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キャリア・エリートへの道


苦手の英数を克服し、中央(法)と国 I (行政)に合格。

はじめに

 渡辺先生から原稿の依頼を受けたとき、最初は安請け合いしたが、後悔した。勉強方法は他の合格者と大差ないだろう。この点は、エール出版『私の国家 I 種試験合格作戦』を参照していただければ幸いである(私も執筆している)。ここでは、必然的に自分の生い立ちに筆をすすめざるを得ないが、それもなんだか気恥ずかしいからである。

 ご存じの方も多いと思うが、日本経済新聞に「私の履歴書」というコーナーがある。会社の相談役でもやっているような年輩の方がご自分の人生を振り返って思うところを綴る人気コラムである。しかし、この先お読みになればお分かりになるだろうが、僕は彼らのような成功の人生を送って来てはいない。国 I に合格し内定をもらっても、幸福な人生を送れるかどうかはわからないし、中央省庁に長くいるかどうかもわからない。こんな人間の書く文章が果たして受験生のみなさんの参考になるだろうか。疑問は止めどなく湧いてくるが、渡辺先生が「君の体験は悩める受験生の役に立つのではないか」とおっしゃるので、とにかく書き出そうと思う。

家族のこと

 僕は昭和50年に東京都青梅市に生まれ、最近までそこで暮らしていた。東京とはいっても埼玉県や山梨県にほど近いところで、自然が身近にある住みやすい町だった。家族は両親と僕、2つ下に弟がいる。昔は祖母と2匹の猫がいたが、今はいない。

小学校に上がる前のこと

 小さい頃は、内気なくせにわがままな子供だった。親戚の家などに行っても弟は喜んでお菓子をもらっているのに、僕は恥ずかしくて欲しいのになかなか手を出せなかった。手を出さずいるとおじさんやおばさんがお菓子を手渡ししてくれるのだが、それを待っているようなところがあった。本当に素直さに欠けた子供だったと思う。

 幼稚園に通い始めるとき、僕は毎朝泣いて行くのを嫌がったという。多分、今まで同じように遊んでいた弟が家で祖母と一緒にいられるのに、自分だけ出掛けなければいけない理由が分からなかったのだろう。父によると、僕の「ぐずり」は弟が保育園にあがるまで続いたらしい。

 僕は小さい頃からよく熱を出して、病院に担ぎ込まれた。部屋に布団を敷いて寝ていることも多く、そのせいか遊びの内容は断片的にしか覚えていないのに、天井の色や壁紙の柄ばかりよく覚えている。今でも風邪をひいて昼間から寝ていると、当時のことを思い出すことがある。

母のこと

 僕が小学校2年くらいのとき、母は突然僕を連れて、実家の青森に帰った。後から追いかけてきた父が、僕と弟に、「お母さんは病気なんだ」とうち明けたのを覚えている。母はノイローゼにかかっていた。理由ははっきりしない。多分、家の経済状況が思わしくなかったことや、僕が小学校へ上がる前の年に死んだ祖母のことが関係していたのだろうと思う。

 現在、一緒に住んではいるが、母はあまり回復していない。それ以後の年月はあまりに長く、僕にはそれ以前の母のことをあまり思い出せない。よくアップルパイを焼いてくれたこと、僕らを甘やかしすぎて父にしかられていた姿、学生時代にやっていたという愛用の通信教材を見せてくれたこと等々を断片的に覚えているだけである。

父のこと

 父と僕は世間並みの親子からすれば、仲のよい方だと思う。小さい頃から、僕らはよく昆虫採集や川遊びに連れて行ってもらったし、一緒に栗拾いに行ったこともある。父は不動産屋をしていたのだが、仕事先に僕と弟がついていくこともよくあった。子供連れだと客受けもいいし、お茶などをしつこく勧められることもない。多分そういう計算もあったのだろうと思う。当時、地上げなどで悪質な業者が横行し不動産屋の評判は悪かったため、子供を連れていると地主が安心してくれるようなところがあったのである。

 父から勉強しろと言われた記憶はない。悪い成績を取ってきても、心配するのは母ばかりで、父は怒らなかった。英語と数学の成績はとくにひどかったが、「おれも中学のときは両方できなかったからなあ」と涼しいものであった。将来のことに話が及ぶと、いつも「おまえの好きなようにしろ」というのが口癖だった。僕はそのお陰で、本当に好きなように生きてきた。金銭的に裕福だったことはないが、高校も自分の行きたいところに行ったし、大学へも行かせてもらった。僕は生まれてこのかた受験というものにプレッシャーを感じたことがないが、それはいい意味で「期待されていない」せいなのだろうと思う。

 父は若い頃からいろいろな職を転々としていたという。僕が物心ついた頃は魚屋をやっていたが、それから2つの不動産会社に就職してノウハウを学んだ後、僕が小学校へ上がるか上がらないかというときに独立した。現在は建設会社に勤めているが、自分の父ながら本当に楽天家である。そもそも終身雇用華やかなりし頃に転職を繰り返していたのであるし、つい先日も、大不況でリストラの嵐が吹き荒れているときに、新しい会社に抵抗なく入ってしまった。

