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はじめに 2000年8月14日、ネット上の東京都の合格発表ページに自分の受験番号が載っているのを確認し、私の公務員受験はようやく終わりました。大学在学中の時も合わせれば通算3年以上になる長い期間でしたが、今までいろいろとあったためか喜びというよりは、むしろこれから先今度こそきちんとやっていけるのかという不安感のようなものが湧いてきてしまいました。 私はもともと現役の時は国家 I 種(法律職)を志望していましたが、内定がもらえずかつ二次落ちしてしまったため、卒業後の98年3月に海上自衛隊に幹部候補生として入隊しました。しかし、腰を壊してしまいその年の7月末に早くも退職、その後民間で勤めながら公務員試験の勉強を続けることになってしまい、今年になりようやく合格することができました。 このような過程をたどってきたため、さまざまな種類の試験を受ける羽目になってしまいましたが、逆にこのような経験はさまざまな状況におかれている公務員志望の人達にとって参考になる部分もあるのではないかと思い、今までの人生を振り返り、経験を無駄にしないためにもこのようなものを書かせていただく次第です。 生い立ち私は生まれたのは東京ですが、父の仕事の関係などで生まれてから9回住むところを変えており、住む環境が何度も変わる生活をしてきました。ただ、住む環境が変わるのはそれほど苦痛ではなく、むしろ環境が変わったときの新たな気持ちを楽しんでいたような思い出があります。住んでいた地域は都会の方が多いですが、地方に住んでいたことも9年程あり、都会と地方の両方の生活を体験しています。 家族は地方出身の父と関東出身の母、そして2歳年下の妹でした。父と母は僕が中学生のときまでは一応は普通に過ごしていましたが、高校生になったころから折り合いが悪くなり別居、そして大学生のときに正式に離婚してしまいました。 また、私の性格ですが、小さいころから思い起こしてみれば、どちらかといえば内向的な性格であり、真面目で素直だと言うことができます。親や先生の言うことを聞く方でしたし、結構ルールのようなものを守る方でした。(別の見方をすれば、融通が利かず気が弱く要領が悪いということになります。いじめられたことも幾たびかありました。)幼稚園のころはそれほどではありませんでしたが、小学校のころからこの性格が目立つようになり、遊ぶのも大人数で外で遊ぶよりは、小人数でおとなしく遊ぶような傾向が強くなっていきました。 小学校時代小学校時代は後から考えればそれほど勉強した訳ではありませんでした。特に勉強で目標などを立てることなく、親から言われたからやるといった感じでした。中学入試ももちろん眼中にありませんでした。ただ、親から比較的うるさく言われていたので、他の子と比べれば勉強している感じでした。特に、漢字ドリルは熱心にやらされていたような気がします。また、4年でローマ字を習った際、自分ではいつまでたっても覚えようとしなかったので、母親がつきっきりで覚えさせられた記憶もあります(後から考えれば、これは本当に良かった。ローマ字ができないと、英語を学ぶことができない)。このように、他の人と比べれば勉強させられていた方に入っていたため、成績は中の上ぐらいのところにおり、それなりに勉強ができるグループには入っていました。 遊びの方は、前述の通り小学校にあがってからは外で遊ぶよりはむしろ家の中で遊ぶ方が多かったです。体育は余り得意ではなく、特に興味もありませんでした。そのため、遊びもどちらかといえば体を動かす遊びより家の中で遊ぶ方が主体になっていきました。ただ、水泳は比較的得意でした。 中学時代小学校が以上のような状態であったため、中学に入学した当初は高校進学や将来について特に考えることも無く(高校は公立で将来も全く消極的な理由で公務員になれればいいと思っていたぐらいです)、それほど勉強したわけではありませんでした。また、小学校の時と同様に特に運動に関心があったわけでもなく、部活動での活動もしていませんでした。