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キャリア・エリートへの道

非法学部生でも国 I 法律職現役合格

はじめに

 私は2003年現在、慶應義塾大学の総合政策学部に所属しています。総合政策学部はSFC(湘南藤沢キャンパス)にあり、145年の歴史を持つ慶應義塾大学の中でも、創設されてからまだ14年目の新しい学部です。

 総合政策学部が目指すところは「21世紀世界が直面する課題に新しいネットワークを駆使して取り組み、課題解決の政策を作成し、その実践を踏まえて政策評価を試みる中で、日本と世界に向けた新たなパラダイムと戦略を提案すること」です。これだけ読むと、毎年多くの国家公務員を送り出していそうですが、様々な学問(法律、経済、社会学、情報処理など)を横断的に学習するというスタイルなので、ひとつの学問について専門的な知識を必要とする国 I の試験にはあまり対応していません。

 国 I 法律職を受けると決めた時も、そして受験勉強中も、果たして本当に受かるのかという不安は私の中に常にありました。しかし、現在こうして無事に合格することができ、内々定をいただくこともできました。

 これから、私の人生を振り返りながら、なぜSFCにいながら国 I を受けるに至ったかをお話し、そして法学部でなくても国 I 法律職を現役合格できるということを皆さんに示して、より多くの人に国 I を目指してもらいたいと思います。

幼少時代

 私は京都府宇治市に生まれました。家族は5人で私とは年の離れた姉が2人います。父は会社員、母は専業主婦でいわゆる典型的な家族構成でした。母は仲のいい地域のお母さんグループでやっている人形劇のサークルに入っていました。私もよく人形劇の練習や公演に連れて行ってもらいそこで知り合った同じ年頃の子達と遊んでいました。

 また、その人形劇のグループでよく山登りに行き、私も幼稚園の頃からいろいろな山に登っていました。思えば小さな頃から自然と親しむ機会が多かったことが、現在の私の進路にも影響を与えていると思います。

外でよく遊んだ小学生時代

 私の自宅は巨椋池という池を干拓して作った住宅地にあり、家の近くには一面田んぼが広がっていて、よくイナゴやバッタ取りなどをして小学校ときは外で遊ぶことが多かったように思います。

 小学校に入学してからもよく母と山登りに行きました。普段の環境とは違って、自然の中にいるという感覚がとても好きでした。小さい頃の私は、体が弱くよく熱を出して幼稚園や小学校を休むことが多くありました。そういう私を両親は山登りをする中で少しでも強くしようと考えていたのかもしれません。

 母との山登りのほかに、小学校に入って私はYMCAの野外活動のクラブに所属しました。月1回の割合で、関西の色々な山に登ってテントを張ってキャンプをしたり、冬にはスキー合宿へ行ったりと、そこでの活動はとても開放的であり活発であり、とても楽しい経験ばかりでした。山登りをする中で、私の体はだんだん強くなり、小学校の高学年頃になるとほとんど風邪を引くことはなくなりました。

 ちょうどファミコンと呼ばれるものが大人気だった頃、私も両親に買ってもらいました。母はゲームを買うと私が外で遊ばなくなると思ったらしく、「ゲームは週3日だけ」と厳しくゲームをする時間を制限され、その他の日は外で遊んでいました。

 学校の外では田んぼで遊ぶほかによく野球をして遊びました。父が熱狂的な巨人ファンだったので私も小さな頃から野球に興味を持っていて、父や母とよくキャッチボールをしました。近所の友達はリトルリーグに入ってちゃんとした野球をやっていましたが、私はそのようなリーグには入らず、近所の友達のする野球に入れてもらって一緒になって野球をしていました。

 学校の中での私はおとなしい性格で、教室においてある本ばかり読んでいました。周りから見れば相当まじめだったようで、先生からは「まじめが服を着て歩いている」とまで言われていました。しかし小学校の頃たくさん活字を読んでいたおかげで、文章を読んだり書いたりすることがとても得意になりました。そのおかげで、論文試験のあるSFCにも入れることができたのだと思います。

 今の子供達は外で遊ばないと良く言われますが、小学生時代の私は他の小学生より自然と触れ合う機会が多かったように思います。YMCAのキャンプや、母親との山登り、田んぼで暗くなるまで遊んだ経験はとても貴重なものでした。

