[ HOME>キャリア・エリートへの道>平凡な人間でも国 I に合格できる! ] | |
はじめに 私は、概して平凡で普通に生きてきた人間である。しかし、いくつかのきっかけを通して失敗と成長を繰り返し、2001年、国 I 法律職に最終合格でき、内々定を頂けた。同じような境遇、状況、環境で国 I を志望しよう、または、再度奮起しようと考えている人の判断材料の1つになれればと思い、本稿の執筆を希望した。受験勉強の合間に気分転換として一息いれながら読んでもらえてもありがたい。 家族について家族は、父、母、妹、私の4人家族である。父はノンキャリアの国家公務員で警察の無線技師であった。その後、地方公務員として福島県庁へ転職した。父が国家公務員の時は、頻繁に転勤をしなければならず、子供が大きくなるにつれて転校は良いことではないと考え、また父自身が単身赴任を嫌がったため転職を考えるようになったようだ。父は、特に趣味のようなものもなく、酒も弱く、たばこも吸わず、ギャンブルもしない。しかし、まじめ堅物ではなく、むしろ柔かく、一般世間の常識からは少し外れた考え方と行動をする人である。冗談も良く言って私たちを笑わせていた。私が幼少の頃、父は夕方におそらく定時きっかりに仕事を終え、家にすぐに帰ってきて私と妹と遊んでいた。子供と動物が好きで、家事を自分からやる面倒見の良い人である。母は専業主婦であるが、私が高校生の頃までは家事を一生懸命してくれたのだが、今では、家事は父に任せて、自分の趣味をたくさん作って手が回らなくなっている。母は酒が好きで、酒が弱い父とは対照的でがぶがぶ飲む。 私の家では夏休み等に家族旅行をほとんどしたことがない。福島県会津地方で農業を営んでいる祖父母の家に1週間ほど泊りに行き、いとこと一緒に遊ぶことがが大きなイベントであった。当時は、もっとお金を使って、遠出をしたり、遊園地で遊びたいと思っていた。今考えると、豊かな自然の中で、農作物の収穫を手伝ったり、山の中に入って行って山菜を採ったり、昆虫を捕まえたり、川の中に入って魚釣りやザリガニ釣りをしたり、また、猪狩りにも連れて行ってもらい、捕らえた猪を鍋にして食べたり、と貴重な体験をたくさんできたと思っている。 内気で引込み思案な幼少時代私は、福島県福島市で生まれた。ゴキブリの出る古い一戸建ての県営住宅で、0歳から2歳までそこで過ごした。当時の記憶は全くない。 その後、福島県会津若松市に住んだ。ここは、3歳から5歳までである。県営アパートに住んでいた。ここも、断片的な記憶しかない。部屋の様子はぼんやりと覚えているが、外の様子はほとんど覚えていない。おそらく、家にこもり気味で、外で遊ぼうとしていなかったのかもしれない。部屋の中で、足でこぐカートで遊んでいたようである。 転校ばかりの小学生時代6歳から7歳の2年間は、また福島市に戻ってきた。しかし、同じ地域ではなく、福島盆地の山のふもとを削ってできたニュータウンに住むことになった。私は小学校に入学した。幼少の頃からの家にこもる性格が直らず、集団生活に慣れずにいて、大きなプレッシャーを日々感じていた。特に給食が苦手であった。食欲はないが残してしまうと、叱られるので、先生にばれないように、机の中に押し込み、帰りにランドセルの中に入れて家に持ち帰った。しかし、両親に心配をかけてはいけないと思い、アパートのごみ捨て場にそっと棄てていた。 次に宮城県仙台市へと引っ越し、8歳から9歳まで過ごした。初めて転校を経験したが、やはり引込み思案な私は、友達ができるか、みんなと仲良くやっていけるかを子供なりに悩んでいた。しかし、仙台の小学校の子供たちはみんな明るく、私を歓迎してくれた。すぐにたくさんの友達ができ、私の消極的な性格は改善されていき、父親譲りの冗談(実はダジャレ)を言って自分で笑いをとって、輪の中心になることができた。学級委員も初めて務めた。初恋もこの頃であった。 今度は山形県山形市に引っ越すことになり、10歳から11歳まで過ごした。仲良くなった仙台での友達と別れなければならずとても辛かった。