The Future [ HOMEキャリア・エリートへの道>1度目の失敗をバネに国 I 法律職上位合格 ]
キャリア・エリートへの道


1度目の失敗をバネに国 I 法律職上位合格

はじめに

 2000年8月16日、国家公務員 I 種試験の最終合格発表。人事院が最終合格者を貼り出す時刻は9時であったが、私は20分ほど遅れて着いた。周囲のあちらこちらから歓喜の声が上がっているかと思えば、がっくりと顔を下げて朝の光が射す桜田門駅に帰ってくる受験生もいる。それでも私はただただ自分の足を人事院の掲示場に向けて動かした。そのときの私は、自分がどちら側の人間になるのだろうかと考えることはなかった。

 掲示場にたどり着く前に、すでに発表を見終えた内定先を同じくする友人が、こちらを見て笑いながら手でサインを送ってくれた。どうやらお互いに合格したらしい。全身の力が一瞬にして抜けたように感じた。でも、一応自身の目で自分の名前を確かめないと…………。私は立ち止まること自分の名前が載った掲示板へと進んでいった。

 2度目の受験でなんとか最終合格を果たすことができ、来年から国家公務員として勤務することが決まった。昨年の失敗があったからこそ、この1年は必死でがんばることができた。まだたった24年間の人生しか経験していないが、いま思えば私の半生は「失敗→奮起→達成」の繰り返しであったのではないかと思う。この文章を読んでくださっている方の中には来年の受験を控え、多くの不安を抱えている方も多いと思う。その不安を少しでも和らげることに役立てばと思い、今回は筆を取らせていただきました。それでは、よろしくお願いいたします。

からだの弱かった幼少時代

 1976年の秋に自分は生まれた。予定日よりも2週間ほど早い出産だったそうだ。未熟児一歩手前の2800キロ。いまの体つきからは信じられないが、生まれたばかりのときは小さな赤ん坊だった。生まれた後もしばらくは、体はさほど強い方ではなく、しばしば熱を出すこともあった。この頃から親不孝をしていたと、父にはいまだに言われる。その後、両親の愛に育まれてすくすくとその幼少期を過ごしていった。

 3歳になると、教会が経営する地元の幼稚園に通い始めた。この頃になると、からだもだいぶ強くなり、運動会のかけっこでは1等と決まっていた。幼いながらも周囲の友達にも恵まれ始め、幼稚園にも楽しく通っていた。

 そんななか、5歳の誕生日を控えた1981年の夏――楽しかった幼稚園での生活を1年と少しで終えなければならなくなった。

ヨーロッパでの暮らし

 この頃の父は、大手商社の貿易部担当ということで、日本に住んでいた頃から出張に出ることも多かった。母は専業主婦として父を全面的にバックアップし、私の養育にもまた専念してくれた。そんななか、父の海外転勤は急に決まった。

 当時の日本はまだまだエネルギー資源をほぼ全面的に原油に依存していた。その窓口として父が赴任を命じられたのは、中東にいちばん近いヨーロッパ――ギリシアという国であった。当時の日本でその小国の名を知る者は多くなかった。買いあさった旅行用のガイドブックには、観光立国ではあるものの国民の生活水準は低く、先進国の代名詞とも言える「ヨーロッパ」にはふさわしくない国、というようなことまで書かれていた。小さな子どもにとっては、あまり良い環境とは言えないのではないかと考えた母は現地での暮らしに不安を覚え、父に単身赴任させることも考えたほどだ。しかし、幼少期の子どもには両親が揃っている環境の方がいいと父は判断し、結局は家族全員でギリシアでの生活を始めることになった。

 この頃あたりから、私の記憶もかすかではあるが残っている。

 実際にギリシアに住み始めると、ガイドブックの記載から受けるものとはだいぶ違う印象を持った。革命から間もないギリシアであったが、治安はまあまあ安定しており、外国人、とりわけ私たち日本人に対してギリシア人は非常に優しく、親しく接してくれた。目立った産業が観光業しかないということが、彼らの国民性に何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。

