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キャリア・エリートへの道


文学部・既卒の不安を克服して国 I 法律職合格

はじめに

 2000年8月16日、人事院の掲示板で自分の名前を確認したとき、私の約1年間にわたる国 I 法律職合格に向けた道のりは終点を迎えました。1年間、自分は本当に合格するのだろうか、内定できるのだろうか、と不安に思うことがしばしばありました。この不安の原因の多くは、自分が文学部を卒業して、現在25歳であることにあったと思います。国 I 法律職といえば、法学部生ばかりの激戦区(というイメージ)。そんなところに、法律の予備知識のない文学部生が入りこむ余地はあるのだろうか。仮に合格したとしても、既卒25歳という条件で採用する省庁はあるのだろうか。常にそんな思いが頭の中をめぐっていました。

苦しみながらも最終合格をすることができ、その上、来年4月から国家公務員として働くことが決まった今、私と同じような不安を抱えている受験生の皆さんの参考になれば幸いと思い、ペンをとることにしました。私の合格体験記では、他学部であったり既卒であったりしても諦めないで欲しい、そんなエールを送る気持ちで、過去・現在・将来の思いを書き綴っていこうと思います。

家族のこと

 私が東京都杉並区に生まれた当時、私の家族は父、母、兄〈13歳上〉、姉〈11歳上〉、私の5人でした。3人兄弟であれば少しは社会性が育ちそうなものですが、一人だけ歳が離れていたこともあって甘やかされたため、典型的な内弁慶でした。どんな家庭で私が育ったのかを知っていただくために、少し家族の紹介をしたいと思います。

 父は某電力会社の孫請けで、電気工事の仕事をしていました。小さい個人経営の会社の代表取締役である父は先頭に立って日本各地に出張し電気工事をしていたので、自宅にいるときはほとんどありませんでした。たまに帰ってきても、大酒をくらい、仲間と徹夜で麻雀をする。幼い私にとってそんな父のイメージは良いものではありませんでしたが、父は無条件に私をかわいがってくれたのを覚えています。歳をとってからできた子供だからでしょう。そんな父が亡くなったのは、私が中学2年生になったばかりのときでした。死因は食道ガンで、酒・タバコが原因だったそうです。その後はお決まりの展開でした。会社は倒産し、父がつくった借金を生命保険と自宅の売却金で返済したため、近くのマンションを借りて住むことになりました。出張ばかりでいっしょの時間を共有したことがほとんどなかった父との思い出はあまりに少なすぎます。父の顔は仏壇の写真で見るイメージしかありませんし、成人した私とどういう話しをしたかったのか、今では知る術もありません。

 母は私が3歳の頃、慢性関節リュウマチを患い、それ以来20年以上も身体障害2級という状態です。日常生活をできないわけではないので、今も家事の面ではお世話になっています。何度も入退院を繰り返し、幾多の大手術を乗り越えた母の精神力には驚かされます。決して完治することのない病気に勝とうと、笑って手術室に向かう母を見るたびに頭が下がる思いです。決して余裕があるわけではない暮らしなのに、私には苦しいと感じさせないようにしてくれたのも母の気使いだと思っています。25歳になるまで就職をすることのなかった愚息を、納得のいく仕事につけばいい、と励ます。自分を信じてくれた母に報いようという思いが、試験勉強中はずっとありました。なにかと不安のつきまとう試験勉強中、家族の励ましはなによりの支えになりました。

 13歳上の兄は、母と折り合いが悪く、家族と一緒に過ごすことはほとんどありませんでした。それでも弟の私には優しく、休みになるとドライブにつれていってくれました。歳の近い兄弟がいるからこその遊びはした覚えがありませんが、ドライブで普段は行けないようなところに行くのが楽しみでした。私にとっての兄は、出張でいつも家にいない父の代わりだったのかもしれません。父の他界後、兄は婿として結婚し、長野で暮らしています。もう10年以上も会っていない、そんな不思議な関係が続いています。

