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キャリア・エリートへの道


国 I キャリアか民間エリートか? −ダブル合格作戦−

はじめに

思い返してみれば、1998年の1年間はまさしく勉強に明け暮れていた日々でした。そして1999年の上半期は、勉強以上に将来について考えさせられた時期でした。渡辺ゼミに入って以来、基本的には官僚になることを目指して頑張ってきましたが、色々あって公務員とは異なる道に進むことにしました。公務員と就職の二兎を追いかけた先輩として、僕の体験記が参考になってくれたら幸いです。

小学校時代 −授業妨害の常習犯−

 僕の小学校時代は、先生の側から見れば問題児の1人だったでしょう。問題児といってもいじめっ子だったわけではありませんが、授業中に大声で喋るは、先生の発言に茶々を入れるはと、授業妨害の常習犯でした。今ちまたでは学級崩壊が話題になっていますが、おそらく僕のような生徒がたくさんいるのだと思います。先生も相当手を焼いたらしく、教壇の横に机を並ばせられて授業を聞くこともしょっちゅうでした。

 家庭訪問では親もいろいろと注意を受けたそうです。ちなみに家庭訪問といっても玄関先ですますのが慣習になっていたようなので、家に上がられて注意を受けた親は相当肩身が狭かったと思います。また、音楽の時間に騒ぎすぎて、代講できていた男の先生をキレさせ、2、3発ぶん殴られたあげく廊下に引きずり出されたこともありました。後日この先生は家にお詫びをいいに来ましたが、これまた親は肩身の狭い思いをしたことでしょう。

 そんな僕を心配していた親ですが、4年生時の担任だった女の先生の言葉で救われることになります。家庭訪問でまた文句を言われると身構えていた親に飛び込んできたのは、「○○君はとてもいい子ですね」という意外な言葉でした。それまで家庭訪問で息子をほめてもらったことのなかった親は(本当なのか、親はそう語る)、本当に感動したそうです。実際にこのときの先生は生徒1人1人の個性を認めてくれる人でした。自分の個性を認めてくれたことにより、僕もただ騒ぐだけでなく、周りの人の気持ちを思いやることを学べたと思います。

アメリカ日本人学校に転校 −自由と責任を学ぶ−

 こうしてそれなりに成長を見せていた僕ですが、小学校6年生の時に大きな転換をむかえることになります。父親の仕事の都合でアメリカに行くことになったのです。アメリカでは現地校ではなく、日本人学校に通うことにしました。帰国してからの高校受験を考えてのことでした。この日本人学校はアメリカにあるだけあって自由闊達な生徒が多く、また校則なども特になかったのでのびのびとしたところでした。僕はこの日本人学校で小学校6年から中学校2年までを過ごしましたが、多感な時期だけあってその後における影響は大きかったと思います。

 日本人学校時代でも調子に乗りやすい僕の性格は健在でした。いつ頃か、木製の机の横の部分に、シャーペンなどで穴を開けることがはやりました。できるだけ大きい穴を開けることが目標だったのですが、僕は事もあろうか友達と電動ドリルを家から持ち出して机に穴を開けまくったのです。当然先生には大目玉を食らい、校長先生には共有物の大切さをとくと教えられ、仲間と一緒に図書室の掃除2週間の罰を受けました。

 もちろん成長できたなと思えることもありました。中学2年の時ボストンに修学旅行に行きましたが、僕はその実行委員を担当しました。消灯時間を12時にすることや、ボストン市街の行動は生徒の各班が自由にルート設定できるようにすることなどを先生達に掛け合ったりしました。交換条件として、ボストン市街の十分な事前調査と、各ルートにおける歴史勉強のテーマの設定などをするはめになりましたが、生徒主体の充実した修学旅行になりました。自由を満喫するには、それに見合った自主性と責任がいる、そんなことを学べたと思います。

 僕の住んでいたニュージャージー州は日本人も多く、日本の学習塾まで進出していました。僕は帰国したら私立校を受験するつもりでしたので、中1の頃からこの塾に通っていました。昔から問題児でしたが、幸いなことに勉強面はよくできた方でした。ところが、この塾でも授業中騒ぎすぎ、講師にぶん殴られ廊下に引きずり出されるという、いつかの事件と全く同じ状況になったことがありました。このときは、僕自身泣きながら「勉強させてください」と頭を下げた記憶があります。漫画「スラムダンク」の三井のようなセリフですが、今考えればよくこんな事を言えたなと思います。