入学後始めて行われた中間テストでは、440人中104番でした。お世辞にもレベルの高い中学ではなかったので、高校進学のことを考えるとあまりいい成績ではありませんでした。 塾は小6のころから通っていた塾に引き続き通っていました。ただ、この塾は中学になると毎週英語のテストがあり、これに3回不合格になると退塾ということになっていました(もっとも、僕の知っている限り退塾になった人はいない)。あまり勉強に熱心でなかった僕も退塾になるのは恥でいやだったので、これについてはまじめにやっていました。今思えば、毎週英語のテストがあったのは、後の高校入試までのことを考えれば非常に有効でした。 当初は余りぱっとしない状況でしたが、後から振り返れば転機とも言える出来事がすぐにやってきました。最初の中間テストの後、余り成績の良くない自分を見兼ねた父親が、次の期末テストの前にテストで上位1割以内に入ったら好きなものを買ってくれると言ったのでした。そしてこの事がきっかけとなり、自分としては初めて自主的に勉強し、塾での英語のテストの効果も相合わさって、上位1割以内に入ることができました。 以後、この時の成功体験がきっかけとなって、親に言われずとも自分で自主的に勉強に取り組むようになり、成績がどんどん上がっていくようになりました。そして、1年生2学期の期末テストで10番台、2年1学期の中間テストで1桁台、そして2学期の期末でとうとう1番をとるまでに至りました。 この状況で3年生になり高校受験を考えなくてはならなくなりましたが、前述の通りお世辞にもレベルの高い中学では無かったので、校内で成績が良くともそれが入試で通用するかは非常に怪しい状況でした。そのため、最初は志望校のレベルも控えめでしたが、本心では県下最難関の所を志望しており、受験勉強もそのつもりで進め、大手予備校の夏季講習などにも参加しました。そして、最終的には模試で合格確実ラインの成績は取れませんでしたが、五分五分の勝負はできるラインに到達し、試験での運もあって、本来の志望校である愛知県下最難関の高校に合格することができました。 高校入試が結果としてうまく行ったポイントは以下の通りだと思います
こうして、人生で初めての入試に首尾良く成功し、90年春に本来の志望校に入学することができました。旧制中学の流れをくむ愛知県下最難関の高校でしたが、校風は非常に自由で、生徒の自主性が非常に尊重される所でした。制服を着る必要も無く、校則もあって無いような状況でしたし、教師から勉強しろと言われることもあまりありませんでした。そのため、入学当初は「こんなことまでやってもいいのだろうか?」と少なからずカルチャーショックを受けました。 このような自由な校風は今思えば自分にとても良く合っていたように思います。しかし、学校のレベルが中学のときとは比べ物にならないほど上昇し、しかも勉強に関しても生徒の自主的な取り組みに任せられるような状況は、当時の自分にとってはうまく使いこなすことが出来ませんでした。学校のレベルが上がり勉強がきつくなるのは中学のときから覚悟していましたが、それのみではなく勉強法自体が今までの方法では通用しなくなり、成績を上げようにもその有効な手段が見つからないような状況でした。中学時代は理解し暗記しなければならない量は少なく、勉強法に欠陥があってもなんとかなっていましたが、高校ではその量が一気に増えまた内容も高度になったためより効率的に勉強しなければならなくなり、中学でとっていた方法では間に合わなくなってしまいました。 このような状況に置かれてしまい、毎日成績を上げようと焦って勉強はするのですが効果は全くあがらず、そしてまたさらに焦るといった悪循環を繰り返すようになってしまいました。一般的に言われるような"成績が悪い→勉強をしないからだ"という図式のみが頭に残ってしまい、なかなか勉強法の改善までに行きつかないような状況でした(と言うよりは、勉強法が良くないことに気づいてはいたが、融通の利かない性格が災いしてそれを換えることができなかったと言う方が正確かもしれません)。