲を出してあれもこれもやろうとすると中途半端に終わってしまうだけだと思った。
3年の時に剣道部のレギュラー選手になった。男子団体戦は7人戦で選手枠は9人である。固定されている訳ではないのでたびたび選手選考は行われた。私は何とか4年の引退する時まで選手でいられた。しかし、私としてはまったく対外試合で勝てず、本当に最悪であった。特に4年時の関東学生大会(日本武道館)で東海大学と対戦した時、私のところ(中堅)まで1対1できていたのに私が2本負けを喫して、試合の流れを変えてしまったことなどは苦い思い出である。選手に選ばれてから自分自身の剣道のスタイルがよく分からなくなってしまったのが原因だったと思うが、幸い私が勤める予定の官庁には道場があり剣道部もあるそうなのでそこでじっくり練り直すことにしようと今は思っている。
部活を引退(4年の10月下旬)してから本格的に公務員試験の勉強を始めた私は、外交官試験と国
l の併願を考えていたので、なるべく効率よく勉強するために何かペースメーカーが必要であると考え、ダメもとで渡辺ゼミの選抜試験を受けた。冴えわたった堪と面接でのはったりのおかげでなんとか合格することができた。
国 l は2次落ちしたのだが、官庁訪問中の現役職員の方々との出会いは私に大きな影響を与えてくれた。素直な言葉で表現すれば、「将来こんな風になりたいな」と思える人とたくさん出会えたのである。別に自分のことをほめてくれた訳ではなくきついことも言われたが、考え方や物の見方(私自身公務員志望だったのでかなりバイアスがかかっているかもしれないが)に感銘を受けることができたのである。こういう体験があったおかげで、秋頃には、「もう一度渡辺先生のもとで学ばせていただこう。自分の思いを大切にしよう。」と決心していた。
再び渡辺ゼミに入ったが、ゼミ員同士で「勉強会」を組んだ。実を言うと私は「勉強会」というものがあまり好きではなかった。勉強は自分のペースで納得のいくようにやるものだと思っていたからである。しかし、教養試験があまり得意でなかった私は思い切って教養対策の勉強会を友人Mさんと発足させることになった。やっていた内容もレヴェルは高かったと思うが、それより受験期を通じていろいろ相談できる仲間ができたことが私としてはとてもよかったと思っている。おかげで不安な思いや焦りがずいぶんと和らいだと思う。メンバー5人全員が最終合格した。進路は様々だが、これから先も付き合いが続いてこそ意味があるし、威力を発揮すると思っている。
粘って粘って何とか国家公務員になる資格を手にいれることができたが、いまはただそれだけである。公務員になって現実の問題に直面した時、悪戦苦闘できるように今は静かに鋭気を養っておこうと思う。自分たちが入省・入庁するのと時を同じくして行政のあり方も大きく変化する。そんなやりがいのある時期に自分が国家公務員になれることを嬉しく思うし、大きな責任も感じている。 以上 |
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