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キャリア・エリートへの道

偏差値20から早大(法)・国 I (法律)合格

はじめに

 私は今年、国家公務員 I 種試験に合格し、来年から霞ヶ関で働くことになりました。しかしその過程を振り返ってみると、「キャリアエリートへの道」と銘打たれたものにもかかわらず、とてもいわゆる世間で一般的に言う「エリート」等と言えるようなものではありませんでした。

 辞書には「エリート」とは「選ばれた者」という意味であると書いてあります。では選ぶのは誰なのでしょうか? 世間の一般常識によって「選ぶ」のであれば、私のような人間は当てはまらないでしょう。なぜならば、私は、自分自身の価値基準で自分の人生を選んだからです。でも私はそれで本当に良かったと思っています。公務員受験を決意してからというもの、「本当にこんな試験に受かるのか。」「私のような人間でも内定がとれるのか。」という恐怖に襲われることが何度もありました。そのような状況においても、悪い頭なりに自分の生きる意味を必死に考えたことで、後悔のない決断をすることができました。

 そして私のこれから書く文章が、国 I を目指す人だけではなく、「何かと闘っている全ての人」にとって少しでも力になることができればとても嬉しいです。

幼少〜少年期

 私は東京で生まれ育ちました。東京といっても私の生まれ育ったところは、時折、畑や田園も見られる閑静な住宅街であり、暮らしやすい反面あまりこれといった特色はありません。ただ、かの司馬遼太郎は、この地を「いかにも殺風景で昔から人の気性も荒い」と語っています。

 幼い頃の私は、現在の私を知る友人には信じられないと言われますが、食事もまともに食べられない病気がちな子供でした。特に肉類が全般的に苦手で、なんのこともない鳥の唐揚げすら食べることができず、母に怒られて泣きながら無理矢理飲み込んではみるものの、結局すぐに吐き出してしまうという有り様でした。

 そのような体力面での不安の反面、正確は非常に負けず嫌いで闘争心旺盛でした。通っていた幼稚園では、喧嘩などはほとんど毎日であり、叱る大人に対しても反発して、屁理屈で逆にやり込めてしまったりと、本当に手のかかる子供だったようです。

小学校時代

 小学校は地元の公立小学校に入学しました。相変わらず体はクラスで一番小さかったのですが、成長していくにつれて食事も少しずつ食べられるようになっていきました。小学校入学後は、欠席もほとんどなくなり、よく近所の土手を駆け上って遊んでいたことを憶えています。

 小学校生活では、幼い私にちょっとした事件がありました。それは3年生の時にクラスの担任になった女性教師のことでした。彼女は、その年に初めて私の小学校にやって来た先生だったのですが、クラスを成績順に「1軍」「2軍」「3軍」に分類し、教室の座席をそれに従って縦に3つに分けるというシステムで授業をしていました。そしてその当時、私は字が雑で汚いという点を除けば、成績は良い方(少なくともクラスの上位1/3には入っていました)だったにも関わらず、何故か「3軍」に入れられてしまいました。その3つの階級は座る位置が異なるだけではなく、与えられる宿題etcもそれぞれ違っており、授業で行われる小テストなどの点数によって上下変動がなされるものでした。しかしこれまた何故か、私はいくら良い点数を取っても「3軍」に固定されたままでした。しまいには、「お前はうるさい」の一言で、背も1番小さく、視力も悪かったにも関わらず、私は「3軍」の1番後ろの離れた席に「島流し」されていまいました。その席では、ただでさえ目が悪いのに加え、前の席に座っている背の高い子が壁になり、私はほとんど黒板を見ることができませんでした。

 そしてこの迫害は、その先生が担任の間ずっと続けられ、終業式の日に生徒が1人ずつ先生から通信簿を受け取る際にも、私は「あれだけいじめてやったのによく1日も休まずに学校に来たね。それだけは誉めてあげるよ。」と冷笑を浮かべながら言われました。