 11歳上の姉は病気の母と、私の生活を支えるために、結婚まで先延ばしにして働くような人です。結婚した今でも家に生活費を入れてくれています。私は就職が決まってから、守る家族がいるという強い思いが芽生えました。きっと姉にもそういう思いがあったのだと思います。病気の母の代わりに、入院中は私の世話もしていたので、「もう子育てはあんたでたくさん」といわれたものでした。それが本心なのかはわかりませんが、結婚が遅かった姉には子供がいません。姉はもっと別の人生を送れたのかもしれない、と思ったりもしますが、これから今まで育ててくれたことに感謝していこうと思います。

中学受験から筑駒時代の6年間

 誰の薦めがあったのか今では覚えていませんが、小学4年生の頃から私は近所の学習塾に通っていました。勉強をすることにそんなに苦痛を感じていなかったり、学校の友達と遊ぶよりも、塾の友達と休み時間や授業が終わった後に遊ぶのが面白かったので、塾に通うのが楽しくてし方がありませんでした。そこには、中学受験をするから、という義務の意識はまったくなかったように思います。5年生の後半にもなるとだんだん受験の話しが友達の間でも出るようになって、みんなが受けるからという理由で中学受験をすることになりました。結果的に、筑駒中と私立のA中学に合格し、家に近いからという簡単な理由で筑駒に入学しました(父が亡くなった今思い返すと、私立だったら学費が払えなかっただろうから、いい選択だった)。

 この学校は校則や制服がなく、教官たちはことあるごとに「自由闊達」を口にするという、とにかく自由なところでした。1学年の人数が少ないので同級生の顔がわからないということがなく、アットホームという面もあるのですが、反面、誰からも干渉されないため個人主義が育ちやすく、グループ化現象も起きました。私には今でも深い付き合いをしている中学以来の友人がいますが、居づらかった人もいただろうなぁと思います。

 私が中高の6年間ではまってしまったのは、吹奏楽部でした。このとき吹奏楽部に入っていなかったら、私の人生は、少しは違っていただろうと思うほど以後の生活に影響を与えることになりました。中2のときサクソフォンに出会い、うまくなるように懸命に練習しました。トレーナーの先生がいるわけでもなかったので、個人的な演奏レベルもそれほどではありませんでしたし、部全体のレベルも、小人数の編成ということもあって納得のいく演奏ができたわけではありませんでした。ただ、先輩や後輩と一緒に演奏することは吹奏楽部でしかできない経験でした。その魅力にとりつかれ、大学に進学しても吹奏楽を続けようと、高校2年生の引退のときに誓ったのです。

 筑駒高校は東大合格者ベスト10に毎年入ることで有名ですが、授業はいたって普通でした(入学したばかりの中1を相手に高校レベルの遺伝子の授業をする教官もいましたが)。しかし、大学受験を目の前にすると、周りからはどこからともなく東大受験という声が聞こえ始めるようになります。私は、古文の授業で『源氏物語』に強く惹かれ、大学では『源氏』を研究すると決めていましたが、私立だと学費が大変という以外は、大学にこだわりはありませんでした。いや、なかったといえば嘘になるかもしれません。結局は、頭の中に「東大」という縛りがあり、私も友人たちと一緒に東大を受験しました。東大だけに絞るという、一歩間違えれば予備校に通ってさらに家に迷惑をかけそうなことをしながらも、現役で合格することができました。こうして、私は東京大学文科III類に入学することになったのです。

大学における希望と失望

 大学に入学してすぐに吹奏楽部に入部し、週3回の練習に真面目に出席して練習をしていると、いつのまにか大学生活は部活中心になっていきました。そうしていても試験さえ受ければ単位は出るし、所定の単位さえ取っておけば私の目指していた国文学科には進学できたので、練習ばかりして授業には出ないという悪循環でした。ただ、大学の吹奏楽部は高校のときと違って大編成のバンドだったため練習自体が楽しく、3年の頃、私はいつのまにか学生指揮者をしていました。練習日程を決めるにも、演奏会の曲目を決めるにも会議の連続。練習には必ず出席しなければならない。と、1年間、休む暇はありませんでしたが、それだけに充実した日々が送れたのは確かです。