また転校生として「学校デビュー」をしなくてはならなかった。山形でも仙台と同じようにみんなが歓迎してくれるだろうと思っていたのだが、小学生ながら閉鎖的で地元志向が強い子供たちが多く、私が仲良くなろうと仙台の話をすると、向きになって山形のいいところをまくしたてられる始末であった。また、山形弁はなまりがひどく、早口で言われると、何を言われているかわからなかった。そんな事もあり、私のデビューは成功しなかった。しかし、仙台で自己表現を覚えた私は、相手との距離感を計りながら、少しずつ友達を作ることに成功していった。そして、この地にも愛着が湧き始めたときに父の転勤が決まった。赴任先はまた福島市であった。父はここで一大決心をし、地方公務員に転職を決めた。そして、家を買うことも決めた。父は山形にいた頃から自治体の仕事に魅力を感じていたらしく、次の転勤が決まり次第転職することを考えていたようである。 福島の新たな生活は、小学校6年生からという中途半端な時期から始まった。福島では、仙台と山形の経験から友達を作ることはむしろ得意になってしまい、女の子からももてるようになった。しかし、私はこの時まだ女の子を異性と意識しておらず、「つきあう」ということの意味を理解してなかった。しかし、仲の良い女の子がつきあって欲しいと言ってきたので、意味が分からないままつきあっていた。 ここまで、小学生の6年間を振り返ると、勉強のことが出てきていない……。母はよく「勉強しなさい」とうるさく言っていたが、それは宿題を出しなさいという意味で、他は一切勉強はしておらず、学習塾にも、もちろん行っておらず通信表は3ばかりであった。宿題が嫌いで、友達とたくさん遊んでいたい田舎の小学生であった。 学校へ反抗してきた中学生時代家から近い普通の公立中学校に通った。ここは当時、福島市で一番のヤンキー中学校であった。「ヤンキー」という言葉は新しいかもしれない。「つっぱり」のいる不良中学校であった。たばこは当たり前、シンナーで前歯のない先輩もいた。今考えれば「ダサイ」の一言だが、当時はかっこいいと思い自分も不良っぽい格好をしてみたいと本気で憧れていた。この年頃は、誰しもこのような格好をして悪ぶりたがると思うのだが、私も同様で、感情をはっきりと表に出さない恥ずかしがりやのくせに目立ちたがりで自己顕示欲が強いところがある。 中学1、2年生の頃の私はよくキレて、喧嘩をした。しかし私だけではなく、周りの友人もよくキレていた。自我を意識し始めるときに起こりやすいのではないだろうか。ただ、今問題になっている子供たちとの違いは、小さい頃に昆虫や小動物を育てて死なせてしまったり、ときには殺してしまうような残酷な遊びをして、命の尊さを学べたことである。だからキレて喧嘩になっても超えてはならない一線を知っているし、相手をなぐることに大きな責任も感じていた。 私は中学校の教育の行い方に抵抗を感じていた。「坊主頭」を強制され、人と少しでも違った行動をとると押さえつけるような雰囲気が学校には漂っていた。この時期は学校が荒れていて学年から少しでも「不良」を出さないことを教育目標にしていたのかもしれないが、自我を確立するこの多感な時期に自分の好きな考えもできず、好きな格好もできないことに苛立っていた。今でも、個性を潰し、人を平準化させる教育を受けていたと思っている。だからこの時期は自由を特に求めていた。 学校で感じていたフラストレーションのはけ口は部活動(野球部)であった。それを引退する頃、このような思いから、自由な校風の高校に進みたいと思った。そのような高校があったのだが、福島県内で1、2を争う進学高校であった。そこで、いやいやながらも受験勉強を少しまじめにやってみると、思うように成績が伸びた。単純な性格なので、学校の授業を真剣に受けてなくても大丈夫だと思い、学校は休みがちになった。しかし、友達とは遊びたいので、昼は家で勉強し、夜は近くの公園で友達とたまって、今日の学校であった出来事などを教えてもらったりして、自分勝手ではあるが、楽しく、充実した時間を過ごした。 