サマーキャンプ

 日本人学校に通い、塾にまで行ってとまるでアメリカらしくない生活をしていたのですが、中学2年の夏にサマーキャンプに行くことにしました。場所はボストンの郊外で、ニューヨークから車で5時間ほどの所でした。このサマーキャンプは結構有名なものだったらしく、アメリカ在住の人以外にもフランスやイタリアからも子供が来ていました。僕が英語が分からずに苦しんでいたのは当然ですが、フランス人の子達もやはり英語ができずにコミュニケーションに苦しんでいました。当たり前といえばそうですが、日本人と外国人という図式で考えてしまいがちだった僕にはちょっと新鮮な光景でした。言葉が分からずに何がイヤかというと、グループでいるとき突然僕以外の人が笑い出すときです。誰かが面白いことをいったのでしょうが、こちらには全く分かりません。キョトンとしている他はないのですが、いいようのない疎外感を感じました。現在はこのときよりも英語ができないわけですから、暗澹たる思いです。

 キャンプ中苦痛だったことの1つに食事があります。やはり日本の食べ物が恋しくなるので、家からカップラーメンやお菓子を送ってもらい、夜バンガローで食べるのを楽しみにしていました。かっぱエビせんはアメリカ人にも好評だったのを覚えています。僕のベッドの前の壁には、誰が書いたのか Days until go home とあり、日数が彫られていました。家に帰るまでの日にちを数えたのでしょうが、ホームシックにかかるのはアメリカ人も同じようです。

 キャンプから帰った後、友達に会うたびに「背が伸びたんじゃない」といわれました。わずか1カ月の間でしたが、成長期ということもあって目で見て分かるほど背が伸びたようです。今思えばこのキャンプを経験することによって、精神的にも肉体的にも成長できたのかもしれません。問題はこの時以来、身長がほぼ伸びていないことでしょう。

帰国と高校受験

 こんな感じで僕のアメリカ生活はすぎていきました。約2年半の間でしたが、色々なことが経験できたと思います。そして中学3年の春、日本に帰ることになりました。地元に帰ったので、クラスにはなじみの顔もあり、程なくとけ込むことができました。

 日本に帰った僕を待っていたのは誰しもが通る道、高校受験でした。塾は国立にある塾まで通うことになりました。この塾はアメリカで通っていた塾の本校で、週に3〜4回通うことになりました。このときのクラスは先生も含めて大変仲が良く、大学生となった今でもクラス会を開いたりしています。共に学び、伸びていくことの楽しさを知ることができた場所でもありました。

懸賞金つきの高校受験

 順調に受験勉強をしていた僕ですが、ちょっとした事件が起きました。それにはまず学芸大付属高校の話をしなければなりません。学芸大付属はNY日本人学校時代に生徒の間で人気のあった高校です。また学芸大付属は国立校なので学費が安く親の間でも人気があったようです。僕の親にも学費の安さは魅力だったらしく、なんと合格したら50万円という懸賞金がついたのです。僕は3科目(英語、数学、国語)中心だったので、志望校もそれに合わせていました。学芸は理科、社会を加えた5科目です。当然志望校ではありませんでした。しかし、50万円という大金に目のくらまない子供はいないでしょう。懸賞金の話がでた瞬間、僕の第一志望校は学芸大付属になりました。

 受験科目が増えることになったので、当然勉強も増えます。理科、社会を学ぶため急遽土曜日も塾に通うことになりました。受験の半年前のことです。いくらなんでも無謀でしたが50万円のため迷いはありませんでした。もともと理科、社会も苦手ではなかったので、勉強自体は数学なんかよりも楽しくできました。こうして不純な志望動機を胸に秘め、学芸大付属の入試に臨むことになりました。

 国立校の入試日は一般私立よりも若干早く、学芸大付属が僕の初陣となりました。僕は帰国子女枠で受けることができたので、当日はニューヨーク時代の懐かしい顔と再会できました。さて、そんな中で受けた初めての受験の手応えはというと、残念ながら今ひとつでした。学芸の社会の問題は、過去問を見ると時事トッピクに絡めた地理の問題が多くでているのです。僕が受けた前年は、山形新幹線「翼」が開通した年でした。そこで僕は、思い切ってヤマを張り、山形県一点読みで試験に臨んだのです。

 が、しかし、試験にでたのは山形ならぬ新潟県でした。もともとヤマを張らねばならぬほど地理が苦手なわけですから、良くできるはずがありません。他の科目も低調なまま終わったのも頷けます。当然不合格が待っていました。

早稲田(内部進学)か桐蔭(東大受験)か?

