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キャリア・エリートへの道


国 I 2次落ち後、秋採用で外資企業に内定。

はじめに

 私は2001年(平成13年)の国家公務員 I 種試験を受験し、1次合格はしたものの内々定はいただけず、さらに2次落ちした。その後民間企業の秋採用に向けて就職活動をし、外資系IT企業から内定をいただいた。

 自分はキャリアになるわけではないけれども、自分の経験をお伝えすることで、キャリアを目指す方あるいはキャリアへの道を断念し企業に就職しようとする方の参考になればと思っている。また、文章にすることで自分の気持ちをもう一度整理したい、という思いもある。「見苦しい言い訳」にならないよう、できるだけありのままにお伝えしたい。

 順序としては、まず公務員を志望する以前の経緯(他の寄稿されている方と同様、生立なども含め)、続いて公務員試験から試験後の経緯をお伝えしたい。なお、後半部分で「2次落ちした理由」「官庁で内々定をいただけなかった理由」「企業で内定をいただけた理由」などについて触れるつもりだが、あくまで私の推測に過ぎない。参考程度にとどめていただけるようお願いします。

略歴

 私は1977年に大阪で生まれた。父は裁判官だった。母も裁判官だったが、結婚を機に退職、専業主婦をしていた。父の仕事の関係で転勤が多く、中学入学までに5回以上引越しをし、その間に妹1人弟2人が生まれ、4人きょうだいになった。中学1年のときに父が病気で亡くなり、母が復帰し裁判官として働くようになった。小学校・中学校は近所の公立校に通い、高校は東京の学芸大学附属に進み、1浪して東京大学文科 I 類に入学した。大学4年の秋まで運動会(いわゆる体育会) の活動に没頭し、引退後に10月生として早稲田セミナーの法律職を受講した。渡辺ゼミで渡辺先生のお世話になり、御陰様で国家 I 種の1次試験には合格したものの、冒頭で述べたような結果となった。

父のこと

 自分の人格ひいては人生観に一番大きな影響を与えた人は、今のところ父であると思う。父は「裁判官」と聞いて多くの人がイメージするような学者的・官僚的人物像とはかなりかけ離れたタイプの人であったと思う(そのイメージ自体あやふやで適当なものだが)。よく食べ、よく飲み、大柄で、「しょうもない」ギャグをいつもしゃべっていた。

 最初に勉強を教えてくれたのは父だった。父自身勉強が好きだったせいか、私はありがたいことに特に苦と感じることもなく自然に勉強するようになった。相手を乗せるのもうまかった。春休みに分厚い算数ドリルを数冊渡され、「こんなに出来ないかな〜」と言われてムキになって「出来るよ!」と言って必死になって全部クリアした記憶がある。父に買い与えられた本や、親戚のお下がりの「ひみつシリーズ」がきっかけで読書にも、のめりこむようになり、小学校の高学年の頃には毎日のように図書館に通うようになった。

 父の言葉で一番心に残っているのは「知ったかぶりをするな!」である。消費税が導入されたときに、中身は忘れたが、私がかなり生意気なことを口走ったのに対し叱られたときの言葉だが、この言葉はそれ以後常に頭にひっかかっている。本当に自分はわかっているのか?自分の頭で考えているのか?いつも自問自答している。

 家での勉強だけでなく、休みの日にはいろいろなところに電車やドライブで連れて行ってもらった。一番印象的なのは札幌に住んでいた頃に連れて行ってもらった網走への小旅行だった。雪深い(今はおそらく廃止されているであろう)路線を通る国鉄に乗って小さな無人駅で下り、川沿いの道を一緒に歩いた。雪がしんしんと音も無く降り、川面に消えてゆくのをじっと見ていた。

 父はサービス精神旺盛かつ筆まめで、出張のときにはいつも出張先の風景つきの絵葉書を家族全員に送ったり、平成元年11月11日には「正義の味方より」という葉書を私に送ってくれたりした(もちろん他の家族へも「ドラえもんより」とか差出人を変えて送っていた)。出したのが遅かったのか、消印は12日になっていたが。毎年ゴールデンウィークには山登りやキャンプなどをしていた。本当に家族思いで子煩悩、エネルギーいっぱいな人だった。