成長の中学生時代

 私の通っていた小学校では中学受験をする子はほとんどいなかったので、私も順当に、地元の公立中学校に入学しました。中学校生活は私にとって様々な面で成長する場でもありました。

 中学に入学してまずは所属するクラブ活動選びが始まりました。当時は少年ジャンプに連載されていた『スラムダンク』というバスケットの漫画が大人気の頃で、私の小学校からの友達も多くがバスケットボール部に入りました。私もそれまでは本格的に野球をやってみたいと思っていたのですが、何でも新しいものをやってみたいという好奇心が手伝って、私もバスケットボール部に入りました。

 バスケットボール部の練習はとても厳しく、夏の暑い中でも外で1日中練習をしていました。また、休憩中以外は水を飲むこともできなかったので、精神的な面でも体力的な面でもとても鍛えられました。

 そのような厳しい練習なのではじめは40人ほどもいた新入部員も徐々に減っていき、引退の頃には25人くらいになっていました。私も何度ももうやめようかと思いましたが、両親に「一度始めたのだから最後までやり遂げなさい」と言われ、自分の力を試す意味でも最後まで頑張ろうと心に決めました。最後の試合に負けたとき、これで終わりだという寂しい気持ちと、やっと終わったという安堵の気持ちがして複雑な心境だったことを覚えています。

 クラブを引退して、中3の夏からは高校受験モードに入りました。クラスの中には進学校目指して塾に通っていた友達もいましたが、私はその時、不思議と「進学校に行って勉強していい大学を目指す」という道に魅力を感じませんでした。それよりも地元の公立高校へ行って普通の高校生活をしたいと思っていました。

 そこで私は地元の京都府立西宇治高校を受験しました。西宇治高校を選んだ理由は、私の入学する年からその高校が単位制高校になり、自由に自分の取りたい科目を取れると聞いたからです。

 思えば、小さな頃から私は好奇心の強い子供でいろいろなことに興味を示しました。野球や山登りもそれらのうちですが、それ以外にも料理やピアノなど色々なことに挑戦することに楽しみを覚えていました。年の離れた姉が二人いた影響も大きかったと思います。高校を選ぶ際にもこの強い好奇心が働き、自分が興味を持ったことを好きなように勉強してみたいと思う気持ちがあって単位制の西宇治高校を選びました。

 地元の高校だったので特に厳しい受験勉強をすることはなく、私は推薦で無事に西宇治高校に入学することができました。

充実した高校生時代

 高校には中学よりも広い範囲の生徒がやってくるので、とても多くの新しい友人ができました。家が高校から近いこともあって私の家にはよく友達が遊びに来てクリスマスや七夕など色んな機会に集まって遊んでいました。

 高校時代は、私はハンドボール部に入りました。楽しい高校生活を送りたいと考えていた私は、バスケットボールとは違うスポーツをやりたいと考えていていろいろなクラブを見ていたところ、ハンドボール部の新入部員が足りないということで誘われ、それならやってみようと思い入部しました。

 ハンドボール部の練習は中学のバスケットボール部の練習ほどハードではありませんでしたが、それでも厳しいものでした。私はサイドというポジションについていたのですが、シュートを打つのが大変難しく、最初のうちはまったくちゃんとしたシュートが打てず、怒られてばかりでした。この頃から私の負けず嫌いが生まれてきました。何とかきれいでかっこいいシュートを打てるようになりたいと、毎日のように練習後もシュート練習に励みました。その練習のおかげで私はチームの中でも信頼を得ることができ、頼れるサイドになることができました。この負けず嫌いという性格はいい意味で、今の自分につながっています。

 勉強のほうは、進学校ではない普通の公立高校だったので、あまり先生や親から勉強しろとは言われませんでした。単位制ということもあってある程度自由にとりたい科目が選択できるので、勉強も楽しくすることができました。

初の海外旅行

 高校生活の中で一番私が影響を受けた出来事は1年生の冬に行ったネパールへの旅行でした。私の姉は海外旅行好きでよく友人と海外旅行に行っていました。それまで一度も海外に出たことのなかった私は、一度でいいから海外に行ってみたいと思い、姉にお願いしてネパール旅行が実現しました。

 ネパールでは、ジャングルクルーズをしたりヒマラヤ山脈の遊覧飛行をしたりといういわゆる観光旅行だったのですが、初めて触れる日本とはまったく違った自然・文化やそこで生きる人たちの生活にとてもカルチャーショックを受けて帰って来ました。

