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キャリア・エリートへの道


デメリットをメリットに転換し国 I 上位合格

はじめに

 3日前に人事院面接を終え、今は1ヶ月後(8月19日)の合格発表を期待と不安との両方を抱いて、この原稿を書かせていただいていた。論文試験後に試験の感触を渡辺先生に伝えさせていただいたところ、「キャリア・エリートへの道」に載せる原稿を書いてみないかと依頼された為である。まだ結果待ちの状態でこのような文章を書くのもどうかと思ったが、引き受けることにした(*)。共に国家 I 種を目指してきた友人からも「お前が書くと面白いものができるだろうな」と言ってくれたからだ。といっても私の書く文章を素晴らしいと思って、その友人はそう言ってくれたわけではない。私は自分でも自覚できるほどのそれなりに変わった人生経験を持っており、友達もそれを知っていて私が書けば面白いものになると言ったわけである。

 諸先輩方にならって本稿の構成は、はじめに自分の経歴、続いて市販の本にも書いてあるような国家 I 種試験の体験記というようにする。「こんな自分でも国家 I 種公務員を目指せるのか? なれるのか?」と不安な方は最初から読んでいただくときっと自分でも大丈夫だと思われるはずである。「国家 I 種を目指すことに決めたが勉強が不安だ」という方には最後の方を読むことで少しでも参考にしていただければと思う。

幼少〜小学生時代

 私は京都府向日市に生まれ、10歳までをその町で暮らした。家族は両親と祖父母、3年おくれて生まれてくることになる弟の6人であった。この家族のためか私は、先ほど述べたような風変わりな環境で育つこととなる。というのも、母親は水商売、父親は高齢の為無職だったからだ。不幸な家庭環境だったのかと思われる方も多いだろう。では、不幸な少年時代だったのかというとそうでもない。物質的には恵まれていたし、家族はそれぞれに私を愛してくれた。この10歳まではこれといった不自由もなく育ってきた記憶がある。幼稚園でも小学校でも成績は中の上程度、自分はクラスの中心人物といった風ではなかったが友達もそれなりにいた。学校生活で困ったのはお父さんのお仕事といったようなことが授業の題材にされた時、まいったなと思ったことくらいである。習い事も英語、習字、水泳をやっており、4歳か5歳の頃から電車に乗って隣町まで通っていた。大人びていて雑学豊富というような子供だったと思う。今思い返しても、この頃はかなり充実していた。

 ただし、他の多くの子供達は経験していないようなことも色々と経験している。例えば父親が酒乱であったこと。普段は温厚な性格の父親が、お酒を飲むと人が変わったほどに暴れるのである。幼い時にはこれが最大の恐怖であった。布団の中で怯えていたり、夜中に母親と家の外に逃げ出したことを憶えている。小学生の頃、意味もなく殴られたこともあった。今はDV防止法があり、こういった問題を行政が処理してくれることもあるのだろうが、当時そんなものはなかった。結局、中学生になって私の力が父親を上回るその日まで、不定期にやってくる天災のような存在として父親の酒乱というものがあった。

 また、家庭環境とは関係ないのだが、私は小さい頃、気管支炎喘息を患っていた。大人になれば小児喘息は治ると言われ、体質改善の為に注射を週3本打っていたが、つい最近になるまでなかなか治らなかった。発作が起こらなければ、社会生活に支障を来すこともなく、何ということもない病気なのだが、一度発作が起こると息ができないほど苦しくなる。私は常時気管支拡張剤を携帯しており、発作が起こった際はそれを使うことで何とかしていた。この薬はその場しのぎになるだけで、喘息を根治するものではない。頼ってはいけないと思いつつもこの薬がないと外には出られなかった。何故私だけこんなにも苦しい思いをしなければいけないのかと自分が惨じめに感じたこともあったし、運動をすると発作が起こりやすくなるため、長距離走等の長時間運動を続けるスポーツは苦手もいいところである。根気よく治療を続け、今では年に1度か2度、喘息の発作は風邪をひいた時に起こるくらいのものになった。こういった経験からか、私はどうにも対処できない苦しいことが世の中にはあり、それらに対処できるような力を自分が努力して身につけなければならない、自分!が何とかせねばならないのだというような意識を根底に抱くことになる。