 父は自分を日本人学校に入学させようとしたが、年齢が足りず入学できなかった。日本人学校の規則によると、幼稚園の年長に相当する学年からしか生徒を受け入れないようで、入学したければ翌年の春まで待つようにと言われた。しかしながら、5歳にもなった子どもにとって、まわりの環境が家族だけという世界は、少々寂しいものがある。感受性豊かなこの時期に多くの人間との接点を断ってしまうということは、子ども成長するうえで何らかの障害になってしまうだろうと父は考えた。そこで、私は現地校に行くことになった。現地校ならば、日本人学校のようなうるさい規則は存在しない。そうして選んだ学校が、アテネ市郊外にあるアメリカンスクールであった。いままで日本語でしか生活したことがなかったが、いきなり英語だらけの環境に放り込まれることにはさほど違和感・抵抗はなかった。父も幼い子どもだけに環境に適応するのにさほど問題はないと考えたのだろう。最初は半年だけで日本人学校に転校する予定であったが、アメリカン・スクールでの半年間で友達もたくさん出来たし、また幼い頃から多くの外国人に接するという機会は貴重なものだと考えた父は私を結局転校させなかった。

 5年にも及ぶギリシアでの生活は非常に充実していた。日本のようにゲームセンターやコンピューターゲームといった娯楽は全くと言っていいほどなかったが、子どもたちは地中海気候の下ののどかな自然に楽しみを求めた。春には美しいさまざまな花で庭が彩られ、3ヶ月近くもある夏休みは毎日のように海に行き泳いだ。秋は山が赤く燃え、厳しい冬は近所の同じくらいの歳の子どもたちと雪玉を投げ合った。日本ほどはっきりとした印象を受けないまでも、地中海の国にも美しい四季がある。この間に出会った多くの人や美しい自然は、私の価値観・感受性の幅を広げるのに大いに役立っていると感じる。

 1985年秋――小学4年の新学年(現地校は9月に始業式を迎える)を迎えた直後に、いよいよ日本に戻ることになる。仕事に励む父の姿を横目に、私のまさに夢のようなギリシアでの生活に別れを告げた。

無縁ではなかったいじめや受験

 帰国して、私は地元の公立小学校の3年生に転入した。長年の海外での生活の影響もあり、その頃の私は英語が日本語に勝っていた。日本しか知らない普通の小学生にとって、私はまさに「変な転校生」に写ってしまっていたのだろう。帰国してしばらくは、クラスの友人たちにも馴染めずにいた。最悪なことに教師にも馴染めずにいた。

 そんな私を見かねて、両親は学校以外にも塾に行くことを進めた。小学校に馴染めなくても、塾という社会になら馴染めるのではないかと思ったのだろう。もちろん、その頃の我が国では、現在にまで至る受験戦争が始まっていたので、私立中学に進学させたいという思いもまた親にはあったのだろう。

 小学校高学年になると、勉強もクラスで中の上と、それなりに出来るようになり、また身体の大きさが他の普通の生徒に比べてひとまわり大きくなったこともあって、周囲にも徐々に友人ができるようになった。学校にも塾にも楽しく通った気がする。

 そして、6年生になっていよいよ受験を迎えた。24年の人生の中で多くの種類の受験を経験したが、合格したいという自覚がこれほどなかった受験はない。やはり所詮は「やらされていた勉強」であった。塾に行って友人と会って楽しいひと時を過ごすことは好きであったが、結局は何も身につかなかったというところだったのだろう。この頃いちばん印象的な出来事は、昭和天皇の崩御である。ちょうど、塾の冬期講習の最中で、建物全体に放送が流れて黙祷をした記憶がある。

 中学受験は受験した3校(偏差値という観点から見れば中堅の私立中学である)とも不合格。自覚が無かったわりには3日間ほど途方に暮れていた記憶がある。終わってみてから、悔しいという思いが一気にこみ上げてきた。その後の切り替えは非常に速かった。自分でも信じられないことに、中学に入学する前の1ヶ月は、中学1年生の内容のドリルを買って、入学前には解き終わってしまっていた。