 もちろん、父はけっして完璧ではなく、むしろ欠点だらけの人間だったと思う。気分屋ですぐ怒るし、頑固、見栄っ張りでお調子者でもあった。郷里の秀才として東京に出てきたという自負心とおそらく劣等感からか、体に似合わず非常に繊細で不器用なところがあった。生きていたら毎日のように喧嘩をしていたのではないかと思う。だが、そのような「泥臭い」ところも、仕事熱心なところも、すべてひっくるめて(美化しているとわかっていても)自分は父を尊敬している。

 父が病気で入院したとき、まさか亡くなるとは当日まで全く思っていなかった。健康そのものだったからだ。だから、心の準備も全くできていなかったし、将来についての深い話など全くすることないまま臨終のときを迎えてしまった。自分は霊魂とかそういうものをまったく信じておらず、死んでしまったらおしまいだと思っていたので、父の死は取り返しのつかないことであった。

 父の死は辛かったが、それだけでなく、その日を境に物の見方が変わった。それまでは若くして親が死ぬということは世間一般には珍しいことではないと頭で知っていても、自分には起こらないと無意識のうちに思っていた。だが、そうではなかった。自分もありがたいことに非常に健康だけれども、やっぱりいつ死ぬかはわからない。病気でなくても、事故・事件、なんでも「自分は大丈夫」ということはありえない、ということを実感した。また、そのような精神的な変化だけでなく、母が復職したこともまた非常に大きな変化であり、のちに公務員をめざすきっかけにもつながった。

母のこと

 母は自分にとって尊敬の対象であり理解者である一方で、(多くの男性にとっての父親がそうであるように)超えなくてはいけない相手でもある。普段は「ママ、判決が書けない〜どうしよう」などとのんきに言っているが、いざというときの胆の据わり方・集中力は大変なもので、どんなピンチのときでも絶対に逃げずに正面から立ち向かう強い人間だと思う。父が亡くなってから両親の知り合いや親戚などの暖かい助力はたいへんな助けになったが、自分たちきょうだいが経済的に苦労することもなく生活し、進学できたのは最終的には母の力である。

 母は真面目・頑固で、今でも何かと口うるさい。それでもありがたいと思うのは、「(子供に対して)あんたのためよ」と言いながら本当は自分のためにあれこれ子供に文句をつける親が結構いるらしいのに対し、母にはそういうものが無い、ということである。私の進路についても、自分にとってどう、というのではなく、本当に私にとって一番いいように、と心を砕いてくれたことは本当に感謝している。

 母が働いているのを見て(そしてときどき離婚訴訟の話を聞いて)育った中で感じたことは、「自分の力で生活したい」ということである。「自分の能力を生かして、経済的に自立して生活できるようにしたい。そして、自分の子供にも(自分がしてもらったのと同じように)、その可能性を最大限生かせるような教育をしてあげたい」と自然に思うようになった。

 ただ、世の中には能力があっても、自分の努力でどうにもならないことで可能性を制限される人がたくさんいる。そういうさまざまな「障害」を無くして誰もが自分の可能性を伸ばし、やりがいを感じられるような社会にしたい、と思うようになった。

高校〜大学受験

 私は2度目の大学受験まで、「やり切る」ということが無かった。高校受験は、落ちた人には申し訳ないが中途半端な勉強(数学が苦手で、「やらなければ」と思いながらきちんと取り組むことが無いまま)でどういうわけか入ってしまった。高校に入って柔道部に入ったが、ここでもうまく周りの男子と打ち解けられず、なかなかうまくなれず閉塞感があった。しかも「仲良くしたい」とか「もっときちんとやりたい」と思っているだけで相手に伝えることをせず、個人的な努力をするでもなく、ただ「わかってくれない」と勝手に思っていた。部活に限らず高校生活全体にそういうところがあり、克服しないまま卒業してしまった。いい友達ができたことは本当によかったが、同じことは繰り返したくないと卒業の時に思った。

 大学受験では高校の時と違いラッキーパンチは無く、順当に浪人した。浪人中の1年間は本当に一生懸命に勉強した。数学も頑張ったら面白くなった。東大を目指したのは、東大に何かがあるからではなく、東大に受かるだけ努力したい、挑戦したいと思ったからである(勿論負けず嫌いとか見栄の要素も十分にあった)。だが、またしても前期試験に落ちた。かなり自信があったので落ち込みも激しく、後期試験(論文)のあとは毎日文字通り泣き暮らしていた。後期なんて宝くじみたいなもので受かるはずが無い、と思っていたので発表も見に行かなかった。ところが受かっていたので仰天した。今でもなぜ受かったのかよくわからないので神様の思し召しだと思う。微妙にずれた結果ではあったが、何か一つのことに向かって初めて努力し切ることができた、ということ自体は自信になった。

