[ HOME>キャリア・エリートへの道>留学・帰国後6ヶ月で内定・上位合格 ] | |
国家 I 種公務員試験の合格発表から何ヶ月かたった。それ以前にも渡辺先生の方から合格体験記を書いてみないかということを言われたが、面白いものが書けるか分からず逡巡していた。合格したといえ働いてもおらず、正直まだ実感がわかないのである。また、合格体験記として面白い、または役立つのは波瀾万丈の物語か、あるいは参考にするに値する良い勉強法を提供してくれる実践的な体験記であろう。しかし私の場合、履歴書に書くような経歴自体にはそれほど波乱もなく、そう言った意味ではいわゆる典型的な「キャリアエリート」予備軍の経歴のようにも思える。また試験の学習法についても、語れるほどのノウハウは持ち合わせていない。。 ただ、この合格体験記の趣旨は、合格者が持っているありのままの姿を伝えることにあるらしい。そういった観点からは、私のように「経歴だけは典型的な公務員試験合格者」のありのままの姿を見せることもありかと思い体験記を引き受けることにした。また、後述するが大学に入ってからは若干普通とは違った経験をしたかもしれないとは自負している。そこで、始めに大学までの生い立ちを簡単に綴ってから、大学時代、それから公務員試験の受験について書きたいと思う。 幼少〜小学時代私は1979年に埼玉県に生まれ、その地で育った。父は会社員、母は主婦、そして3つ離れた兄と私という家族構成である。家はごくごく普通の家族で、問題らしい問題はなかったように思う。経済的にも特別な金持ちではないが、別段不自由することのない裕福さであった。兄との兄弟げんかはよくあったが、男兄弟には普通のことだ。 私の記憶は実は4、5才ぐらいまでないのだが、幼い頃はやんちゃな子だったようで、3才ぐらいまでに怪我をして2、3度頭を縫ったという。また風疹や水疱瘡の類も2歳までにあったようだ。 幼少時の思い出で残っているのは、毎日のように外遊びをしていたことと、幼稚園の年長ぐらいから本を読み始めたことである。今でこそ東京のベッドタウンとなっているが、当時の埼玉は東京とは違った長閑なところで、至る所に空き地や遊び場があった。また母方の実家は兵庫県の北部であり、こちらは更に田舎で外遊びには最適の場所であった。幼稚園や小学校は埼玉で通ったが、長期休みの時には1・2週間は兵庫で過ごすというのがパターンだった。田舎では虫取りや魚盗りといった子供の遊びを楽しんだが、今思うとこうした経験は非常に貴重なものであったと思う。公務員試験の受験に関係があるわけではないが、自分の人格形成の一部になっていることは間違いないだろう。 また本は、家にあった歴史漫画や動植物の図鑑、幼稚園にあった絵本や物語などを片端から読んでいた。特に図鑑などは、田舎で実際に見たり取ったりしているものがそのまま載っていたりするので、良く読んでいたと思う。対照的に、テレビは小学校にはいるまでは殆ど見なかった。しかし本はよく読んだが、読むと言うより見るに近かったと思う。周りの子達が通うような漢字や算数を教える幼児教室には通ったことはなく、そのようなことは幼稚園で習っていなかった。その結果、幼稚園の年長時にはクラスでただ1人自分の名前を書けず、また絵を描くのも苦手、更には日本語の発音がうまくできないという状態だった。幼稚園からは、本を眺めているのはいいが知恵遅れではないかと心配されたことがある。 日本語の方は矯正教室に通うことになり、結局小学校1年生の時まで通った。私自身としては、幼かったこともあり悩んでいるわけもなく幼稚園・学校を早退できるので喜んでいたように記憶している。 小学校に入ると、日本語も問題なく、字も習ったのでこうした問題は解消した。すると今まで本を見ていたためか、勉強も出来るようになった。ただ、国語は非常に出来、読書感想文などで賞を取ることもあるという一方で、算数は出来るときもあれば居残り補修を受けるときもあるという具合で当時から文系向きだったかもしれない。運動の方はごくごく普通であった。この頃の学校では、運動の出来る子が人気者になる一方、勉強の出来る子はいじめの対象になることが多かったが、私も例にもれず小学校高学年ぐらいにかけていじめられることになった。