 平成元年3月、小学校を卒業した。残念ながらあまり思い出のない小学校生活だが、4年生以降はいい先生に出会うことによって、自分が大きく成長した時間だと思う。

中学での生活

 私立中学の受験に失敗した私は結局地元の公立中学に入学した。母親が心配していたようないじめや暴力は比較的少ない、おとなしい生徒たちばかりであった。

 中学校に入ったら、何かしらスポーツを本格的に取り組みたいと思っていたのだが、勉強が疎かになるという理由から親に反対され、結局部活動には参加せず、体育の授業や授業時間内に組まれる運動クラブの時間でしかスポーツをする機会がなかった。

 1年生から塾に通った。しかし、前の受験で失敗していた私にとって、今度の勉強の意味合いは大きく違っていた。誰かのためにする勉強ではない、自分のためにするのだと。もちろん、塾には勉強だけをしに行っていたわけではない。何よりも異なる中学校から来ている多くの友人に恵まれた。

 中学を卒業してからだいぶ後になってから気づいたことだが、中学生の自分は学校の存在価値を非常に軽視していた。もちろん当時の自分にその自覚はまったくない。そのときの自分にとって、中学校は勉強という点ではまったく意味のない場所だと思っていた。学校の授業は、数ヶ月前に既に塾で学んだ内容であったし、授業内容のレベルも低く感じられた。どうにか責任感と自覚を持たせようと、学級委員などに任命されたこともあったが、さほど大きな効果はなかった。

 そんななか、3年生のときに担任の教師に職員室に呼ばれ、私があまりに学校をバカにした態度を見せていることをその教師にたしなめられた。1、2年生のときに学校の教師には態度の面で一度も怒られたことのなかった私にとっては大きな衝撃であった。しかし、一般に反抗期の年齢であったにもかかわらず、不思議に反発を覚えることはなかった。自分の中でも、本当のことを言われたこともあって、きちんと受け入れることができたのだろう。

 現在、教師のレベル・品格が問われるような様々な事件が起きている。数十年前に抱かれていた教師像と現在のそれとではだいぶ変わってしまい、バカにされることはあっても、すっかり尊敬のされない職業の一つになってしまった観もある。しかしながら、中には生徒を本気で理解しようとし、時には強い調子でたしなめ、怒ることがあっても、心から生徒を信頼しようとする先生がいるのもまた事実である。思えば、3年生のときの担任教師はいままで出会ってきた先生の中でいちばん尊敬できる人だ。こういう出会いがなかったら、私自身も他人を心から信頼し、理解しようとする人間には決してなれなかったと思う。人格形成に非常に大きな影響力を持つ中学校の時期に、このような先生に出会えたことは非常に大きな財産だ。

高校受験

 中学での3年間は、高校受験を非常に強く自覚して過ごしたと思う。成績も常に上位を保っていた。勉強することを苦労と感じることはなく、現在に至る私の人生の中で最も充実していた時期であったと思う。今回の受験で初めて、緊張やプレッシャーというものを感じた。

 結果は4校受験して、3校に合格だった。ただ、第一志望の高校には合格したので、非常に満足のいく結果だったと思う。このとき感じたことは、中学受験で失敗したあとに、すぐに気持ちを切り替えて3年間集中して勉強したことがよかったということ。悔しい思いを決して忘れてはいけないということ。ただ、人間というものは、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ではないが、時間が経てば過去の思いや経験を忘れてしまう。自分も例外ではなく、この経験を後に活かすことはなかなか出来なかった。

柔道に明け暮れた高校時代

 第一志望の高校に入学できたこともあって、高校生活には非常に大きな期待を寄せていた。しかし、入学後に気づいたことだが、大学の附属高校だったこともあって、附属の中学からの内部進学者が結構な割合を占めており、まわりのほとんどが初対面の私が入り込むにはなかなか勇気の要る環境であった。ただ、小学校のときと違うのは、みんな高校生ということもあって、人間ができている。3年間クラス変えがないシステムだったので、同じクラスの人間とは、非常に仲良くなることができた。

