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キャリア・エリートへの道

企業戦士のDNAをもつ国家公務員

はじめに

 「自立(自律)」の意味は、「自分の身に起こったことを自分で意味付けできること」なのではないかと最近思い始めています。幼児や子供であるうちは両親や先生がそれを代行してくれるわけですが、その責任を自分で引き受けられるようになることが「大人になる」ということなのではないでしょうか。国家公務員として働くことが決まり、名実ともに「大人」になろうとしている現在、これまでの自分のたどってきた軌跡を自分なりに一つのストーリーとして解釈し直し記述する作業は、自分にとって有益であるばかりでなく、国家公務員を目指す方たちにも何らかの参考になるのではないかと思い、筆を執らせていただく次第です。

生いたち

 僕が生まれたのは母方の実家のある山形県寒河江市です。これ以後ほぼ2〜5年おきに東京都大田区→アメリカ合衆国ロサンゼルス市→東京都大田区→埼玉県南埼玉郡→東京都渋谷区→目黒区、と根無し草のごとく移動することになります。「出身はどこですか?」と聞かれることがありますが僕の場合これに答えるのが非常に困難で、山形の素朴さ、アメリカ合衆国のオープンでマイペースな所、大田区の落ち着いた雰囲気、など様々な地域の様々なアイデンティティが少しずつ集まっている人間、という理解をしています。

 家族は父、母、僕、妹の4人です。父は大阪出身、母は山形出身で、就職で東京に出てきて、そこの会社で知り合って結婚した、という典型的な「高度成長期」の家庭でした。父は某自動車会社のサラリーマンで、主に海外輸出部門で働いていました。僕が4歳のときに仕事の関係で約5年間アメリカ合衆国に駐在することになるのですが、これは日本車がその圧倒的な品質で海外市場におけるシェアを飛躍的に伸ばした時期と重なっており、父はその渦中にいたこれまた典型的な「企業戦士・国際ビジネスマン」だったのだな、と今にして思います。実際、アメリカ合衆国での生活・経験は僕の人生・人格に多大な影響を及ぼしていますが、「日本車を海外へ輸出する。そしてそのための要員を海外へ派遣する。」という「企業行動」がなければ自分という人間は今のような人格では存在していなかったでしょう。企業・経済というものは、一人の人間・一つの家庭の行く末を大きく左右する存在であるということが、今、実感を伴ってよく分かります。

アメリカでの生活のこと

 4歳から9歳までの約5年間、アメリカ合衆国で暮らしました。ウィークデイは現地校に通い、土曜日は日本の補習校に通うという生活でした。アメリカというところは良くも悪くも日本とは「正反対」の風土・人情の所だと思います。初めて現地校のクラスに入ったとき、クラスメートは先を争って僕の隣に座ろうとし、友達になろうとしてくれました。また同級生が向かいの家に住んでいることが分かったのですが、彼の家と僕の家とを仕切っている柵が彼らによって改築されたときに、行き来しやすいように開閉式のゲートがいつの間にかできていたりしました。授業もユニークなものが多かったのですが、中でも印象的だったのは「"Special" Class」と「Sharing Class」の二つです。「"Special" Class」とは一種の道徳の授業のようなもので、先生が生徒達に自分の名前を書かせたり、お互いの似顔絵を描かせたりして、「名前も顔も、お互いみんな違う。あなたという人間は世界に一人しかいない。あなたは世界に一人しかいないspecialな存在なのだから、そのような自分に誇りを持とう」という趣旨を教え込むものです。「Sharing Class」とは、毎回生徒の一人が自分のお気に入りのおもちゃをクラスに持ってきて、このおもちゃが如何に素晴らしいものであり、自分が如何にこのおもちゃを気に入っているかを発表し、クラスメートとその素晴らしさをshareする、というものでした。僕も自分の持っているミニカーでこの発表をしたのですが、「いつもはどこを走らせているのか」とか「階段や坂の上から走らせるとかっこいいんじゃないか」などの反応が返ってきて何となく嬉しかったのを覚えています。こういった授業は、「みんな一緒に」を強調し、「自慢」を厳しく戒める日本の授業形態とは(どちらがいいのかは分かりませんが)著しく傾向を異にするものでした。