 また家庭内における父親の"封建的""独裁的"な教育方針が火に油を注ぎました。父は、子供の叱り方が普通の人とは大分違っていました。鉄拳制裁や隣近所に響き渡るような大声で怒鳴るだけではありませんでした。

 私がある日、部屋の電気をつけっぱなしにして友達の家に遊びに行ってしまったことがありました。家を出る直前に、父に「電気を消してから行け」と言われていたのでしたが、そこは子供で、頭は遊びに行くことで一杯ですっかり忘れてしまっていたのでした。家に帰った私を玄関では、怒りで鬼のような形相になっている父が待ち受けていました。そして「ここは俺の家だ。だから俺の言うことが聞けない奴は俺の家に上がるな。お前は勘当だ。今すぐ出て行け!」と迫られ、私が「確かに自分が悪かったが、そこまで怒るのはおかしいじゃないか。次からは気をつける。」と言うとさらに激昂し、泥だらけの冷たい玄関で数時間正座をさせられた後、さらにその場で額を地面にこすりつけて土下座を強要され、「2度とこのようなことは致しません」という念書に大泣きしながらサインをして、やっと家に上がることが許されたのでした。

 こういった学校や家庭内のあまりに理不尽な出来事と反抗期が相まって、私の中では「何故、自分だけがこんな屈辱的な仕打ちを受けねばならないのか」「どんなに俺が正しいことを言っても、頑張っても、大人は認めてくれない」という思いが強くなっていきました。そしてそれは教師や親に代表される大人と、そういった大人のつくる社会全体に対する不信感や反発へと発展していきました。

 またそれ以上に、そういった理不尽な現実を打ち破ることができない自分に腹が立ち、強い無力感を日々感じていました。

中学受験

 学年が上がるにつれ、勉強についていけなくなってきた私は、塾に通うことになりました。そして、そこで周りの子供や塾のカリキュラムに流されるままに、今思うとあまり深く考えることなく中学受験をしました。そして、その目的意識・モチベーションの低さはそのまま見事に結果として反映され、受験した学校は全て不合格となり、2次募集をしていたうちの1校を再受験して、かろうじてその学校に引っ掛かるというひどい有り様でした。

 このように私の小学校時代は、子供ながら強い無力感・挫折感を抱きながら終わっていきました。

中学校時代

 私の入学した中学校は、東京都のはずれにある私立の中高一貫の学校でした。私が受験した当時で偏差値は40台後半、今は少子化の影響でさらに下がっています。国家 I 種試験において毎年圧倒的な強さを誇る東大には5、6年に1人、突然変異のように優秀な奴が受かれば大金星という感じでした。そういう意味では、中高一貫校とはいえ進学校とは呼べたものではありませんでした。むしろ高校受験を経ないということは、それだけ中学生の時には無風状態になるので、勉強という観点からはマイナスかもしれません。またスポーツ等の面でもあまり優れた結果を出してはいませんでしたので、非常に知名度の低い学校でした。

 このような学校で、私は特に学業・部活等に打ち込むものを見出すことができないまま、無為に3年間を浪費していました。しかし当時は激しく反発していたものの、まだ独裁的な父の圧力に屈していたため、学校での成績はかろうじて「平均よりは上」という辺りを漂っていました。ただ元来、負けず嫌いな反面、反骨精神が強すぎたために「がんばって勉強しよう」というよりは、何かを強制されたことに腹が立ち、にもかかわらず、厳格な父に完全に逆らいきれない自分をとてもちっぽけな人間に感じていました。

 私は日に日に「こんな勉強が生きていく上で一体何の役に立つのか?」と思い始めました。そして勉強や部活に情熱を一切持たなかった私が、これこそ正しく生きる上で役に立つ知恵であると考えたのが歴史でした。歴史に興味を持ったきっかけは、小学校の図書室にあった唯一の漫画である歴史の漫画を何となく手にとって読んだことでした。それ以降、歴史、特に中国史に強く傾倒して行き、中学時代には、本屋で目についた歴史関係の書物を片っ端から読み漁るようになっていました。