 初めての入試でいきなり挫折を味わった僕でしたが、意外なことにショックは少なくて済みました。そもそもが不純な志望動機であったこと、敗因がはっきりしていたことによって気持ちの切り替えができたのだと思います。僕の残りの志望校は、早稲田系列2校に、桐蔭学園でした。慶應は?というと、今ひとつイメージが気に入らなく受けるつもりはありませんでした(慶應生の皆さんすみません、完全な偏見です)。

 幸い残りの3校は会心の出来で、全て合格することができました。

 となると、次は進路の選択です。道は2つ。早稲田高等学院に行って、早稲田のキップを手にし、高校3年間を遊んで暮らすか。桐蔭学園に行って、厳しい競争を勝ち抜き東大を目指すか。決断は早かったと思います。早稲田が好きということ以上に、大学受験フリーパスは魅力的でした。こうして、1993年の春から早稲田高等学院での高校生活が始まりました。

早稲田高等学院

 高校生活は部活一辺倒のものになりました。僕はそれまでスポーツは全般的に苦手な方で、できるだけ避けて通ってきました。しかし、せっかく受験勉強をしなくても良いのだからと、ハンドボール部に入部したのです。ハンドボールを選んだ理由はただ一つ、マイナーだからです。マイナースポーツならば経験者は少なく運動下手な僕でもやっていけるのではという期待からでした。しかし、ここでも予想は裏切られ新入部員の8割がハンド経験者でした(僕の中学にはハンド部はなかったのに……)。

 週6日の練習でしたが、今思えばよく3年間続いたと思います。はっきりいって下手な方でしたが、この3年間のおかげでずいぶんと肉体的にも精神的にも成長できたと思います。

早稲田大学法学部

 早稲田大学に入ってからは今度はめっきりスポーツと縁が無くなりました。かねてからの希望だった法学部に入ったのですが、1年目はサークルの仲間と麻雀に明け暮れる日々でした。さすが早稲田というべきか、雀荘の多さは時代の流れに逆行していると言えるでしょう。

 僕の入っていたサークルは一応勉強系のサークルで、大学対抗の法律討論会活動が売りでした。大学生ならではの記念にと思いたち、2年生の秋にこの討論会に出場することになりました。出題は憲法、インターネットと表現の自由がテーマでした。まず学内予選があるのですが(といっても出るのは同じサークルの人だけですが)、僕以外の出場者は皆司法試験を目指し、早くから予備校に通っている人たちでした。僕はというと、麻雀漬けだっただけのことはあり、芦部の教科書を大学2年の秋に初めて開くという状態でした(ちなみに憲法は1年生の必修科目です)。さあ勉強するぞと意気込んで読み始めましたが、「天皇」の章で力つきました。そもそも頭から教科書を読むこと自体が間違いなわけです。

 討論会は、サークルの先輩2人がチューターとしてつき、チームを組んで立論を検討していきます。先輩も僕のあまりの知識のなさに驚いたことでしょう。そんな僕を見捨てずに協力してくれた2人の先輩にひたすら頭が下がります。

 初めて書いた僕の立論をみた先輩は絶句していました。もはや内容にコメントできないほど滅茶苦茶な論文だったようです。そこから立論に手直しを加えること数10回。

 朝9時に集まり検討会を開き、夕飯を食べて帰った後、ほぼ徹夜で新しい立論を書きまた次の日の朝集まる。こんな地獄のような日々が1カ月ほど続きました。おそらく人生で最も集中して勉強したときだと思います。僕のわがままにつきあってくれた先輩には本当に感謝しています。

 こうしてできあがった立論で討論会に臨みましたが、結果は予選突破にとどまらず本戦でも優勝という思いも掛けないものでした。法律論では分が悪いと思い、インターネットの特性に重点を置いて論じたことが評価されたようでした。努力すればできるということを証明するこの優勝という結果は、このとき以来僕の大きな自信になっています。

公務員という選択肢

 こうして法律に徐々に触れていった僕も3年生を迎え、進路について考えるときが来ました。弁護士にあこがれて法学部に入ったのですが、この頃には弁護士には興味が無くなっていました。1人独立して弁護士をやっていくことはどうも自分の性に合わないと思ったからです。この頃の僕の考えたことはというと……せっかく学んだ法律を生かした仕事がしたい。自分は組織の中で力を発揮できるタイプらしい。大きな仕事がやってみたい。国の政策には不満が残る、俺にやらせろ。ならば公務員、それも国 I ならどうだ!!……でした。