いじめは半年ぐらい続き一時は悩んだが、先生に相談したところ非常に迅速・厳格に対処してくれ、その日からいじめは一切解消した。その先生には今でも非常に感謝している。いじめが終わった頃、運動の方でも投手として出場したソフトボール大会で優勝するなど、それなりに自分に自信を持てる出来事があった。 中学校時代小学校は非常にのんびりしており、中学受験をする人も学校全体で1人いるかいないかという程度であった。当然私も地元の中学校に進学したが、不思議なことに中学にはいるといじめは全くなくなった。小学校時代には想像できなかったことだが、学校の勉強が少しずつ難しくなるに連れて他の人から問題の解き方などを質問されることが多くなった。特に数学の質問が多かったが、質問に答えて相手が分かるように説明するのはなかなか難しいな、と感じたものである。うまく説明するにはまず自分が完璧に理解していなければならず、さらにその内容を易しく伝えなければならない。自分にとっても良い復習であり、そうしているうちに苦手だった数学も得意とは言わないまでもそこそこできるようになっていた。 中学校生活はごくごく普通だったが、最も打ち込んだのは卓球の部活動だった。運動はあまり得意ではないと思っていたが、卓球に関しては小学校までに本格的にやった人はいなかったのでスタートは同じだと思ったからである。毎日日が沈むまで練習していたが、その甲斐あって大会で入賞し、団体戦も一応は県大会まで進むことができた。部活に熱心に打ち込んだことで最も強く感じたのは、反復練習の大切さ(継続は力なりということである)と、自分の可能性である。もちろん才能に差はあるが、人間誰しも努力すればある程度の水準までは到達することが出来るのだな、と感じた。 受験に関してだが、1年生の時から地元の塾には通っていたが、初めは地元の県立トップ校にでも行ければ良いな、と漠然と感じていた。文化祭などを見て雰囲気も自由そうだったことと、また兄がその学校に通っており、それへの対抗心もあった。進学実績も公立校としてはなかなかのものであった。塾では1、2年の間は公立・私立のクラス分けはなかったが、3年生になると塾の生徒には早稲田・慶応の付属を目指す人が多く、私もそのコースに入ることにした。しかし地元の県立校からも相当数が進学しており、そのまま県立校を受験するつもりであった。 3年生の9月に部活動を引退してから本格的な受験勉強を始めることになり、10月〜12月は他の大手予備校が実施する模試を力試しに受けてみた。そこで初めて自分の成績が思ったより良いことがわかり、もう少し上の私立進学校を目指すことにした。ただ、それらの学校は英数国理社が受験科目だったが、塾では英数国しかクラスがないので多少問題があった。仕方がないので自分で良いと思う問題集を買ってやったり、学校の授業を活用したりするしかなかった。幸い私の中学校の理・社の先生は熱心で、授業自体のレベルも公立中学校としては高い方で、また個人的に対応してくれたので準備することになった 受験の時は失敗しても県立校に進めばいいと思っていたので気楽に受験したが、結果は合格であり、東京の学校に入学することにした。 開成高校時代私の進学した高校は全国でも屈指の進学校という評価を受けており、確かに集まっている学生は優秀な学生が多かった。東大合格者数の多さからもわかるが、大体クラスの大多数が現役時には東大を目指す、という雰囲気は確かにある。私も深く考えずに東大を目指すことになった。とは言ってもいわゆる真面目くんのようなタイプの学生は殆どおらず、文武両道の校風に則して体育や運動会などは非常に盛んだった。盛んが余って授業中に麻雀をやるような強者もいたので、最初は驚いた。 授業のレベルも普通の高校よりは高いのだろうが、飛び抜けて凄いというわけではなく、実際大多数の学生が塾のお世話になっていたように思う。しかし私は高いお金を払って今更塾に通うのがいやだったので、学校の授業と通信添削で卒業まで過ごした。結果的にはいろいろな勉強法を自分で試行錯誤することになり、それを通じて自分にあった勉強法を確立することが出来た。 高校生活で学んだことは多々あるが、公務員試験に後々関係しそうなもののみ記しておく。まず1つは、決して油断しないことである。