両親に対しては、反抗もせず素直に自分が考えていることを話せていたので、学校に対する不満と今やりたいこと、進みたい高校があることを話していた。両親は好き放題やっている私を叱ったりもせずに認めてくれた。そして、学校には風邪を引いたので休むと言ってもらっていた。3年生になってから学校を休んだ日は多く、高校に提出する内申書ギリギリの出席日数だった。 文武両道を目指した高校時代自分の行きたい福島県立福島高校に合格できた。合格できた理由は、中学3年生のときに勉強自体はいやいやしてきたものの、成績が思うように伸びたことで、自分はやればできると自信が持てたことであった。 入学できた高校は進学校ということもあり、クラスの多くの友人達は、部活動をせずに、すでに大学受験の勉強を始めていた。私は、大学に行ってみたいという気持ちは漠然とあったが、自由でいられる高校を希望していただけなので、すぐにまた嫌いな勉強をしたくないと思っていた。 私には、勉強ではなく他にやりたいことがあった。それは、バスケットボールであった。実は、中学2年の終わり頃には野球に対しては熱が冷めてしまい、練習は適当に済ませて、部活動が終わってからバスケ部の友達に教えてもらいながらバスケに熱中していた。熱中した理由は、バスケの神様と言われる「マイケル・ジョーダン」選手のプレイに魅せられてしまったからであった。野球やサッカー等、他の部活をしている友人達も巻き込んで、みんな部活動そっちのけで、夜遅くまで、一緒にバスケをやっていた。そして、高校に入ったら、それぞれの高校でバスケ部に入って戦おう、という約束までもしていた。そういわけで、高校に入学したらバスケをやりたいと考えていたのだ。 1年生の夏休みに高校の友人達と東京へ遊びに行き、大学見学もすることになり、幾つかの大学を見てまわった。私はバスケ関連の買い物をしたいだけだったので、つきあってやるかという感じであったが、その中の一つの大学に強い衝撃を受けてしまった。衝撃というより腹の当たりから熱いものが込み上げてくるという感じだった。そこは、早稲田大学であった。大隈講堂を見たときにそれを感じた。キャンパスの方は、夏休みだったので、学生はちらほらしか見えなかったが、都内のど真ん中にあるはずの大学は、ゆったりとしていて、自然で、自由な雰囲気があった。私は愛校心と呼べるものは特に持ってなく、校歌もまともに歌えないが、大隈講堂だけは、もう何回も見ているはずなのだが、今でもみるたび同じ思いを感じてしまう。単純な私は、自分の実力も知らずに、ここの大学に入りたいと思ってしまった。 大学の偏差値を調べると、とんでもなく高いことを知った。自分が行ってみたいところはなぜいつもこんなにハードルが高いのだとうらみながらも、これと決めたら現実を度外視して突っ走ってしまうところがあるので、また嫌いな勉強を本気でやってやろうと決心した。しかし、バスケも続けたいので、両方やってやると決心した。高校の教育理念が「文武両道」であることはだいぶ後になってから知った。 しかしながら、実際に勉強とバスケの両輪をバランスよく保ちながら進んで行くことは難しく、バスケがメインで勉強の方はサブであった。バスケの方は体力と技術が伴なってうまくなり、レギュラーの座を獲得できたが、勉強は、学校の定期試験のみで手いっぱいで、時々受けてみた模試では惨憺たる結果であった。2年生まではこのような現状が続いて行った。自分は「ワセダ」へ行くと周囲の人達に言っても冗談にしか受け止められていなかった。 3年生になって、バスケはインターハイ東北大会まで出場することができ、満足して部活を引退できた。残りの時期は勉強に専念しようと新たに決意した。しかし、福島市には当時、大手の予備校がなく、通いたければ、隣の県の仙台市まで行かなければならない現状であったので、勉強方法は基本的に学校の授業と市販の参考書を中心に勉強せざるを得なかった。そして、嫌いな勉強は短期決戦で効率よくさっさと済ませたいと考え、東大・京大受験で有名な通信講座を受講した。