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私立大学・既卒で上位合格・内定 はじめに私は現在25歳。地方から東京の私立大学に入学し、2002年4月に大学を卒業、2003年6月の試験を受けるまで無職。こうした少しほかの学生とは違う経歴を持っているため本当に内定をもらえるのか、と不安に思うことがありましたが、何とかここまでたどり着くことができました。以下では私の歩んできた道を振り返ることでこうした人間でも内々定をいただけるということをお伝えしようかと考えています。 私は2003年(平成15年)国家公務員試験 I 種を受験し、最終的に内々定をいただくことができました。まず内々定まで様々なアドバイスをしてくださいました渡辺先生、私のわがままに付き合ってくれた両親、勉強に滅入ってしまった時に励ましてくれた野球部の仲間、上智大学の友人、Wセミナー/公務員で共に励んだ友人、すべての方々に感謝したいと思います。この中の1人でも欠けていれば私はこの目標を達成できていませんでした。本当にありがとうございます!!! これから私がこれまでの体験を記す趣旨は、こういう経験をしてきた者でも国家公務員 I 種職員として採用されうるのだということを多くの人に知っていただくためです。そして国家公務員試験を目指す方の不安を少しでも取り除く一助になれればという思いで私の体験を綴りたいと思います。 実際、試験勉強を開始していた昨年の私も自分と同じ境遇の先輩の体験記を読むことで、公務員になるのだという強い思いを持ち直すことができました。私のような経歴の人間でも強い信念を持って試験や官庁訪問に臨めば必ず結果はついてくるということを伝えることができればと思っています。 ここでは I 種試験の勉強方法や官庁訪問の仕方などは他に機会に譲り、深くは触れず、私という人間がどのように成長し、どのように国家公務員を目指すに至ったか述べて行きたいと思います。 幼少時代私は福島県会津若松市で生まれました。私はここで高校時代まで過ごすことになります。会津若松は盆地のため山々に囲まれ、私の実家の真後ろも山でした。夏は暑く、冬は豪雪、こうして私は自然が当たり前の世界で暮してきました。このことは後でも述べますが私の進路に大きな影響を与えています。 私の幼少時代はといいますと、両親が共働きということで幼児の時から施設に預けられていました。そして保育園へ進みました。幼少期を一緒に過ごしてきた同級とはその後も上京するまでいつも一緒に遊んできました。 また保育園では運動会のリレーの選手に選ばれたりするなどこの頃からある程度スポーツはできる方でした。何か特別な習い事をしていたわけではありません。山などを走り回っていたことが効いていたのかもしれません。 野球との出会いさて私の小学時代はといいますと、一言でいいますといかに自分のやりたい遊びをやるかということに尽きます。1年生から3年生までは昼休みや放課後はドッジボールに明け暮れ、上級生を倒すのが目標でした。勝てるわけがないのに負けては挑むことを繰り返していました。冬になると雪が降るので、雪合戦をしながら帰宅したり、たまにですが公道をスキーで滑りながら下校したりしていました。私の小学校では体育でスキーがあったため、学校にスキーがあったのです。 こうした状況が一変したのが野球との出会いでした。4年生になると母がそろばんか何かをやったらどうかと言ってきました。そろばん塾が家のすぐそばにあり、当時その一帯ではそろばんが密かなブームだったのです。 しかし、私はすぐに拒否しました。ちょうどこの時保育園からの友人が少年野球をやっていて、私に一緒に野球をやらないかと誘ってくれました。私は躊躇することなく野球チームに入りました。またこの頃からスキーを本格的にはじめ、毎週日曜日は家から車で30分のところにあるスキー場に通っていました。夏は野球、冬はスキーと1年中スポーツ三昧でした。 少年野球では5年生からセカンドのレギュラーに選ばれ、また6年生のころはキャッチャーでキャプテンに選ばれました。5年時、6年時ともに県大会準優勝に終わり、あと一歩のところで全国大会へのキップを逃してしまいました。さすがに2年連続決勝で負けてしまったこと、キャプテンとして責任を果たせなかったことはショックでした。何が自分に足りなかったのか反省する日々が続きました。この野球を始めることで私は頑固といえるほどの負けず嫌いになってしまったのです。 