自分の要領の悪さをこれほど思い知ったときはありませんでした。そして、成績は卒業までほとんど上がることなく高校時代は終わってしまいました。 また、家庭内の状況もおかしくなっていきました。中学のころまでは曲がりなりにも普通の家庭だったのですが、高校時代あたりから家庭内がおかしくなり始め、3年生のころには両親が別居という事態に至ってしまいました。 このような状況だったので、高校時代は勉強以外の事に力を入れるような精神的余裕は無く、ずいぶんとさみしい高校時代を送ってしまいました。今から振り返れば、有意義な高校生活を十分に送ることの出来る学校であったにもかかわらず、こんな高校生活を送ってしまったのは一生の悔いとも言えます。ただ、不幸中の幸いであったのは、当時天文部に所属していましたが(全生徒が部活動に参加することになっていたためでもありますが)、ここで観測や合宿など曲がりなりにも勉強以外の活動に関わることができたことでした(ただ、常に勉強のことが頭から離れなかったため、今一つ不充分な活動になってしまった)。この当時の仲間とはその後も付き合いが続き、いまだに連絡を取り合っています。 今思えば、高校時代はもっと「不真面目に」過ごすべきではなかったかと思います。成績が悪かったのも勉強しないからではなく、突き詰めれば自分の融通の効かなさに起因していたので、もっと遊んで頭を柔らかくし、さまざまな物事に触れ視野を広げる必要がありました。しかし、実際にはそれとは逆の行動をとってしまい、事態を何ら改善することが出来ませんでした。これが自分の性格と言ってしまえばそれまでなのですが…。 浪人時代高校入学当初は現役合格を目指していたにもかかわらず、結局無駄な勉強を重ねてしまい浪人することになってしまいました。現役当時は国公立志望でしたが、勉強法の改善は一向に進まず、守備範囲を少しでも減らしてその分成績を上げるため少々不本意ながら私立志望へと転換をしました。また、従来の日本史・世界史選択を高校の授業で最も興味のあった政治経済に変えました。 予備校は当然授業出席の義務は無く、それはそれで開放感のようなものを感じ気分転換をすることができました。勉強法自体は相変わらず目立った改善することができませんでしたが、受験科目数を減らしたことや、もともと強く興味のあった政治経済を選択したことがうまく作用し、高校時代と比べれば成績を上げることができました。そして、その中で政治経済や現代文の成績は確実に上げることができました(政治経済に関しては模試で全国1位になったこともありました)。ただ、肝心の英語や古文は相変わらず苦手で、最後まで足を引っ張っていました。 こんな中で志望先を決めましたが、自分としては政治経済という科目に非常に興味を覚え、将来的もその分野に関わる仕事がしたいと思ったため、社会科学系統の学部を志望しました。そしてその中で模試の成績では無理と言われていた早稲田の法学部に運良く合格してしまい、そこに入学することとなりました(特に法律がやりたかったと言う訳ではありません)。 早稲田大学入学こうして、どうにか大学に入学することができました。ようやく一息つけるようにはなったのですが、当時の自分としては高校での成績不振をどうにか挽回したいという想いが強く、大学での勉強も真面目に取り組んでしまいました。もっとも、これには奨学金をもらう必要があったという事情もありました。高校の時の成績はあまりに悪く、育英会の奨学金すらもらえないような状態だったので、大学でまともな成績を取って二年生からもらう予定を立てました。 そのような訳で、大学の授業はまじめに出ていました。語学の授業の中に毎週テストが課される授業があったりもしましたが、そのような生活を真面目に送ったためか、成績の方は高校の時と比べればずいぶんと良くなり、2年生のときには無事に奨学金をもらうことが出来ました。ただ、成績は上がったとはいえ、今振り返れば勉強したことが本当に身についていたとは言えないような状態でした。成績が上がったのも結局は試験直前に模範解答を必死に覚えた結果であり、授業や基本書などでその科目を本当に理解した結果とは言えないような状況でした。