 母がノイローゼになったり、新興宗教に入ってしまったり、仕事がうまくいかずに借金を返せずヤクザに怒鳴り込まれたり……、決して平坦な人生ではないが、彼は不思議とあきらめることをしない。時々落ち込んでいるが、すぐにまた気を取り直して歩き始めるのには我が父ながら恐れ入っている。

小学校時代

 小学校時代は、目立たない生徒だった。喘息で休みがちだったうえ、勉強もできず、運動神経もなかったため(僕は当時逆上がりができなかった)、遊びの中心に入れなかった。毎日というわけでもなかったが、よくいじめられた。いじめられたといっても、体育館でマットにぐるぐる巻きにするといった悪質なものではなく(それでは死んでしまう)、グループ分けのときに誰も声をかけてくれなくて、余り者になってしまったり、一番ひどいのでも、校舎の裏で皆の見ている前でズボンを下ろされたりといった程度であった。このように書くとあまりダメージを受けていなかったかのように感じられるかもしれないが、これは最近報道される悪質化したいじめの事例によって自分の体験を相対化できるからそう言えるのであって、当時は本当にきつかった。新学年になってクラス分けがあるときは、期待と不安が0:10の割合だった。また、放課後どこかに遊びに行く場合でも、いじめっ子のいそうな場所には極力立ち寄らなかった。外ではいつもびくびくしていたような覚えがある。

 勉強に関しては、途中まではあまり気にしなかった。でも気づいたら、同じように遊んでいた仲の良いS君の成績が、「良くできる」ばかりで、僕は「できる」と「もうすこし」が半々くらいになっていて、非常にショックを受けたのを覚えている。高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』で、主人公が「6年生で分数のわり算が抵抗なくできた人は、その後の人生もうまくいくんだって」と言っていたが、僕はいつまでたっても分数のわり算ができなかった。

中学校時代

 基本的に、小学校のときの立場は中学校へ入っても変わらなかった。スポーツは喘息でできなかったので、部活はまともにやらず、僕は帰宅部に入った。小学校時代から仲の良かった友達もみんな部活に入ったので、帰宅後はやることがなかった。そのせいか、テスト前で部活がないのが嬉しかったのをよく覚えている。僕は今でもテスト前のざわついた雰囲気が好きだが、それは多分ここから来ているのだろうと思う。

 成績は国語が4の他は、社会が3で、後は2と1だった。特に数学と英語はひどかった。多分小学校時代に長期欠席をしたときに、ローマ字を習い忘れたのだろう。僕は、中3になるまでまともにアルファベットが書けず、そのせいで中1の最初のテスト(平均点90点くらいのやつ)で50点くらいしかとれなかった。ボーナス問題の自分の名前すら書けなかったのだ。

 いじめは昔ほどひどくなく、嫌がらせを受ける程度になった。僕よりひどいいじめを受ける人がいたので、そういう意味では前よりも気が楽になった。ただ、「世の中には納得のゆかぬことがある」という事実は僕の頭に染みついてしまった。

 内的な1つの転機が訪れたのは、2年の中頃だった。僕の喘息を見かねた両親が、喘息治療で有名な秋葉原の医者に連れて行ってくれて、そこで1本7万円もする注射を3本打ってもらい、僕の喘息は驚くほど軽くなったのだ。扁桃腺は相変わらず弱く、今でも風邪を引いたりすると喉の奥がヒューヒューいうが、体力は驚くほどついた。それまで冬のマラソンで2q走るのに13分かかっていたのが、一気に7分ちょっとくらいになったのである。大袈裟に聞こえるかもしれないが、そんなことが本当に大きな自信になったのだ。

小学校時代からの友人

 勉強と運動ができず、内気だった僕にとって、小中学校時代に楽しい思い出は浮かばない。ただ、友達がいなかったのかといえばそんなことはなく、仲の良い友人はいた。彼らからは、本当にさまざまな影響を受けた。今の僕について語る上で、彼らに触れないわけにはいかない。

 S君は、小学校1年のときから遊んでいるので、もっとも長いつきあいをしている友人である。どこでどうして知り合ったのかは覚えていないが、いつの間にか一緒に登校するようになった。僕らはどういうわけか生き物が好きで、よく一緒に釣りや昆虫採集に出かけた。釣りをやったことのある人なら分かるかも知れないが、はじめはあの色とりどりの道具類に憧れるものである。僕らは道具ばかりいっぱしのものを揃えていた割に、最初の頃はなかなか肝心の魚が釣り上げられず、よく悔しい思いをした。どろんこ遊びや、川遊び、秘密基地づくりなどもよくやった。こういった遊びは体の強い子がやるものに見えるかも知れないが、競争がない分、僕のような子でも案外楽しめるものなのである。当時の青梅は今とは比べものにならないほど自然が残っており、僕らは遊び場に事欠かなかった。