 基本的に強制されないと勉強をしないタイプなので、予備校に通うことにし、当然早稲田セミナーに受講し始めることになりました。勉強は順調に進み、渡辺ゼミにも入ることができ、着々と受験の準備は整いつつありました。特に渡辺ゼミで共に自主ゼミを開く仲間に出会えたことは幸運でした。自主ゼミでは、主に教養科目を勉強しました。知識を補い合えるばかりでなく、様々な問題について語り合うことで、ものの見方がずいぶんと広がったと思います。高校受験の時もそうでしたが、互いに切磋琢磨し会える仲間に僕は本当に恵まれてきているのだなと思います。この頃には公務員になるという意気込みも、ずいぶんと具体的なものに変わってきていました。

民間という選択肢

 1998年も無事終わり、1999年になると、公務員受験生の家にも、企業からのダイレクトメールが届き始めます。僕は就職活動もやってみようと漠然と思っていました。理由は、「学生の時にしかできない就職活動をやらないのはもったいない」、でした。こんな訳ですから、受けるつもりの企業はソニー、第一勧銀、セブンイレブン、野村証券……業界の最大手をひとつずつなどと馬鹿なことを考えていました。もちろん本気で就職するつもりはこの時点ではゼロでした。僕がやりたかったのはあくまでも「就職活動」だったのです。

 2月に入ると、勉強の合間に日経就職ガイドや毎日就職ガイドなどの企業情報誌を見る時間が多くなりました。何せ膨大な数の企業があるので見ていると退屈しません。また、リクルートスーツなどを買いそろえたのもこの時期です。

 内定をもらうことにこだわらないならば、就職活動ほど面白いものはないと言っていいでしょう。会社研究をするにしても気楽なもので、雑誌代わりに就職情報誌を読んでいました。当然、受験勉強の方はおろそかになります。1年間勉強してきた疲れもあってか、自宅学習は殆ど行わず、惰性でセミナーに通っている状態でした。国 I 受験と平行して就職活動をするのは下手をすると共倒れになる危険を秘めています。まさしく「二兎を追う者」に僕もなりかかっていました。

父の言葉

 こんな僕の気のゆるみを指摘してくれたのは父の言葉でした。それはだいたい次のようなものでした。「お前は本気で公務員になる気があるのか? 受験勉強も就職活動も遊びでやっているようにしか見えない。一体将来はどうするつもりなのか? お前の考えをきちんと聞かせてくれ」僕には耳の痛い言葉でした。遊びで国 I を受けようとは思っていませんでしたが、就職活動については返す言葉がありませんでした。おそらく就職活動に興じている僕の姿は、国 I すらも本気で受ける気がないように父には見えたのでしょう。

 父の言葉のおかげで気持ちを入れ替えることができましたが、就職活動をしたいという気持ちは残っていました。といっても社会勉強は遊びではなく、民間企業というものに漠然と引かれ始めていたのです。これまで公務員しか眼中になかった僕ですが、遊び半分でも会社研究をしているうちに民間企業の存在も選択肢の1つに考えるようになっていました。しかし、民間を回るとしても国 I の勉強がおろそかにするわけにはいきません。また、企業から内定をもらえ、国 I にも合格となったときに進路を迷うのはいやでした。この2つの問題を解決するために、僕は回る民間企業の数をとことん絞ることにしました。

民間企業の絞り込み

 絞り込むに当たって考慮したことは、次の4つでした。

 (1)公務員を志望するのと同次元で受けたいと思える企業であること、(2)内定がもらえたときには国 I をあきらめてよいと思える企業であること、(3)企業の主な業務が、自分がその歯車となって達成することに喜びを感じ得るものであること、(4)今後、新たな転換を迎えることが予想される企業であること。

 (3)と(4)は企業で気持ちよく、やりがいを持って働いていくための条件です。(2)は余計な悩みを避けるためのものです。最大のポイントが(1)でした。僕は、民間と公務員を同時に希望するということにいくらかの矛盾を感じていました。そしてこの矛盾を抱えたままでは、就職活動がうまくいくとは思えなかったのです。そこで、まず、公務員になりたいと思うそもそもの動機を考えてみることにしました。そして、その志望動機がそのまま通用する企業を選ぶことにしたのです。志望動機を同じくするならば、官民に二股を掛けることの矛盾は解消されると思ったからです。