 反面、こんなこともありました。僕は当時、地域のサッカーチームに入っていたのですが、日本人は僕を入れて4、5人いました。それが全員、試合でディフェンダーに回されたのです。当時サッカーの花形ポジションといえばフォワードと相場が決まっており、そこには自分達よりもはるかに「ドンくさい」白人の子供が居座っていました。個性も能力も異なる4人の日本人がたまたま全員ディフェンダーの素質を持っていたなどということは普通に考えてもありえるはずがなく、アメリカ社会に根強く伏流する「差別」を感じた瞬間でした。

 ただこれには続きがあります。どうしてもゴールを決めたかったので、ある試合で僕は自分のポジションを無視して飛び出し、ゴール前でずっとプレイしていました。すると次の試合でコーチに呼ばれ、「リョウ(こう呼ばれていました)、君は前の試合で非常にいい動きをしたから次からフォワードだ。」とあっさりコンバートされたのです。スタートラインでは不平等で、しかし自分の実力をアピールすれば正当な評価が与えられるこの社会は平等なのか不平等なのか?アメリカという社会の本質を体感した経験だったと思います。

 このようなおおらかで個人主義的な環境で毎日を送り、夏は海、冬はスキー、長期休暇は家族でアメリカ中を旅行して回り、競争や忙しさ、劣等感とは無縁の、ぼけっとした少年時代をすごしていたように思います。日本の幼稚園での僕の一般的な評価は「記憶力が良い」と「落ち着きがない」でしたがアメリカでこれに「Day Dreaming(いつも白昼夢を見ている)」が加わりました。このような自分の性格・人格は、日本への帰国とともに、大きな転機を迎えることになります。

地元の少年野球チームのこと

 小学校3年の3学期に帰国した僕は、日本での社会生活に慣れる目的も兼ねて、地元で活動している少年野球チームに入団しました。入ってから分かったのですが、そのチームは毎年全国大会にも出場するほどの強豪で、当然普段の練習もかなり厳しいものでした。練習は週4回で、土曜日は午後から日が暮れるまで、日曜日は終日ボールを追っていました。いわゆる「体育会系」の生活を小学校の段階で早くも経験してしまったわけですが、野球中心のこの小学校生活の中で日本的な集団行動、上下関係を叩き込まれ、一生の友人(僕は彼らを「戦友」と呼んでいます)、継続して努力することの大切さなど、多くのことを学びました。僕の「日本人としての原点」は、間違いなくこの野球チームにあると思っています。最近母親が、当時を懐かしがって、あの頃僕が朝早く冬の寒い中朝練に出かけて行くのを見て、外はこんなに寒いし眠いはずなのに、この子はどうしてわざわざ行くのだろう、嫌なら休めばいいのにと思った、という趣旨の話をよくしますが、僕はここにこの野球チームで学んだことの本質を見る思いがします。休むと監督から怒られるし、チームメイトからも白い目で見られる。それも確かに「嫌な練習」に行く理由ではあるのですが、もちろんそれだけで行くのではありません。また純粋に野球がうまくなるからという功利的な理由だけでも足りない気がします。この辺りの機微は説明するのが非常に難しいのですが、僕が知りえた中では、太宰治の『走れメロス』で、メロスが最後に「友との約束」や「王に見せつける」といった理由を超えて、「何かもっと大きなもの」のために「引きずられるようにして」走った、という場面が最もそれに近いと思っています。俗っぽい表現をしてしまえば「人生には嫌でもやらねばならないときがある」ということの実践であり、それは、現在にいたるまで自分の一貫した「基礎体力」となっています。