受験勉強の方法

 このホームページは大学受験生の読者の方もいる、とうかがったので大学受験時の勉強方法について記そうと思う。

 自分の勉強のポイントは、自分の性格に合わせること、だ。勉強方法は、理解と暗記・演習の繰り返し。「自分の性格に合わせる」とは、自分は不器用で一度に二つのことはできないので、勉強以外のことは可能な限り後回しにした。見栄っ張りなので、模試などで名前が載ることを短期的には目指した。気分がだれたときは落ちたときの恐怖感を考えて気力を出した。自分は、はまり易い性格で、浪人している間遊んだ記憶は無く、遊びたいと思わなかった。公務員試験の受験勉強の間も、テニスはまったくしなかった。ひたすら勉強し、決めていた分ができたら「今日のノルマができたご褒美」と称して思い切り音楽を聴いた。

 「理解と暗記・演習の繰り返し」は書いたそのままで、まず理解し、暗記と演習で肉付けをした。ものごとの道筋がわからないと覚えられない。先生に質問するときも、まずは自分で考え抜いてから質問するようにしていた。数学は当時駿台にいらした西岡先生の参考書、英語は同じく当時駿台講師だった薬袋先生の構文の参考書を使った。両方に共通しているのは、できる限り論理的に理解できるように工夫されていたことだと思う。ただ、理解が本物になるには演習が必要で、たくさんの問題を何度も解いた。一度やってできなかった問題は、次の日また解き、さらにしばらく経ってからまた解いた。数学はやらず嫌いで苦手意識を持っていたが、まともに勉強して、問題が解けるようになると楽しくなった(そうなるように最初はチャート式の一番簡単な参考書を使った)。ちなみに、数学の勉強は後に法律の勉強をしたとき役に立った(と思う)。

 さらに、それだけでは足りないので、特に英語や世界史などについては暗記にも力を入れた。毎朝決まった時間に英単語(「2001」と「DUO」)・英熟語(「1001」とZ会)・英会話を詰め込み、次の日また同じページを見て覚えているかどうか確認し、覚えていなければまた次の日も・・・と繰り返した。英→和だけではなく和→英も確認した。また、英語の綴りは必ず紙に10回以上書くようにしていた。世界史は山川出版社の「年代暗記650」を全部覚えた。いかにも「受験勉強」っぽいが、実は年代を一通り覚えると重要な事件の流れが間違いなく頭に入り、頭の中が整理整頓されるのでとても有効だと思う。記憶力は、大学4年にもなると格段に落ちるので、覚えられるうちに覚えた方が後々便利だと思う(覚えて無駄になることは無いから)。なんとなく詰め込んだものが他の知識とつながったときの面白さも味わえる。

 以上が自分の大学受験時の勉強方法だが、(書いておいてなんだが)あまりスマートではないし、勉強方法は人それぞれなので自分が一番勉強しやすい・楽しいと思える方法で勉強したらよいと思う。

東大軟庭部

 両親以外で自分に最も大きな影響を与えたのは大学4年間での部活動である。

 大学に入ったときにやりたかったことは、良い友達を作ることと、勉強することだった。勉強、といっても、1人で本を読んだりする勉強は好きなので「やればできる」と思っていた(できる、というのは良い成績をとれるという意味ではなく、人並みに楽しんで続けられる、という意味で)。それよりも、自分には人と何かをするとか、集団で何かをするといったことができるかどうか自信が無く、そちらの訓練の方が必要だと思った。それに、自分が法学部を選んだのは「世の中・人間について知りたい」「そしてその中で起こった問題を解決するすべを見つけたい」と漠然と考えていたからだが、そのような勉強は本だけで身につくものではなく、自分自身が人との関係の中で本気で悩んだり努力したりする中で得られるものではないだろうか。そのような考えから、自分は「上限無くチャレンジできる」「一生懸命な人がたくさんいて競争している」運動会軟式庭球部を選んだ。