 彼とはじめていさかいを起こしたのは多分4年生くらいのときだったと思う。夏休み前の終業式の日、ふとみた彼の通信簿と僕のそれは、天と地くらいの差があった。多分ザリガニとりか何かの帰りだったと思う、僕の「いいよなSは、頭がいいから」という言葉に、彼はむっとして口をきいてくれなかった。きっと彼は僕の見えないところで努力していたのだろうと思う。自分の努力不足を棚に上げて、浅はかなことを言ったなあと思う。結局そのときは謝って許してもらったが、今でもできることなら、昔に戻ってやり直したいのである。S君は、現在、地方の国立大学の医学部に通っており、帰京の折りには必ず会っている。

 それまで自分が頭がいいと思ったことはなかったが、悪いと思ったこともなかった。それからというもの、僕は否応なく勉強というものを意識せざるを得なくなった。とは言ってもそれが実際の勉強につながるのは、まだ先のことである。当時の僕はただただコンプレックスを感じるのみだった

塾の先生

 あまりに勉強ができない自分に嫌気がさして、僕は両親に頼んで塾に行かせてもらった。とはいっても、当時僕の家の1階は店舗として貸していて、そこにテナントとして入っていた補習塾に通っただけである。つまり2階から1階に降りただけのことなのであった。

 当時、その塾には渡辺先生(奇遇なことに、僕は同じ名前の先生に早稲田セミナーの行政法の授業で出会うことになる)という早稲田の現役の学生がいて、英語と社会を教えていた。背が高く豪快で、細かいことを気にせず、よく遅刻をしていたが、生徒みんなに好かれていた。

 僕はなぜかその先生に気に入られて、何かと質問などをしてお世話になっていた。学校ではあまりしゃべらない僕だったが、塾では比較的元気だった。

 当時、僕らの成績を図る尺度は2つあって、1つは学校の内申点、もう1つは今はなき業者テストの偏差値だった。渡辺先生の授業は楽しかったので、もともと好きな社会は伸びたのだが、英語はのびず、相変わらず偏差値は30台をうろうろしていた。国語はもともと人並み以上くらいはできたので、国語と社会の偏差値のみが高く(といっても人並みよりできる程度だが)、後が40台以下ということで、成績表に棒グラフが描けない有様だった。それを見た渡辺先生が、「おまえ大学受験で頑張ればいいよ、早稲田でも何でも行けるよ」といったのが、大学受験を考え出したきっかけである。

高校生活 −都立武蔵村山東高等学校−

 結局僕は、都立武蔵村山東高等学校に願書を出し、めでたく合格した。偏差値はギリギリ50位で、ヤンキー高校と普通の高校の境目に位置するような高校だった。しかし高校生活は平穏そのもので、小中学校みたいにいじめが頻発しているわけでもなかったし、入学当初は「この学校をシメる」などといっていた連中も、あまりに平和な空気が肌に合わなかったのか、1年が終わる頃には退学していなくなっていた。

 部活は軟式テニス部に入った。といっても、積極的に入ったわけではなく、神成君という中学で軟庭をやっていた友達に、高校で男子部を作るために誘われただけの話である。喘息が治って、体力的には軽い部活がやれる程度にはなっていたので、僕はその申し出に従い、テニスを始めることにした。もともと運動神経がなかったこともあって、公式戦では1勝しかできなかったが、はじめてやる部活は本当にいい思い出になった。夕暮れまでボールを夢中で追いかけるなどといった経験はそれ以前にもそれ以後にもない。部活の中で好きな子もできたし、神成君とは高校生活を通じて一番仲が良かった友人となり、互いにいろいろ相談もし、今でも親しくつきあっている(彼は今夏結婚するという)。

 高校時代を通じて、担任は小山先生という女性だった。おさげに丸いめがねをかけて、まるで昔の生真面目な女学生のような風貌だったが、学生には甘く、放任主義の先生だった。部活がない日に英語科の部屋に行くと、先生はお茶とクッキーを出してくれて、とりとめのないことをしゃべった。今では話していた内容はよく覚えていないが、学校の規則の是非や、先生の大学時代の話などだった気がする。

大学受験

 僕は中学校の終わり頃から大学受験を意識していた。それは本当に漠然としたもので、大学でやりたい勉強など何も決まっておらず、ただ、中学時代に仲が良かったS君やT君に追いつきたいという気持ちと(彼らはそれぞれいわゆる進学校に通っていた)、柴門ふみの『あすなろ白書』に描かれているような大学生活に対する憧れが混じっただけの浮わついたものだった。何かこう、アカデミックな場所で交わされる会話とか、そこを舞台にした恋愛とか、そういったものに触れてみたいという気持ちがとにかく強かった。また、夢や目標を持った人間に会ったことがなかった高校生活において、バイトをしながら東大を目指す「掛居君」の姿は本当に魅力的に映った。

 部活も引退した高校3年目、僕は受験の準備に取りかかった。小山先生について、英語を見てもらい、あとは仲が良かった梅原先生について漢文と古文を教わった(このとき白文のまま漢文を読まされたのは、今でもいい経験になったと思っている)。日本史もやはり大河内先生という女の先生が放課後に何人か集めて補習をしていたので、それに参加した。