 10歳の夏にバブルの影響で滋賀県草津市に引っ越すこととなる。私の住んでいた借家の持ち主が、高騰した値でその家を売るために立ち退きを要請してきたといった事情だったように思う。結果、違う土地に行くことができ、一戸建てから、なんとなく住んでみたかったマンションに移り住むことになって、私はこの引っ越しを喜んでいた。何故だかわからないが友達と別れることは全然嫌なことだとは思っていなかったと記憶している。昔から私はなんとなく他人への関心が薄い人間だったのかもしれない。

 滋賀県への転居は、私の人生にとって大きな転機となったと今では思う。私が転入した小学校は、美術の分野で日本一の実績を誇る学校であった。学校がそう銘打っているだけかもしれないが、とにもかくにも私はその学校で絵画において文部大臣賞の特選と入選をとることになる。前の小学校でも佳作は取ったことがあったが、憶えてはいなかった。「文部大臣」などと何やら偉い名のつく賞で、賞状にも「海部俊樹」とよくニュースなどで見る人の名前が書いてあると、意味はわからずとも凄い賞を頂いたのかなぁと子供心に嬉しかったものである。小さい頃から絵を描くことが好きで、自分の才能らしきものといえばこの絵を描くということしかないように思う。しかしこの才能は転入したばかりの学校で友人をつくるには良いきっかけを生み出してくれたし、そうした友人の中には今でも親友と呼べるような人物もいる。何か1つ自信の持てることが自分にあると、それは必ず人生において有意義なものを生み出すことになると私は思う。また、美術が日本一の学校というだけあって自分が見ても勝てないと思う作品を残す人物にも何人か出会った。

 そうして私は、転居する前は見たことのなかった広い世界を、自分よりも必ず上がいるのだということを肌で感じることとなった。

中学生時代

 中学受験など考えもしなかった私は、そのまま自転車で通うことのできる近くの公立中学校へ進む。将来東大に行くような人達もいれば、ヤクザになってしまうような者もいるバラエティに富んだ中学校だった。しかし、全体の雰囲気としては荒れているという言葉があてはまる。というよりそれ以外に形容する言葉がない。始業式等には警察の方が警備のために顔を見せていた。グラウンドを自動車で走りまわったり、学校の機材に放火したり……。挙げればきりもないほどの悪戯、そしてその域を越えた犯罪と名のつくものもいくつか思い当たるほどである。そんなとんでもない学校だったのだ。私はというと、悪戯に加担したことも当然あるが、育った環境が環境だけに大抵のことは子供っぽくてくだらないことだと感じることしかなく、冷めた目で見ていたことの方が多かったように思う。

 そんな学校で、私はバスケットボールに没頭することになる。小学校6年の時に担任をして頂いていた先生が、全国でも強豪のミニバスケットボールチームのコーチをなさっていて、その先生の影響で中学校へ入ったらバスケ部に入ろうと決めていたからである。その先生は若い頃に苦労をしてきており理想を熱く語るような性格だった。そのためか何か自分と共通するものを感じたし、また優しい父親とはこういったものなのだろうなと父性を感じる人物でもあった。当然、今でも恩師だと思っており、今年の夏には進路を報告するためにお会いしたいと思っている。

 バスケ部の友人とは毎年1回集まることにしている。高校生の時には市から体育館を週に1回お借りしてみんなでバスケットボールをするために集まっていた。大学での友人は人生の友となることが多いと聞いたことがあるが、私の場合、中学生にして多くのかけがえのない人生の友を得たことになる。実際、いろんな人材が集まっており、各々に夢を持った互いに啓蒙しあえる人物ばかりで、私が国家 I 種を目指したことには、彼等には負けていられないという気持ちが少なからず影響している。

両親の離婚

 そして、中学生の時には私の人生において大きな出来事がいくつか起こった。まず、2年生の時に両親が離婚した。自分としてはいずれはこうなるとは思っていたのだが、それなりにショックは大きかった。そして、私は母親と暮らすことになるのだが、母は水商売で収入を得ているため、バブルが崩壊した後の不況の影響をモロに受け、我が家の経済事情はどんどん悪化していくことになる。この頃は父親も暴れることはなく、離婚することもないだろうにと自分は説得したが、母親にしてみれば我慢の限界は過ぎていたのだろう。今でも離婚の理由はよく知らない。実子と言えど、親であれ他人の人生には口出しできないのである。