 (もっとも、最初からそんな大上段に考えていたわけでもなく、勧誘されて行ってみたら楽しかったので入った、というのが本当のところで、上記の理由は本当ではあるけれども後付けといえなくも無い。)

 軟庭部女子部では2年時に主務(=マネージャー。軟庭部では選手が仕事の一切もする)、3・4年時に主将を務めた。部活生活は毎日が起伏に富んだ、大げさでなく波乱万丈なものであり、この短い文章でまとめることはとてもできない。ひとつだけお伝えしたいのは、体育会、というとある種のイメージがあると思うが、部によって個性はさまざまで、一括りにはできない、百聞は一見に如かず、ということである。

 私は初心者で運動神経も非常に悪かったが、周りは男女問わず丁寧に指導をしてくれた。練習熱心な人に囲まれていたので自然に自分も熱心になった。関東リーグ3部(12部中)と強い男子部がそばで練習しているので励みにもなった(注 東大の運動部は、強いところが多い)。こうなったら、とことん練習して強くなろう、技術だけでなく仕事のうえでも部活を完全燃焼しよう、と決心するまで時間はかからなかった。負けず嫌いが拍車をかけて、毎日毎日授業そっちのけで練習していた。

 当時の女子部は非常に志が高く、関東リーグ6部(あまり強くない)だった時から、他の6部校がおそらく「5部に上がろう」といっていたときに「2部昇格」を目標にしていた。そしてその目標のために、有効と思われることはどんどん試した。特に重要な練習法は、強い他校の練習に参加することだった。全国優勝した大学だけでなく、同じく全国優勝した中学校などの練習に参加させていただいたことはたいへん貴重な経験で、上達につながった。強い学校の練習を知ることができる、強い選手のフォームを見ることができるだけでなく、勝つための姿勢などを直に聞くこともできるし、部全体の礼儀正しさも学べ、また度胸もつく。本などではなく、実際に「上」の世界を見ることはさまざまな点でたいへん意義のあることだと思う。

 入部当初6部だった女子部は年2回のリーグ戦でどんどん勝ち進み、私が2年の秋には3部リーグを迎えるまでになった。それまで私は全敗だったが、この秋リーグで5戦全勝し、チームを優勝に導くことができた。残念ながら2部昇格にはならなかったが(昇格するには3部で優勝し、かつ2部の最下位校との試合に勝たなければならない)、初心者始めで(運動神経が私くらい悪くて)3部で全勝した選手はおそらく後にも先にもいないと思う。そこまでいけたのは一緒に練習したメンバーと、暖かく支えてくれたOB・OGの方々のおかげだった。

 3年になって主将になってからは理想と現実の間で悩むことが多かった。原因は部員不足である。自分は、チームの1人1人の力を伸ばして、試合に勝って喜びを分かち合いたいという理想があったが、肝心の部員が入らなかった。「体育会離れ」とよく言われるが、ご多分に漏れず東大軟庭部女子部は常に部員不足で、ひどい時には試合に出ることすら叶わなかった。部員が多ければ、それほどやる気が無い人でもなんとなく熱心になったりするものだが、少ないとそうはいかない。1人1人の負担が多いこともあり、もともとそれほどやる気があった訳ではない人はますますやる気を失ってしまう。だからといって「じゃあ、やめろ」といってしまっては元も子もない。それぞれの気持ちを尊重しつつ部の一番大切な部分(「上をめざして努力する」ということ)を残す……。口で言うのは簡単だが、なかなか割り切れず余裕が無くて思いやりを無くしてしまうこともしばしばだった。部員が2人休部してしまった。さらにその上、4年の春、かつてなく勧誘に努力し知恵を絞ったのに、やっぱりうまくいかなかった時は、自信喪失と挫折感が一緒になってやりきれない気持ちになった。

 だがいくらやりきれないといっても、主将としてそこで責任を放棄するわけにはいかなかった。主将でなくても、ここでやめてしまったらせっかく頑張ってきたのが無駄になってしまい、さらに一生後悔することになるだろう。後悔だけは嫌だった。できることをすべてやり遂げてから秋のリーグで卒部しようと決めた。そこで、後輩はいないけれども、自分が卒部してから入った時のために、関東学生連盟との連絡から何からすべて引き継ぎを済ませ、あと1つだけ残ったリーグのために、休部した同期にカムバックしてもらい、秋はそれまで通り練習した。最後の3部リーグは2年前と違い目標は優勝でなく残留だったが、ぎりぎりの戦力で目標を果たせたので、満足できた。私がいたからここまでできた、と同期に言われたときは4年間やってきて本当に良かったと思った。