 このあと僕は高校受験・大学受験、果ては公務員試験と数多くの「本番」を経験することになりますが、その「本番」に至るまでの日々の実力養成、「本番」が始まった後の身の処し方、メンタル・コントロール等は、今にして思えば、全て小学校の3年間野球チームでやっていたことの繰り返しであるような気がしています。

学校・塾・勉強のこと

 小学校時代をほとんど野球づけで送った僕は、中学に入ると一転、勉強づけの毎日を送ることになります。契機はごく些細なもので、友達から彼の通っている某進学塾のパンフレットを見せてもらったときに、その「合格実績」の欄の一番上に「開成高校」とあったのを見て「これだ!」と思ったのが始まりです。子供のやる気というのは恐ろしいもので、あるいは、1つのことに集中すると周りが見えなくなる僕の性格のせいか、早速その塾に入り、開成高校に入るのを既成事実のように考えて受験勉強に邁進し、学校と塾の「二元生活」に入っていきました。

 僕が通ったその塾はかなり高度な内容を早い段階から教えていたので、塾での勉強を消化するうちに学校での成績もそれに伴って上昇していきました。現在はどうなのか分かりませんが、少なくとも当時の公立中学校には「勉強ができること」を生徒の立派な1つの才能・価値として認める雰囲気があったように思います。担任の先生達は中間・期末テストの度に、受け持ちのクラスの平均点比べを冗談混じりに(しかし結構真剣に)やっていましたし、業者テストでいい成績をとったりすると、「今回は気合が入っていたな!」と嬉しそうに誉めてくれたりしました。「筋肉バカ」だった自分が最終的に開成高校に合格するまでになれたのは、学校でのこのような雰囲気に後押しされたことによる部分も大きかったのではないかと思います。最近埼玉県で業者テストが廃止されたという話を聞きました。テストは確かにいわゆる「詰め込み教育」を煽るものかもしれませんが、同時に自分のような「できない」生徒が「できる」ようになる達成感と喜びを感じる機会でもあると思うのです。廃止によってそのような機会が奪われ、勉強する生徒を応援する雰囲気が消え、ひいては「士は別れて三日なれば即ち当にカツ目して相待つべし」を地で行くような「大化け」する生徒がいなくなることを危惧します。

開成高校のこと

 中学校での日々の努力が実り、また学校や塾でいい先生に恵まれたこともあって、高校受験では見事開成高校に合格することができました。これには、自分達の受けた年にちょうど早稲田大学付属系列の高校が開成と同じ日に受験日をぶつけてきたため受験生の多くがそちらに流れ、開成の倍率が下がった(例年5倍のところその年だけ2倍強)という幸運に恵まれたことも大きかったと思います。

 開成高校は1学年400人で、その内300人が開成中学からの内部進学、100人が高校から入学してきた人間で構成されていました。高校1年時は勉強の進度の違いから高校編入組は内部進学組とは別クラスで編成されてキャッチアップのための別カリキュラムが組まれ(「8時間授業」の日が週2日ありました!)、高校2年時に新旧の人間を混ぜてクラス替えが行われてそのクラスメートのまま3年時も過ごす、というサイクルです。一般に「中だるみ」のない高校編入組の方が成績が良いとされていましたが、その傾向も年によって違いがあり、僕たちの学年は前述の通り倍率が下がった年であったためさほどの差はありませんでした。2年時に混ざるので内部進学組と高校編入組との間の「垣根」はその時点でなくなります。僕は高校編入組ですが、今でも友達づきあいを続けている「高校からの友達」は新旧問わずたくさんいます。ただ「暗黙の区別」のようなものは残り、人数も内部進学組の方が多いためか、高校編入の人は同じ高校編入の人に、内部進学の人は内部進学の人にどうしてもシンパシーを感じてしまうといった傾向はありました。