語学についても、毎週テストを課されたにもかかわらず、中学の時とは異なりその試験のレベルが自分のレベルよりかなり高く、ただひたすら意味も無く暗記することのみに追われ自分にとって本当に必要なことが出来ず、結局は身につくことはありませんでした。 サークル活動このように、大学受験時代と大して変わらないような大学生活では有りましたが、サークルには入っていました。文科系の大人数のサークルではありましたが、けっこう部室には出入りしていて比較的スムーズに自分の居場所のようなものが出来ました。また、そのサークルでは1年生の後半から法律討論会の運営に関わることとなり、他大学の人たちとの交流や大会のため九州に行ったりもしました。そのため、それはそれで大学生らしい体験もすることが出来ました。もっとも、十分に活動出来ていたかと言われれば、そうではなかったと言わなければならず、今振り返れば当時の仲間達には申し訳ない気持ちになります。 1回目の公務員受験就職については早い時期から公務員を意識していました。高校での科目は政治経済に興味を持ち、大学もその結果社会科学系のところを志望した流れで、就職についても社会科学系のところ、具体的には社会科学的な知識・能力を活かせ、さらにはそれを伸ばしていけるところということで公務員を志望しました。そして、オウムの事件や北朝鮮の問題等影響で安全保障分野に興味を持ち、その分野での政策立案に携わりたいと思い、国 I を志望するに至りました(職種は、法学部生であったことから、あまり深く考えることなく法律職にしました)。ただ、国 I だけでは当然リスクが高すぎ、家庭の事情で留年も出来ない状況では他の併願先も考えなくてはなりません。こういった場合は地方公務員や民間企業でも自分の志望官庁と関係の深いところを志望するのが普通でしょうが、私の場合可能ならばやはり安全保障分野の政策に関われる可能性のあるところという希望を持っていたため、自衛隊の幹部候補生を併願するに至りました。 自衛隊の幹部候補生制度とは、防衛大学校以外の一般大学出身者を自衛隊の幹部(士官)として採用するものであり、採用後約一年間の陸海空の幹部候補生学校での教育を終了すると幹部として任官します。この制度で採用されれば、ある程度の階級(おおむね2佐以上)になれば国の防衛政策に携わることも可能ですし、海外勤務(PKO以外でも)や海外の大学院に留学できる機会もあり、ある面では国 I 採用者並みの扱いが為される可能性があります(なお、自衛隊のトップである統合幕僚会議議長の給与面での扱いは一応各省事務次官と同等です)。私自身は、こういった面に着目して国 I と併願したわけですが、他の国 I 志望者で幹部候補生を併願先にした例をいくつか見聞きしたことがあります。そして、私が聞いた範囲では自分も含めみんなどういう訳か海上自衛隊を志望していました。やはり、帝国海軍のイメージがあるからなのでしょうか? このような理由で、国 I と自衛隊を併願することとなりました。勉強はどちらかと言えば独学が多かったですが苦手な民法を中心にセミナーの講座を利用し、また友人の勧めで渡辺ゼミにも参加し、大いに刺激を受けました。成績の方は高校の時の状況と比べればずいぶん良くはなってはいましたが十分ではなく(前述の通り、法律系統の科目では"理解"ということが不充分だった)、結構苦戦を強いられました。しかしそれでも、直前期の模試ではB判定ぐらいの所には持っていくことが出来、なんとか勝負できるぐらいの位置につけることが出来ました。 それから6月となり国 I の本番を迎えましたが、その年は教養の傾向が大幅に変わって大混乱でした。僕自身は淡々と問題を解くことに専念できましたが、動揺してしまった人もかなり出たようで、そのためかその年は模試での成績が良かった人でも1次落ちしてしまった人がたくさん出ていました。僕自身は1次合格は果たしましたが、官庁訪問がうまく行かなかったり、また記述試験が苦手だったり(これは、前述の通り、民法・憲法などの法律科目を本当に理解できていなかったことが原因)で2次落ちしてしまいました。