 しかしこれまで勉強をさぼり続けていたツケが、半年かそこらで返せるはずもなく、受験科目に英語がないという理由で受けた大学にも落ち、僕は浪人することになった。

予備校時代 −東進ハイスクール−

 やはり『あすなろ白書』の影響で、僕は予備校に通うことにした。選んだのは、東進ハイスクールという吉祥寺にある大手の予備校である。そこを選んだのは、S君やT君と同じところでやっては彼らに追いつくことはできないという思いこみ(彼らは立川にある代々木ゼミナールに通うことを決めていた)があったことに加え、比較的学費が安かったからである。当時僕の家の経済状況はかなり厳しくて、浪人させてもらえるだけでもかなりのわがままだった。服がほとんど買えなかったため(今まで制服だったので私服はあまり持っていなかった)いつも同じ格好をしなくてはならないのも嫌だったが、定期が切れて親にお金を要求しなくてはならないときが、一番つらかった。

 一方予備校での勉強は本当に楽しかった。教えるテクニックもさることながら、人とは違った経歴を持っている講師が多く、知的好奇心を満足させるような講義も少なくなかった。ここでは何人かの素晴らしい先生に出会ったが、その中でも一番お世話になったのが、国生浩久という英語の先生である。まだ若かったが、「元落ちこぼれ」という経歴を持っている先生で、親切な指導や、溢れる知識や独自の方法論に基づく迫力ある講義が本当に魅力的だった。僕はここでbe動詞と一般動詞の違いや、自動詞と他動詞の区別という基本中の基本について、恥ずかしくなるくらい徹底的に質問した。いずれも「いまさら」と思えるような事柄だが、先生は「おれもこれがわからなかったんだよ」と言っていつも丁寧に教えてくださった。自分と同じ目線で考えてくれる、その優しさがなにより嬉しかった。

 成績は秋口まで横這いだったが、それから急伸し始め、30台だった英語の偏差値は30近くあがった。結局受験料の関係で、大学は5つしか受けなかったが、そのうち4つにめでたく合格した。中央大学法学部を選んだのは、単に合格した大学の中で一番偏差値が高かったからである。他に受けた学部としては教育学部、文学部、社会学部、社会科学部などがあり、今思い返すと恥ずかしくなるくらい目標を持たない受験であった。

大学に合格したものの −将来に対する漠然とした不安−

 「〜に対する」という形容詞がつくような明確なものではなく、「漠然とした自信」というものがあると思う。僕に言わせればそれは、「まあ、なんとかなるんじゃない」と言い切れる力だ。小中と勉強・運動ができなかった自分には、それが決定的に欠けていた。いつも何かに不安を感じているようなところがあった。

 中学で喘息が軽くなり、高校に入っていじめられなくなり、運動も始め、大学受験を通して勉強も前よりはできるようになった。しかし当時の僕は「まあ何とかなるんじゃない」と心の底から言い切ることができなかった。西脇順三郎は「食うために職業を持たなければならないと考えた時、私ははじめて人生を呪った」といったが、僕は全く別の理由から就職することをおそれていたのだ。

 こういうおそれを抱き始めたのは大学に入ってすぐである。高校までは「次」があったが、大学まで来ればもう先はない。そもそも目的意識を持って大学に入学したわけではない。前にも書いたように、僕の大学受験の動機は、友人に追いつきたいという焦りと、大学生活そのものに対する漠然とした憧れであった。そこには「大学で何を学びたいか」という意識が決定的に欠落していた。そのため入学してからしばらくは、大学が主催する司法試験の講座を覗いてみたり、大学院受験について書かれた本を読んだりといった不安定な時期が続いた。当時、いわゆる就職活動は怖くてするつもりがなかったし、民間企業に入ろうなどとは夢にも思わなかった。もちろん公務員試験など頭の片隅にすらなかった。

自然保護・環境問題に目覚める

 3年次から始まるゼミの募集を控えた2年の夏、僕は今後どうやって生きていこうか真剣に悩んだ。「できれば就職などしたくないが、いつかはしなければならない。それなら将来就く職業に向けて勉強した方がいい」。理系の人間からすれば当たり前のことであるが、文系の、しかも僕のように目的意識もなく、自分に対する自信もなしに大学に入ってきた人間にとって、こういった結論を得ること自体に長い時間が必要であった。

 将来取り組みたいことを思い描くに当たって、僕は今までの人生を思い返してみた。「今までの人生で何が一番楽しかったか」。「何をしているときに一番心地よくいられたのだろうか」。

 僕にとってその答えは「自然の中で遊ぶこと」だった。小中を通して、体が弱かったにもかかわらず、僕は自然に親しむ遊びをしてきた。毎週のように川に行って釣りをしていたが、夕日に煌めく川面を眺めていると本当に幸せだった。田んぼではザリガニやドジョウをつかまえた。昆虫採集も大好きで、よく虫網を自転車のサドルの後ろに立てて雑木林へと向かったものだ。赤毛のアンではないが、僕らはいろいろな場所に名前を付けるのが好きだった。「かがやく湖水」みたいに気の利いた名前はないのでここに書くことは控えるが、自分たちだけの呼び名がどの場所にもつけられていて、その名前を呼ぶことで自分たちだけの世界が存在しているような気がしたのだ。探検と称して、よく山に分け入ったり、川を遡ったりしたが、そのたびに新たな名前が増えていった。学校とはうってかわって、放課後は本当に楽しかった。