 そのネパールへの旅行以来、私の思いは常に世界の色々な国に向くようになりました。そして将来漠然と「国際」的な仕事がしたいと考えるようになりました。

大学受験生

 高校3年になって、進路を考えなければならない時期になりました。いくら進学校でないとは言っても多くの生徒は大学や短大に進学します。私も進路を決めなければならない時期にありました。

 進路を決めるに当たって私が重視した点はやはり「国際」という点でした。できれば国際関係を勉強していろいろな国に行ってみたいと思い、そのような観点から大学選びをしました。それまで一度も塾に行ったことがなく高校の授業についていくくらいの頭しかなかった私はまず、立命館大学の国際関係学部と、関西学院大学の総合政策学部を目指そうと思い、そこへ向けて受験勉強を始めました。 また、さすがに塾に通わないと厳しいだろいうということで、友人の勧めもあって代々木ゼミナールのサテライン予備校というところへ通い始めました。これは東京の本校でやっている授業をビデオに録画して、京都にいながらその授業を受けることができるという画期的なものでした。

 受験勉強を始めた高3の最初の頃は、E判定ばかりで本当に大丈夫かと不安になりましたが、ここで私の負けず嫌いが発揮され、なんとしても「国際」に行きたいという思いから必死に塾の授業についていき、高校の補習などにも参加しました。

 すばらしい塾の授業と頑張った勉強のおかげで、季節が秋になる頃には立命館や関西学院の判定はA〜Bで定着するようになりました。苦手だった英語を克服できたこと、根気よく、そして要領よく勉強したことも良かったのだろうと思います。実際の受験では、記念受験に…と思って受けた慶應の総合政策学部に受かってしまいました(これは嬉しい誤算でした)。

 最初は何とか関西の大学に、と思っていた私が慶應に合格できたのは両親の力が大きいと思います。両親は私に対してまったくプレッシャーをかけませんでした。「本当に自分が満足できるだけ勉強したなら結果は気にしない」とよく言ってくれました。もう子供2人を独立させたから、年の離れた私は自由に育てようと思っていたのかもしれません。とにかく大学受験に関して私は何のプレッシャーも感じることなくとても楽な気持ちで受験することができました。その結果が慶應義塾大学総合政策学部合格という結果につながったのだと思います。両親の寛大さは、国 I 受験のときにも私にとっては大変助かりました。

大学生活〜進路の決定

 大学入学後、「国際」を勉強しようと考えていた私が興味を持った分野は「途上国の貧困問題」と、「地球温暖化問題」でした。前者は、高校生のときにネパールへ行ったときに見た貧困を何とかしたいと思ったから、後者は小さい頃から自然と親しむ機会が多かったからです。そのため大学の講義も「国際協力政策」、「国際開発協力論」、「地球と環境」、「国際環境論」、「エネルギー環境論」など『国際協力』とか『環境』の名のつくものばかり取っていました。

 また、大学2年の前期には貧困問題を考えるゼミに所属し、アマルティア・センという、私の貧困問題に対する考え方に非常に大きな影響を与えた経済学者の著書を読む機会にも恵まれました。自分のやりたいことを勉強できたおかげで、大学2年までの大学生活はとても充実したものでした。またそのような勉強ができるSFCのカリキュラムにとても満足していました。

 大学2年から3年に上がる間の春休み、大学の友人達はそろそろ就職か、進学か(大学院or留学)の進路選択をし始めていました。私もそろそろ進路を決めなければ……。

 大学で貧困問題や環境問題についての勉強をするうちに、私は将来、国連などの国際機関で国際公務員としてこのような問題に取り組んでいきたいと考えるようになっていました。そのためには、最低でも大学院を出て修士を取り、実務経験を積んで、かつ、非常に競争率の高い試験を受けなければなりません。

 そしてもうひとつ私が魅力的に感じる仕事がありました。それが国家公務員です。大学で日本のODA政策や日本の環境技術について勉強するうちに、日本が持つ様々な手法を生かして「国際協力」や「環境」というテーマに取り組んでみたいという思いもありました。それを実現するためには外務省や環境省に入ることが近道のように思いました。