ただ、自衛隊の試験の方は特に問題も無く進み、面接でもたいした事を聞かれず順当に進み、9月に最終合格の報を受けるに至りました。 こうして、私は幹部候補生として自衛隊に入隊することになりました。 幹部候補生時代こうして私は、98年3月大学の卒業式の翌々日に広島県の江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校に入校しました。この江田島はご存知の通り戦前は海軍兵学校のあった所で、当時の建物が現在もそのまま使われていたりしており、そこかしこで帝国海軍の雰囲気を感じることができます。そのため、江田島の海上自衛隊の施設は観光地としての側面もあり、年間かなりの数の観光客が来ています。日に何回か見学会もあり、私も休日の当直のようなものについた時に案内をしたことがありました。 海上自衛隊の雰囲気は「伝統墨守・唯我独尊」と言い表されたりしますが、幹部教育の最初の段階をこういったところで行う事からも分かるように、さまざまな場面で帝国海軍の伝統のようなものが見られます。そうだからかもしれませんが、防衛大学校出身の同期に聞くところによれば、陸海空の中では海自が一番きついとの事でした……。 入校してからは今までの生活は激変してしまいました。朝の起床から夜の消灯まで分単位(場合によっては秒単位)の生活を送らなければならなくなり、今までの通常の生活で当たり前にできたことに厳しい制限が加えられるようになりました。この生活の急激な変化は入校前の予想以上にストレスがかかりました。また、ここでの教育が本格化してくると生活の中での色々なチェックが厳しくなっていきました。制服のプレスの具合が悪くてグランド3周、起床時に外に出てくるのが遅くて腕立て20回、行進の具合が悪くて昼休み中に練習させられたりなど…。まだ自分一人で済むことならいいのですが、場合によっては連帯責任となることもあるので、他の同期に迷惑はかけまいと必死でした。こういうことでは、納得できたこともあり、納得できなく不条理を感じることもありでしたが、ここに限らず世の中はこんなものなのかもしれません(海軍兵学校出身者の著書で、戦争は不条理なものであるため、それに対応するための教育も不条理なものになると書かれていたものがありましたが……)。 こんな生活を必死に送っているうちに、しばらくすると腰がすこし痛み出しました。実を言えば、自衛隊に入隊する以前にも何回か腰に痛みを感じたことがありましたが、そのときはたいした事は無く毎回すぐに直っていました。今回も最初はそんな感じでしたが、江田島で生活を続けていくうちにさらにおかしくなっていってしまいました。 その後週に1回教務を抜けて部外の病院に通院したりしましたが症状は良くならず、色々な話があったりしましたが、このまま続けていった場合の自衛隊での将来のことなどを考えると非常に問題があったり、また集団生活の中で自分一人がこんな状態で居るのも難しく、結局退職することを決心し、7月末に退職することとなってしまいました。 自衛隊退職後再就職までこうして自衛隊を退職し、東京の実家に戻ってきました。いままでの分単位の非常にストレスのかかる生活から何も無い生活に戻り確かに開放感は感じましたが、学生の時とは異なり身分保証も何も無い状態であり、心の中に大きな穴のあいた状態になってしまいました。友人達が順調に社会人としての道を進んでいくのを見ると、自分だけ取り残されたような気持ちになったものでした。これから先の方針はなにも立たないような状況でしたが、家庭の状況が状況なので収入だけはとにかく得る必要があり、少し落ち着いてから仕事を探し始めました。当時の就職状況は最悪の状態で、しかも既卒の身で自衛隊で腰をおかしくしているなど条件は最悪でした。ですので、職種などを選んでいられるような状況ではなく、ただただ自分に出来る仕事をということで仕事を探しました。履歴書も色々と送ってみましたがなかなか決まらず、江田島に居たときに上官に言われた「途中で辞めて成功したやつはいない」という言葉が重く圧し掛かってきた時期でした。