 高校に入り、それまでの仲間と別れるとともに僕はそういった遊びをあまりしなくなった。多分部活が忙しかったのと、高校で仲の良かった友達がそういう趣味を持っていなかったことが関係しているのだろうと思う。それでも夏や冬の長期休暇には中学時代の友達と昔の遊び場を訪れた。しかしそのたびにお気に入りの場所は減っていった。高度成長期を経験した人たちからすれば笑い飛ばされてしまうような変化なのだろうが、僕にとってはショックだった。今、昔の遊び場を全て訪れたとしたら、一体同じ名前をいくつ付けることができるだろうか。

 何とかして僕が遊んでいたような場所、郷愁を感じれるような場所を残せないだろうか。そのためにはどんな職業があるのだろうか。そう考え、「将来は自然保護や環境問題に関われる仕事に就きたい」と思った。それがそのときの一応の結論であったのだが、今思えばもう少し詰めておけば良かった気がする。

滝田ゼミでの勉強

 ゼミは2つの基準から選んだ。1つ目は、ゼミ論文で環境問題を扱えるということである。これに関しては幅広い選択肢があり得た。行政学でもいいし、地方自治でもいいし、国際政治や政治理論から攻める手もある。もう1つは、教授がゼミでの指導に熱心であるということだ。政治学科に先生はたくさんいるが、教育に熱心な教授となるとそれほど多くはない(現在日本の大学教授は10万人いるそうである。これはアジア太平洋地域の米軍と同規模であり、どちらも早晩リストラは避けられないだろう)。

 結局僕は滝田賢治教授の国際政治経済ゼミを選んだ。環境問題は、冷戦構造崩壊以降、国際政治上のイシューとして急速にその重みを増してきていたし、何より教育に傾ける先生の情熱に惹かれた。他のゼミにない熱気が先生のゼミには感じられた。学生時代には大学受験予備校の教壇に立っていらした先生で、教える訓練を積んだことのない他の教授陣とは雲と泥ほどの差があった。

 ゼミでやることは大きく3つに分けられる。1つ目は、年間を通して3〜4冊くらいのテキストを少しずつ読んでいく作業である。毎回担当者が、担当する章の要約に他の文献や自分の意見を付け加えたレジュメを作ってきてプレゼンを行う(時には全員がレジュメを作るように言われて、その場で誰かがあてられるという変則方式もある)。それに対して先生がコメントを付け、後はそのレジュメで示された論点に関して学生と先生を交えた議論が行われる。プレゼンの時間は決められていて、時計をチラチラやりながら発表を行うことになるのだが、始めのうちは時間配分がうまくいかず、「今何時だと思ってる」としかられることもしばしばだった。時間を決めて人前で話す機会は、これから社会人になれば増えこそすれ、減ることはないと思う。その意味で本当にいい経験になったなあと感謝している。

 2つ目は、毎週2時限分あるゼミの勉強と並行して、各自で年末に提出するゼミ論文の準備をすることだ。僕が所属していたゼミは3・4年連続なので、計2本のゼミ論文を提出することになる。年に2〜3回はそのための中間発表があって、そのたびに先生から厳しいコメントが下される。なかなか学生をほめることをしない先生なので、僕は自分がほめられた時のことは全て覚えている。

 3つ目はゼミ日誌の作成や、OB・OG会や合宿の準備といったいわゆる雑用である。しかしこれがなかなか楽しかった。僕はOB・OG会の担当だったのだが、「何かの目標があって、それに向けて皆で準備をする」というサークル的要素があって、同期の団結力が高まったのではないかと思う。

大学での勉強から得たもの

 3年次からのゼミにかけた時間は多かったが、実をいうと僕はあまり大学の講義には出ていない。入学当初から政治というものに漠然とした興味はあったが、それ以上のものではなく、大学受験の予備校で聞いた講義とのあまりの落差に失望して、「あんな講義出てもしょうがないや」などとうそぶいていたのだ。今考えると、悲しいことに講義を理解する力がなかっただけなのだが……。

 そういうわけで大して勉強しなかった大学生活であるが、あえて大学で学んだことを挙げるとすれば2つある。1つ目は、「相対化」を覚えたことである。当たり前のことなのかもしれないが、学術的な文献や講義の中で行われていることの基礎にあるのは、対立する意見を並べ、比較することだと思う。ある人の意見が耳に心地よくても、対立する人の意見が聞きたくなるようになったのは、多分大学に入ってからではないだろうか。

 ゼミの滝田教授はよく「赤旗と産経新聞を読みなさい」という。駅に売ってない『赤旗』はさすがに、たまにしか読まなかったが、僕は今でも『朝日新聞』と『産経新聞』を交互に読むことにしている。そうでもしないとどちらかにだまされそうだからだ。