 東大合格者数で毎年トップを走っているためか、大学受験に専念した授業が行われているのだろうと思われているようです。確かに3年になると受験を意識したカリキュラムが組まれ、実力テストなども行われるようになりますが、それは他の高校と同じ程度であり、他に比べて特に開成が受験を意識している、というわけではないと思います。よく先生が言っていたのは、「開成が優秀なのではなく、開成に通っている生徒が優秀なのだ」ということで、その言葉通り、受験が近づいてくると、学校に頼るのではなく、みな自分で勉強するなり、予備校を探してそこに通うなりして、自ら対策を講じ始めます。「大事なことは人に頼らず、自分でやる」という空気は受験に限らず運動会、文化祭ほか学校生活のあらゆる面で見ることができ、この高度の自律性が開成の学生の特徴であり「強さ」であると思います。

 「開成高校での生活」を聞かれたときに真っ先に思い浮かぶのは運動会であり、友達であり、先輩−後輩のネットワークであり、クラブ活動ではあっても、毎日の授業や受験勉強ではありません。これは開成出身者の多くが同意する所だろうと思います。その意味では開成も普通の高校であり、「ガリ勉の集団」といった世間一般に流布しているステレオタイプ(一定数いるのは事実ですが…)とはかけ離れた雰囲気の場所であるということは強調しておきたいと思います。

先生のこと

 運のいいことに、僕は今まで数多くの立派な先生に恵まれてきました。考えてみれば、小学生や中学生、高校生が自分達の両親以外に接する大人というのは先生以外にいないわけで、その意味でも、この時期にいわゆる「いい先生」につくことができたのは幸運だったと思っています。

 だいたい先生1人につき最低1つは記憶に残っている言葉やエピソードがあるのですが、特に強烈な印象の残っている先生が2人います。

 1人は≪学校・塾・勉強のこと≫で書いた、僕が中学生のときに通っていた進学塾の先生(兼・社長)です。その先生は僕らのクラスでは数学を教えていたのですが、できない生徒は容赦のない言葉で叱り、逆に難しい問題を解いてみせると手放しで誉める、という教え方をしていました。僕らにとってその誉め言葉をもらうことが何よりも嬉しく、またクラスメート同士の間での名誉でもあるという空気が作られていたので(こういう人物を「カリスマ」というのでしょう)、みな先を争って問題を解いたものでした。僕は当時から数学が非常に苦手だったので(今でもそうです)、当初は悔しいことの連続でした。「人間じゃない」という極端な論評を頂戴してしまったこともあります。僕が受験勉強にあれほど真剣に取り組むことができたのは、何とかその悔しさを晴らしたい、実力をつけて自分の存在をその先生に認めさせたいという気持ちがあったからだということは否めません。今にして思うと、それが先生の狙いだったのでしょう。この塾にはその後、僕が大学生になったときアルバイトで講師として雇っていただいたのですが、実際に教壇に立ってみて、先生の偉大さが初めて分かりました。実際、反抗したい盛りの中学生を一度に30数人も相手にして、彼ら彼女ら全員に、以前の僕らが先生に感じていたような気持ちを「自然に」抱かせるのは大変なことです。アルバイトの学生はおろか、正社員の講師の方たちの中にもその先生のような授業を出来る人はほとんどいませんでした。「塾の講師は学者・役者・医者・易者という一人四役をこなさなければならない」「授業は常に真剣勝負」という言葉が印象に残っています。これほど真剣に塾講師という職業に取り組んでいる先生の姿を見て、これは本来、学生が片手間にやっていい仕事ではないとの思いを強くしました。先生は今でも僕のことを覚えてくれています。公務員という職業につくことが決まった今、久しぶりに会って、一緒にお酒でも飲みながらお話を伺いたいと思っています。