 僕が公務員を目指した志望動機は、1年間の試験勉強の間に、当初のあやふやなものから、はっきりとしたものに変わってきていました。それは一言でいうならば職務内容です。−「広く人々の生活を支え、豊かにすることが大きな視点からできる仕事につきたい」−これが僕の最終的な志望動機でした。そしてこの志望動機を、企業を選ぶ判断基準として当てはめた結果、前述の条件に合う企業として3社に絞り込むことになりました。

4つの選択肢

 選んだ3社は、某大手電力会社、某大手都市ガス会社、通信教育で有名な某大手教育出版社の3つです。それぞれ企業名は察しがつくと思いますが。これに国 I を加えた4つが僕の進路希望先ということになりました。この時点では僕の中では、国 I も民間も全く同列の扱いになっていました。先に挙げた志望動機で、将来の働き場所を考えたときに候補に挙がったのがこの4つと考えればわかりやすいのかもしれません。つまり国 I も自分が自己実現できる勤務先の1つとして、たまたま条件にあったにすぎないことになるのです。したがって、他人から見ればこの4つの志望先はバラバラに思えるかもしれませんが、僕の中では全く矛盾するものではありませんでした。

 こうして官民の二股を掛けること矛盾を解決したわけですが、端から見ればただめんどくさい事に思えるかもしれません。しかし、ここで迷いを無くしたことが後々大きな意味を持つことになります。

人生にムダなものはない

 さて、振り返ってみると不思議なものです。とりあえず目指した公務員試験が、いつの間にか公務員一筋になり、それが最後には同列の志望先の1つにすぎなくなってしまったわけです。僕はこの結論に満足しています。何より考え抜いた末の結論です。

 これはセミナーの仲間との自主ゼミや、遊び半分に民間を受けようとしたおかげでもあります。こうしてみると、父に戒められた遊び半分の就職活動ではありますが、全くのムダではなっかったわけです。思うのですが、人生で体験することに全くのムダというものはないのではないでしょうか。どんなに辛いことでも、役に立たなそうなことでも、要はそこから何を学ぶかが重要なのだと思います。

就職活動

 こうして就職活動の基本方針が決まったのが2月末でした。実際に会社の説明会に行き始めたのは3月の頭からです。3社というのは、就職活動の常識からすればとんでもなく少ない数です。その分会社研究は相当力を入れて行いました。ちょっと大げさですが3社とも内定をもらうつもりで活動しました。3月の僕の手帳を引っぱり出して見ると、25日を除いて全て予定が入っています。その日以外は、企業訪問、官庁説明会、早稲田セミナーのいずれかかがありました。実際には、就職活動に思った以上に時間をとられ3月、4月はろくに国 I の勉強はできなかったのを覚えています。1社ごとに力を相当入れたこともありますが、3社でこの有様ですから、もっと多くの会社を回る受験生は相応の覚悟が必要でしょう。

長期戦に突入する

 たった3社の就職活動でしたが、それぞれの会社の採用時期がうまくずれていたため、就職活動は思った以上に長引きました。まずは某教育出版社の面接が3月からスタートしました。これは2次面接までいきましたが、4月の頭に断られました。次は某ガス会社の説明会が4月の中旬にありました。ここも2次面接まではいきましたが、5月の初旬に切られてしまいました。となると、残っているのは某電力会社しかありません。普通の人ならば2社落ちてこれからというところでしょうが、そもそも3社なのですでに持ち駒が残り1つになってしいました。

迷いからの脱却

 このときはさすがに落ち込み気味でした。就職活動ではよく、これだけは誰にも負けないと思うものが1つはあるはず、そこをアピールしよう、などといいますが普通はそんなものありません。それでも自分を売り込まなければいけないのが就職活動なのですが、僕はどうも恥ずかしく自分を売り込むのが苦手でした。こんな僕の意識を変えてくれたのは、西武ライオンズにこの頃入団した新外国人選手でした。ジンターという名前の彼は、入団記者会見の場で、「俺の持ち味はチャンスに強い打撃なので、どんどん打って優勝したい!」、と話していました。これを見た瞬間僕の迷いははれました。新天地に飛び込んで勝負するからには、大げさなぐらいアピ−ルして当然。素直にそう思えました。そんなことでと思うでしょうが、迷いを振り払うきっかけなんてこんなものなのかもしれません。ジンターが西武で活躍した話は全く聞きませんでしたが、彼には感謝しています。