そんな中で、自治体の労働局か何かが主催の就職面接会のようなものがあり、その中でたまたま話しを聞いたところで関心を持ってもらえ、そこから内定をもらいました。それが、再就職先でした。 再就職こうしてどうにか再就職を果たすことが出来ました。今度の勤め先は、あらゆる意味で自衛隊とは逆の所でした。従業員数約30名程で、小さいゆえに体系的な教育制度のようなものは無く、しかも自分の担当部署(購買)の社員は私1人のみ。仕事の内容も今まで自分がやってきたこととは全く別の内容で、直接仕事を教えてくれる先輩のような人も居らず、自分で初めから仕事を覚えなければなりませんでした。 そのうちに仕事に慣れ、ある程度自分自身でこなすことが出来てくるようになりました。特に自分に合っていないと感じることも無く無難に過ごすことが出来ましたが、ただ自分の本来やりたかったこととは全く離れてしまっているのは事実であり、欲求不満や将来の不安のようなものを感じるようになってしまいました。そんな時に、公務員の友人や大学の先生方の話しを聞き、その中で公務員を勧められました。もともと、社会科学分野の仕事に関わりたいと思い大学時代には公務員を志向していた訳であり、また自分の置かれた状況でこの分野の仕事に再び関われるようになるにはまず公務員になるしかないと思い、再び公務員受験を目指すこととなりました。 再び公務員をめざすこうして、働きながら公務員試験の勉強をすることとなりました。受験先については、国 I を第1志望とすることにしましたが、職種については現役時に受験した法律職から行政職に変更しました。これは、地方公務員を併願する必要と、ももともと大学時代に政治学・行政学系統の勉強もしてみたいと思ったことがあり、どうせ勉強するなら自分の勉強したかったことを勉強したいと思ったからでした(もっとも、大学時代には法律学は今一つ好きになれなかったという消極的な事情もありましたが)。もちろん、職種は変わったとはいえ重なる科目も多く、始めから勉強するよりはずっと楽ですが、現役の時に勉強した教科もその多くの部分は頭に残っておらず、以前と比べれば時間的な面で大幅に制限された状況で勉強してゆくのは大変でした。葉書大のカードに必要事項をまとめて通勤時に目を通すなどして細かい時間も勉強に当てられるようにしましたが、やはり焦ってしまいついつい睡眠時間を削って夜遅くまで勉強してしまったことも多々あり、そんな時は翌朝の出勤時に駅の階段を上るのが少々つらかったのを良く覚えています。ただ、政治学・行政学などは自分がやりたくて勉強している面もあったので、それはそれで面白く、知識欲のようなものをそれで満たしていたようなところもありました。 そんな状態で毎日を過ごし、そして6月の試験シーズンを迎えました。正直言って今まで勉強の時間を取るのが精一杯で、面接や官庁訪問の対策もほとんど出来ておらず、また前述のように少々無理を重ねて勉強していたような状況だったので、自分が今まで受けた試験の中では最悪の部類に入るような準備状態でした。こんな状態で試験を受けたので当然うまく行く訳は無いのですが、国 I については1次試験が最初にあったため体力的にはなんとか乗りきることが出来ました。ただその後の官庁訪問や特別区、川崎市は非常に調子の悪い状態で、結局国 I 行政職は最終合格するものの内定無し、特別区と川崎市は1次落ちという異常な結果になってしまいました。 その後9月に某市役所の試験を受けましたが、今一つやる気が出なかった為かこれも2次落ちしてしまい、最初の年の公務員試験は終わってしまいました。 失敗の分析公務員試験が結果として失敗に終わってしまったことで将来のことにつき迷いもしましたが、先生方にも相談した結果、仮にも国 I に合格していることもあり、結局は来年も受験することにしました。そして、また本格的に勉強を再開する前に、本年の反省すべき点として以下の事に着目しました。