 それによって、私にとって大きな収穫になったのは、偉大なる先人達の英知に触れることができたと共に、古の英雄達の天下国家を動かす壮大なロマンに強く憧れて、漠然とではありますが「自分も男なら何かでかい事をやってやる!」という覇気・志のようなものを得たことでした。もちろん、そのためには具体的に自分は何をすれば良いのかということは当時は全く見当もつきませんでした。

 さらには、そういった思いとは裏腹に現実的には勉強・運動・それ以外の分野のどこにも自分の得意な物ややりがいを見い出すことができず、何をやっても人並み以下という状態が続いていました。「何かやってやる」と思っても「でも何の才能もとりえもない俺に一体何ができるんだろう……」という現実を拭うことができず、むしろ無力感・閉塞感は強まっていく一方でした。

高校時代(前半)

 このように、中高一貫校の負の恩恵をたっぷり受けながら、私は付属の高校に進学しました。ほとんどの生徒が中学からの進学組で顔馴染みであり、校舎も同じだったので、気分的には全く変わるところがありませんでした。

 しかし、肉体的にはほぼ成長を遂げ、父の強制力が相対的に弱まりました。その結果、私は、歴史書こそ読み続けていたものの、それ以外は勉強というものは一切しなくなっていきました。学校もサボることが多くなり、年間で欠席は30日以上、遅刻に至っては100日以上という大台を突破し、職員室に呼び出されても、「朝はお腹が痛くなる体質だから仕方ないだろ!」と逆ギレ(?)して事実上私の遅刻は先生公認化していました。授業に出ていても友人と話しているか、漫画等を読んでいるか、寝ているかという感じだったので、どんな授業内容だったかはほとんど覚えてもいません。そして空いた時間は何に使っていたのかといえば、もっぱら遊びまくっていただけでした。

 特に私は高校時代を通して病的なまでに競馬にハマってしまいました。週末になると競馬場に行かない日の方が稀でしたし、負けた翌週は昼メシを一切抜いて食事代を浮かせて、それをまた週末のレースにつぎ込むという末期的な生活を送っていました。

 そしてそのような生活を続けた当然の報いとして、高校2年の学年末テストでは、ぶっちぎりの学年最下位という進級すら危うい成績になっていました。この頃には、もはや私の頭の中には勉強・受験というものは存在しなくなっており、そのようなひどい成績を見ても、恥じたり反省したりという気持ちも全く起きませんでした。私の周囲の人達も「もうこいつには何を言ってもやっても無駄だ」という感じでよくも悪くも完全に放置された状態でした。

高校時代(後半)

 このように堕ちるところまで堕ち、仲間達と日々馬鹿をして過ごしていた私にも高校生活最後の1年がやってきました(進級はなんとかできました)。

 さすがにこの時期になってくると、学校での成績最下位層の私の仲間内でも将来どうするかという話が出てくるようになっていました。私の仲間内での一致した支配的な考えは、社会人・フリーターになるよりは大学生になって遊んでいた方がいいだろうという程度の非常にふざけたものでした。しかしその中でも、どうせ受験をするのならば、いっちょ本腰入れてやってみようかという少数派と、どうせ努力したところで自分達には無駄だから適当にどこかの大学に引っ掛かればそれでいいという多数派に大別すると分かれていた気がします。

 私は当初はどちらかと言えば後者よりでした。確かに大学受験は一発逆転の大きなチャンスではありましたし、歴史に触れたことで、まだ漠然としていて志とまでは呼べないものの、何か熱い気持ちが私の中に生じてはいました。

 しかし、この頃の私は、父の封建的独裁下からは完全に脱していたこと、好き勝手に自由気ままな生活をしていたこと等から、一時期の強烈な無力感・飢餓感を忘れた状態になっており、今の状態はこれはこれで良いのではないかなぁ……などと思っていました。そのため、いまいち火付きが悪く、大学受験に対して主体的に取り組もうという気にはなりませんでした。しかし、しばらくたって、ちょっとしたきっかけから、私の考えは一変することになりました。