 2つ目は、言葉を定義することの大切さを学んだことである(もっとも、自分が言葉を定義して喋れるようになったわけではない)。これもゼミで教授から耳にタコができるほど聞いたことであるが、言葉を定義せずに「何となく」で話していても実のある議論はできない。最近、学生の学力低下が叫ばれているが、その「学力」という言葉の指す内容は必ずしも明確ではない。また、よく学者がテレビで「短期的には」とか「中長期的には」などと言っているが、それは一体どういう意味なのだろうか。近年、「公と個」をめぐる議論などが盛んであるが、論争している本人の定義があやふやである上、相手の定義を聞こうともしないので、見ていてもあまり面白くない。腹芸・以心伝心などに象徴される旧来型日本社会ならばこれでもOKなのだろうが、もう少し何とかしたほうがいいのではないだろうか。

大学の友人

 もう1つ大学で得たものといえば、濃く多様な友人関係である。途上国から民芸品を買い付けてフリーマーケットで売りさばいている友人もいたし、バイトで政治家の秘書をやっていて橋本龍太郎の真似がうまい奴もいた。家にうずたかく本を積んで、朝から晩まで勉強に専念している文学部の先輩もいる一方で、大学の勉強などほとんどせず、「ノートは借りない、コピーしない」という主義を守って4年で卒業した友人もいる。流暢な日本語で歯に衣着せぬ発言をする留学生もいれば、4年のときに教授と共著で本を出したような勉強家もいる。異性愛者もいれば同性愛者もいるし、おしゃれな人もいればそうでない人もいる。ガチガチの公務員もいれば、広告業界に就職した代理店野郎(死語)もいる。友人と呼べるかどうかは分からないが、英会話の先生(おばさん)とも親しくしており、僕は息子のようにかわいがられている。

 彼ら(彼女ら)は、単なる知り合いではない。自分でも時々信じられないが、全員「親友」と呼べるほどに近しい関係である。彼らは互いに異質だが、1つだけ共通点がある。それは広い意味で知的好奇心があり、相手の話を咀嚼する努力をするということだ。彼らと話していると時間を忘れるほどに楽しい。これから違う道に進んでも、お互い「ない暇」を作って会うのだろうなと思う。

塾講師のアルバイト

 大学生活を通していくつかのアルバイトをしたが、一番長く続けたのは塾の講師である。1年の冬から4年生になり公務員試験の勉強を始めるまでやっていたから、休暇中の講習会も含めれば実に2年半以上教えていたことになる。

 実を言うと、その塾は僕が中学生のときに通っていた塾で、成績が1〜2の子を主に対象としたものであった。授業の中心は、学校の補習である。通ってくる子供の中学はバラバラなので、それらに全て対応しなければならない。しかもこの位の成績の層には、世にいう「学級崩壊」の主役級の子もいて、彼らとつきあうのもまた生半可なことではなかった。トイレに行ったまま戻ってこない子や、毎回30分以上も遅刻してくる子などもざらにおり、授業のわかりやすさはもちろんのこと、いかに彼らになめられないかが非常に重要だった。

 生徒たちは、まだ子供である。それゆえその日にあったことが全て顔や行動に出る。親や友達とけんかをしてきた子は、始終いらいらしているし、逆に女の子(男の子)に告白されたときなどは、授業の後で相談してきたりもする。その日の授業が成功したか否かは、終わってみれば実にはっきり判断することができた。うまくいった日は先生になることも本気で考えたし、そうでない日はこんなに割りに合わないバイトはないと悩んだりした。とにかく試行錯誤の連続だった。

 塾長は、もう10年以上も数学を教えているベテランで、児玉先生という女性だった。僕も中学のときにお世話になったが、彼女は成績が1や2で入ってきた子を4やときには5まであげてしまうのである(なぜ僕はできるようにならなかったのだろう)。前から薄々と思ってはいたが、できる子に教えるのは誰にでもできる。できない子をいかにできるようにさせるかが重要である。やる気のない子をやる気にさせるのは、確かに理想だが、それを全ての先生に求めるのは酷だ。というのは、そこには「あの先生が好きだ」という感情が介在する場合が多いからだ(これは恋愛感情である場合も多いが、そうでないことも多いと思う)。やはり一般の教師は、第一に教えるテクニックを磨くべきだと思う。分かるようになれば楽しくなる。それが必ずしも先生に対する好意につながるとは言えないが……。 

 長いことお世話になった塾にも、僕が国立に引っ越すときに別れを告げた。かなり遠距離になってしまう上、公務員試験の勉強が忙しくなりつつあった。後がなかった僕に、塾で教える余裕はなかったのである。最後の授業の後、そのとき受け持っていた生徒たちが色紙を書いて渡してくれた。僕が彼らにしてあげられたことは少なかったが、僕は本当にたくさんのものを得たと思う。

アメリカへの短期留学

 大学3年の夏、僕ははじめてアメリカの地を踏んだ。ゼミの教授のすすめもあったが、翌年に控えた進路決定に対する迷いもあり、「何かを見つけに行きたい」という思いが強かった。「アメリカに行けば何かが見つかる」などというと、まるで昔の移民の若者みたいだが、法学部のプログラムを利用して1カ月間ワシントンDCの大学で語学研修をしただけの話である。