1年生の最初の模擬試験で成績が良かった私は、その後油断してゲームに熱中し、苦手の数学もほったらかしにしておいた。すると、流石に今までとは違い秀才達が集った?学校だけあってか、成績もてきめんに下降し、2年の夏休み前まで順位がどんどん落ち込んでいくのを目にした。これでは行けないと思って2年生の夏休みに死ぬ思いで勉強したところ、その後は上位の成績をキープすることが出来た。油断しないという教訓は最後まで詰めを誤らないということでもある。これは高校3年の運動会のことである。私の組は総合優勝をほぼ手中にしており、高3の種目である棒倒しも決勝まで勝ち残っていた。高1・高2の時にはいずれも1回戦負けであったので、是が非でも優勝したいという思いがあった。決勝戦でも相手の棒を8割方倒して、勝ったと思ったのだが、そこで相手に粘られてしまいそうこうするうちにこちらの棒が倒されて、準優勝に終わってしまった。総合成績は優勝だったが、出来れば優勝したかった、と思っている。勝負というものは最後の最後までわからない、というのは陳腐な言葉であるが、重い真実を突いている。これ以後、詰めを絶対に誤らないようにすることと同時に、不利であっても最後まで諦めなくなった。 もう1つ、話が前後してしまうが高校2年の時所属していた弁論部でディベートの全国大会に出ることになった。それまで弁論部は実体のない部活だったのだが、初めて活動することになったのである。付け焼き刃の準備で勝ち抜けるわけもなく、予選リーグで敗退したが、この時にディベート的思考法や議論の仕方などを学んだことは後々役に立った。 大学受験に関しては特別に記すことはない。自分の成績と周りの雰囲気などから、東大の文 I を受験して合格・入学した。文 I にした理由も特になく、深く考えずに選んだと思う。合格した当初は国立文系で1番難易度の高いところに入学した、と単純に喜んで、将来は法曹界でも目指そうかと思っていたのだが。 東京大学文科 I 類高校生の時は学校と家の往復のような形で3年間が終わったが、大学生というものはただ授業に出るだけでなく、サークル活動やバイト、あるいは旅行などをして学生生活を楽しむものだ、と思っていた。今思えば、大学1年生の時はそのように「普通の」大学生になろうとしていたのだろう。2年生の進学時までに必要な単位は1年生の1学期で全て揃ったので、2学期と2年生の1学期は文字通りモラトリアムであった。バイトをしたり、サークルで学園祭に出たり、高校時代の仲間と旅行に行ったり、とそれなりに予定は有ったが、やりたいこと・打ち込みたいことは特に見つからずにどこかむなしさもあった。文 I というのは法学部に進学を予定されたコースであり、周りには司法試験や公務員試験を早くから目指している人もいたが、1年生の間はまだ実感がわかないと言うのが正直なところだろう。学業で唯一一生懸命やったのが外国語だった。理由は外国語なら将来も役に立ちそうに思えたからという単純なものだったが、やっているうちに面白くなった。英語の他に、第2外国語の韓国語と選択で取った中国語は比較的熱心にやり、他にも手を出したがいずれも挫折してしまった。語学屋になるのはまずいと思ったのだが、他の授業は必修の法律系を含めて興味が持てず、やる気は起きなかった。 2年生になると、法学部の授業も本格的に始まり、周りには司法試験予備校に通う人が増え始めたが、通う気にはならなかった。また法学部の授業は600人が1つの講堂に集って講義を一方的に聞く形式で、私にとっては無味乾燥・苦痛そのものだった。自分にはどうも法律は向かないようだ、と思えてきたことと、また好きな外国語の勉強に時間をとりたいという思いから法学部を辞めようかと考えるようになってきたが、「東大法学部」の看板を捨てるのには若干躊躇させられるところがあった。また親も法学部にそのまま進むことを望んでおり、進路について初めて悩むことになった。 訪れた転機転機となったのは、この年の夏休みであった。韓国語の授業で紹介された大学生の交流プログラムで韓国を訪れ、現地の大学生と討論をし、韓国内の様々な場所を見学した。この時ブロークンな韓国語ながらそれなりに意思疎通がはかれ、また日本側の参加者には他に韓国語を知っている学生がいなかったことから学生同士で遊ぶときには通訳まがいのことまでやることになった。