リベンジ私の育った会津若松では私立の中学校に通う人などほとんどおらず、私も普通どおり家の近くの中学校に通いました。私は入学するとすぐに野球部に入部しました。しかし中学校自体が少し荒れていて野球部の先輩も例外ではありませんでした。幾分恐怖を感じながら野球をしていましたが、私の学年の部員は皆まじめで、互いに支えあいながらやれたこともあり、いまではそうした恐怖もいい経験だったと思います。 少年野球の悔しさから絶対負けないという思いで練習した甲斐もあり、2年生の時はサードのレギュラーとなり、3年生の時はピッチャーでキャプテンを任せられ、県大会優勝を目指しました。1年生から3年生まで部員50人をまとめることは大変なものでした。結果が出せずに顧問の先生から私の怠惰を戒める意味で何度か殴られた時もありました。何とか強くなりたいその思いでいっぱいの毎日でした。思いが通じてか何とかチームは会津地区では1位、2位を争うレベルにまで上げることができました。私の中学校と隣の中学校の2チームは県でもトップレベルの力をつけ、最後の大会に臨みました。しかし私の中学校の結果は地区予選敗退という無残な結果に終わってしまいました。隣の中学校は勝ち進み県大会優勝を成し遂げていました。その時私は力があっても精神的にまだまだ未熟なのだと実感しました。 次に中学時代の勉強面について述べたいと思います。私の中学校は科目ごとに教室を移動するという当時では珍しいスタイルの学校でした。また教室の廊下側の壁を取り外すことができ、開放感ある教室にすることもできました。 私たちの学年は皆英語に対して非常に関心がありました。というのも英語の先生が授業中にさまざまな洋楽を聞かせてくれたからです。スティービー・ワンダーやエリック・クラプトン、ビリー・ジョエルなどの名曲を聞きながら、歌詞カードの空欄を埋めるといったリスニングをしていました。一番生徒たちに関心を与えたのがエリック・クラプトンの「Tears in Heaven」でした。クラシックギターでしっとりと歌い上げるこの曲を、特に男子生徒は真似しようと昼休みには何十人もの男子生徒が音楽室に集まりギター片手に「Tears in Heaven」を練習したものです。 こうして私は洋楽に興味をもち、洋楽の詩の意味を把握しようと英語の授業だけは真剣に参加していました。必然的に英語のテストは良くできました。 初めての受験野球が夏で終わりやることのなくなった私は当時流行っていたバスケットボールの3on3を始めました。夏休みは毎日朝から晩まで近所のバスケットコートでバスケットをし、野球で負けた悔しさを紛らわそうとしました。 夏休みも終わると高校進学を控え、受験という言葉を意識するようになりました。田舎のため高校といえば公立しかありません。大体の生徒は、普通課のみで大学進学を目指す会津高校、商業高校、工業高校の3つのうちどれかに進学することになっていました。 周りが勉強を始めたため私も勉強を始めました。会津高校が難易度的に一番難しいとされて言われていたので、私は勉強でも負けず嫌いを発揮しはじめて真剣に勉強をしました。 結局、初受験は成功し(といっても会津高校の倍率は1.2ぐらいしかなかった……)会津高校に進学することとなりました。 この間両親はというと「とにかく高校ならどこでもいい」と言い続けていました。「会津高校に行きなさい」と言われていれば反発して違う高校に行っていたかもしれません。ただ、「どこでもいい」といいながら私が「甲子園にいきたいから野球名門校の日大東北高校に行きたい」といったら、私立でお金がかかること、家から通えないなどの理由からこの希望は即座に却下されました。 高校球児野球で培った負けず嫌いを発揮し何とか地元では進学校といわれる会津高校に入学することができました。ここでも私はまた野球部に入部してしまいました。野球が好きだったということもあり、小学校、中学校の悔しさを晴らしたいという思いもあり、憧れの甲子園をめざすことになりました。会津高校野球部は進学校といえども福島県レベルの公立校の中ではまずまずの強さだと思います。ゆえに入部当初は「地獄のしごき」が待っていました。まずは先輩に対して挨拶を始めとする礼儀を仕込まれました。学校、街中、どこで会おうがOBや先輩には腹の底から声を出して挨拶をするというものでした。こうした決まりに逆らうことは退部につながるため恥ずかしながら従わざるをえませんでした。また昼休みなどはグランドの整備のため昼食を取れないなど何のために野球部に入ったのか分からなくなるときもありました。