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キャリア・エリートへの道


たくさんの力に支えられて

はじめに

 国家公務員になりたいと考え始めた高校2年の冬、私の胸のうちには、今よりもずっと漠然とした「あこがれ」だけがありました。正直なところ、それは具体的で正確な情報を欠いたイメージとしての「あこがれ」以外のなにものでもなく、その「あこがれ」をなぜ持ち始めたのかすら、今となっては定かではありません。しかし、このとき持った「あこがれ」こそがすべての出発点であったこと、それをきっかけにして、その後具体的なイメージを膨らませ、公務員になるために必要なものなどを考えるようになったということは、私の中の、揺るぎ無い事実です。

 行政の一員として働く将来の自分が、少しだけ現実味を帯びて感じられるようになった今日、私もいくつかのことを、もう一度、自分のなかで探してみたくなりました。あの時の「あこがれ」が一体どんなところから生まれてきたのか、そしてその「あこがれ」はどのように具体化したのか、具体化した「あこがれ」はなぜ実現したのか。それを思い出すことが、私のこれからの人生に役立つような、そんな気が「漠然と」するからです。

 さまざまな方が、私のこの文章を読んでくださることでしょう。私のような未熟者がそのような方々にお伝えできることはほとんどありません。ですから初めから意気込んで何かを伝えようとはいたしません。しかし、私が自身の経験を振り返っているというその姿を、「公務員」という職業を目指す人々を新たな視点から捉え直すきっかけしていただき、とりわけこれから公務員試験を受ける方々においては今後の受験生活の参考にしていただければ、私にとって、これ以上の幸せはありません。

生い立ち 〜中学校卒業までの生活〜

 私は島根県松江市に生まれ、父は地方公務員、母は専業主婦という、ごく一般的な家庭に育ちました。両親の実家は、歴史を遡ればどちらも地主であったと聞いています。ですからひと昔前までは山林を保有し、比較的裕福だったようですが、父が大学に入る際に祖父は唯一残っていた山を売って費用に充てた、という逸話が示すとおり、私が生まれた頃には「比較的裕福な生活」の名残もなくなっていました。両親の実家が私のうちから近く、いわゆる「おじいちゃんっ子」、あるいは「おばあちゃんっ子」だった私が、幼少期の記憶として有しているのは、父方の祖父母が兼業として畑仕事をする姿と、母方の祖母が手押し車を使って商売である酒の販売・配達をする姿です。そしてそういった記憶の中で何より印象的なのは、病気がちだった母方の祖父が、将棋盤の前に座って私を手招きしている姿なのでした。

 私の幼少期を語るにあたって、母方の祖父の存在は不可欠です。この上なく真面目で、「ばか」が付くほど正直で、誰にでも優しく、そして頑固な人でした。他人のために自分が損をすることなどいとわない人でもありました。私は幼少期の多くの時間を祖父とともに過ごしました。根っから無口で、病気のためやせ細った身体をしていましたが、今考えてみても、祖父の背中は、非常に大きかったように感じます。そして、祖父が私に教えてくれたことは、それ以降の私の生き方に大きな影響を与えているように思います。私はまだ、祖父には到底及びません。祖父は今も、これからも、私の理想です。(このような場合に理想の男性像として挙げるべきなのは「父親」のような気もしますが、父を挙げるのは、個人的に少しはばかられます。これは自他共に認めることですが、私は性格面で父に非常に似ており、お世辞にも父を理想として挙げることは、自分を理想として挙げることと同義のような気がして、実にむずがゆい想いがするのです。)

 このように、私は地方の生まれで、特に祖父母や親戚など年齢の高い人々に囲まれて育ったものですから、自然と「大人びた」少年になっていったようです。幼稚園の時の文集に掲載されている「将来の夢」には、「ふねのせんちょうさん」と、辛うじて子供らしいことを書いていますが(微妙に同語反覆していますし)、小学校にあがる頃には、完全に大人の目を意識した「大人ウケ」をねらう子供が出来あがっていました。悲しいことに、大人ウケをする代わりに、活発な性格の友達との関係は、芳しくなくなりました。大人と生活しているときにはない人間関係に対応できなかったためもあるのでしょうが、今考えると、単に被害妄想の強い子供であっただけなのかもしれません。過剰なまでの心配性が原因となって、いつもいじめられていると勝手に錯覚して泣いている、そんな子供だったのでしょう。その証拠に、成人した今も、必要以上に心配性な性格は残されたままです。