今思うと非常に危なっかしい通訳だったと思うが、非常に楽しい思い出となった。国と国との関係も個人間の関係の束に集約されうるものだが、そういった国際的な交わり−国際関係−に関わりたいという思いがこの時に芽生えた。 またもう1つ、この時東大の教養学部国際関係論という学科から韓国に交換留学している先輩がいると聞いて訪問ついでに自由時間にお会いしたのだが、非常に尊敬できる方で、憧れすら覚えたものである。話を聞くと、その学科は20人前後の少人数で、授業はほとんどゼミ形式でいろいろなことを勉強でき、交換留学のプログラムなども充実しているという。その先輩自身も文 I から転科(学科を換えること)してその学科に進学したそうなのだが、目標とするにふさわしい方であった。1週間強の訪問を終えてからも迷いはあったが、結局その先輩と同じように、転科して教養学部国際関係論という学科に進学することにした。最終的に決断して届けを出したのは、進学先希望の締め切り日の締め切り時間ぎりぎりだったと思う。 国際関係論を学ぶ進学した総合社会科学科国際関係論という学科は20人前後の少人数の学科だった。小さい学科なので授業はほぼ全てがゼミ形式で、出席や課題の量は比較的厳しいが、その分学科のまとまりや面倒見はよかった。法学部とは全く対照的な学科だったが、居心地もよく、新しく勉強を始めた国際関係論という学問も面白かった。大学に入って初めて、まともな勉強をしているという気になっていた。その分授業以外のことはあまりしなかったが、当時は大学院に進学することを考えていたのでそれで満足していた。 しかしそんな学校生活の中でも公務員との接点になる出来事がいくつかあった。1つは3年生の時に省庁の(後に内定することになる省庁でもあった)局長クラスの方が行う授業を取ったことと、3年生の夏休みに日米学生会議という学生会議に参加したこと、などである。前者の授業は理論中心の普通の授業とは違って実務の観点からの説明が行われたり、模擬ディベートを行ったりと新鮮な内容で、先生も地位に似合わず?非常に気さくで仲良くなった。また後者は1ヶ月渡米して米国各地を周りながら米国の大学生と討論や交流を持つと同時に、各地で日本の領事館・大使館・代表部などを訪問するという行事だったが、これを通じてアメリカ人と接する機会を得ると同時に、アメリカや国連で働いている日本の方にお話を伺う機会を得た。日頃学んでいる国際関係に関連しているが、授業とは違った世界を見ることが出来たのは非常に面白かったし、そうした仕事に興味を抱き、就職先として考えるようになった。 交換留学4年生の時には、学部の交換留学制度によって1年留学することになった。留学先は英語圏などではなく韓国。奇しくも2年前にお会いした先輩と同じ学校・学科であった。留学について理由を聞かれることが多く、そのたびに適当な理由を付けてお茶を濁していたのだが、今考えてみると、もう1年のモラトリアム、そして将来について真剣に考える時間が必要だったのだろう。必然的に留年して就職活動も先延ばしとなったが、それはそれで後悔していなかった。 留学先では1年生と同じ扱いとなり、大学1年生に戻ったかのように韓国人の学生と遊んでいたが、韓国語はその分上達した。また、韓国にいる日本人は否が応でも日本人であることを強く意識させられることが多く、彼らと話をしていても日本の代表のように議論をせねばならないことがままあった。一見窮屈かも知れないが、そうした違いをお互いに認めた上での友達がたくさん出来たのは嬉しかった。元々知っている人もほとんどいなかった留学だが、帰るまでには100人強の友達が出来ていたのは一番の収穫だっただろう。また、留学での経験から、日本の代表として他の国と渡り合う、ということに魅力を感じ、公務員を本気で志すようになった。 公務員試験の勉強公務員試験については留学するときにWセミナーの通信講座を申し込んでみたものの、現地での留学生活の楽しさと忙しさから、ほとんど手を付けなかったというのが正直なところである。当時の言い訳は、公務員試験の勉強は日本に帰ったからでも出来るのだから、留学中は留学中にしかできないことを存分にしよう、というものであった。