 高校に入ったら、しばらく勉強から離れてスポーツに打ち込もうと考えていた。どの部活に入るかは決めていなかった。初めての体育の授業が柔道であった。まわりの平均的な高校生よりも身体の大きな私に教師が声をかけてくれた。そして誘われるがまま、柔道部に入部。柔道は中学校のときに、体育の授業で少しばかりかじっただけでまったくの初心者であったが、その高校では柔道部に入部した新1年生の全員が初心者だったということを聞き、安心して入部した。もしも、初めての体育授業の課目が柔道でなければ、その部活に入部することは決してなかっただろう。柔道というスポーツは、個人競技ではあるものの、決して自分だけで練習できるものではない。よき友人・先輩・後輩に恵まれ、技術的にもそして精神的にも大きく成長できた。それまで、学校と勉強だけしか知らなかった私にとって、柔道とその競技を通じて知り合えた人々との出会いは、私の持っている人間的な部分や視野を大いに広げることに繋がったと、心の底から感じている。

 一方で、勉強面はまったくと言っていいほど熱心には取り組まなかった。進学校に通う高校生ならば誰でも経験したことがあるはずの通信添削教材は、締め切りに間に合うように出すことができずに溜まるばかりで、1年生のときから通っていた予備校もそのうち行くことがなくなった。

1度目の大学受験

 私の通っていた高校は進学校であるとは言っても、国立大学の附属高校だったので、学校には、大学受験をサポートするような体制は存在しなかった。上位の大学を狙う生徒たちは、学校の勉強とは別に、受験対策として自分で何か別の勉強(通信教材や予備校など)をしていたものだった。しかし、私は勉強に楽しみを見出すことはなかなか出来ず、3年生の夏まで部活に持てる力をすべて注ぎ込んだ。

 3年生が部活を引退した夏以降、学校全体の雰囲気はがらりと変わった。私の周囲も決して例外ではなく、クラスや部活の友人たちもみな大学受験に向けてその体制作りを始めた。私はその変化に違和感を抱いてしまい、受験勉強をなかなか進められずにいた。周囲の平均的な生徒たちと同じように、大手予備校に通ったが、成績を上げることはできなかった。現在の私もそうであるが、当時から勉強面に関してはまったく不器用な性格であった。

 そんななか、あっという間に受験を迎えてしまった。センター試験、私大入試、国立大学の2次試験……。気がついたら始まり、そして終わってしまったという印象である。結果は全滅だった。自分自身の準備不足も大きな敗因だが、それ以上に、試験に対して自覚をまったく持つことができずに試験に臨んでしまったことの方がより大きな反省材料である。

 ただ、変なプライドだけはあった。ランクを下げて中堅の大学に進むという気にはなれなかった。両親もそれを理解してくれ、もしも全滅したとしても、しっかりと勉強をするつもりがあるなら、もう1年かけてもいいと言ってくれた。しかし、プライドだけでは何事に対しても成功を収めることはできない。

予備校での生活

 高校3年生のときの大学受験に失敗した私は、予備校に1年間通うことになる。まわりの友達の多くが大学生としての生活を送っているのを横目で見ながら、一生懸命勉強した。高3のときに本格的に受験勉強をしなかったせいもあって、予備校での勉強は毎日が新しい発見に満ち溢れていて、楽しみながら知識を身につけることができた。また、勉強以外でそれ以上に、予備校に通うことによって得ることができたものは、たくさんの貴重な友人たちである。この頃出会った友人たちは、大学に入ってからはみな進路がばらばらになってしまったが、今でも半年に一度くらいの割合で会って、気兼ねなく話をすることができる。ある意味では、大学で得ることのできた友人たちともまた性格の異なる、かけがえのない友人たちに出会うことができた。