大学受験の決意(偏差値20台から早大法へ)

 それは本当にくだらない小さなきっかけでした。とりあえず大学受験をするということだけは決めた私は、志望校というものを決めなければならなくなりました。学校に提出する希望する進路の報告書や模試等には必ず「志望校」という欄があったからです。

 しかし、その当時の私が知っている大学など両手の指で数えられるぐらいしかなかったため、その異常に少ない選択肢の中から、数学が吐き気がするほど嫌いなので、試験に数学を使わなくてよい私大文系で、どうせだったら話のネタとして面白いだろうからと、その中の最高峰と言われる大学であり、マンモス大学で何か色々なチャンスが転がっていそうなイメージから早稲田大学を選びました。そしてその頃、少年法改正の議論が非常に盛んにテレビなどでなされていたことや、歴史が好きで政治にも興味があったことから、早稲田大学の法学部を志望することに決めました。

 そして私が早稲田大学の法学部を目指すなどと言っているという噂はすぐ私の周囲の人達に伝わりました。すると、友人・親・教師などのあらゆる方面から、「無理だ」「お前のような馬鹿にできる訳がない」「分をわきまえろ」「金の無駄だ」と全否定されました。

 正直、それまでは、大学受験も早稲田も私にとってはどうでもよいことでした。しかし、会う人会う人皆に「できる訳がない」と酷評されバッシングを受けたことで、私は「ここまで全ての人間に馬鹿にされてこのまま逃げるわけにいくか!!」と激昂し、心の底から「負けたくない」「許せない」と思いました。そして、本気で早稲田大学法学部を目指す決意をしました。

 しかし、その様な大見栄を切ったにも関わらず、私の成績は絶望的なものでした。試しに受けてみた模試の成績は、偏差値20台で、全国数万人の受験生の中でワースト10に入る程でした。特に英語はひどく、全て4択の問題なのに、正解率が1/4以下で、勘でやってももっと点数が取れるだろうという感じでした。この当時の私は、中2の弟に英語を教わっており、関係代名詞の存在すら知らず、英文に出てくる"who"は全て「誰が」という意味だと本気で思っていましたし、現在完了形の文を全て強引に「〜を持っている」と訳しているようなレベルだったので、ある意味当然の結果でした。

 このように私は信じられない程の劣等生であったので、現役での合格は全く期待できず、勉強を本格的に開始したのは浪人に入ってからでした。

浪人時代

 偏差値20台の人間が、1年で早稲田大学法学部に受かるには、普通の人と同じやり方をしたのではまず不可能でした。そこで私は、勉強を始める前に、勉強の仕方を研究することにしました。本来は予備校などにお世話になるのが手っ取り早いのでしょうが、今さら親に「予備校に通いたいからお金を出して欲しい」とは言えず、また高校にすらまともに通えなかった自分が、予備校の授業などに真面目に出席するとは到底考えられなかったため、全て自分で勉強の方針・計画を立てなければならなかったからです。

 自分なりに必死に調べ、考えた結果、私は2つの勉強の大まかな方針を立てました。

 1つは「自分に絶対的に欠けている要領・才能・素質という穴を、圧倒的な努力の量で埋める」という方針でした。子供の頃から振り返って自分の人生を思い出してみても、勉強だけに限らず、あらゆる面で自分に才能というものを感じられたことが私はありませんでした。しかし、才能・素質がないからといって諦めるという選択肢は絶対に取りたくありませんでした。そこで「ひたすらがむしゃらに勉強をしまくって、他の受験生の数倍の努力をするしかない」という結論に至りました。

 そこで、一般的な受験生の勉強時間を調べたところ、「一流と言われる大学に合格した受験生は平日8時間、休日10時間ほど勉強している」というどこかの予備校の出したデータを見つけました。このデータを見てどう感じるかは人それぞれだと思うのですが、私は「え、こんなもんでいいの…?」という感じでした。おそらく一流大学に受かった人というのはもともとある程度勉強のできる人達だとは思うのですが、その人達が「1日15時間勉強している」のであれば、私のような劣等生はそれ以上に毎日勉強しなくてはならず、1日が24時間であることを考えると、逆転は困難です。しかし「1日8時間」であれば、その倍勉強しても、まだ8時間は余るので十分可能なはずだと考えました。