 もう1人の先生は、僕が大学浪人のときに個人的にお世話になった、ある予備校の高齢の現代文の先生です。僕は東大を目指して浪人していたのですが、東大入試において現代文の勉強の方法論が最も曖昧模糊としており、現代文はどう勉強していいのか分からない、受験生泣かせの科目でした。その現状を反映してか「適当」な講師が多い中で、その先生は何とか現代文の分野に(小手先のテクニックではない、本質にしっかりと立脚した)方法論を確立しようと悪戦苦闘している様子が授業からも伝わってきました。先生が伝えたかったことは「受験問題が解ける・解けない以前に、鋭い問題意識と、社会を見る健全な目を養うことが第一義的に重要である」ということだったのではないかと理解しています。当時高校生だった僕には高度すぎて半分も理解できませんでしたが、大学生になって各方面の学問をいろいろとかじってみて初めて「問題意識と社会を見る目」という言葉の持つ深い意味を多少は実感を伴って理解できたような気がしています。東大合格を果たした後、先生のお宅に招かれお祝いをしていただいたのですが、そのとき先生の2階の仕事部屋を見せていただいて驚きました。床が抜けそうなほど膨大な資料が詰め込まれた本棚がいくつもあり、引き出しを開けると各年の入試問題が整然と整理されて敷き詰められています。机の上には読みかけの本がおいてあり、それには鉛筆でびっしりと書き込みがなされていました。この机に向かって入試問題で出題される文章の背後にある「思想」をつかまえようと格闘している先生の、刃のような意気込みと血のにじむような取り組み方が目に浮かぶようでした。受験生からの絶大な支持、予備校からの圧倒的な信頼はここから生まれているのだと、大げさに言えばある種の感動さえありました。その先生も、今から3年程前に亡くなられました。先生のライフステージから見ると、僕は「最晩年の教え子」ということになるのでしょう。お祝いしていただいたときに「大学で何をするか」と問われて「教養学部に入って、そのあとMBAを取る」と答えた覚えがあります。そのとき先生は「それは非常にいい考えだ」と賛成してくださいました。最終的に公務員という選択をした現在の自分を見て、先生がどういうコメントをするのか聞けないのが残念です。

 印象に残った2人が学校の先生ではなく、いずれも塾・予備校の先生であるということが「受験戦争の申し子」たる自分の学生生活を象徴しているかのようです。ただそのようなライフサイクルをたどった自分の実感からすれば、僕自身が経験したような、先生との「血の通ったコミュニケーション」が行われている限りそれも立派な教育の一形態であり、また、前述の2人のような「一流の男たち」の生きざまを間近で見、その薫陶を受けたことは決して無駄ではなかったと思います。彼らからのメッセージは僕の価値観に多大な影響を及ぼしていますし、これから公務員として働く自分の「仕事の仕方」や「スタンス」といったものにも影響を与えていくことでしょう。

公務員受験に至る経緯のこと

 高校3年の終わりごろから、自分が大学でどんな勉強をしたいのか、そしてそのためにはどこの大学のどの学部に行くのが一番いいのかを考え始めました。アメリカ滞在中や帰国後に日米の価値観・期待される行動様式の違いなどを鮮烈に体験していたこともあり、漠然と「文化」というものを理論的に突き詰めて考えてみたいと思っていたので、色々調べた結果、それに最も近いことをやっている東京大学教養学部に行こうと決めました。教養学部への進学者は文科III類(文III)からが最も多かったので、単純に当初は文IIIへ願書を出そうと考えていました。