 一方、教養課程の頃は、クラスの友人たちが比較的真面目に授業に出て、なにか2年間で身につけておいたほうがいいと口をすっぱくして言うので、それならば語学をいくつかモノにしようと決めました。英語がもともと好きだったこともあって、語学には興味がありました。そこで、第2外国語であるドイツ語の他にも、ラテン語、中国語、フランス語、ロシア語の授業に出てみましたが、いろいろ手を広げすぎてどれも中途半端になるという危機感がありましたので、最終的に、勉強していて一番楽しかった中国語に絞ることにしました(他の語学は読んで発音できる程度なので、時間があるときに勉強しなおしたいと思っています)。1年間勉強して、第2外国語のドイツ語よりも理解はできていたので、大学4年を迎える前の3月、北京に短期語学留学にいってみました。1ヶ月間外国で暮らすのはもちろん、中国も初めてだったので、見るもの聞くものすべてが新鮮でした。語学留学だったので、午前中は大学で授業がありましたし、仲の良くなった中国人の学生に私の部屋まで来てもらって、中国語を教えてもらいながらいろいろな話しをしたりしました。北京の名所、旧跡はほぼ制覇しましたし、街にもよく出て、ちょっとした北京通になったと思います。この1ヶ月の経験で、海外でも十分暮らせるのではないかと少し変な自信がついたようなところがあります。

 では、大学で研究しようと思っていた『源氏物語』はどうなったのか。国文学科に進学した3年のガイダンスにて、その年度限りで退官する教授の挨拶が、「最後の1年を何事もなく無事に過ごせればと思います」などというなんの覇気も感じられないものであったことや、研究の方法論が、鎌倉時代以降の古注釈を参照しながら、1文1文綿密に分析していくという退屈なものであったこともあり、すぐに失望してしまいました。文学を社会学的に考察したいという私の目論見は泡沫に帰したのです。進学前の情報収集が足りなかったという自分が責めを負うべきところもありますが、それにしても高校の頃から憧れていた国文学の世界が急に色あせて見えてしまい、なんの関心もなくなりました。国文学科進学は、大学における最大の失敗だったと思います。

卒業までの悩める日々

 北京から帰国する頃、周りは就職活動真っ盛りでした。吹奏楽部の友人たちはリクルートスーツを身にまとい、日々戦っていました。学科の同級生は大学院進学のため、卒論などの研究活動に精を出していました。私はどうしていたかというと、忙しく動いている友人たちを横目に、中国から帰ってからというもの、放心状態にあったのです。今まで日本で暮らしていながら、世界にはまったく自分たちとは違う人たちがいて、まったく違う生活を送っている。そんなことを考えながら、就職活動という現実から逃げていただけなのかもしれません。それに、国文学という学問に興味を失っていた私には大学院進学という選択肢は既になくなっていました。

 我ながら呆れたものですが、私はいつのまにか吹奏楽部の活動に逃げていました。学生指揮者の仕事はなくなりましたが、演奏者として練習に精を出していました。夏には友人たちの進路は大体決定しましたが、私は相変わらずの日々で、今後の進路を聞かれることに嫌気をさしつつ、そのまま12月の部活引退の日を迎えてしまいました。なにも決めず、なにも決まらず。そんな私にも決断するときが来ました。卒業するか、留年するかという決断です。それまで授業料は免除になっていましたが、留年すれば必ず授業料を払うようになります。家族に迷惑をかけたくないから卒業してしまおうかとも思ったのですが、このまま卒業してはどこにも就職できるわけはありません。幸い、奨学金が貯まっていたので、それを授業料に使って留年することにしました。

 こうして私の大学生活5年目は、就職活動とともに幕をあけました。ところが、前の年になにも考えていなかったために、自分がどういう仕事をしたいか、という視点が欠けていて、早く就職をして家族を安心させたいという気持ちだけが先にたってしまいました。なんでもいいから就職したいと、思うままにマスコミやメーカーなどさまざまな業種の方の話を聞いてみましたが、どうもしっくりこない。自分のやりたい仕事はなんだろう、一生付き合っていけるやりがいのある仕事はなんだろう、と疑問に思い始めてしまったのです。一度疑問に思うと、どうしてもそのまま就職活動を続けるつもりにはならず、そこで中断。かくして、短い就職活動は夏に終わりを告げたのでした。