結局通信講座で聞いたテープも部屋でパソコンやテレビのBGMとして聞いていたり、日本から持ってきたのは初めに指定されていたテキストのみで過去問(セレクション)の類は一切なかったりと、とんでもないものだった。情報も余りなく周囲に日本の公務員試験を受験する学生などいるはずもないので何をやったらいいのかさっぱり分からなかったが、日本にいる友達からWセミナーの「渡辺ゼミ」という講座がいいと聞き、それの I '期を受講しようと考えた。 帰国したのは試験の4ヶ月前を切った2月中旬で、帰国から3日後に渡辺ゼミの I '期の選抜試験を受験したのだが、20点満点のテストで13点がボーダーの所、8点しか取れなかったと記憶している。幸いなことに、ゼミの選抜試験では筆記試験のみではなく面接があり、しかも筆記試験の点数がボーダーに達していない場合には、面接に入る直前に渡辺先生の方から個別にアピールするように言われる。そこで必死にアピールをした私は、かろうじてゼミに入ることが出来たが、後で聞くと筆記試験は最下位だったとのことである。確かに専門科目のうちインプット(講義)の通信講座を通して聴いたのは憲法のみ、という状況では最下位も致し方ないところであった。 これまでの不勉強と試験までの期間の短さを痛感させられることになった私は、藁にもすがる気持ちだった。そこでゼミで言われたことを全て実行するしかない、と決めた。幸い学校の単位はほとんど取り終わっているので、試験勉強に専念することが出来た。憲法以外の授業はインプットのテープをゼミの日までに聞き、同時に指定された範囲の過去問をゼミで言われたように1題1題よく調べながら解く、というのはなかなか大変だったが、なんとかやり通すことが出来た。慣れてきた頃を見計らって、同時に指定された範囲にある過去問と似たような過去問も解くことにして、4月までに過去問を1回解き終わることを目標にした。その後は5、6月とすぐに直前期に突入してしまい、過去問の2・3回目や模試、答錬、教養対策などでやることの多さに気が滅入ってしまいそうになったが、ゼミで言われたことを忠実に実行することだけを心がけていた。ゼミでは基本書や六法などもじっくり使った勉強法を教えられ、初めのうちは勉強が遅れていたことから焦りもあったが、今振り返ってみると遠回りなようでこうした勉強法は基礎力をしっかり付ける最も効率的な勉強法だったのではないかと考えている。 実際に最終的には、上位の成績で最終合格することが出来た。ただ、いくら何でも本格的な勉強を2月から、というのは一般的には遅すぎるので、これを読んで公務員試験を受験しようという方は1日でも早めに勉強を始めた方が良いと思う。私も帰国後の4ヶ月は公務員試験の勉強以外は一切何も出来なかったと言ってよい。 官庁訪問と内定公務員というのは厄介な試験で、試験に受かっても内定がもらえないと就職できない、という理不尽さも持っている。逆に官庁訪問で内々定をもらっていても2次試験で落ちてしまう、というケースもある。これらの点は残念だが、受験生自身が克服するしかないのが現状である。 最後に私は幸運にも合格して内定をもらうことが出来ましたが、留年しても待っていてくれた両親や、日本でいろいろと情報を教えてくれた友達、ボーダーに遙かに及ばない点数だった私を拾ってくれた渡辺先生など多くの方々の支えがあって合格できました。また一緒に官庁訪問をした友達も、官庁訪問中に手応えが悪くて落ち込んでいた私を励ましてくれる、など、月並みですがみんなのお陰で内定まで辿り着くことが出来たと思います。 この文章を最後まで読んでくれた皆さんにも感謝したいと思います。この体験記が果たして役に立つかは分かりませんが、1つだけ最後に記したいと思います。合格・内定して分かりましたが、合格者・内定者の経歴や経験は本当に様々です。どんな経歴や経験を持っていようとも(譬えそれが平凡なものでも特異なものでも)、自分なりにそれを生かせば公務員試験に合格し、内定をすることが出来ると信じています。 それでは皆さんが次代の体験記を書くことを祈りつつこのぐらいで筆を止めたいと思います。 (了)
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