 しかし、既に東大に通っている高校の先輩や同級生から話を聞いたところ、文IIIからだと教養学部に進学できない可能性が高い、ということが分かってきたのです。東大には「進学振り分け制度」というものがあり、大学4年間のうち最初の2年間の「前期課程(教養課程=文 I 〜III、理 I 〜IIIという分類)」での成績を元に、「後期課程(専門課程=法学部、文学部といった分類)」への進学者を振り分けるシステムになっています。つまり、ある学科への進学希望者がその学科の定員を上回った場合、前期課程での成績順に進学者が決定するため成績が悪いと希望する学科に進学できなくなる可能性があるということです。文科系の場合、文 I ・ II の学生はほとんどが法学部と経済学部にそれぞれ進学するのですが(文 I →法学部、文 II →経済学部という進学ルートの場合は成績の良し悪しに関係なく、単位さえ揃っていれば全て「可」でも進学できます)、文IIIの進学先は文学部・教育学部・教養学部と分散しており、特に教養学部はほとんどの文III生が進学を希望している超人気学部で、文IIIで入ってもその後の競争が大変で、ほとんど全て「優」でないと進学は難しいとのことでした。その点文 I か文 II であれば教養学部への進学希望者も少なく、また教養学部は文 I ・ II ・IIIから平等に学生を募集するので、確実にそこへ進学したいのであれば文 I か文 II に入るに越したことはないというアドバイスを受けて方針を転換し、文 I に志望を変更したのです。最初の受験は全くの実力不足で不合格となってしまったのですが、1年の浪人の後、何とか文 I に合格することができました。

 しかし、当初の予定通り法学部へは行かずに教養学部へ進学し、学科も前述のような「文化の研究」に最も近いことをやっている文化人類学科を選択しました。大学3年の夏休み明けくらいまではいわゆる「普通の大学生」の生活をしており、ゴルフサークルに入ってコースを回ったり、文芸サークルに入って小説を書いたり、その仲間と呑んだりと、遊びまわっていました。就職など考えたこともなく、まして公務員試験などは意識の端にも登らず、学部での勉強が自分がイメージしていたのとピッタリで非常に面白かったこともあり、このまま大学院に進んで研究者の道を進むのもいいなあと漠然と考えていました。

 こんな自分が突然(と周囲には映ったことでしょう)公務員試験に方針転換した理由はいくつかあります。

 まず、学部でフィールドワークを繰り返す中で、フィールドワーク「だけ」でいいのだろうかという気持ちが芽生えてきたということがあります。とりわけ、あるニュータウン内の保育園を調査したときにそれを強く感じました。そこの園長先生はとても立派な方で、ニュータウンという特殊な環境における子育てのあり方やコミュニティ形成について、現場の人ならではの経験と蓄積を持っており、少しでもいい環境を創るべく日々努力していらっしゃいました。保育という分野は行政の規制が結構厳しいらしく、自分のアイデアを必ずしも100%生かせないもどかしさも見て取ることができました。そういう人達を目の当たりにして、この人達の考えていることや置かれている現状、「想い」などを、ただ単に調査報告書に書いてこと足れりとすることが自分にはできませんでした。園長先生のような方にとって、調査で保育園を訪れる自分のような人間は所詮「お客様」です。そのような「お客様」としてではなく、彼らの想いを実現するための「パートナー」として彼らと「共に働く」ような生き方の方が自分の価値観に合っているように思ったのです。

 もう1つは大学での授業です。教養学部のある駒場キャンパスでは毎年交換留学生プログラムを実施しており、世界各地の提携大学から留学生を受け入れています。英語力のブラッシュアップのため自分はその留学生達と英語でディスカッションをするクラスを取っていたのですが、そこでの体験も公務員を目指すきっかけの1つとなりました。実際の所、駒場にやってくる留学生達の能力にはかなりばらつきがあり、真に日本に興味があって日本の勉強をするために来ている真面目な外人から、単なる物見遊山気分で来ているだけの外人も一定数います。この種の「不真面目な外人」がディスカッションで一方的かつ偏った日本観を展開するのに我慢がならず、日本人がどのように考え、行動しているか、日本人の価値観はどのようなものなのかを、その都度他の日本人学生とともに英語で反論していたのですが、これが自分には非常にやりがいのあるエキサイティングな体験でした。このような「日本と日本人の言い分」を他の国の人達に分かってもらう(認めさせる)仕事に将来携わることができたらきっと面白いだろうな、と考えるようになったのです。