 普通の人なら就職活動を始める前に考えるべきことを考えずに、なんとなく始めてしまったツケがまわったのだと思います。夏から秋にかけては自分のふがいなさ、要領の悪さを呪い、また、自分の将来を、時には前向きに、時には後ろ向きに考える日々でした。そんな中、公務員という選択肢に出会いました。文学部であった私にはなんだか近づきがたい職業で、思いつきもしなかったのですが、吹奏楽部の先輩が(この先輩も2年ほど無駄に過ごしてしまった似たものどうし)通産省に入省して、話を聞いたのがきっかけでした。国のために仕事ができる、やりがいのある仕事だ。その先輩はまだ入省して1年目なのに、どうしてこんなにも胸を張って自分の仕事を語れるのだろう、と公務員という仕事に興味を覚えました。今思い起こすと入省1年目は理想に燃えている頃で、そんな語りが先輩の口から出たとしてもおかしくはないのですが、その頃の私にとっては目の前が拓けたような思いでした。よし、これでいこう、とあっさりと国 I 受験を決意しました。大学5年目の秋でした。

既卒・文学部は不利なのか?

 私が国 I を受験するにあたって不安だったのは、自分が文学部生で、しかも、受験時には大学を卒業して25歳になっていることでした。というのも、もう1年留年して翌年6月の試験を受験することも考えましたが、ただ在籍するために1年間の授業料を納めるのは無駄だと思いましたし、約半年で最終合格に達するだけの実力をつけることは到底できないと思われたので、大学は5年で卒業し、1年間勉強した上で試験に臨むことにしたからでした。試験に失敗したら後がないという、自らを逃げ道のない立場に追い込んでしまったわけですが、そのほうが最終目標に向かって最大限の努力をするだろうという楽観的な思いがありました。

 では、実際に既卒・文学部であることが不利だったかというと、それは一概に言えないと思います。まず、文学部であるが故に面倒なことはありました。公務員試験というそれまでまったく知らない世界に足を踏み入れるとき、自分には情報を仕入れるネットワークがないことを思い知らされました。法学部等であれば周りに公務員試験を受ける友人がいたり、公務員試験用の勉強会や情報サークルがありますが、文学部の同級生はほとんどが大学院進学や民間企業に就職するため、一般的な試験勉強の方法論や官庁訪問はどのようなものか、当初は知る由もありませんでした。そこで私は、国 I 受験を決意するきっかけになった前述の先輩や、既に霞ヶ関で働いていた高校の同級生に話を聞いて、だいたいどのような勉強をすればいいのか、官庁訪問はどういうプロセスをたどるのか、調べるようにしました。また、公務員試験用の予備校があることは知っていたので、勉強を始めるきっかけやペースメーカー、試験の情報収集になるだろうと思い、いくつかパンフレットを取り寄せ、受講システムがわかりやすかったWセミナーに入りました。さらに、巷で出版されている公務員試験受験用の雑誌、書籍には必ず目を通すようにしました。このようなプロセスを踏むことが不利であるかどうかは別として、試験の全容を知らないで受験することは、戦略をたてずに闇雲に戦いを挑むことに等しいので、あまり賢くありません。最初に、自分は何をするべきか、どれだけ勉強をすればいいのか、省庁研究はいかにするのがよいのか、等々を知った上で受験に臨めば、文学部であるが故の情報格差はなくなると思います。

 次に、学習面では、Wセミナーで一から勉強することにしました。法学部生であれば法律に関する予備知識はありますが、私は社会科学系の学問を大学でほとんど学ばなかったため、法律学の知識は皆無でした。そこで、予備校で試験に合格するための勉強をしようと思いました。法律学を学問として勉強するわけではなく、国 I 合格のための手段として効率よく勉強しようと心がけましたが、一方では、公務員になれば法律の運用をする立場になるわけですから、そういう視点は常に持つようにしていました。しかし、実際にこのようなことを考えながら勉強をしたのは、渡辺ゼミに入ってからでした。渡辺ゼミは、私の1年間の受験勉強において重要なターニングポイントになり、過去問の徹底分析・過去問と基本書のフィードバック・公務員に欠かせない行政法の重要性など、それまで法律の知識を漫然と詰め込んでいた私には「脳内革命」とでもいえる事をいろいろ学びました。