 不思議な巡り合わせで卒部後に入れ替わりで新入生が入った。とてもかわいいと思う。自分がしてもらったようにできるだけのことをしたい。

 自分が部活の中で学んだことは、2つある。1つは、人と付き合うことは大変だがとても面白いものだ、ということである。他人は、想像がつかない。人と交わることで、自分の(つまらない・狭い)世界がどんどん広がっていくように感じた。自分は高校の頃1番になりたくてなれず、その劣等感の裏返しでなかなか他人を認められなかった。だが、部活動の過程で、東大の中でも、東大以外でも沢山のプレーヤーに出会い、その人々が努力している姿、活躍する姿、あるいはきちんと仕事をしている姿を見て心から素晴らしいと思った。それをきっかけに、テニス以外のスポーツでも、音楽でも学問でも目立たない職業でも、努力する人や才能ある人が活躍する姿が以前よりも自然に目に入るようになった。

 もう1つは、人の才能を伸ばすにはシステムが重要な役割を果たすということである。先に少し触れたが、才能があっても、それを伸ばすには才能だけでなく、伸ばすシステムと環境が要る。自分が軟庭部で努力できたのは努力しやすい・したくなる環境だったからだと思う。人のインセンティブを高め、その成果をネットワークで拡大できるような有効なシステムとはどのようなものか。そしてそのようなシステムを作るために自分の能力を最大限活かせる職業は何か。そのように考えた中で辿り着いた結論が「国家公務員」だった(注 私は「システム」という言葉をよく使うが、学問的な定義づけを知っている訳ではないので、その点御了承いただきたい)。

公務員になってやりたかったこと

 私が公務員になりたいと思ったきっかけは様々で、それらをだらだらと書いても散漫になるだけなので、勉強をしながら新たに考えた事柄などをすべて付け加えて「やりたかったこと」としてまとめてみようと思う。

 抽象的に、大雑把に言えば、1人1人の能力が伸ばされるような、自己実現を図れるようなシステムを作りたい、弱者を「保護」するのではなく、弱者を「強者」にするような、自動的にそのような社会的インセンティブが沸くようなシステムを作りたいと考えた。その目標に対してもっとも自分の能力を活かせるのは公務員ではないか、と考えていた(「自分の能力」というのは、法律が面白いと思えること・粘り強いこと、などである)。

 具体的には、2つ関心があることがあった。1つは保育問題、もう1つは行政システムそのものである。

 政府の所信表明や「骨太の方針」でも触れられていたが、女性の社会進出と保育所の増設はかなり直結していると思う。だが、ただやみくもに保育所を作ろうとしても財政は苦しいし、地方によってニーズは異なるので一律にしようとすれば無駄が出るし柔軟な対応がどこまでできるかわからない。ならば、国の保育園の認可要件をもっと緩め、かつ財源と権限を両方地方に移し、その地方の住民の合意のもと、各々の事情に合った保育システム(建物で以外でも、保育ママとか、さらにもっと広く妊婦さんへの講習から学童保育)が作れるようにしたら、合理的・効率的に住民のニーズに合った保育行政が進められるのではないか。一方で一部の無認可保育園での事故などは見過ごしにできない。そこで、国は法律で罰則を厳しくすることによって安全などを担保する、というように役割分担をすればどうだろう。地方によって能力にばらつきがあるのなら、中核市や特例市になったら財源を移せるようにする、或いは地方によって従来どおりか自主財源かを選択できるようにする。……といったことをやってみたい、と考えていた。