 以上のような自分の志向を満たしてくれる仕事として「国家公務員」という選択肢が急浮上し、大学3年の12月頃にWセミナーへ入学して受験勉強に入っていきました。

公務員受験のこと

 勉強の開始が他の受験生に比べてかなり遅かったので、合格可能性を少しでも高めるため大学での専門に近い科目のある行政職を選択したのですが、1回目の受験は失敗に終わりました(1次落ち)。今から考えると、いろいろな意味で「甘かった」のだろうと思います。実質半年しか勉強期間がなかったにもかかわらずバイトは続けていましたし、大学の授業にも結構出席していました。試験勉強への取り組み方にも真剣さが足りなかったように思います。

 1次落ちが決定した後(留年も決定しました)それらの点を反省し、来年の受験に向けての長期計画に盛り込みました。すなわち(1)職種を合格者の一番多い法律職に替える、また(2)絶対的な勉強時間の確保のため(3)バイトをやめ、(4)大学の授業も必要最小限のもののみ出席することにし(事実上の休学)、「専業受験生」として一年を過ごすことにしたのです。

 Wセミナーには職種を替えて引き続き在籍し、約2ヶ月間の充電期間(国内外へ旅行して気分転換しました)のあと、8月中旬頃から本格的に試験科目のインプットを開始しました。

 僕は大学で法律を勉強したわけではなく、法律科目は全くの門外漢だったのでやっていけるかどうか始めは不安でした。これから勉強を始めようとしている人の中には、僕と同じような不安を懐いている人もいるかも知れません。ただ、受験を終えてみて感じるのは、法律職の法律科目はあくまで「受験科目」であり、学問的な体系的理解は必ずしも必要ではないということです。「受験科目」としての法律科目に関して言えば、公務員受験生のスタートラインは(ごく一部の例外を除いて)横並びと見て間違いないでしょう。法学部生でなくても合格するチャンスは(法学部生と同じく)十分あるので、ひるまずチャレンジして欲しいと思います。

 僕は大まかに8月〜3月を「長期記憶刺激期」、3月〜6月を「短期記憶刺激期」と位置付けていました。「長期記憶刺激期」は基本書の通読や典型論点の暗記など公務員試験のベーシックな部分を消化することに努めました。この時期に余りギリギリやっても仕方がないと考え、睡眠時間の確保や週に一度は必ずオフを作るなど、体力的・精神的に余裕を持たせた生活を心がけました。これに対して「短期記憶刺激期」は「追い込み」の時期とし、渡辺ゼミ I ' 期と II 期に参加し、時事関連の知識や最新判例などを可能な限り詰め込みました。試験の1週間前までは睡眠時間を削り、利用できる時間はすべて利用し、文字通り「死ぬ気で」勉強しました。

 過去問の消化に関して、「年末までに1回目、年明けから3月にかけて2回目、3月から本試験までに3回目、合計3回やる」ということを先生からよく言われると思います。また「択一答練の正答率は7割が合否のボーダーライン」など、勉強を進めていく上での様々な「メルクマール」が登場します。

 しかし、それらが今の段階で達成できなかったからといって過度に落ち込む必要はないと思います。現に僕自身は過去問の全てを3回できたわけではありませんし、択一答練では毎回5割を取るのがやっとの状態でした。もちろん、それらの目安(目標)を達成するために努力は最大限するべきです。また、復習を徹底してすることも重要です。ただ、今の時点で目標値を達成できなくても、最終目標はあくまで本試験の合格であり、指標を達成することではない(手段に過ぎない)という基本を見失ってはいけないと思います。先生方のおっしゃる勉強方法は一つの理想形であり、それのどの部分を取り入れてどの部分を省くのかを判断するのは最終的には自分です。また、自分の学習進度・理解度を冷静に判定し、特に周囲の情報や模試の結果に徒に振り回されない(一喜一憂しない)ことが肝要です。