 既卒・文学部であるがためにもっとも不安を覚え、また苦労したのが官庁訪問でした。国 I の場合、試験に最終合格しても、官庁訪問で自己アピールをし、省庁に採用されなければ国家公務員として働くことはできません。事前に話を聞いていた先輩や友人は皆、東大法学部といういわばもっとも採用されやすい(と思われる)立場であったし、大学在学時に最高でも現役プラス2年で採用されていました。また、「採用されるのは現役プラス2まで」とか「25歳を過ぎると採用は難しい」とかいった噂(?)がまことしやかに聞かれました(情報収集も決して良い面ばかりではありませんでした)。しかし、既卒・文学部という立場だけはいかに努力しても変えようがありません。「所詮、採用は無理な話か……」と諦め、また投げやりになることもありましたが、将来の道をしかと見定めた今、自分の将来を放棄するようなことはしたくなかったので、無理やりに自分を奮い立たせました。そこで、今の自分の立場を受け入れた上でアピールしていこうと考えました。既卒であれば、「卒業してからなにをしていたか」、「民間企業に就職することは考えなかったのか」聞かれるはずだし、文学部であれば、「研究者にならずになぜ公務員になろうと思ったのか」必ず聞かれるはずです。大勢いるであろう現役の法学部生よりも、既卒・文学部という異色の私に面接官は興味を持ってくれるだろう。そのときうまく自己アピールができればいい結果につながるのではないのではないか、と考えるようにしました。

 既卒・文学部は不利なのかという問いに、今でも明確な答えは出せません。自分の努力でなんとかなる部分もあるし、どうにもならない部分もあるからです。まずは、なんとかなりそうな部分を自分の力で必死にカバーすることが大事だと思います。私にとっては、試験の情報収集や試験勉強がそれにあたりました。そして、どうにもならない部分についてはポジティブに考えることが大切です。とはいっても、私自身、自分の身の上を嘆いたり、採用が難しいことを知って落ち込んだりしたことが1年間に何度となくありました。そこを、自分の夢を諦めたくないという強い思いで押し切るようにしました。友人と遊んだり、勉強が調子よく進んだり、業務説明会で実際に仕事の話を聞いたり、強い思いが生まれるきっかけはそこら中にあります。要はポジティブな考え方です。

官庁訪問雑感

 官庁訪問は、国 I 受験生にとって最大の山場であるといわれていますし、実際にこの夏、官庁訪問を経験して、それは真実であろうと感じました。今年の法律職最終合格者は255名でしたが、採用予定数は約145名(今年度)なので、100名以上が採用されないということになります。私にとって、試験に合格するかはもちろん不安でしたが、既卒で文学部の自分を採用する省庁が果たしてあるのだろうかと不安に思うことの方がよりありました。実際、年齢がネックになって採用を控えられたという話を聞いたことがあったからです。省庁側にしてみれば、25歳の私と、現役22歳の学生を比べたとき、よりポテンシャルが高いほうを採用するに決まっています。年齢差の3年で後者の方が伸びると思われたら、現時点で能力に少しくらいの差があっても若いほうが採用されるし、私は、他の人より余分に年齢を重ねているからこその「何か」を求められるのは当然でしょう。年齢や既卒であることは、もうどうにもなりません。そこで、とにかく私は、省庁側を納得させることができるだけの「何か」をアピールしようと考えました。

 文学部であることはどう考えるか。大学の専攻を仕事に生かせるようならベストでしょう。例えば、行政法や国際経済学、環境と開発等々、自分の志望する省庁の仕事に専攻がぴたりとはまっていれば、それは十分なアピールになります。しかし、私の専攻は国文学。これでは話題のひとつにはなっても、アピールにはあまりなりません。そこで、専攻については聞かれたら答える程度にして、北京に留学した経験や語学に興味があることを話すことにしました。語学は強い武器になります。もちろん、私は1ヶ月語学留学しただけなので、仕事に即戦力として使えるわけではありませんが、面接で自分をアピールする材料としては十分でした。回った省庁のすべてで語学についてはアピールしましたし、人事院面接でも、留学経験について詳しく聞かれました。専攻分野は面接の必須質問事項であるようで、私もすべての省庁で聞かれましたが、国文学という専攻が有利に働いたとはとても思えませんでした。ただ、珍しさはあるので、覚えてもらうきっかけくらいにはなったようです。