 それで2度目の受験はと言うと、1年間きちんと準備をしたこともあり、受験校全てに合格したわけではなかったが、第一志望の東京大学文科二類に合格することができた。

大学での生活

 将来どのような職業に就くのか、全くイメージを持つことなく大学に入った。東大を選んだ理由も、他の多くの入学者と違うことなく、職業の選択肢を多く保ったままでいたかったからというものだ。文科二類を選らんだ理由は、大学受験における得意科目が、文系にしては珍しく数学であったからだ。きちんとした目的意識を持って大学に入学したわけでは決してなかった。そんなわけで、1年生、そして2年生の前期をあまり有意義とは言えない時間の使い方をして過ごすことになった。

 2年生の前期が終わると、東大では3年生次に進学する学部を決める。文科二類のほとんどの学生は経済学部に進学するが、私はここで進路を大きく転換することにした。経済学の数学が煩雑で逃げたかったという消極的な理由もあるが、小さなときに海外で過ごした経験を何とか大学の勉強で活かしたいという積極的な理由があったからだ。前に書いたように、私は幼少の時にギリシアのアメリカン・スクールで4年間を過ごした。そのときの経験は、大学生になっても依然として大きな意味を持っていた。アメリカン・スクールにはギリシアに住んでいるアメリカ人だけでなく、親の転勤などの関係で周辺諸国からも様々な民族の子どもたちがいて、彼らと一緒に勉強した。安易な発想かもしれないが、「人種のるつぼ」と言われるアメリカ、特にアメリカ合衆国についてもっと深く勉強してみたいと思い立ったのだ。また、大学という場は、法学部や経済学部で確かに見られるように、専門・専攻に特化した知識を学ぶことも大切であるが、その一方で私は大学では、専攻にとらわれない様々な知識・考え方を身につける(リベラル・アーツ)勉強にも大変興味があった。その結果、選んだ学部は教養学部であった。東大にせっかく入ったのだから、本郷キャンパスでの学生生活も送りたいという気持ちもあったが、結局、興味のある勉強を続けたかったために、大学生活の後半も駒場キャンパスで過ごすことに決めた。

進路について

 1、2年生のとき、私は進路についてあまり深く考えたことはなかった。語学が同じクラスだったまわりの友人・知人(法学部・経済学部に進学する学生たち)たちのうちの何人かが将来の就職に備えて司法試験・公務員試験・公認会計士試験などの資格試験受験対策のためにダブルスクールに通っていることは知ってはいた。しかし、将来のビジョンを全く持てなかった当時の私は、危機感や焦燥感といったものを感じることはなかった。また、教養学部への進学を決めたときも、先輩の多くが大学院への進学かあるいは民間企業への就職を決めていることを知り、私自身もそのどちらかになるだろうと思っていた。

 2年生も終わりに近づいたある日、私は法学部の友人に連れられ、霞ヶ関で行われた通商産業省(現・経済産業省)の説明会に行ってみた。公務員に特別興味があったというわけではなく、ただただ何にでも好奇心を持つ私の性格と、友人に連れられて行ったという理由で行ったに過ぎない。しかし、話を聞いているうちにだんだんと面白くなってきた。話し方がうまかったせいもあろうが、みるみるうちに引き込まれた。また、公務員試験に合格すれば、他の省庁に採用される可能性もあると聞き、どのような勉強をすればいいのか、いろいろと考え始めた。そんな中、古い友人が公務員試験の受験に備えてダブルスクールに通っていることを聞き、それならば自分もと思い立ち、その友人と同じダブルスクール(早稲田セミナー)に3年生の春から通うことに決めた。

 いちばん最初に困ったことが、受験職種を何にすべきかということであった。法律などの専門科目を全く勉強したことがなかった私にとって、法律学や経済学といった科目は触れたことのない学問であった。結局は、多少興味を持てそうだということと、採用にいちばん有利であると聞いたこともあり、法律職での受験を決めた。私にとっては、何もかもが新しい発見で、受験勉強対策の講義とは言え、非常に楽しんで勉強することができた。しかし、覚えなければならない知識が多く、また公務員試験自体に出題される科目数が非常に多かったということもあり、果たして全部やり切れるのかという不安もあった。