公務員受験中のことを、断片的に

 考えてみれば、もう10年近く「予備校」という存在と関わってきたわけで、よく冗談で、自分には予備校選びや予備校教師の「鑑定」には10年からのキャリアがあるなどと言ったりしています。私は渋谷校のVTR受講生で、ゼミからこの原稿を書いている時点まで約半年しか経過していないので、渡辺先生が「眼鏡」にかなう先生であるかどうかの判断には、先生とのさらなる対話と交流が必要であると思われます(笑)。

 しかし、少なくとも僕の中の「何か」をかき立ててくれた先生であることは間違いありません。渡辺ゼミ I 期の選抜試験で落とされ、その悔しさから頑張って I'期には合格を果たし、現在この「キャリア・エリートへの道」の原稿を任せていただけるほど先生との個人的信頼関係を築くことができたことは、受験を通じて得られた一つの財産だと思っています。

 2002年3月からの約半年間は自分にとって「職業選択」の期間であり、大げさに言えばこの結果如何で今後数十年の自分の人生の方向が決まってしまうプレッシャーといつも隣り合わせでした。その時期の自分のスケジュール帳を見ると民間企業の面接の予定や授業・模試の予定などがびっしり書き込まれて真っ黒(+真っ赤)になっており、普段予定表など全く作らないものぐさの自分がいかに精神的に追いつめられていたかが分かります。ただそのときぼんやりと感じていたことは、男には(女性もそうかも知れませんが…)人生の節目において全身全霊をかけて挑むべき「本番」があり、今がそのときなのだ、ということです。最初の本番は(前述の地域少年野球チームが出場していた大会での)平和島球場のバッターボックス、次は高校受験、その次は浪人と大学受験、そして今時分が直面している「職業選択」の試練が、次に乗り越えるべき「本番」なのだという意識で日々を過ごしていたように思います。

 半年ほど前、父が会社を辞めて転職しました。その会社は経営不振からヨーロッパの自動車会社と資本提携したのですが、その際に送り込まれてきた外国人経営陣との確執が原因だったようです。日本でのビジネスの実情を何も知らず(知ろうともせず)にただ経営学の教科書に書いてある理屈を振り回すだけの外国人、そこから透けて見える人種差別意識、さらにはそれに異を唱えるでもなく、卑屈にニコニコ従うだけのイエスマンになり下がってしまった日本人の一部同僚・上司、それら全てに嫌気がさしたようでした。父を誘ってくれる会社が他にあったので、大学卒業から30数年勤めた会社を辞めました。辞めたその日、父は夜遅くまで送別会で飲んで、泥酔して帰ってきました。父はよくお酒を飲みますが、初めて前後不覚になった父の姿を見ました。この日以降、僕の中の「何か」に火がつきました。欧米市場へ自動車輸出の大攻勢をかけ、欧米人を向こうに回して戦い日本経済の一時代を築いた(少なくとも、その一翼を担った)父を僕は誇りに思います。普段は照れくさいし癪なので言わないのですが、父の「企業戦士のDNA」を受け継いでいることに僕は大きな誇りと高揚を感じており、そのDNAを以て国家公務員の世界に斬りこみ、自分自身がどこまでできるか、試してみようと思っているところです。

むすび

 以上、「なぜ自分は国家公務員になったのか?」という問いを考えたときに浮かぶ、自分の人生における様々なことを書き連ねてきました。公務員の「志望動機」を聞かれて、それこそエントリーシートや官庁訪問でするように、「いかにも」といったストーリー作り上げるのは簡単です。

 しかし実際のところ、あることの「理由」というものはそれほど単純でもないし理路整然としているわけでもないのではないかと思うのです。僕の場合も、上述の数多くの要素が複雑に作用しあって、最大公約数的に「公務員」という解が出てきたというのが本当のところでしょう。

 最後まで読んで下さった方、どうもありがとうございました。役に立つようなことは何一つ書けませんでしたが、公務員を目指す方もそうでない方も、「公務員」という存在をイメージするときに、「こんなことを考えている奴がいたな」と、少しでも思い出していただければ望外の幸せです。

(了)
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