 ここで両親について少し詳しく触れておく。父親は基本的に性格が温厚で人がよく、学歴もあれば国体にも出場している。このように話に聞くだけだと良い人間とも思えるものの、今まで少し記したように欠点の多い人間でもある。離婚も私の母との離婚で2度目である。私は父を反面教師として見ている。そうすることで父から得たものは大きい。一方、母親は学歴もなく、小さい頃から父子家庭で苦労し商売で生計を立ててきた。しかし私が思うに人間として父より賢くまた厳格である。私の現在の人生哲学は、この人のおかげで成り立っていると言っても過言ではなく、最も尊敬する人物の1人である。

 官庁訪問時に、母子家庭で育った経験と母親への尊敬の気持ちは、自分の人生におけるエピソードとして大変重宝することになる。公務員として携わりたい分野に、男女共同参画が挙げられるのも、母のように1人で頑張る女性を少しでも楽になるようにしてあげたいと思えばこそである。人生においては、苦しいと思える出来事もいつなんどき役に立つかわからないものである。苦しい経験はメリットに変えればいい、それはやろうと思えばできることである。苦しい経験から逃げてはいけない。

阪神大震災と祖母の死

 次に、阪神大震災と祖母が亡くなったことが挙げられるだろうか。この2つは別に原因と結果の関係にあるわけではないが、近い時期に起こり2つとも私に命の大切さを教えてくれた出来事である。祖母の死は、親族の死に1度も触れたことのない私が初めて直面した「死」であった。震災後の神戸にもボランティア活動として行ったのだが、明らかにその場で人が死んだことが町全体の雰囲気から感じ取れたことを、今でも憶えている。このあたりから人の役に立つ仕事に就きたいとなんとなく思いはじめ、また震災の経験から防災行政に対する興味が湧いた。人生には終わりがくるのは確実であって、何時その終わりがくるかがわからないだけである。早ければ1秒後にも、遅くても8、90年後には死はやってくる。人生において後悔のないように何か価値あるものを残したい。この気持ちが国家 I 種を目指すことになった私の原動力ではないだろうか。

高校時代

 今まで、勉強に対して特に意識もせず無難にこなしてきた私だったが、中学最後の年はそれなりに勉強して学区内ではとりあえずトップの高校に進学する。トップと言っても私立のエリート校と比べれば何と言うこともない普通の公立高校である。中学に比べて刺激も少なく、今でも特に高校に思い入れはない。入試を経るとこんなにも平均的でつまらない人間ばかり集まるのかと高校にきたことを悔やんだくらいである。といって、自分が面白い人間だったかと言うとそうでもない。高校時代はクラスでも特に目立たない存在だった。その場をつまらないと感じてしまうと目立つ気もなくなる性格なので、学校では何をするということもなく無気力に過ごしていた。その代わり、アルバイトを始めたり、勉強は予備校を中心に進めたりと、学校以外の場所で自分の楽しめる場所を探すことには尽力していた。

 ただ、そんな学校でも何人かは面白い人物がいた。例えば、現在美容師をやっている友達でこういう人物がいる。進路についての話をよくするような時期になった頃、学年でもトップクラスの成績だった彼が大学ではなく専門学校に行くと私に話した。当然疑問に思う私は、勿体無いと感じて何故かと問うた。彼は「専門学校に行くからといって勉強ができなくていいわけじゃない、専門学校というと人からそういう風に見られているからこそ俺は勉強するんだよ。ただなりたいものが美容師っていうだけなのに馬鹿だと思われるのは腹が立つから。」と答えてくれた。いつのまにか型にはまってしまった自分の考えに恥ずかしいとさえ感じたものである。彼は皆が受験勉強を必死にやっているにも関わらず、その後も成績はトップクラスであり続けたし、美容師になると言う夢も実現させている。