 大学院に行くか、国家公務員を目指すか、春休みは本当に悩みました。国家公務員を目指し1年間の勉強で合格を目指すには、SFCだけの勉強では足りないと感じていたので予備校に通うことは必須だろうと思いました。しかし、予備校で勉強しても合格率が数%の試験に本当に合格できるのかという不安がありました。経済がまったくの苦手だった私は、国 I を受けるなら法律職で受験しようと思っていたのですが、それまでの私は憲法の条文すら読んだことのないまったくの法律初学者だったのです。

 かといって、大学院に行って、修士を取って、何年か実務で働いて、国際公務員になるための試験を受けて、という道は金銭的にも、そして時間的にもとてももったいない気がしました。そのような道に沿って生きている自分がなかなか想像できなかったということもあります。

 もちろん国家公務員を目指してダメだったら大学院という道もあることはあり、親にも話してみましたが、それは金銭的に無理だと言われました。そして私は結局、とにかく1年間国 I 合格を目指してみようと決めました。合格できるかどうかは全くの未知数でしたが、ちゃんと予備校のカリキュラムに沿って勉強すれば何とかなるのではないかという甘い考えをもっていました。

 寛大な両親は、「もし1年やってダメだったらその後就活すればいいから、自分がやりたいならとにかく1年間頑張りなさい」と言ってくれました。こうして私は国家公務員を目指すこととし、再び受験生になりました。

再び受験生

 予備校はWセミナーにしました。1年間で合格するためのカリキュラムが1番整っていると感じたからです。Wセミナーの国 I の講義は高田馬場で行われます。私は迷わず高田馬場まで通うことにしました。私はSFCの最寄駅の湘南台というところに住んでいました。湘南台から高田馬場までは小田急、JRを乗り継いで片道最低1時間15分かかります。それよりも近いブランチ校でビデオブースで同じ授業を受けることもできたのですが、私は勉強するなら周りにできるだけ多く、同じ目標に向かって勉強する人がいたほうがいいと考えました。SFCで国 I を目指す人はほとんどいないので、色々な情報を得るという意味でも、本校でたくさんの人たちと一緒に勉強するということが必要に思えました。

 こうして私は、Wセミナーの国 I 法律職1年合格フルコースの4月生として高田馬場に通い始めました。

 まずは4月の一般知能の授業から始まりました。あまり得意な分野ではありませんでしたが何とか1年で合格してやるという気持ちが強く、毎日こつこつと問題を解いていきました。

 5月からは憲法が始まりここから私の法律の勉強が始まりました。今考えると、全くの初学者だったことはプラスの面もあったと思います。全く白紙の状態から、試験に出るポイントだけを抑えて勉強することができたからです。もともと好奇心の強かった私は、新しい分野の勉強ということで、法律の勉強がとても楽しく感じました。

 6月から7月にかけて、民法、経済学、国際法とWセミナーの授業の数も増えてきました。この頃は大学のテスト、レポート期間とも重なりかなりきつかった時期でした。しかし、どちらも投げ出さず、要領よくWセミナーの予習・復習をこなし、大学の試験レポートもやっていました。法律の知識が法学部生より少ない分、自分は人より頑張らなければ受からないだろうという思いが、自分を奮い立たせたのだと思います。

 はじめのうちは湘南台から高田馬場まで通うのはやはり大変でした。16時10分に大学の授業が終わり、チャリを飛ばして16時半の電車に飛び乗り、18時の授業にぎりぎり飛び込むという生活が続きました。

 大学が夏休みに入ると教養対策の授業も始まり、ほぼ毎日、1日2コマ授業が入るようになりました。しかし、8月中旬の5日間、実家の京都に帰った他は淡々と毎日の授業をこなしていました。

思うように勉強できない日々…

 9月〜10月、そろそろ主要科目は過去問を解き始めなければならないころですが、私はまだ、民法や行政法の基礎の部分に不安があり、なかなか過去問に取り掛かることができませんでした。そうする間に刑法や商法の講義が始まり、また大学のゼミの発表もあり、この頃はなかなか自分の思うように勉強が進まず、不安な時期でした。

 このままではまずいと思った私は渡辺ゼミを受講しようと考えました。なかなかか過去問演習をすることができなかったので、ゼミに入って無理やりにでも過去問演習をこなしていこうとしたのです。しかし、渡辺ゼミの選抜試験には全く手をつけていない商法なども出ます。案の定選抜試験の結果私は合格点に2点足りませんでした。このままでは入れませんが、試験の後行われた面接で、私はなぜ国家公務員になりたいかなどの思いをぶつけ、ぎりぎりで渡辺ゼミ I 期に入ることができました。