ですが止めようと思ったことは一度もありませんでした。 自分がつらい時こそそれは乗り越えるべきものと感じていたからだと思います。このように私の高校生活は野球中心にまわっていくことになります。 勉強のほうでは英語は予習しないと怒られていたので休み時間に単語を調べるくらいはしていましたが、家では練習で疲れきっているためご飯を食べて寝るだけでした。必然的にほかの科目は全くできなくなり、歴史や科学、数学などは赤点の連続で、ほかの野球部の仲間と共にいつも補習を受けてなんとかしていました。こんな私に対して両親は結局、勉強しろだとか、いい点とれだとかは一度も言ってきませんでした。むしろ赤点をとって帰ると笑っていました。今思うと私の行動を尊重してくれていて、また信頼していてくれたのでと思います。(大学受験や就職活動時には両親のこの信頼に応えようという思いが強かったです。) こうして学年も上がり2年生になると私はピッチャーとして試合で活躍できるようになりました。部員50人前後いて、ピッチャーだけで10人程度いる中で1つのエースの枠を争っていました。常にベストを尽くさなければ勝ち残れない状況の中で3年間いたことは私の負けず嫌いにいっそう拍車をかけました。学年も最上級になりチームも1つになり、力をつけ始めてきました。私もなんとかエースに選ばれ、その自覚から以前にもまして練習に打ち込むことになりました。正月以外は毎日がむしゃらに練習に打ち込みました。関東の強豪校との練習試合や昨年の福島県優勝校との試合を通して勝てはしなかったものの僅差の試合ができ、チームもある程度の成果に甲子園が近づいてきている実感がありました。 そして3年生の夏がやってきました。1回戦の相手は昨年の準優勝校に決まりました。 相手は強豪ではあるものの私たちの力を普通に出せれば勝てる相手である、こうした認識が私たちの中にありました。しかし現実は甘くはありませんでした。延長12回サヨナラ負け……。スコアは2-1。これが18歳の野球少年に突きつけられた現実でした。あそこまで泣いた夜は最初で最後となりました。 それからというのは毎日本当に生きているのかどうかも分からない毎日でした。学校は一応進学校ということでまわりは受験勉強モードに入り、夏休みには補習などが始まっていました。しかし私は何にもやる気を見出せず夏休みが終わるまでずっと家に閉じこもりっぱなしでした。両親も私に気を遣い野球の話は全くしませんでした。 今考えれば試合に負けたのも私のおごりと精神的弱さが原因だと思います。会津高校野球部の教訓の1つに「何事も謙虚たれ」という言葉があります。私は、自分は練習していて成果もでている、だから打たれるわけがない、と思っていました。自分を客観的にみれば明らかに私には不足していたものがたくさんあるのに、おごりからそれに気づいていませんでした。また延長12回の場面で疲労からストライクが取れず弱気になっていた自分がいまでも許せません。みんなの信頼を裏切ってしまったあの時の自分の情けなさは今でも毎晩思い出します。 失った時間は取り戻すことができません。私は皆に迷惑をかけてしまったことを償う意味でも、常に謙虚に向上心を持って、決して弱気にならないことを心にとめて懸命に生きていかなければならないと思うようになりました。同じ過ちは繰り返してはいけないのです。 一度目の大学受験夏休みも終わり、私も大学進学を考えるようになりました。とはいっても甲子園という大きな目標がついえた今、将来の道などを考える余裕等ありませんでした。一応中学のころから英語や洋楽に興味があり、留学などしてみたいという思いから上智大学外国語学部を受験することにしました。 浪人生活予想通り現役時代の受験は見事に失敗します。他に中堅大学に合格していたのですが、ここでも負けず嫌いが発揮され自分の可能性に試したいということで浪人に反対する両親を説得し始めました。両親は私の意見を尊重し、1年間という約束で浪人することを許してくれました。ここから私の浪人生活が始まりました。私は上智大学に入りたかったので、予備校は上智大学や慶応大学向けのところに通いました。また寮生活を始めました。 日中は予備校で勉強、夜は寮の友達とサッカー、ゲームセンター、ビリヤードなどをしたりして、メリハリの利いた勉強ができました。こうして浪人生活も楽しく過ごすことができました。成績の方も予備校のカリキュラムや持ち前の負けん気でいい形で上がりました。 