その講座の早稲田受験対策コースを利用してみたが、実力のほとんどない私には、非常に難しく感じられ、たいした効果は得られなかった。それから、少しずつは実力が伸びてきたものの、早稲田大学の合格ラインには届かなかった。 人間的に成長できた大学時代結局、私は早稲田大学社会科学部に現役で入学できた。勉強は自分なりに熱心にやったものの、バスケとは異なり、不完全燃焼の感があった。しかし、浪人してもう一度勉強し直すということは、全く考えなかった。やはり勉強は「辛い」いものという思いがこのときあったからだ。 受験した大学は、早稲田大学のみで、社会科学部を含む4学部を受験した。早稲田に入れればどこの学部でも良いという気持ちがあったが、とあるきっかけがあり、特に政治経済学部に入りたかった。そのきっかけとは、11回ぐらいの連続ドキュメンタリーで、20世紀を当時撮影された映像を通して、見直していくというNHKの『映像の20世紀』という番組を見たことであった。20世紀は「戦争の世紀」と呼ばれるとおり、ドキュメンタリーの多くは戦争の映像であり、普段のニュース映像等では見られないショッキングな映像がいくつも含まれていた。現実にある戦争の凄惨さがわかった。そして、国の1人の指導者が独裁的に自国のみならず、外国、そして、そこに住む人々の運命を決めてしまうように見え、政治の重要性を感じ、国際政治学を勉強してみたいと思ったのである。 大学は4年で卒業した。一般的にみれば、この4年間の大学生活はただ遊んでいたと映るかもしれない。しかし、私には、福島から上京してくる際に自分の大きな目標を立てていた。大学でかなえようとした目標は、「人間的に大きくなること」であった。「自分には人格的な成長が必要だ」と大学合格が決まってから高校卒業間近に強く感じていた。高校時代まで自分のことだけを考え、ある程度勉強もして、それなりに自分の思い通りに進んでいった。しかし、人間的に成熟してきているとは思えなかったからである。そこで、大学では、実社会も含めて様々なところへ参加し、学生・社会人の区別なく様々な人達とコミュニケーションを取り、多様な考え方を学び、取り入れ、思考し、自己の変革を試みようとした。そこで自分にとってその目標を達成させるために必要な行動を幾つか実行に移した。 その目標達成手段の1つとして、大学の準体育会のスキー同好会へ所属した。同好会は、オフシーズンは屋内スキー場へ行き、冬休みや春休みに雪山にこもり、1年中スキーに明け暮れ、技術の向上に励む。スキーは山形に住んでいたときにはじめて滑り、それから毎年、父や友人らと遊びでしていたが、スキー技術を真剣に極めることで、その過程に自分が成長できる機会が多くあるのではないかと考えた。同好会の諸先輩方が人間的な魅力にあふれる人達でスキーだけでなく人間性も磨けるのではないかと感じたことも所属した理由であった。 もう1つとして、契約社員として社会人のように働くことであった。社会科学部は学部の扱いとしては、夜間学部であり、私は入学当初それに劣等感を感じていたが、何もプラスにならないので、積極的に夜間という制度を利用した。朝から夕方まで働き、夕方から夜まで大学に通うという生活を送っていた。実社会で社会人の中に交じって働き、自分でお金を稼ぐことで、大学の中では得られにくいものを補おうとしたのだ。 最後に、3年生になって精力的にゼミ活動を行うことであった。都市計画のゼミに所属した。高校時代に国際政治学に興味を持っていたが、大学で授業を受けたが、教授のやる気のなさにがっかりして、ゼミに入るまでには至らなかった。しかし、都市計画ゼミの教授は若く、やる気に燃えていて、講義も引き締まったもので、何より研究内容が面白かった。幼少の頃から、転校・引越しを繰り返し、自分の住む環境に常に目を向けていたことが、興味を抱けた理由なのではないかと考えている。そして、このゼミでの活動が官庁訪問時の面接で自分のセールスポイントとなった。 