 もう1つの行政システム、というのは、主に3点あり、1つは、「もっと政策が効率的に活かされるようにならないか」ということであった。各省庁の説明会で、しばし、メディアは行政に対して批判のための批判をし、正しい姿を伝えていない、という見解をうかがうことがあった。ならば、行政自ら発信し、メディアに対して再批判をすればよいのではないか、受け手(国民・住民)にきちんと伝わらなければ、(どんなに「本当はそうではない」といったところで)その政策は失敗ではないかと思った。せっかくの良い政策が、あまり伝わることの無いままたくさん埋もれているのではないだろうか、そうだとしたらもったいない、もっとアピールに力を入れたらどうだろう、と考えた(ちなみにこの点に関連して農林水産省や東京都などのホームページはとても面白いと思う)。そしてそのための道具としてITを活用できないかと考えるようになった。電子政府というものが今話題になっているが、ただ申請手続きが簡単、というだけではなく(もちろんそれ自体重要なことではあるけれども)、行政と国民・住民とのコミュニケーションの手段としてどのような使い道があるかを考えている。

 2つ目は、「ネットワーク」ということである。よく縦割り行政とか縄張り意識という言葉を聴く。どこまで本当かはともかく、横断的な政策テーマがあるときに関連省庁が人や情報を出し合ってチームを作ったら効率的になるだけではなく、1+1が3にも4にもなるような広がりができるのではないかと思う。また、情報を共有して検索できるようにしておけばとても効率的になる。

 最後に、「権限(リスク)の分散」ということである。最近さかんに言われているけれども、民間や地方がした方が効率的或いは活力をもたらす事柄は積極的に規制緩和をし、国はそこから生まれるリスクを軽減する(そしてそれが安心を生みチャレンジを生み出すように)適正なセーフティーネットを用意する、そういう流れに関わりたいと考えた。

 自分が今挙げたことは目新しくないし既に着手されていることばかりだが、肝心なことはそういう大まかな政策案をいかに迅速にソフトランディングさせるかで、自分はまさにそういったアイディアを現実化する過程に興味があった(今もある)。

 もちろん、自分の考えはきっと穴だらけだろうし、現実的ではないとかそんな簡単にできたら苦労はしないとか言われると思う。だが、(政策に限らず)何事もやってみなければわからないし、論理的に明解な否定理由や明らかに上位の案がないのならば、実現のための努力や戦略を徹底的に尽くす前にやめてしまってはいけないと思う。

 以上が、自分が「公務員になってやってみたかったこと」の大まかな内容である(そして民間に就職する上での目標も根本は変わっていない)。ただ、他の人の志望動機を聞くと自分はなんとなくずれているのかな、と思うことはあった。学問的な裏づけがあるわけではなかったので、できればもっと勉強したいと思った。その点でも、留学できる国家公務員は魅力的だった。

なぜ2次落ちしたか

 自分は官庁訪問・2次試験と2段階で失敗したわけだが、先に2次試験について述べる。正直に言えば、なぜ落ちたのか真相はわからない。ただ、教養の論文が時間切れになってしまい、最後までまともに書けなかったので、おそらくそれが原因であろうと推測している(あくまで推測)。なぜ書けなかったかというと、書くことを思いつかなかったのではなく、あれこれ思い浮かび、それらをすべてまとめた完璧な答案を書こうとしたからである。教養の論文には、答えは無く、迷えばきりがない。あらゆる意見が出せる。そこで大切なことは、「書く」以上に「捨てる」ではないかと後になって気づいた。他のことは全部我慢し、一番書きやすい意見だけを書く。そして、その意見に説得力を持たせるために例や反論をつける。大事なことは多少荒くても、それなりの文章を短時間で作り上げることで、オリジナリティを追求しすぎるのは時に危険なこともある。

 他にも、人事院面接がぱっとしなかったが、それについては次の項に関連するのでそちらで述べる。

面接の失敗を成功のバネに

 本来ならば、官庁訪問の「失敗」の原因についても言及すべきところだが、「官庁訪問では何が見られているかわからない。自分が原因と思ったことは大変な勘違いかもしれない。そのようなあやふやな情報(ですらない、推測)は有害になる」と考え、書かないことにした。

 ただ、内々定をいただいた民間企業での面接については書いても大丈夫であろうと思うので、そちらについて書くことにする。

 民間企業を受けるときのポイントは、
  1.本命の前に他の企業で練習をしておくこと 
  2.OB訪問をすること 
  3.情報収集・想定問答作りなどをパソコンできちんと用意をしておくこと
  4.落ちても落ち込まないこと
だと思う。
 大したことをしないでスイスイと受かった、という猛者もいると思うが、甘い期待はせず、堅実に粘り強く行った方がいいと思う。