浪人時代の唯一の悩みは志望先でした。私は外国語学部に行きたいと思い浪人したのですが、上智大学に地球環境法学科があるのを知り、この2つで悩んでしまいました(この2つの学科は試験日が同じだったのです)。 というのも私は山の中で育ってきたこともあり、自然に対して人よりも敏感で、愛着も持っていたからです。いろんな方に相談しましたが、最終的にはこれから人類と自然と共生していく社会の実現を目指していかなければと思い、上智大学法学部地球環境法学科の受験を決めました。 当該学科は2月初めに試験があり即座に発表され、私は無事に合格でき受験勉強は終わることになりました。 上智大学での生活私は上智大学に入学しました。入学当初はテニスサークルなどの華やかな勧誘などもありました。しかし私は迷わずに野球部に入部願いに行きました。その理由は、高校時代の情けない自分を乗り越え自分を成長させるためにはもう一度野球に挑戦しなければならないと思ったためです。また純粋に野球に打ち込めるのは私の人生でこの大学時代しかないと考えたからです。 上智大学野球部は東都大学野球連盟というところに所属し4部中4部とういう位置にいました(東都大学野球は毎年1部優勝校が全日本選手権で1位や2位になるなど人気では六大学にかなわないが、実力では日本一のリーグです。巨人の阿部、清水、ヤクルトの石川、阪神の赤星など毎年多くのプロ野球選手を送り込んでいるリーグです)。 しかも上智大学野球部はリーグ戦では全敗でダントツビリでした。こんなチームで本当に私の思い描くような野球ができるのかと不安に陥りました。しかし私たちの学年は戦力的にも恵まれていたので、なんとか3部リーグで戦えるだけの力をつけようと誓いました。 大学生活で一番困難だったのは、生活費や活動費の捻出、単位取得と野球の練習をどのようにうまく行うかでした。大学に入ってまで野球をするからには両親に頼らずになんとか稼いでいかなければなりませんでした。1年の頃は、午後は練習、夜8時ごろからアルバイト、深夜働くことも多々ありました。そのため練習とお金はうまく両立できたのですが、勉強のほうは全くする暇がなく1年終了時の取得単位は13単位でした。最終的には単位は4年間でとることができ卒業できたのですが、勉強、アルバイトと部活をしていくことは本当に大変なものでした。 大学野球さて野球の話に戻りますが、1年の頃はもちろんピッチャーをしていましたが、1年以上のブランクからうまく体が私のやる気についていかず、夏にはインピジメントという肩の故障に悩まされることになってしまいました。ボールを投げることもできずに医者に行っても治らない。こんな時期が1年半近く続きました。野球がやりたくて野球部に入ったのに肩痛のせいで野球ができず野球を投げ出してしまいそうにもなりましたが、高校時代の悔しさを晴らすのだと自分言い聞かせて辛抱強くリハビリを続けました。 3年生になりようやく肩も良くなりある程度野球ができるようになりました。そしてチーム事情から私たち3年生から主将、副主将が選出され、結果として私は副主将となりました。また肩が全盛期まで回復しなかったこともありキャッチャーとしてチームをまとめることになりました。私はこの時、チームを建て直し3部に昇格するためのチャンスと思い、より自分の責任を果たすべく練習に打ち込みました。とにかく一番心掛けたことは口でいうことよりも態度に示すことをでした。練習しろという前に自分が進んで練習する。この繰り返しを続けることで私の発言には説得力も増し、部員からの信頼も得ることができたと思っています。また高校時代の経験や大学1、2年時のケガから抜け出した経験を生かし、チームが精神的にまいっているときは率先してチームを引っ張るように心掛けました。 こうしてチームを率いて2シーズン目に4部優勝を果たし、神宮球場での3部チームとの入れ替え戦に勝利し、目標の3部昇格を果たすことができました。 公務員を意識した大学3年〜大学4年3部での戦いに備えてよりレベルアップを図らなければならないこの時期、私たちの練習は就職活動の合間を縫って練習をしなければなりませんでした。私も例外でなく金融、マスコミなどの説明会には参加しながらの練習でした。様々な職種の会社説明会に行きましたが、どれも私の目指したいものとは違うことを感じ、将来何をやりたいのか真剣に具体的に考えるようになりました。 結局私はやはり環境問題に取り組める仕事に尽きたいのだと考え、だとすれば環境省が一番なのではないかと考えました。