 既卒であれば、卒業してから何をしていたか、必ず聞かれます。社会人の経験があれば、どういう仕事をしていたか、公務員に転職を希望するのはなぜかを話すことができます。社会人経験があると、面接官は学生よりも高いハードルを要求するようですが、語れるだけの仕事をして、相手を納得させることができるなら、それはまさにメリットになるでしょう。私の場合、社会人経験があるわけではなかったので、国家公務員を目指すようになったきっかけや、是非とも公務員になりたい、その省庁で仕事をしたいという強い熱意を示すことにしました。25歳の志望理由としては少し弱いかとも思いましたが、1年間を費やしても国家公務員になりたかったという自分の気持ちは汲んでもらえたと思います。

 今でこそ素直に官庁訪問を振り返ることはできますが、1年前の私は、省庁研究はほとんどしていなかったし、志望動機も曖昧なままで、他の人の合格体験記を読んで、「自分にはこの厳しい関門をクリアできるだけの精神力があるだろうか。面接官を納得させるだけの自己アピールをできるだろうか。」と漠然とした不安を抱えていました。そんな私でも、新聞を読んで政策の研究をしたり、各省庁が開催する業務説明会に出席して仕事の面白さ・辛さ・充実感などを感じたりしながら、志望動機や自己アピールを構成して、官庁訪問をのりきることができたのです。悩んでいるだけではなにも解決しないのは、試験勉強といっしょです。とにかくいろいろなアクションを起こして、面接官を、なによりも自分自身を納得させるアピールをできるようにすることが大切です。自分を売り込むのに、自分で妥協しないこと。既卒・文学部等のハンデがあるからといって卑屈にならず、攻めの姿勢を崩さないこと。

21世紀、国家公務員になるにあたって

 私が国 I 最終合格を決めてから、友人の一人と呑む機会がありました。彼は今年から消防官として働いているのですが、そのとき言われたことは、「消防学校では、税金を使って仕事をしていることを常に忘れるなと何度も教官から教えられる。最初の研修でそのことを言われなくても頭にいれておいたほうがいいよ。」ということでした。彼と私とは、地方公務員と国家公務員とで立場は違っても、税金で仕事をしていることに変わりはありません。きわめて当たり前のことですが、大切なことです。

 そもそも私が公務員になろうと思ったきっかけは、先輩が自信を持って、自分の仕事を私に話してくれたことであるのは先述したとおりです。それからも、業務説明会等でたびたび目にした、忙しいながらも仕事に情熱を持って取り組むキャリアたちの姿に感動し、21世紀の日本の姿を考えられる仕事をしたいと、強く思うようになりました。では、21世紀の日本は誰のためにあるのか。それは、日本に住むすべての人のためにあるのだと思います。特定の地域のためでもなく、特定の業界のためでもなく、特定の利益集団のためでもありません。税金を出して、日本の将来の姿を考えることを任せてくれた、すべての人のために働くという意識を忘れずにいようと思います。

 この文章の冒頭で、国 I 最終合格に向けた道のりは終点を迎えたと書きましたが、国家公務員としての道のりはまだ始まったばかり(というか、まだスタートラインにも立っていない状態)です。みんなのために仕事をしたとしても、みんながハッピーになるというのはとても難しいことです。あちらを立てればこちらが立たない、という利害の対立はどこでも起きうることでしょう。仕事をしていく上で、悩みは尽きないと思います。それでも、自分は誰のために、何のために仕事をしているのか。目先の仕事だけに囚われない、広い心、視野、柔軟な考えで、長く険しい道のりを進んでいくつもりです。

おわりに

 私の合格体験記が、どれほどの役に立つかはわかりません。なんらかのハンデを抱えている皆さんを少しでも勇気づけられたらと書き連ねましたが、僭越に過ぎたところがあったかもしれません。しかし、一般的には不利だと思われる点でも、ハンデと思うかどうかは気持ちの持ち方次第です。私が既卒・文学部という不安を克服したように、どんなハンデもぜひ乗り越えて、将来の夢・希望を獲得して欲しいと思います。

 最後になりましたが、家族・友人の励ましや支えがなかったら、苦しい試験勉強は載りきれなかったと思います。また、渡辺先生のご指導、助言がなかったら、私の最終合格はなかったと思います。良き方々に巡りあえたことに感謝します。ありがとうございました。

以上

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