私は、このような目標達成手段を設定し、努力してきたが、追求している方向性は正しいのか、どこまで「人格的な成長」が果たせているのか、など自問自答を繰り返し、目指すべき自己の人格をまさに手探りで見つけていこうと試みていた。今振り返ってみれば、大学で行ってきたことは、自分の能力を超えていると感じられた国家公務員 I 種試験を目指そうと思わせる「礎」を築いていたと感じる。つまり、成長するための3つの目標達成手段が、実は、国家公務員の志望動機の根拠となっていたのだ。 国家公務員の志望動機スキー同好会での活動は願いどおり、私を人間的に大きく成長させてくれた場所であった。スキー技術を極める過程において、2つを学んだ。「挑戦しようとする思いの強さがその思いを実現できる」ことと「困難に対して諦めずに立ち向かうことが自分の潜在能力を引き出す」ことである。また、先輩や同輩・後輩と行動をともにして3つを学んだ。「協力して互いを思いやることの大切さ」、「思いを1つにしてそれを成し遂げることの素晴らしさ」、「人間関係が人生における最も大きな財産である」ということである。そして、現役としての活動が終わる3年の競技大会終了時に、仲間と今までやってきたことに対して素直に感動でき、自分はここに存在しているのだという「生きている実感」が湧き起こり、涙が流れた。どこか冷めていて、一歩引いたところから物事を見ていた中学・高校時代の私とは全く反対に、「熱い男」になっていた。 契約社員として毎日、朝から夕方まで働いてきたが、ただたくさんお金を稼ぐだけでは何も面白くないことが分かった。また、稼いだお金で物質的な満足だけを得ても充実した気分にはなれなかった。そして、自分のする仕事に「意味」を求めたいと思った。それはできるだけ直接的で分かりやすい方がよいと思った。しかしながら、職に就くことに対するアプローチは決まったものの、肝心の対象となる職業が見出せなかった。 大学3年になり、ゼミに入ることで直接、「社会とのやりとり」ができるようになり、少しずづそれが見えてきた。それまでの私は、社会そのものに対し関心がなく、「他人事」であった。なぜなら学生は実社会の成員ではなく、距離のあるところに引き離されている存在であると感じていたからだ。社会に関心を抱けたのは、ゼミで「現場主義」を掲げていたためであった。ゼミでは、書物を引用することを極力避け、研究対象となる場所に直接見に行き、直接人に聞きに行き、自分でデータを取ることを調査方法とした。それゆえ、実社会の様々なところへ参加し、様々な立場の人達とコミュニケーションを取り、様々な考え方を学ぶことができた。そして、思考し、1つのものとして社会に表現し、その結果として、自分が関わったところがわずかではあるが、良くなっているのを見るだけで大きな喜びとやりがいを感じた。私は個性や自由に重い価値を置くが、同様に現在の都市においても、個性や自己決定が重んじられる流れがあることが分かった。ゼミに入ったことを機会に多くの都市を見るようになったが、中でも日本の没個性的な町々に問題意識を持った。しかし、日本の町の個性は眠っているだけであり、個性を掘り起こす仕組みが必要であると感じた。そして、それを自分のライフワークにしたいと思った。それがかなえられるのは、全国的な視野で政策を行う国家公務員ではないかと考えた。官庁訪問や人事院面接の時にこれを志望動機として何回も話してきた。 住民が自発的にまちづくりを行えるための環境作りが私にとっての「意味」であり、「意味」のもてる仕事は国家公務員になることで携わることができると考えた。そして、国家公務員 I 種試験は、採用過程にいくつかの重要な高いハードルがあるが、それに対する不安をスキーで培った「自分に対する自信」が支えた。スキーの現役の活動が終わった大学4年の初夏(平成11年7月)に国家公務員 I 種を志望し、受験勉強を始めた。 1年目の挫折、公務員試験への挑戦国 I の受験勉強は、通常、大学3年で勉強を始めるが、スキーを優先させた私は既に1年遅れのスタートとなった。 