1年目の受験と挫折

 1年間、自分としてはしっかり勉強していたつもりではあった。模擬試験などの成績も十分に合格水準に達していたのだが、猛スパートをかけなければならない直前期を、勉強にまったく集中ができないまま過ごしてしまった。気がついたら試験の日を迎えた。試験を終えてみて、自分としてはほどほどの出来だと思った。

 1次試験翌日からの官庁訪問では、4つの省庁を中心にまわった。試験の前の年から大学で催される各省庁の説明会に参加したときに膨らませたイメージを胸に、2〜3週間の地獄のような官庁訪問をこなした。ここには詳しい経緯は書かないが、最終的に志望省庁の一つから、内々定をもらうことができた。試験に最終合格しても、半数の受験生しか内定をもらえないという現実から考えて、内々定をもらえたということで、試験に合格することに匹敵する喜びを感じた。

 しかし、人生、そう甘くはない。試験に、それも1次試験で不合格となってしまったのである。これではいくら省庁が自分を認めてくれても、働くことはできない。このときの自分に対して、非常に悔しくそして情けなく感じた。ただ、いつまでも暗い気持ちを引きずって進むわけにはいかないので、すぐに気持ちを切り替えて、2年目の勉強に臨むことにした。

2年目の受験

 1年目の受験の際にも通っていた早稲田セミナーに、2年目も通うことにした。試験に出題される科目が変わらない以上、授業内容はほとんど同じであったので、最初は自分ひとりで勉強しようかとも思った。しかし、私は自分に対して厳しく接せられるほど、強い人間ではないということを十分に承知していたので、2年目もまた通うことにした。

 ここでもまた、同じ目標を持つ多くの友人たちに出会い、切磋琢磨することで、受験に向けて精一杯がんばっていくことができた。2年目の講座は1年目に比べて、不思議と集中することもできたし、またインプットもスムーズに行うことができたような気がした。1年目にはあまり真剣に取り組まなかった予習や復習、そして問題演習なども2年目には随分真剣に取り組むことができた。模擬試験などではさほど振るわなかったが、一日一日の勉強には自信と手応えを感じつつ、毎日を過ごすことができた。(最終的に合格できたいまだから、このようなことが言えるのかもしれないが……。)

 その一方、2年目だからこそ感じたプレッシャーも非常に大きかった。周囲にいた現役の4年生たちに負けるわけにはいかないというプライドと、今度こそ結果を出さなければという強い気持ちに、潰されてしまうのではないかと思う時もあった。しかし、そのときにやらなければならないことを着実にこなしていくことで、それらのプレッシャーを払拭することができたような気がする。

 2年目の官庁訪問では、前年に内々定をもらったところを中心に訪問を行った。1度経験していることもあって、この期間中に多くの受験生が踊らされるデマや噂などにも動じることなく、淡々とこなすことができた。最終的には志望官庁から再び内々定をもらうことができた。

 今回は1次試験も合格し、あとは2次試験の最終合格を待つばかりとなった。そして運命の8月16日を迎えた。ほどよい緊張を持って、人事院の掲示板へと向かって歩いて行った。

最後に

 国 I の受験勉強は、膨大な知識量のインプットを必要とし、多くの時間をその準備に充てなければならず、時には退屈に感じられることがあるかもしれません。しかし、そのようなときにも、大きな目を持って自分を見て、受験勉強の時間を「自分が成長していくのに必要な貴重な時間」という位置付けをし、勉強に臨むことが大切だと思います。

 また、自分ひとりだけでは、最後までがんばり抜くことができなかったと考えると、お世話になった先生方、支えてもらった家族、そして励ましてもらった周囲の友人たち……、これら大切な人々の存在があったからこそ、結果を出すこともできたのではないかと感じる。周囲の人たちへの感謝の意を忘れることなく、社会人としての業務に携わっていきたいと思う。

以上

©1999-2001 The Future