私は考えが単純なため、環境の仕事は民間でもある程度できることなのに民間など他のことは考えず、環境省で働くことだけを考えるようになりました。そして環境省で働くためには国家試験を受けなければならないと知り、部活動をしている今は試験勉強はできないと考え、部活動が終わってから試験勉強をしようと決めました。やはり部活をしながらでは勉強も部活も中途半端になるし、野球は大学時代にしかできない、副主将という立場から中途半端な気持ちで野球をするわけにはいかない、こうした理由から私は学生の間は野球に専念することを決めました。 勉強を開始するのが他の学生よりも遅くなってしまった分、受験する際、年齢が高くなってしまいましたが、私は一度も自分のこの選択を後悔はしませんでした。確かに他の学生より年齢は高く不利に思われるかもしれませんが、私は大学4年間野球をやり通したことで大学時代を充実させることもでき、また信頼を得ることの大事さや難しさ、1つのことをやり遂げることの大事さなどこれからの私の人生にとって必要なことを数多く学ばせてもらいました。結果的に野球の技術はたいして上達することはできませんでしたが、本当に小さい時から野球を続けて来て本当に良かったと思っています。 拓殖大戦次に大学野球での最も印象深い出来事を書きたいと思います。3部リーグとはいえ東都大学野球のレベルは自分的には相当なものでした。私は野球のレベルは低い福島県の出身で、上智大学も弱い。こんな中で東都大学野球を経験したことは私の中で大きな経験となりました。3年の夏には2部の国学院大学と試合することができ、その中には後に巨人からドラフト指名される選手がいました。初めてプロレベルの選手を身近で体験することとなり、私のレベルの低さを実感しました。世の中には上には上がいる。自分がどれだけ練習したと思ってもそれはあくまで主観的なものであり、自己満足に陥ってはならないことを痛感しました。高校時代も毎日苦しくて苦しくて仕方ない練習をしたのだから試合で勝てると思っていたのですが、本当は自己満足だったのだと強く認識しました。こうした経験により私は自分の野球に対する甘さを知りました。井の中の蛙だった私は常に自分に満足することなく努力を続けなければならないと思いました。 そして迎えた4年の春の3部リーグ戦、私たちは自分たちがどこまでできるのか不安に思っていました。その不安は的中し私たちの前に大きな壁が立ちふさがりました。部員60人前後をスポーツ推薦で集めている拓殖大学でした。選手の名前を見ると甲子園のTV中継で見たことのある選手も何人かいました。リーグ戦は先に2勝したチームが勝ちになるわけですが、拓殖大学との1戦目は15対2で負けてしまいました。これが甲子園レベルかと痛感しました。しかしここであきらめるわけにはいかない、あきらめるのはいつでも誰でもできるのだからと、私たちはなんとか勝つために試合をしなければならないと思いました。そしてその気持ちがチーム全体に浸透し、2戦目は拓殖大学相手に3対2で勝つことができました。3戦目は結局勝てませんでしたが、スポーツ推薦選手など1人もいない上智大学が1勝することができたのです。1勝することで満足することはできないものの、私はここからどんなに困難に見えても、あきらめてしまっては何も成し遂げることはできないことを学びました。その後も自分がどんなにいい結果を出してもおごることなく、また高い壁があってもあきらめることなく試合をすることができました。 4年の春のシーズン、秋のシーズン共に3部優勝はできませんでしたが、高校時代の失敗をなんとか乗り越えることができたのではないかと思います。今現在、4部最下位が定位置だった上智大学野球部もいまでは3部常連校になり、優勝を狙えるチームに成長しています。私たちが築いてきた野球部の土台は間違っていなかったと確信し、これが私の中でどんな困難も乗り越えられるという自信につながっています。 環境省内々定まで野球部の活動も終わり、私は国家公務員試験の勉強を始めました。両親はいつものように私の考えを尊重してくれ、浪人の時と同じように1年間のみという約束で公務員試験勉強を許してくれました。両親はとにかく今しかできないことを精一杯やりなさいとだけ私に忠告してくれました。私の場合は大学を留年することはせず、大学は卒業しました。民間に興味がもてなかったため民間へ就職することはないと思ったからです。 勉強方法に関して大学4年間単位はとってきたものの、全く法律など分かりませんでしたのでWセミナー/公務員のお世話になることにしました。