1については、思いきって少しの勉強時間よりも睡眠時間の方を重視するように改めました。働きながら勉強をしている場合、つい焦ってしまい睡眠時間を削って無理して勉強してしまいがちですが、よくよく見直してみればあまり効果の上がっていない時間が多いです。ですので、そういった効果の上がらない時というのを見極め、そう行った時間を睡眠などに回すという方針にしました。 2については、自分がもともと面接が得意でなかったこともあり、非常に苦労した点です。面接は大まかに分ければ、話すスピードや間の置き方などのテクニック(マナー)の面と、志望先に関する情報や自分の経験・意見といった知識面に分けることが出来ると思いますが、後者のほうは普段から新聞で自分の志望先の面接でネタのなりそうな記事(志望先に直接関係ある記事に限らず)を探し、それについての自分の意見をまとめるようにしたり、普段の生活の中で面接時に使えそうな体験をする(趣味の欄に読書と書くならば、話題に出来そうな本を読み、面接時に話題にできそうなことをまとめておく)などと言ったことを意識的に行いました。また、前者の方は自分だけでは何とかすることが出来ない面も有るので、面接対策の本や講座などで基本的なテクニック(マナー)を身につけた後、実際の面接での経験を積む中で自分なりのスタイルを確立するような方法をとりました。もっとも僕の場合、現役の時とは異なり民間の面接を体験することが出来なかったので、即実践となってはしまいましたが……。 3については、最近特に対策が必要となってきた事項です。最近都庁は国 I より受かるのが難しいなどと言われたりすることもありますが、これは近ごろのように地方公務員の採用人数の以前と比べれば大幅に減っている状況では以前のように国 I のすべり止めとしての機能を果たさなくなってきたのを指しており、このような状態では国 I だけの勉強では都庁に合格するのは以前と比べればかなり難しく、都庁のみで出題される科目についても対策が必要です。僕の場合は仮にも国 I には最終合格したので、勉強の重点をむしろこのような科目に置くように改め、国 I で勉強済みの科目は思いきって勉強の割合を削ったりしました。 3度目の成功このような方針を立てて、再び勉強を始めました。勉強時間は以前よりは減ってしまいましたが効率は良くなり、また勉強以外にも北海道に旅行に行ったり(ただし1泊2日)、本を読んだりしたので、それはそれで充実した生活を送れ、そのことが肉体的にも精神的にも余裕をもたらしてくらました。 このような状況で2000年度の試験に突入しました。本年は体力を使い切ってしまっていなかったので、去年のように試験を受ける前から疲れてしまっていると言うことも無く、そこそこ良い状態で試験を受けることが出来ました。ただ、国 I の官庁訪問は少々ハードでした。働いている関係上あまり休みを取ることが出来ず仕事の後に官庁訪問することが多く、12時過ぎに帰ってきて5時半に起きて出社といったことも結構有りました。官庁訪問は結果としては失敗に終わってしまいましたが、面接対策を重視した結果今までと比べればずいぶん調子よく出来るようになり、またあらゆる意味で非常に勉強になりました。また、都庁や神奈川県の2次試験の面接は県庁訪問で経験を積んだ結果ずいぶんうまく対応することが出来ました。都庁の方は面接官の態度から見て落ちたかとも思いましたが、これはほぼ全員の人に言えることであったらしく、運が良かったことも有り(専門記述試験で直前に読んでいた本から出題された)結果としてはここに最終合格することが出来ました。 最後に図らずも非常に複雑な道を通って都庁に入ることとなりましたが、その為か普通の道を通っていては分からないことにずいぶんと気づかされてきました。今だから言えることなのかもしれませんが、これも良い修行になったのではないかと思います。 最後に、今まで苦しい時も応援してくれた友人や家族、渡辺先生をはじめとする先生方や早稲田公務員セミナーの皆さんに感謝の気持ちを捧げて、終わりにしたいと思います。 今までありがとうございました。 以上 |
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