 ただ、一方で本当に負けず嫌いでした。私は元来、自分でどこかに電話をかけることすら出来ないような内気な性格でしたが、それ以上に負けず嫌いであって、児童会、生徒会等の役員などは自分で率先してやらないと気が済まない性質でした。そのため、緊張しやすいタイプだったにもかかわらず、人前で喋る機会も与えていただいて、貴重な経験もたくさんしました。もしかすると自分の性格に備わる弱い部分を、私自身、幼いながらに自覚していたのかもしれません。負けず嫌いな私はそのような自分の性格の欠点が、許せなかったのかもしれません。この頃の前向きな部分は、成人した今、私自身もう一度思い出さねばならないところでしょう。

高校時代

 中学を卒業した後、私は市内の県立高校に進学しました。この高校選択に当たって、私は迷わず野球部が有望な高校を選びました。県立の進学高校であれば学業の面では大差ないと考えていましたし、小学校から続けてきた野球が大好きだった私は、絶対に甲子園に出たいという強い想いを持っていたためです。

 しかし、そんな動機で選んだ高校で、私は運命の出会いをすることになります。それはある担任の先生との出会いでした。学校中で「鬼教師」として恐れられた、先生の厳しい指導スタイルは、生徒を例外無く恐怖のどん底に陥れましたが、怖がりながらも受けた先生の授業は不思議と頭に残っていて、私は自分に学力がついていることを実感させられました。

 あるとき、自分が何故教師を選んだのか、ということを先生は私たちに語ってくださいましたが、その中で、理想の仕事の3要件として次のようなものを挙げられました。公務員という職業がこれに当てはまるかどうかはおくとして、この話も私の職業決定に少なからず影響を与えていますので、ここでその3要件を参考までに挙げておきます。

<理想の職業の3要件>
  1. 自分の好きなことであること
  2. その仕事をすることによって他の人に感謝されること
  3. その仕事で(少なくとも生活費程度には)お金が稼げること

 「文武両道」を教育方針として掲げた高校で3年間を過ごしたことは、今考えると私にとって最も大きなことであったような気がします。「文武両道」とは、もう少し大きな視点で捉えれば、「何に対しても絶対に手を抜かない」ということであり、妥協しないということであると私は理解しています。高校2年の冬に行われた先生との面談には、それに関連するエピソードが現れています。

 私は当時漠然と「国家公務員になりたい」と考えていたのですが、同時に私が進学を希望していた大学は、その時の自分の学力で確実に行けるだろうと思われる安全牌的なところでした。先生は、そんな安易な決断を下した私に「なんでその大学なんだ? おまえの夢を実現させるのに一番ふさわしい環境があるのは東京だろう。だったら妥協せずに『今から勉強して、東京の大学に入ります』と言ってみせろ」とおっしゃったのです。その言葉は私の中の何かを揺さぶりました。そして、家庭の経済状況と相談し、国立である東京大学を目指すことに決めました。

 これは言うまでもなく、私の人生を変えた一言です。私ひとりであったならば、きっとそのまま安易な方向に流れていたでしょう。先生には今も心から感謝しています。

 それから、私は3年まで野球との両立をはかりながら、必死に勉強しました。野球をやめて勉強だけに専念するという選択肢もあったのですが(事実、部活動をやめて勉強に専念した友人もいました)、私にそのつもりは全くありませんでした。そこには野球に対しても妥協したくないという想いがあり、それに野球が私自身に教えてくれるものも大事にしたいという気持ちが強かったことなどがあります。(他者に対する礼儀や思いやり、あるいは友達との付き合いかた、問題解決のために自ら創意工夫することなどは、私が野球から学んできたものでした。あとから考えても、ここで学んだことは私の一生の宝です。)しかし、私の高校野球生活は地方大会の3回戦で幕を閉じ、大学受験もドラマのように上手くは行かず、第1志望である東京大学に落ちて、浪人生活に入ることになりました。後期日程で受けた大学に受かりはしたのですが、妥協をすることは自分の将来の夢を捨てることに直結するような気がして、怖かったのです。第1志望に落ちたことで、もちろん当時は非常に落ち込みましたが、「やるだけやったんだ」という気持ちが次への意欲をかきたててくれ、第1志望に落ちた次の日に、私は高校の付属施設である「補習科」へ、入学願書を提出したのでした。