簡単にWセミナー/公務員に通った利点を挙げると、まず勉強方法に迷わないということです。私の場合2002年3月に大学を卒業し、勉強を始めたのが2002年5月でしたので、2003年5月の試験まで1年しかありませんでした。1人で勉強していると自分の勉強方法に迷いが生じます。私には時間がなかったので迷う時間があればその時間も効率よい勉強をしたいと考え、予備校に頼る方が良いと考えました。またほかのメリットは悩みを相談できる先生や友人がたくさんできることです。特に同じ思いで公務員を目指す友人たちと様々な話題について意見を交わすことは自分の見識を広げる意味で大変有意義でした。友人と予備校の授業前などの時間を利用して議論した経験は官庁訪問でも大いに役に立ったと思います。私はこうした経験から金銭的に余裕があるのならば、時間を有効かつ効率的に活用し確実に最終合格するためには信頼できる予備校を利用するのも1つの手段かと思います 次に私の試験勉強方法について簡単にふれたいと思います。まず教養に関しては、大学の受験勉強で英・国・社しかやっていなかったため、数的・判断推理などは全く分かりませんでした。一応勉強してみたのですが、まったく点数は伸びませんでした。結局本番の試験では数的・判断推理は一問も解きませんでした。しかし、その分文章理解で点数を落とさないことを意識していました。また時事・社会科学などはWセミナー/公務員の教養択一答練を利用し復習に力を注ぎました。 専門に関してはWセミナー/公務員の授業の復習とセレクションという問題集を先生の言われたとおりにこなしていました。また試験直前期は模試と直前択一答練の復習をしました。こうして私は1次試験に余裕を持って合格できました 2次試験の論文対策は「渡辺ゼミ」を活用しました。公務員試験の2次試験対策としてこのゼミは最適でした。単なる暗記ではなく合格答案の構成の仕方をしっかり学べたおかげで論文試験においては何の不安もなく臨むことができました。そして試験に通り、官庁訪問で自分の国の将来像などを語り合うなど、様々な職員の方と有意義な話ができました。 結局環境省から内々定をいただいたわけですが、その瞬間はうれしさよりもこれから私は地球、日本の自然や私たちの健康を守っていくために一生懸命努力して働いていかなければならないのだという強い責任を感じました。私はこれまで野球で得た経験を生かして、日本や世界を少しでも良いものにしていくことを目標にし生きていきたいと思います。 最後に私のこれまでの人生は野球一色でした。これからは全く野球とは別の世界で生きていくことになります。しかし繰り返しになりますが、私は野球をやってきて本当に良かったと思っています。野球の技術は社会で何の役にも立ちませんが、野球で学んだ物事に取り組む姿勢は今後も活きていくと思います。おごらず、あきらめず、忍耐強く、心の弱さを乗り越える意思を持ってこれからの人生に望んでいきたいと思います。 これから国家 I 種を目指される方へ。私のように全く学問などをしてこなかった者でも採用されることはあります。勉強することも大事ですが、学生のうちにしかできないことに打ち込むことも大事な経験だと思います。どうか後悔しない楽しい学生生活を送ってください。 私大、既卒の方へ。私のように採用されづらい私大で、しかも既卒の方でも採用の可能性はあります。私大で既卒だからといって消極的になるのではなく、自分の生きてきた道に自信を持って官庁訪問に臨んでください。大事なことは今までの自分に自信を持つことだと思います。 私がいままで好きな野球を続け、こうして採用までこぎつけることは私1人の力ではできませんでした。改めて私を支えてくれたすべての方に感謝したいと思います。特に両親には感謝しきれないくらい迷惑をかけてしまいました。裕福でないのに自分たちにかけるお金を節約してまで私のわがままに付き合ってくれたことは感謝のしようがありません。本当にありがとう!! これから精一杯働きます。 最後に、これは私のスタートでありゴールではありません。これからが勝負です。日本や世界を良い社会にしていくために自分のすべてをかけてがんばっていきたいと思います。 これから国家公務員を目指す方々も自分の目標に向かって最後まであきらめずにがんばってください。 (了)
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