 渡辺ゼミはとにかく過去問演習を徹底的にやります。なぜなら国 I の試験は過去の試験の問題傾向などがとても参考になるからです。選択肢の1つ1つを検討し、どこが間違っているのかを受講生が説明しなければなりません。未だ基礎をしっかりと理解していなかった私にとって、ゼミについていくのは大変でしたが、おかげで過去問演習を通じて基礎的な知識を定着させることができ、さらに多少の応用もきくようになりました。

 11月前後になると省庁の業務説明会が各大学で数多く開かれるようになりました。私はできるだけ多くの説明会に参加し、その中でも積極的に質問などをして顔を覚えてもらえるように努めました。多くの学生の中からごく少数の学生を選ぶ官庁訪問を少しでも有利に運ぶために、あらかじめアピールしておくことが必要だと思ったからです。環境省や外務省を中心に10月、11月は毎週のように説明会に参加していました。

 12月にはゼミの合宿がありました。私は3年の後期から国際法のゼミに所属し、合宿では模擬安保理で紛争解決のシミュレーションをしたのですが、その前交渉で合宿前の1週間はほとんど毎日徹夜でした。そのためこの時期も満足な勉強はできませんでした。

勝負どころの2月

 2月になると教養予想答練が始まりました。6回分の答練の問題量はかなりのものでしたが、この教養予想答練をきっかけに私は専門試験対策だけでなく、教養試験対策も始めることができました。かといってあまりにも教養対策ばかりに時間を割くことはできないので、2月は答練の問題を繰り返し解くことしかしませんでした。

 2月は1年間の受験勉強の中で私が一番頑張った時期でした。朝5時半に起きて高田馬場に向かい、朝一番から自習室にこもって夜遅くまで勉強するという生活を毎日続けました。自習室には司法試験を目指して勉強している方が多く、とても真剣に勉強している人ばかりだったので自分も励まされながら集中して勉強することができました。

 この頑張りのおかげで、2月中に主要専門科目(憲法・民法・行政法)のセレクションは2回ずつ、マイナー専門科目(刑法・労働法・商法・国際法)のセレクションは1回ずつ解くことができました。ここを頑張れたことは3月、4月の勉強の励みになりました。もちろんまだまだ余裕などなかったですが……。

ラストスパート

 3月は模試を受けました。もちろん模試を受けるからにはしっかりと復習をして、確実に全部の問題を解けるようになることが必要ですが、私は問題演習よりもむしろ、自分が一番解きやすい時間配分を見極めるために模試を活用しました。解く順番をいろいろ変えながらどの順番に解けば効率的に解けるかを研究しました。国 I 法律職の場合、専門試験で時間が足りなくなることはあまりありませんが、教養試験は時間との戦いです。どの問題を捨てて、どの問題は時間をかけてでも解くかを見極めることは合否に大きく影響します。その練習に模試は大いに役立ちました。模試は週末にあるので、平日は模試の復習を中心に自分の苦手分野の克服に努めました。あせらず、基本書をもう一度読むこともやりました。年が明けた頃と比べると実力がついてきた感触はありましたが、まだまだ安心できるほどではなく、この頃は精神的に追い詰められていました。

 勉強していて疲れたり、不安になったりしたとき私はよくB'zのライブのDVDを見ました。「GO☆FIGHT☆WIN」という曲や「ultra soul」という曲を聴いていると力が湧いてきて、頑張れました。直前期は本当にこの曲たちにお世話になりました。

1次試験前の1ヶ月

 試験までいよいよ残り30日を切る4月は、あまり朝から晩までがりがり勉強するのではなく、無理のない勉強計画を立てて勉強しました(それでも1日10時間前後はやっていましたが……)。厳しいスケジュールを立ててしまい、もし実行できなかったらそれが試験に対する不安につながってしまうだろうと考えたからです。

 1日の勉強スタイルは、午前中は教養試験の勉強、午後は専門試験の勉強という感じでした。教養試験は「速攻の時事」を使って、専門試験は「択一(専門)予想答練」を使って最後の総復習的な気持ちで勉強していました。

 さすがにこの時期は胃が痛くなったりしたので精神的に追い詰められていたのだと思います。でも、自分の中でこの1年間精一杯勉強してきたから大丈夫なんじゃないかという妙な自信があったことは確かです。