浪人時代

 大学受験での失敗経験は、そのまま今回の公務員試験でも生かされました。大学受験の失敗経験で、公務員試験でも気をつけるべきだと私が感じたのは次のようなことです。

  1. 準備は出来る限り早く始めること。。
  2. 試験内容を的確に分析し、合格への具体的なプロセスを考察すること。
  3. 自分が一番自信を持っている試験対策を実践し続けること。
  4. 何があっても最後まで決して諦めないこと。

 私はこれらのことに留意して、2年目の大学受験と今回の公務員試験を乗り切りました。極めて当たり前のことばかりですが、これを確実に実行することが最も大切なことでしょう。実際、浪人時代に私はこれを全て実行したと自信をもって言えます。特に2については、島根という地方の高校に通う私にとって、最も大切なことだったのかもしれません。

 ですがこの頃、私は独りで戦っている気になってしまっていました。毎日、「誰も大学に落ちた自分の気持ちなど解ってはくれない」と嘆き、そこから生まれる劣等感から、周りに尊大な態度をとってその気持ちを隠し、私のことをいつも心配してくれていた両親に当り散らしては、より暗い気分になっていくという悪循環に陥っていました。この頃の私の様子は、私自身これまでの人生で一番恥ずべきものだと思います。この頃の両親の気持ちを思うと、私は一生両親に頭が上がりません。

東京大学入学から国家公務員 I 種試験勉強開始まで

 2回目の受験で、私は東京大学文科 I 類に合格しました。野球から1年遠ざかっていた私は衝動に駆られ、もう一度、六大学で野球をやろうかとも考えましたが、公務員になるために大学に入ったのだということを思い出し、勉強との両立が比較的容易だと思われた硬式ソフトボールのサークルに入りました。野球が大好きだった私にとっては非常に辛い決断でした。しかし、入部後、東京都2部リーグから念願の1部リーグ(日体大、国士舘大、早稲田大など強豪揃い)への昇格を果たすなど、非常に充実した活動をして行く中で、私は学業を忘れ、次第にソフトボールにのめり込んでいき、気がつけば生活の中心はソフトボールになっていました。

 そこで、私は開き直ることにしました。3年の春まではソフトボールを目一杯やって、公務員試験のちょうど1年前に当たる(平成13年)6月以降はソフトボールを引退して試験勉強に専念しよう、と。つまり、学業とソフトボールの両方を同時に充実させるという方針から、期間を区切ってメリハリをつける、という方針に変更したのです。今思えばこの方針は私に合っていたのかもしれません。結果的にソフトボールは1部リーグへの参加枠を死守し、勢いに乗ったまま、公務員試験へとなだれ込むことが出来ました。

 そしてこの頃、私の公務員への思いは具体性を帯び始めました。大学に入ってからは生活は未知の出来事にあふれていたのですが、そんな生活の中で、公務員になるとしたら具体的に何を成すべきかを本気で考えるようになったのです。自らの将来を分かつ分岐点が徐々に迫り、「公務員になりたい」という想いも、単なる「あこがれ」のままではいけないと感じ始めたのが、その主な要因でしょう。

 例えば、アルバイトとして学習塾の講師を経験した時に感じたことも、私に行政への具体的な興味を提示してくれました。私が学習塾で講師をしている頃、女子生徒で家(うち)に帰りたがらない子供がいたのですが、話を聞くと、夜のあいだ中、最寄の駅近辺をうろうろして、朝方に帰宅するというのです。私のような地方出身のかたにはご賛同頂けるかもしれませんが、地方の密接な相隣関係を持つコミュニティにおいて、このような事態は都市部よりも起こりにくいといえるでしょう。というのは、自分の家の近所というのは基本的に知り合いばかりであり、子供が夜徘徊しようものなら、知り合いのおじさんやおばさんに見つかって家に連絡されるか、あるいはその場で怒鳴りつけられる、ということになるからです。とすると、少年の健全育成という視点からは希薄になった地域社会の繋がりをどうにか再構築し、「社会が一体となった教育」の有り方を目指して行く必要があるということになります。このような観点から、まさに現在文部科学省がすすめている行政の方向性について、私自身の身をもって感じ、考えることが出来たわけです。