 1(本命の前に他の企業で練習をしておくこと)の理由は、「面接慣れしていなくて緊張してうまく話せないから」。どうしても最初に志望企業に受けるしかなかったら、誰か厳しく言ってくれる友人やOBの前で練習した方がいいと思う。

 2(OB訪問をすること)の理由は、「まずその企業について知りたいことを(説明会などよりも本音に近い形で)聞けるから。次に、面接の練習をさせていただき、的確なアドバイスをいただけるから。最後に、『OB訪問をした』ということ自体がいざとなったら自己PRにつながるから(逆に、『していない』ことがマイナスになる可能性も)」。OB訪問で、私は部の先輩や親戚にたいへんお世話になった。本当に感謝している。

 3(情報収集・想定問答作りなどをパソコンできちんと用意をしておくこと)は、具体的には「聞かれそうなことについてどう答えるかきちんと用意しておく」ということえある。「聞かれそうなこと」とは、「志望理由(なぜその業種か、なぜ同業他社で無くその企業か、なぜその職種か、志望のきっかけ等々)」「自己PR」あと「前回の印象は」などで、さらに私のように公務員に落ちた人間の場合は「なぜ公務員を受験したのか」「もう公務員を受けないというのならそれはなぜか」「公務員を受けたこととわが社を受けることとどう関連するのか」などなどである。「聞かれたら困る、不利なこと(浪人・留年・成績が悪い・女性etc)」については必ず聞かれるので特に考えておく必要がある。

 「どう答えるか」については、OB訪問させていただいた方と、早稲田セミナーの面接の先生からの受け売りだが、以下のようなことだと思う。

 一、 結論を先に言う。質問に対して、「これこれで、こうこうという反論もあるが、だがかくかくしかじかで、だから○○です」という言い方だと「早く言え」という感じになる。どうせ理由は聞かれるので、まずはYes or Noを言ってしまう。

 二、 相手の目を見て話す。そらすときは上ではなく(上だと「泳いでいる」という感じになるから)下を見る。

 三、説得力を持たせる。具体的には、「差別化」を「具体的経験」をもとにはかる。例えば、自己PRでただ「責任感がある」というより、「他の誰よりも責任感がある。例えば……(具体的なエピソード)」というように。運動部をセールスポイントにしている人は結構いるので、その中でもさらに差別化をする必要がある。「自分は他の誰もしたことが無いことをしてきた、他の誰にも無い能力を持っていて」「御社のこういうところが自分のこういう(具体的な)経験・希望にかなうから」「御社が第1志望です」

 重要なのは自分のセールスポイントを絞って、そのポイントは確実に伝えることだと思う。なぜ絞るかというと、たくさん抽象的な言葉を並べても記憶に残らないし、説得力も無いので、大事なことだけをできるだけ具体例で肉付けして話すことを心がけた。

 「想定問答を用意する」というと、「いかにも覚えて来ました、という感じで印象が悪い」と思われるかも知れないが、用意してもやっぱり緊張するので心配をすることは無いと思う。また、用意といっても本番で「これだけは言いたい」ということを言えるように(そして「これは言ったら誤解される」ということを言わないように)頭の中を整理する、ということで、嘘八百を作るわけではない(1を10にはしたけれども……)。

 また、なぜ「パソコンで」かというと、手書きは思考のスピードについていけず、しかも面倒だから、また、その日の質問などを上書きしたりできて便利だから、という単純な理由である。

 4(落ちても落ち込まないこと)については、わかっていても難しい。私は官庁訪問で内々定がいただけなかった後も、ずっと未練を断ち切れなかった。2次の発表の前に、取り返しがつかないことにならないように企業の秋採用の日程は一通り調べ、8月15日以前が締め切りの企業のみ応募し、15日まではひとまず最終合格後の補充に備えておこう、と省庁用の想定問答を作ったり白書を読んでいたりした。2次落ちしたときは、目の前が真っ暗で、自己否定・自己嫌悪・嘲笑の言葉で頭が一杯だった。だが、だからといって何もしなければ本当に無職になってしまう。絶対に就職したかったので、予め調べておいた秋採用企業の締め切りにあわせエントリーシートを書き、申し込み、想定問答を作って就職に集中することにした。