私は法律職で受験したが、大学時代にまともに勉強したことがなかったので、どの職種を選んでも大差がないので、合格者も採用人数も多い法律職は採用される機会も多いのだろうとたいして考えずに選択した。合格までの効率的な方法論を得ようとしたが、私の周りでは、ほとんど全てが民間企業を志望していたので、直接合格者に聞くということができず、合格体験記が載っている本を数冊購入して探す他なかった。そのなかで共通するのは、「過去問を解け」、「模試を受けろ」、「新聞を読め」そして「基本書は読むな」というものであった。それに従ってみようと勉強を独学で始めた。予備校に通ったことのない私は勉強とは1人でやるものだという考えがあり、独学で臨み、基本書ではなく、市販のテキストを使って手探りで勉強を始めた。 勉強はやはり辛かった。1人で我慢大会をしているような感じであった。何も知らない法律・経済科目と勉強方法が見つからない一般知能問題、そして、再び高校時代の勉強をするが如くの一般知識科目に7月〜12月まで5ヶ月間もがき続けた。家の中にこもりきりで勉強しかしない生活にストレスがたまると、自分から飲みや遊びに誘い、現実逃避をして勉強が手につかない日が多かった。市販のテキストでは補えない箇所がたくさんあることが分かり、模試を全て受けることにした。それが12月〜5月であった。 既に堅く志望の決まった私は、公務員しか考えてなく、大学卒業を決めた。3月の卒業式では、成績が伸び悩んで余裕のない私は、合格して内定をもらえてからが自分にとって本当の卒業だと思い、自分も卒業するものの、ゼミや同好会の友人達の卒業を祝いに行き、すぐに家に買ってきて勉強を始めた。 それから成績は少しずつ上向くものの、A判定はもらえずにB判定止まりであった。5月から1次試験のある6月までは、B判定という状況に動揺してしまい、試験の直前期にもかかわらずスランプに陥り、勉強が全く手につかない状態で1次試験を向かえてしまった。苦手意識を持っていた教養試験では、解けないという不安と緊張が走り、冷静に考えることができずに3時間が過ぎてしまった。一方、専門科目は、基礎的な問題が多く、高い点数を取れたと感じた。教養試験の穴を専門試験が埋めてくれて1次試験は合格できているだろうと確信しながら会場を出た。 平成12年度の官庁訪問は合格発表後に行うと人事院から通知があったのだが、既に1次試験後に行われていた各省庁の業務説明会において実質的に採用段階に入っているとわかり、2週目の月曜日にあわてて初めて官庁訪問を行った。志望官庁を訪問すると、もう説明会はやっておらず、さっそく人事の面接がすぐに始まった。今日が初めて官庁訪問をしていることを話すと「素直なんだね〜」と笑われてしまい、建前と本音の洗礼を受けた。何事にも真っ直ぐ向き合っていきたいと考える私には、その採用方法に少しがっかりした。関心のある現課を紹介してもらい、そこで2時間程度面接をした。話しは大変面白く、知的好奇心がくすぐられ、話が弾み、窮屈で辛いと感じていた受験勉強とは全く異なり、官庁訪問は刺激的で楽しかった。ここにこそ自分のフィールドがあると感じられた。そして、その思いもつかの間、1次試験は不合格であった。私は、人事院の掲示板の前で立ち尽くしてしまった。 挫折から再起へ公務員試験浪人時代1次試験合格は間違いないと考えていたので、不合格のショックは大きく、その後何も手がつかない日々が続いていたが、失意の中でも官庁訪問で感じたあの熱い感情を抑えることができず、私は再度挑戦をしようと決意した。しかし、同じような方法を取っていては、また落ちることが目に見えているので、私の強い意志を汲んでくれた両親の全面的なバックアップの下で、早稲田セミナーに通うことに決めた。今回は年齢的、状況的にも後がないと感じた私は、出身地である福島県庁も受験することにし、国 I と地上の両方の勉強を始めた。 渡辺ゼミにも参加し、専門試験科目に磨きをかけることができた。ゼミでは、基本書に立ち返り、自分で過去問を追求することで、学問そのものにも追求し、知的好奇心が得られるようになり、「極める」ことが好きなので勉強することが楽しくなった。