 また、新聞記事やテレビのニュースひとつをとってみても、見方がそれまでと変化しました。山口県光市で起きた、少年による母子強姦殺人事件に関する報道の中で、「少年に死刑を」と遺族が必死に主張している、という部分がありましたが、この報道は、私の心をひどく締め付けました。おそらく遺族の受けた心の傷はどんなことがあろうと消えることはないでしょう。この事件を知って、私は、取り返しのつかない、救いようのない悲しみに対しての、法律の無力な一面を感じざるをえなかったのです。とするならば、私たちにはこのような悲しみを生まない努力こそが、今、求められているのでしょう。そして、このことは私に警察庁が力を入れている「事前対応」の分野の重要性を、深く感じさせてくれたのでした。

  私は、行政に対する様々な想いを、受験までのところで膨らませていきました。官庁訪問は「短期間の勝負」であると言われることがありますが、私の個人的な感想として、官庁訪問期間は、急ごしらえで作り上げた志望動機が崩れるのには十分すぎるくらいであり、その意味では「長い期間」です。そこから学び取れる官庁訪問のコツとしては、日々の生活の中で沢山のことを感じ、自らそれを具体的に掘り下げるといったクセをつける、ということになるでしょう。それが本当の意味での「志望動機」に繋がっていくことは間違いありません。公務員は人間社会を相手にする職業であり、社会のさまざまな事象の中から問題点を行政の課題として抽出していく能力は、公務員として必須の能力であると私自身考えています。ですから、日ごろから社会事象に対して問題意識を持って生活していくことは、公務員試験を受験する大前提の心構えと言えるのではないでしょうか。

公務員試験受験

 公務員試験を受験するに際して、私はひとつの制約を自身に課しました。それは、公務員試験を今回1度きりしか受験しない、という制約です。私は大学受験の際に一浪していますし,私のこれまでの生活費も安くはありません。その上、妹も既に大学生になっていましたので、本人たちは言葉にしませんでしたが、両親の経済的負担が非常に大きくなっていることは明らかでした。これ以上、両親のすねをかじることはできなかったのです。

 ですから私は絶対に失敗しない方法を模索しました。正確には、本番で少し失敗しても不合格にならない方法というべきでしょうか。そして、上述した大学受験の失敗経験を思い出しました。今回はそれを最初から実践することで、1度だけのチャンスをモノにしてやろう、と考えたのです。準備期間は1年と十分でしたから(前述のポイント1)、あとは試験の情報を集めること(ポイント2)、および信頼できる勉強法の発見(ポイント3)が必要でした。つまりまずは「敵を知り,己を知ること」。そして、私が選んだのはWセミナーという「予備校」を利用することでした。幸いにも塾の講師をしていた頃のアルバイト代でなんとか受講費用は賄えましたし、とりあえず1度で合格するための最善手を打ちたかったのです。

 予備校という手段を選んだ理由としては、

  1. 試験の情報を入手する上で、最も優れていたこと。
  2. 私に残された時間は限られていたため、勉強法に悩む時間がなかったこと。
  3. 他受験生の勉強の進度がわかり、それを参考にして自分の学習ペースが立てやすいこと。
  4. 大学では既に履修してしまった科目・分野の講義をもう1度受けたかったこと。
  5. 自分独りでの勉強は気が滅入りそうだったこと。

などが挙げられます。

 予備校の講座受講の体験談については、他にたくさんの方が執筆されていますし、私が改めて語る必要性は少ないと思いますので、他の記述に譲ります。私の友人には、予備校など一切行かず自力で合格した受験生も少なからずいますし、あとは各自の選択の問題になってくるのだと思いますが、上の項目の中にご自分にも当てはまることがある方は、予備校での学習も考慮してみる価値があるのではないでしょうか。ちなみに私はWセミナーでの一般講座だけでは安心できず、後に「渡辺ゼミ」への参加も決めました。ここには私の根っからの心配性な一面も現れているのですが、ここまで最善の手を打ちつづけたことによって、私は、試験本番に際し何の不安もなく試験に集中することが出来ました。