5月5日

 この日は国 I の1次試験の日です。朝ご飯はさっぱりとしたフルーツくらいしか口に入りませんでした。試験会場についても、試験開始直前になっても、「今日の出来次第で自分の人生が決まるかもしれない」という思いでとても緊張していました。しかし、午前中の教養試験が始まってしまうと、その緊張感も消えていました。模試を何度も受けて解く順番を決めていたことが良かったのだろうと思います。午後の専門試験も、自分の実力が出せないほどの緊張はなく無事に終わりました。

 翌日の自己採点。とても怖くなかなかできませんでしたが、なんとなく受かりそうな手ごたえはあったので、恐る恐るマル付けをしていきました。その結果何とか1次は通れそうな点数であることがわかりました。1年間頑張った苦労が報われたという思いと、でもこの先にまだ2次試験と官庁訪問があって本当の厳しい闘いはこれからだという思いでとても複雑でしたが、素直に1次突破はとてもうれしかったです。

2次試験対策

 法学部生でない私にとって、もっとも恐れていたのは実は2次の専門論文試験です。1次試験から2次試験までの間は25日ほどしかなく、しかも私は法律論の論文など全く書いたことがありません。もちろん渡辺ゼミの II 期で1次試験前から2次の論文対策はやっていたのですが、1次試験対策で頭が一杯だった私が本格的な2次試験対策を始めたのは2次試験の3週間前からでした。さらに私の1次試験の点数は、おそらく合格者全体の中の真ん中あたりだろうことがわかったので、2次試験で約半分が落ちる今年の試験では私の合格は厳しいだろうことが予想されました。

 法学部でない方が法律職での受験を考えているなら、論文対策は早めに始めておくことをお勧めします。私はとにかく後3週間で間に合わせなければ追い詰められ、とにかく渡辺ゼミでもらったレジュメの模範解答を真似ることから始めました。最初は模範解答をそのまま写してどういったポイントを抑えなければならないのかをつかむように努めました。同時に、渡辺先生に教えていただいた「これが書けると100人抜き」といういろいろな言葉の定義や答案構成を確実に書けるようにとにかく書きまくりました。

6月1日

 結局3週間はあっという間に過ぎてしまいました。決して準備万端とはいえませんでしたが、自分なりに頑張ったという思いはあったので後はどうにでもなれという気持ちで2次試験に臨みました。

 幸運なことに試験の問題は渡辺ゼミのレジュメにあった予想問題がほとんどそのままのものでした。おかげで、無事答案用紙を埋めることができ、これなら通るかなという多少の自信も持つことができました。

官庁訪問〜内々定

 6月19日から官庁訪問が始まりました。私は初日環境省、2日目外務省の順番で回りました。私は今年は国 I に焦点を絞っていたので、一般企業の就職活動は全くしておらず、面接といえばJBIC(国際協力銀行)とJICA(国際協力事業団・2003年10月からは国際協力機構)で1度ずつ受けただけでした。よって、官庁訪問に臨むに当たってきっと緊張するだろうなぁと思っていたのですが、意外と緊張することなく面接に臨むことができました。もちろん待合室などでは緊張しましたが、原課の人の前まで行くと自然と緊張が解けて普段どおり話すことができました。官庁訪問中は待合室で仲良くなった人たちがだんだんと減っていき、精神的につらい場面も多々ありましたが、自然体で面接に臨めたことが、環境省から内々定をいただけた最大の理由だと思います。

おわりに

 7月4日、正式に環境省人事課の課長補佐の方から内々定をいただきました。国家公務員を目指すと心に決めて勉強を始めてから1年3ヶ月、本当に受かるのか、本当に内定はもらえるのかという不安は常にありました。しかし、そうした不安を克服して1年で結果を出せたのは、自分の思うとおりにわがままをさせてくれた両親の支えと、様々な場面で適切な指導をしていただいた渡辺先生をはじめとしたWセミナーのスタッフの方々、そして励ましあって一緒に勉強したWセミナーのクラスの友人達のおかげだと思います。

 これから入省しても、国家公務員を目指すと決めたときの初心を忘れず、日本と世界のために頑張っていきます。

 ここまで読んでくれた方々本当にありがとうございました。そして私の文章を読んでくれた方の1人でも多くが「キャリア・エリートへの道」を目指してくれればと思います。

(了)
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