 そんな状態だったので、就職活動のときに立ち直っていたわけではない。ただ、あれこれと抽象的に悩んでいるとどうしようもないので、できるだけ具体的にやるべきことを考えた。「民間企業では、『公務員はもう受けない、その企業が第1志望だ』と言えば話を聞いてくれる」という友人の言葉に愚直にすがって、その言葉を基本方針にしてそれに合わせて企業研究や想定問答作りに没頭した。今になって思うのだが、そのように何か核になる方針があると、自分が何をすればよいのかがわかりやすく、とても良かった。

 こんな風に書いているととても強い人間のようだが、実際は、面接が終わるたびに「今度もダメかも……」と暗くなり、家ではめそめそ、友人には「みも世も無い」かのごとく電話やメールで愚痴をこぼす有様で、本当に迷惑きわまりない人間だった。渡辺先生にも迷惑をおかけした。お詫びと感謝の気持ちで一杯である。

 「持ち駒」が無くなっていく中、第1希望に考えていた企業と、同じくらい「いいな」と考えていた企業(こちらもメーカー)の面接は不思議とスムーズに進み、最終的には両方から内々定をいただいた。1晩悩んで第1希望だった外資の方に進むことにした。なぜ受かったのかはよくわからない。縁があったのだろうとしか言えない。

 「官庁訪問の面接については書かない」と書いたが、1つだけ白状する。自分は自分を肯定的に見てくれる相手に対しては堂々とできるが、実はかなり小心者で、「ダメかも」と思った途端、何を言ってよいのやらわからず、自分で勝手に「こういうことは言ってはいけないかな」などと自主規制をしてしまっていた。そんな状態に陥らないように、できるだけたくさんの省庁のOBを訪問し、その省庁の方針や風土などについて聞いておくことをお勧めします。

最後に(就職するにあたって)

 就職が決まった段階では、いつのまにか官庁がうまくいかなかったショックも消え、「これでよかった」と思っていた。自分のやりたいこと(自己実現のためのシステムを作ること)ができる場所だと感じたし、厳しい競争の中で自分を成長させたいと思った。また、その企業で出会った人々に親近感をいだいていた。自分は、心底公務員になりたいと思って努力したがうまくいかなかった。反省すべき点は多々ある。また、今だったらもっとうまくやれたかも、とも思う。だが、それもこれも含めやはり「縁」が無かったのだろう、と思う。受験する前は自分がそんな風に思うとは想像していなかった。

 就職が決まってから何人かの友人に「本当にそれでいいのか? 逃げではないのか? 後悔しないのか? 来年(万難を排してでも)再受験しないのか?」と聞かれた。正直に言うと、そう聞かれるまで自分はこれでよい、その企業でバリバリ働くぞ!とやる気満々だった。だが、そのように聞かれて、もうちょっと深く考えるべきではないかと逆に思わされた(呑気なものだ)。友人の言葉に今は答えることはできない。もちろん自分は逃げているつもりもなく、これでよいと思っているし、再受験をする気もない。だが、もしかしたら無意識のうちに自分をごまかしているのかもしれない。その答えは今出るものではなく、就職してからわかることのように思う。

 今はっきりと意識していることは、とにかく働きたいということである。それは消極的には義務だからであり、積極的には社会に対する働きかけをするチャンスだからだ。自分は可能性を手に入れられる企業を選んだと考えているし、その場所をつかんだら、あとは自分次第だと思う。自分はやりたいことがたくさんある。もっと勉強して、知識を身につけて、たくさんの人と交流したい。そして誰かの役に立つことをしたい。どんな小さなことでも責任を持って最後までやり遂げる、そういう積み重ねを増やしていきたい。

 きっとこの先もたくさんの壁にぶつかるはずだ。だが、そのときに「やっぱり公務員に受かっていれば……」と思いたくないし、自分は思わないと思う。そうやって後ろ向きに考えるよりもその壁を正面突破するなり、回り道して潜り抜けることにエネルギーを費やしたい。辛い現実から逃げるのではなく、前向きに取り組んでいきたいと思う。ごまかさずに謙虚に物事を見られたらきっと自分は成長できると思うし、他人に対しても誠実に接することができると思う。

 最後に、これまでお世話になった先生方、スタッフの皆様、Wセミナーで出会った仲間の皆様、ありがとうございました。自分は落ちたことについて大方吹っ切れているけれども、期待をかけてくださった先生方(特に渡辺先生)と母に対してはやはり申し訳ないと思っています。一生懸命働きます。

以上

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