 また、情報の入手という点に関しては、人事院主催の省庁説明会や、省庁別で開催される説明会などに積極的に参加することも重要でした。個人的な経験では、各省庁の説明会に参加していくうち、興味深いと感じる行政分野がどんどん増えて行き、私の中での選択の幅を広げてくれたように思います。説明会ではどんどん質問したほうが得だと思っていましたので、私は積極的に発言をし、疑問を解消するように努めました。

受験期間中

 受験までの1年間はあっという間でした。正確には、その間に何度もスランプに陥りましたし、おまけに辛い失恋経験もしましたが、今思い返すと嵐のような速さであっという間に過ぎた1年であったと評価できるでしょう。1次試験の前日に色々考えたのですが、この1年に関して言えば,後悔は全くありませんでした。高校生活3年間の集大成として大学受験をした時と同じ、「やるだけのことはやった」という気持ちだけが私の中にありました。

 そして受けた1次試験でしたが、実は、私は思ったような結果を残せませんでした。自分の予想していた結果と実際の結果には大きな開きがあり、私は少なからずショックを受けました。なぜこのような結果が出たのかは今後の反省・分析材料です。今強いて原因を挙げるなら、直前期の模試で非常にいい成績を残して、その後試験までの少しの期間、気が抜けてしまったことでしょうか。

 1次試験はなんとか通過したものの、2次試験への大きなハンディキャップを背負った気がして、一時期は精神的にも追い詰められました。しかし、大学受験の失敗で得た教訓がひとつ、私には残されていたのです。

 「4.何があっても最後まで決して諦めないこと。」

 私は、官庁訪問を楽しむことに決めました。一種の開き直りです。しかし、これが効を奏したのか、私は第1志望の官庁から内々定を貰うことが出来ました。そして2次試験でも記述試験をなんとか乗り切り、個人的に厳しいと感じた人事院面接にも辛うじて耐えぬきました。この時期は、沢山の友人が私を励まし、私の力となってくれました。そのお陰もあって、結果として私は1次試験の出遅れを挽回し、合格という結果にたどりつくことが出来たのです。

 合格の瞬間は、良く覚えていません。ただ、とめどなく溢れる涙をおさえることは出来なかったことだけを記憶しています。大学に合格した時も、これほど泣きませんでした。おかしな話ですが、この時私は、自分自身がどれほどこの公務員試験に賭けていたかを、自ら改めて感じることになったのです。そして今、私の胸は希望に満ち溢れ、私の生活は、まもなくやってくる新しいスタートに向けて既に動き始めています。

おわりに

 今これを読んでくださっている方には、ここまで私の悪文にお付き合いいただいたことに関して、まずお礼を申し上げなければなりません。本当にありがとうございました。渡辺先生からこの原稿の執筆依頼を頂いたとき、私は、公務員試験に対するさまざまな想いを表現する絶好のチャンスが到来したことに感謝したのですが、今、実際に出来あがった原稿を眺めると、私がそのとき抱いていた想いのうちのどの程度がこの場に表現されたのか、正直自信がありません。

 しかし、最後にもう一度繰り返し述べさせていただけるならば、私は決して独りでは合格を勝ち取ることができなかったということです。渡辺先生をはじめ、Wセミナーの皆様、共に学んだ友人たちには大変お世話になりました。また、今年1年に限らず、私と人生の歩みが交差したことのある全ての皆様に、お礼を申し上げたいと思っています。ありがとうございました。そして、これからさまざまな受験をお考えになっている方に、私から送ることの出来る唯一のメッセージあるとすれば、それは「家族、友人をくれぐれも大切に」ということになるでしょう。人間は、決して独りではありません。私もこれから、たくさんの方々への感謝と共に、生きていきたいと思います。

 これから公務員試験を受験する方々の強い想いが実現することを、祈ってやみません。

(了)
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