 自分もこういったことがあって進路を真剣に考えるようになった。そこで高校3年の時に私の考えは2つの選択肢に絞られる。1つはイラストレーターになるために美大へ行くこと。絵を描くことは得意だったし数年専門的に勉強すれば美大に行けるのではないか。好きなことをして生きていければ、それは素晴らしいことだ。という考えからだった。しかし、もう1つの選択肢と比べて、イラストレーターへの道はやめることにした。絵を描くことは仕事にせずとも趣味としてできるし、自分としても絵に対しては趣味として楽しみたいと思ったからだ。そして、最終的に私が選んだもう一つの選択肢こそが「公務員」である。公務員とひとくちに言っても色々ある。では、私がなりたい公務員とは何だったか。公務員として教師を進路に考えたこともあったが私には向かないと考えるに至った。何より自分の過ごしたような中学校に配属されたらと思うとたまらなかった。今となっては口にするのも恥ずかしいのだが、私がこの時考えていたのは国際公務員だった。できるだけ大きな社会に対して貢献のできる、大きな結果の残せそうな仕事がいい。だったら世界を相手にする公務員が一番だ、国際公務員になろう。単純にそう考えていた。高校3年生とは思えない浅はかな考えである。当然英語が得意だとかいうわけでもないし、ましてや、それ以外の外国語など聞いたことすらなかった。

 とにもかくにも国際公務員になりたいと考えた以上、大学に行かなくてはなれない。しかし、私の成績はお粗末なものだった。高1のときは学年400人中352番、コイツには負けないと思っていた相手にも負けたりしたので今でも憶えている。大学に行くのは無理ですねと先生にも言われていた。だが、行かねばならなくなった以上、なんとかするしかなかった。小学生の頃から数学が特にできず、私立文系の入試にしか太刀打ちできないのを自覚しており、勉強する科目も3科目に絞る。1年間必死に勉強した結果として、高3の春には文系の学生の中で3番にまでなった。入試のある冬までずっと10番以下にはならなかった。ただ、国語と世界史は偏差値70台だったが、英語は60前後。国際公務員など夢に等しい状態だった。

 大学に進学するにはまだ障害があった。我が家の経済事情である。文系と言えど私立の大学に行かせるだけのお金は我が家にはなかった。自分で何とかするしかなかったのだ。だから、自宅から通える大学に志望大学は限定されたし、大学生活はかなりアルバイトに費やされることになった。そしてこういった幾つかの障害を乗り越えて、京都の立命館大学法学部に進学することとなる。

立命館大学時代

 立命館大学には国際関係学部があり、国際公務員になりたかった私はそちらの方が第1志望だったのだが、合格できなかったので法学部に行くことになった。当時は法学には全くと言っていいほどに興味はなかった。しかし、大学に入りたてで、真面目に講義も欠かさず出席していると、意外にも法学という学問を面白いと私は感じはじめた。加えて、高校受験を乗り切った直後、勉強をサボって高1の時は劣等生になってしまったので、同じ轍は二度と踏むまいと考えていたことと、奨学金を得るために嫌でも勉強はしなければならなかったこともあって、大学1年生の時は勉強に打ち込むことが出来た。高校の時から法律の勉強を始めている者などほとんどいないので、大学に入った直後から頑張ることで今まで勉強が不得手であった私でも難無く優等生になれた。そして、私は大学の学費を半額免除していただけるほどの成績を残せた。ギリギリまで粘ってついには目標を達成するといった感じの人生を送ってきた私にとって、こういった最初から順調な滑り出しというものは経験したことのないものだった。

 気分をよくした私は、国際公務員になるために1年生の時から、早速行動を起こすことにした。しかし、大学の用意している公務員講座に国際公務員コースというようなものはなく、いきなり何をやればよいのかわからず途方にくれることになる。当然、自分なりに本やパソコンで調べたが、最低修士まで取らないといけないことや、英語かフランス語が必要ということがわかるだけで、明日からどう行動するのがベストなのかは皆目見当がつかなかった。私は一度決めたことには、止まることなく邁進していたいという性格の人間であるため、ぼんやりとした目標でしかなかった国際公務員はやめて国家公務員にしようとこれまた単純に転換を図った。国家 I 種を目指すことにしたのも I 種が II 種より上なのであれば何故わざわざ下なんか目指さなければいけないんだという勝手極まりない理由でだ。おかげで真剣に志望動機等を考える段階にきた時にはかなり苦労してしまった。