 その大学はアメリカン大学という名前だったが、出発前に友達に言うと必ず、「どこの大学に行くの?」と聞き返されるほどインチキ臭いネーミングだった。とはいえ、国際関係学では比較的定評のある大学で、キューバ危機の際の「アメリカン大学演説」(ケネディ大統領)といえば、国際関係史を勉強した人ならば必ず耳にしたことがあるはずである。

 向こうでの生活は、スケジュール通りに進んだ。ウィークディは、朝7時頃起きて、朝食をとってからクラスが始まる。内容は多岐にわたっており、リスニングや文法などの基礎的なことだけでなく、ロールプレイやディベートなども盛り込まれていた。

 午後は、「カンバセーションパートナー」と呼ばれる現地の学生が、日本人3人につき1人の割合でついてくれて、どこかに遊びに行ったり、ゲームをしたりした。何をするかは(パートナーを含め)僕らの自主性に任されていた。大学構内で、いわゆる英会話の授業みたいなのをしていた人もいれば、映画館や美術館について行ってもらっている人もいた。

 官庁訪問のとき「向こうで得たことは?」とよく聞かれた。恥ずかしい話だが、僕は2つのことを思い知っただけだった。

 第1に、圧倒的な語学力の不足である。「外国人相手」ということでゆっくり丁寧に話してくれれば何とかなるが、普通のリズムで話されるとさっぱり分からない。授業の内容は理解できても、ショッピングなどに出掛けたとき、他の客の話している内容はほとんど掴めないのである。道を聞いたのに聞き返されることが多かったのは特にショックだった。

 第2に、自分が何も考えずに今まで生きてきたことに気づかされた。会話をしても、自分の質問が主で、相手から意見を求められてもなかなか答えが返せない。これは語学力の不足から来るところも大きいが、自分が確固たる意見を持っていないことが主たる原因だったと思う。また、それ以前の問題なのだが、文化の話などになると、自分が日本のことについて表面的な知識すら持っていないことに気付かされた。まずは様々な知識を頭に入れ、何事に対しても自分の意見を形成することが前提で、その上で外国語でもそれを相手に伝えられなければいけないのだということを痛感した。伝えるべき内容がない人間が外国語だけ話せてもしょうがないのである(この点で現在の教育改革は間違った方向に行きつつあると思う)。自分をけなしているようで非常に嫌だが、中身のない人間が米語を喋っても中身のないアメリカ人ができるだけである。

 とはいえ、アメリカでの思い出は大半が楽しいものであった。留学とはいっても1ヶ月足らずのものである。「酸いも甘いも」という言葉があるが、「甘さ」はともかくとして「酸っぱさ」を知るには時間がなさ過ぎた。人種差別や所得格差を代表とする「アメリカの陰の部分」にはほとんど触れることがなかったのである。

茫然自失の日々(3年夏〜4年春)

 帰国してからは、しばらく茫然自失の日々が続いた。もう一度留学して向こうの大学で本格的に勉強したいという気持ちと、翌年に迫った就職活動から逃げたいというモラトリアム的な気持ちが半々だったのである。

 迷いながらも僕は留学の準備を始めた。アメリカの大学に資料を請求をし、他方でTOEFLの勉強を開始した。はじめて受けた10月のスコアは今ひとつだったが、4月には何とかアメリカの大学院に申し込める程度にはなった。

 しかしそうしている間にも家の経済状態はどんどん悪化していった。本来ならば早々に留学をあきらめて、就職活動でも始めるべきだったのだろうが、あきらめ切れないまま中途半端に勉強をしているうちに家業の不動産屋は倒産してしまった。

公務員試験を選んだ理由

 家業がつぶれることが分かったのは5月の始めであり、競売にかけられた家の立ち退き期限は7月の半ばであった。はじめは一体どうしたらいいのか分からなかったが、周りの人に相談に乗ってもらい、自分でも悩むうちに公務員試験を目指すことに決めた。今から考えてもこのときはずいぶん不安定な時期だったと思う。

 僕は3つの理由から公務員試験受験を選んだ。1つ目は、環境問題に関われる可能性があることである。国 I に合格して環境庁に入れれば一番だが、それ以外でもこの問題に取り組める省庁はあるし、地方でも環境対策は主要な政策領域となっている。

 2つ目は、国 I に限っていえば留学制度が充実していることである(ただし、省庁によっては一部の人間しか留学させてもらえないことに後から気づいた)。留学の夢はやはり捨てがたかった。

 3つ目は、将来的に大学に戻って教授になる道も残されていることである。ゼミにおける教授からの影響やバイトの塾講の経験から、漠然と「将来は教壇に立ってみたい」と考えるようになっていた。国 I で省庁に入り、退職後に大学に戻る人は実際多く、それは今でも大きな魅力の一つである。 

 随分悩んだが、簡単にいってしまえば以上のような理由から、僕は国 I 行政職を受験することに決め、早稲田セミナーに入り、勉強を始めた。後悔がなかったわけではない。ゼミの教授からはマスコミの秋期採用受験を勧められたし、親友の留学生からは「絶対にやめろ。受かる保証はない」とまで言われ、バイトをしながら大学院に行くことを勧められた。相談に乗ってくれた人で受験を勧める人はほとんどおらず、僕も半分意地になって勉強を始めたようなところがある。上に挙げた理由も、自分を合理化するために考えたような気がしないでもない。