私にとっては極めて大きな成果であった。自然、勉強時間も増えるようになり、ゼミに参加していたときは1日12〜15時間勉強し、かつ中身の濃い勉強をしていた。2年目の勉強は、1年目とは違い、友人らと遊ぶことがほとんどなく、また1日誰とも会話していない日も多くあった。辛いと思うときも少々あったが、この頃は充実していた時期であったと思う。時間が過ぎるのがとても早く感じられた。2回目の受験はすぐに来てしまった。 2年間勉強してきたことに自信のあった私は、試験本番でも特に緊張しなかった。教養試験は難しく、点数も低かったであろうが、焦らずにじっくりと考えながら、時間配分も計算しながら、理性的に臨めた。セミナーで模試や答練を繰り返し行ってきた成果であった。専門試験も楽しみながら解くことができた。 官庁訪問と2次試験今年度の官庁訪問は前年度と異なり、業務説明会も1次試験後に行ってはならないと取り決められ、官庁訪問は1次試験合格発表後からであった。友人から合格発表前日に合格通知書が届いたと電話をもらったので、私も緊張しながら、しかし、「ある、届いている」と強く思いながらポストを開けてみると、私のところにもきちんと届いていた。うれしかった。この瞬間は今でも鮮明に覚えている。 そして、官庁訪問が翌日からスタートしたが、合格した興奮のために朝まで眠れずに2時間ほど遅れて、11時ぐらいに志望官庁へ到着した。私は、昨年2省庁しか回らなかったので、今年は5省庁ぐらい行こうと考えていた。しかし、第1志望官庁で、次々と面接が続き、初日からいきなり人事・現課合せて6人の方と面接し、いつのまにか23時になっていた。そして、その後解放され、他の省に回ることができなくなってしまった。官庁訪問期間が短くなったために、すでに初日から拘束が始まったいたのだ。次の日に第2志望官庁へ行ったがやはり11時ぐらいに解放された。第1週目は毎日このような感じで終わり、結局今年も2省庁しか回れずに2つでローテーションが組まれることになってしまった。そして、1つに絞る決断を迫られる運命の2週目火曜の朝になったが、第2志望官庁は手応えが悪いまま拘束されていたので、第1志望官庁へ行き、そこからまた1週間の拘束が9時〜23時まで続いた。拘束されたからといって内々定がもらえることが約束されているわけではなく、採用の実質的な権限を持っている方々との面接が控えていた。協調性を重んじ過ぎて自己主張が弱い性格など自分の足りなさや欠点を面接中に指摘されたりして精神的にも辛い日が続いたがその度事に、志望の熱意や自分の負けず嫌いなところを一生懸命にアピールしながら、第2週金曜日に何とか第1志望の省から内々定を頂けた。 その後、2次試験の論文試験は渡辺ゼミII期のおかげで、人事院面接は官庁訪問の様々な経験を活かして、乗り切ることができ、最終合格を果たすことができた。 最後に私は「キャリアエリート」と呼べるようになるには全く至らない、無教養で、頭の回転も鈍い人間である。しかし、平凡な能力しか持っていないという自己に対する認識が、自分を向上させ、その度事に成長できるフィールドに参加でき、魅力的な人々に出会い、触発されて、自己を磨くことができた。今回の国家 I 種試験の最終合格もまさにこの過程にある1つである。 昨今、社会制度の改革が議論されているが、まさにその議論の中心部へと自分の新たなフィールドを移し、そこで、自分の不甲斐なさを痛感し、挫折しながらまた成長し、自分が思い描いているもの、または、自分に期待されているものを成し遂げたい。 長々と書いてしまいましたが、本稿はこれで終わりです。ここまで読んでくださってありがとうございました。今年受験しよう、または再受験しようと考えられている方は、これから厳しい戦いが続くと思います。しかし、最後まで、自分に対する自信を持ち、堂々と立ち向かうことで、必ずよい結果が得られるのではないかと思います。 |
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