 人間腹が据わると変わるもので、電力会社の面接は驚くほどスムーズに進みました。他の会社の進行具合はという質問には、もう切られてしまっているのに、「今週最終面接です」とハッタリさえもかましました。ジンター様々です。

待望の内々定

 また、企業を選ぶ段階で自分なりの判断基準が確立していたことが面接でいきました。志望動機をいうときも迷いはありませんでしたし、電力という公企業だからこそ志望したのだという気持ちをうまく出せました。なかには金融系も回っていることを最終面接でつっこまれ、切られた人もいたようです。就職活動は最後は縁で決まるといいますが、この会社とは縁もあったのでしょう5月14日、待望の内々定を頂くことができました。

 こうして、僕の就職活動も無事終わりました。3社受けて1社内定ですから、打率にすれば3割3分3厘、なかなかのものです。もともと内定がもらえた時点でそこに行くつもりでしたので、国 I との迷いはありませんでした。結局は、民間に行くことになりましたが、これも1年間の受験勉強があってのことだと思います。行政に関する知識や、自主ゼミでの仲間達との会話がなければ、ここまで充実した就職活動はできなかったでしょう。多くのことを学べた1年でした。

国 I も最終合格

 ただ1年間勉強してきたことの証として、試験だけは受けることにしました。しかし官庁訪問は全く行いませんでした。国 I の勉強はというと、就職活動に比重を置きすぎたため、本試験2日前に民法の過去問が解き終わるという有様でしたが、一応スケジュール通りに終わらせることができました。ある程度就職活動をにらんで前々から復習しやすい勉強をしてきたのが功を奏しました。国 I の方も無事最終合格することができました。これで僕の受験勉強は幕を閉じたわけです。この後は、僕なりの試験勉強法や就職活動の心構えを書いてみたいと思います。今後国 I を目指す人たちの参考になれば幸いです。

後輩へのアドバイス
国 I の勉強法
 就職活動をにらんでいるならば、早めの過去問演習が必要。5月後半からは模試の検討や最新判例チェック、総合復習のみに専念できる体制を整えることよいでしょう。そのためには復習しやすい勉強が大事です。僕は過去問を解いたときに、少しでも分からない肢は1行問題に作り替えて復習ノートに書き込んでいました。国 I は1次の成績が重要です。1次で高得点すれば2次を少々はずしても大丈夫です。教養対策ですが最近の時事問題系に対応した勉強が有効です。化学でも政治でも最近の話題に絡めた切り口で出題されます。問題を作る側の気持ちになって出題されそうなトッピックを「イミダス」や「朝日キーワード」などで調べておけばいいでしょう。
就職活動対策
 最近は官庁訪問で内定をとるためには民間を回るとよいという話も聞きます。国 I の肥やしとしての就活ならば時間をとられすぎないように気を付ければよいですが、本気で両にらみの場合には覚悟が必要です。企業もしくは業界を選ぶ自分なりの判断基準をしっかり持つことが重要です。また、官民の差も認識しておく必要があります。一番の違いは商売を行っているかどうかです。民間は仕事がそのまま営利目的であるため評価はシビアです。その分やりがいがあるとも言えます。僕が民間に魅力を感じた点はそこです。就職活動自体の最大のポイントは、気合いだと思います。本気でその会社に入りたいと思っているならば、返す言葉にも説得力が出るものです。面接官はその点を見逃しません。また、慣れも必要です。本命の会社を受ける前に数社落ちておくことが大事です。僕が3社目で内定をもらえたことも偶然ではないと思います。
国 I にお薦めの本
 城山三郎著「官僚達の夏」は国 I 受験生にぴったりです。頑固だが実直な通産官僚が、若い世代に影響を受けながらも国政に尽力する姿はモチベーションを高めること請け合いです。
就活に役立つ本
 ちまたで悪名名高きベストセラー「面接の達人」も裏を読めば大変役立つ本です。いわゆるマニュアル本ですが、本の表面をそのまま読むのではなく、就活ではそもそも何が求められているのかをこの本からくみ取ってみてください。本の背後にあるものを読みとれれば、就活の本質が分かると思います。自分なりの解釈でよいと思いますから、何かをつかんでください。ちなみに僕の感じた就活の本質(ポイント)は、志望動機とプレゼンテーション能力の2つです。

以上

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