公務員試験の勉強から得たもの

 郊外の喫茶店やラーメン屋などへ行くと、店のおやじが読み終えたマンガ雑誌などが置いてある。僕はいまだにジャンプとマガジンを購読しているのだが、そういうときに限ってサンデーやチャンピオンしか置いていなかったりする。もしくはもう他の客にとられてしまっていたりする。暇なので仕方なくそれらにも目を通すのだが、あらすじを知らないマンガを読んでもあまり面白くない。もちろん1週分読んだだけでも面白いマンガがある可能性は否定できない。しかしそれにしても前回や前々回を知っているに越したことはないだろう。

 同じように僕は毎朝新聞を読む。前にも述べたように、朝日新聞と産経新聞である。最近はインターネットから電子朝刊をダウンロードしてくる。時間があるときは駅で日経新聞を買う。紙面の見やすさから毎日新聞を買うこともある(毎日新聞は上下で半分に記事が分かれるようになっており、非常に折りやすい。最近経営難を伝えられているが、奮起を期待している)。

 前置きが長くなったが、公務員試験で問われる知識は、マンガで言えば、「前週までの内容」に相当する。新聞に載っている内容は過去の歴史の連続性の上にあるものである。あらすじを知っていれば、先が読みたくなる。読んでも分かる。紙面に載っていないことも想像できる。月に4000円弱であれだけ膨大な情報を提供する媒体を読みこなせるか否かは、今後の人生を左右するといっても過言ではないと思う。

 以上のような考えに基づいて、僕は公務員試験を勉強した。小中時代の伝統から、数的処理や判断推理は苦手だった(本番でも1〜2問くらいしかできなかったと思う)が、他の科目を苦にしたことはない。成績が伸びずに悩んだことはあるが、勉強そのものが嫌になったことは一度もない。

 年号や人名や、歴史的事象の順番などを暗記することは、試験でもなければ誰もしない。法律学においても、数多くの判例の内容を暗記するなんて、試験以外でする人はいないだろうし、少なくとも大学の試験で「優」を取るには必要ないはずである。しかし、それらは一般に枝葉末節的な扱われ方をしたりもするが、理解の基礎に当たる部分であり、必要不可欠な知識だと思う。公務員試験を終えた今、新聞・ニュースが前よりも深く理解でき、大学の講義を聴いても格段に面白く感じている自分に気づき、驚いている次第である。

終わりに −公務員になるにあたって−

 「国民のためになる仕事をしたい」。多くの公務員試験受験生がいうせりふである。しかし僕はあえてこれに反発したい。反発すると言っても別に「国民に有害な仕事をしたい」と考えているわけではなく、「国民のためになる仕事をしたい」がやがて「国民のためになる仕事をしています」になって、さらには「国民のためになると信じています」になるのが怖いのである。僕はN省にも官庁訪問をしたのだが、ある課長補佐は、「業界利益の代弁者に過ぎないのではといった批判についてどう思うか」という質問に対し、「僕らは全体の利益を考えているのに心外だ」と怒っていた。本気でそう思っているわけないだろ、と最初は思っていたが、案外あれが本音なのかもな、とも思える。誰だって自分の仕事に誇りを持ちたいはずである。自分のやっている仕事を否定されたくはないし、されればされるほど、自分のやっていることは正しいと思うようになるのが正常な人間ではないだろうか。

 小林よしのり氏がベストセラーになった『戦争論』の中で、アメリカ人の退役軍人による原爆正当化を批判していた。しかし僕に言わせれば、国を背負って戦った自分の青春時代を否定するような展示(スミソニアン博物館)が行われようとしていたら、心平静でいられない人間の方が大多数だと思う。氏が「先祖が子孫に悪く言われている現状」が許し難いと思うのであれば、同時に彼らの感情も理解できそうなのになあ、とも思う。

 僕は狂信的なダム反対論者だが、ダムを建設しようとしているK省の官僚は「長い目で見れば国民のためになる」と思ってやっているだろうとは思う。そこで重要になるのが、相対化の視点と、言葉を定義するという姿勢である。自分はダムが必要だと考えているが、反対している人はどういうことを言っているだろうか。「長い目でみれば」とはどれくらいの期間を指すのだろうか。そもそも「国民」と誰を指して言っているのか。

 ここまで長々と読んでくださった人ならばご存じのことと思うが、僕は非常に弱い人間である。肉体的に弱いだけでなく、精神的にももろい。よっぽど気を付けていないと、同じ穴のムジナになりそうなのである。あえて控えめに言えば、そうなる可能性が高いとすらいえる。それでも気をつけるに越したことはないと思い、安易に「国民のためになる仕事がしたい」などとは言わないようにしているのである。もちろん、「国民のために」という気持ちは大いにある。しかし、外国人を排除し日本人だけを利するとか、少数者を排除し多数者を利するとか、「国民のために」という気持ちがいつの間にか独りよがりになったりしないよう、絶えず自戒しつつ、「公務員としてがんばれるところまでがんばろう」と思っている。

以上

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