 大学時代は勉強にアルバイトなど、平凡ではあるが、大抵の学生より真面目に学生生活を送ってきた。一生懸命さが祟って友人から顰蹙をかうことも少なくなかったが、努力を認めてくれる友人は私と程よい距離を保って温かく接してくれた。私は自分のことに懸命になるあまり、他人に接するのが不器用で、友人も私を認めてくれる人はかなり良い評価をしてくれるが、私が嫌いだという人はとことん嫌っているようである。ありのままの自分を出して嫌われるなら無理に仲良くなどなりたくもないというような考えの為、私はそれで全然かまわないと思っている。偏屈者だと思われるかもしれないが、「自分」を持つということが昨今見失われてきているような気がしてならない。官庁訪問においてもこういう姿勢で挑んだが、良い結果が頂けた。あれこれと周りを気にせず、何事においても自分をぶつけることが大事だと私は思う。

 大学時代にそんな私が日常から離れて得た貴重な経験として海外旅行がある。大学に入るまで一度も日本から出たことがなく、「深夜特急」や「asian-japanese」などの紀行を書いた本が好きだった私は外国、特にアジアに対して強い憧れを抱いていた。行動第一の私は、お金が貯まりしだいアジアを旅行することに決め、1年生の冬休みに初めての外国に行くことになる。最初はマレーシアからシンガポールまで南下する計画を立てて旅立った。見るものから出会う人まで期待以上に素晴らしかったため、私は海外旅行に病みつきになってしまう。公務員試験の勉強を始める直前の春までに、タイ、ラオス、インド、ネパールを訪れた。

 私の旅の仕方はいわゆる貧乏旅行というもので、テレビで猿岩石なんかがやっていたような旅だ。人との出会いを大切にしたかったので、1人で、かつ日本を出てからは陸路でというのが私の旅のルールである。飛行機代を除けば予算は1ヶ月3万円程度でおさまる。日本の物価が恐ろしく高いのをこの時ほど実感することはない。金銭感覚が狂っていたせいか、空港から自宅までの交通費を計算違いして、自宅まで帰れなかったことがある。旅先でのトラブルも色々とあったが、トラブルもない旅なんて味気の無いものにすぎないのだからとむしろトラブルを望んでいた。そんなハチャメチャな旅だったせいか官庁訪問で話題をつくるのには想像以上に役立つことになった。旅で一番印象に残ることはといえば、やはり世界における日本の存在である。例えば、ラオスの都市では市民の足として日本の中古バスが使われていた。自分の見なれた京都の市バスが、実際に訪れるまでは名前も知らなかった異国の町を走っているのを見た時には正直感動すら覚えた。日本の営みがこのように世界にとって、しかもこのような生きた援助として役立つのだと感じたことは、国家公務員になる!という私の気持ちを非常に強いものにしてくれる経験だった。

国家 I 種公務員試験受験体験記

 大学の公務員講座には1年生の頃から参加していたが、3年後に受ける試験の為にそれほど真剣になれるはずもなく、実質的に公務員試験の勉強をし始めたのは3年生の春からである。3年生の春、大学の公務員講座の国家 I 種コ-スに入ったばかりの頃は、法律には少しばかり自信があったものの、周りの人達の知識の豊富さに圧倒され、私のちっぽけな自信はすぐに劣等感へと変わった。学部の成績でいくら優を取っていても、薄っぺらい知識しか自分には備わっていないということを思い知らされた。

 渡辺先生に出会ったのもそんな頃である。当然、先生が憲法の一番最初の講義で話して下さる「二重の基準論」のこともチンプンカンプン。講義の終わりに質問はないかと問われても、全部わからないのだから質問などできるはずもなかった。とりあえず私は先生のおっしゃった通り、芦部信喜教授の「憲法判例を読む」を購入して次の講義に備えた。基本書である「憲法新版」は持っていたが、一度読んだこともあってか面倒に感じて読まなかった。代わりに渡辺先生の書かれた「バイブル憲法」を電車の中で全部読んだ。すると、夏休み頃だったか、渡辺先生に講義に関して質問をしたところ「彼は依然に比べて質問のレベルが高くなっている、他の皆も頑張るように」と褒めてもらえた。褒めてもらうと、私は調子に乗り更に高みを目指す質なので、頑張ることができた。

 9月頃、私はアルバイトを辞めて勉強に専念することにした。大学の用意してくれる、公務員志望者専用の自習室における引きこもり生活の始まりである。昼頃に大学に来て、夜の11時までそこで勉強する。自宅に帰るのは深夜1時である。といっても同じ自習室の友達と喋ったり、食事をしたりするので勉強時間は大体7時間くらいだ。私は最後までこの約7時間ぺ-スを崩していない。直前期になったからといって勉強時間を10時間に増やしたりということは私にはできなかったし、やろうともしなかった。

 自習室の仲間とは同じ苦労を分かち合える親友になれた。受験勉強において彼等の存在は相当大きな支えであったし、ライバルでもあった。この自習室と彼等がいなければ私には国家 I 種の合格内定などおそらく得られなかっただろう。その意味で、私は国家 I 種を目指す環境には恵まれ過ぎていたと言える。9月から12月までに法律科目は民法を除いてほとんど終わらせた。教養もガッツシリーズの人文科学を1回まわした。周りに多かった何回も問題を解いていく方法より、私は1回目の問題を時間をかけてじっくり解くタイプの勉強方法(渡辺先生と同じ勉強方法)をとった。そのため能率も悪く、友達にも先を越されたような気になり、焦りを感じることも多々あったが、結果としてどちらでも対して変わりはなかったように思う。勉強は自分にあう方法でやれば良い。Wセミナーあるいは大学の講座の先生方のおっしゃる通りの方法で私は勉強していた。レジュメの整理等に自分なりの工夫は凝らしていたが、特殊な方法を用いて勉強した覚えはない(もっとも、私は自分の実力と残された時間を総合的に考慮し、数的処理と経済学を完璧に捨てた)。

 12月からは京都校で始まった渡辺ゼミに参加させていただいた。ここで出会った友人、先輩にもかなりお世話になった。去年の官庁訪問を経験しておられる方もおり、そういった先輩方の話は私をかなり不安にさせるものの大変価値あるものだった。もし、このゼミに参加していなければ、1次試験はなんとか突破できても、官庁訪問で内々定はもらえなかっただろうし、2次試験の専門論文は白紙で出すハメになっていたと思う。

 模擬試験の成績はほとんどがB、たまにAがあったくらいだ。教養なんかほとんどCだった。択一答練も目を背けたくなってしまうような成績ばかりで、答練の後には「こんな難しい問題は出ないよ」というのが口癖になっていた。出ないよと口ではいいつつも、復習は必死でやっていたので、1次試験では同じような問題が出て助かった。模擬試験や答練の結果は良い成績を取れれば嬉しいという、それだけのモノ(あくまで本試験合格という目的のための手段にすぎない)なのでそれを生かすことが大事である。ただし良くても悪くても気にしないのではなく、悪い結果の時は大いに悔しがってそれをバネにしてほしい。

 このようにした結果、1次試験では、専門36点、教養31点という成績を取ることが出来た。自分にしては高得点で大満足であった。官庁訪問では、母子家庭問いう環境から、母親が楽に生活できる社会をつくりたいという考えを強く抱いていることや、経済的な余裕もないのに自分で学費を出して大学に行ったこと等、デメリットをメリットに転じてきたことを強調することで良い結果が頂けた。そして、2次試験でも渡辺先生のおかげで、自分なりに満足のいく答案が書けた。「これで仮に2次試験を落ちていたとしても悔しい思いをすることはあっても後悔はない。来年を目指すだけである」と思っていたが、幸いにして上位で最終合格することができた。

最後に

 まず、ここまで読んで下さった方に感謝申し上げます。私は国家 I 種を目指すにあたってかなりデメリットを多く抱えていた方だと思います。家庭の経済事情のことや地方私大出身であること、喘息のことなど悩みは尽きませんでした。特に家庭に関しては、その家に生まれてきた以上、私の努力で変えられるものではありません。残された選択肢はそこから自分が何を感じて、いかに自分を成長させる糧とするか、あるいは何も感じないかです。どれほどのデメリットを抱えていても、それをメリットに転じることは可能だと私は思います。デメリットを抱えている上、がむしゃらに突き進む向上心の他には特にとりえもない私がここまでできたのだから、これを読んでいる皆さんなら必ず勝利を納めることができると思います。私には頑張れということくらいしか出来ませんが、この文章が少しでも皆さんのお役に立つことを願っています。

(了)

(*)8月19日には、人事院に発表を見に行き最終合格を確認し、その後、内々定者と顔合わせをしてきた。私は京都の渡辺ゼミにいたが、その中には東京の渡辺ゼミの内々定者もおり、ゼミを通しての人脈はやはり予想を越えて広がることを実感した。

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