 そして、もう1つの方針は「偏差値は一切無視して、来年の早稲田大学法学部の試験で合格最低点を取る」ということでした。本屋で様々な大学の過去問を見ていて、同じ科目でも大学・学部が違えば問題の傾向(難易度・問題量・頻出分野・出題形式等)が全く異なっていることに気づきました。そして、こんなに傾向が違っているのに多くの人達は漠然と偏差値を上げる勉強をして、早稲田だけでなく、慶応や東大にも受かろうとする。でも自分は早稲田だけ受かればそれで良いのだから、そこに特化した勉強をすれば効率は格段に上がる、そうすれば、模試ではE判定でも、受験本番では秀才達を出し抜いて勝つことができるはず、と考えました。私の受験の動機が「いい大学に入りたい」という漠然としたものではなく、「受かる訳がないとタカをくくっている奴等を見返すために、宣言した通り早稲田大学法学部に受かる」という単純で明確なものだったからこそとれた戦略でした。

 この私の方針に対して、周りの人は、「1日8時間勉強をするのは普通の人だって大変なのに、ましてお前のような人間に耐えられるはずがない」「確かに理屈の上ではそうなるが、現実にはそんなうまいこといくわけがない」と誰もが忠告しました。しかし私は、自分の方針を変える気は全くありませんでした。自分が常識外れのことをやろうとしているのに、普通のやり方でうまくいく訳がないと思っていましたし、もうここまで来たら、何が何でも最後まで自分を信じて闘う覚悟になっていました。

 このように周囲の人々に完全に狂人扱いされつつも、私は自宅の自分の部屋に引き篭もって、浪人生活をスタートさせました。勉強時間は最初は1日10時間程でしたが、どんどん長くなっていき、16時間に達するまでになりました。この時点で、もう食事と風呂とトイレ以外の起きている時間は全て勉強に費やしていましたが、私はこれでもまだ安心することができず、さらに睡眠時間を削っていきました。その結果、最終的には、睡眠と食事を二日に一回だけにするという地獄のような生活になりました。睡眠だけではなく食事も減らしたのは、寝ていない状態で食事をするとすぐに眠くなってしまうからです。それでもどうしても眠いときには、空きっ腹にコーヒーや栄養ドリンクを無理矢理流し込んで、吐き気をもよおしながら勉強しました。おかげで私の体重は激減しましたが、文字通り身も心もハングリーな状態でいられるというメリットも得られました。この浪人の期間では、睡眠と食事の制限だけでなく、友人と遊びに行ったりということも全くありませんでした。ただ自分としては、何かを我慢しているというよりは、「どうしても負けたくない」という思いが強いために結果的にそれ以外のものが犠牲になっているという感覚でした。

 勉強をがむしゃらに続けていくと、次第に成績も上がり始め、自分でも手応えを実感できるようになっていきました。また、私があまりにも必死になっている姿を見て、「共に頑張ろう」と言ってくれる友人も現れました。そういった仲間とは電話で話すだけで、浪人中は会うことはできませんでしたが、共闘してくれる友人の存在は、本当に心の強い支えになりました。

 最初は、他人に対する「悔しい」「許せない」「見返してやる」という気持ちから始めた私の受験勉強でしたが、この頃には「果たして自分はどこまで行けるのか?」「自分自身の可能性をとことん試してみたい」という思いに変わっていきました。また、ここまで全てを捨ててこの勝負に賭けている自分に神様はいったいどんな審判を下すのだろう…とボーッと考えたりもしていました。

 最後の模試でも早稲田大学法学部は相変わらずE判定のままでしたが、受験本番直前期には、過去問を解いていた私の実感としては、受かるかどうかは正直五分五分といったかなり際どい感触でした。私はこの時期、今までに味わったことのない強い恐怖感を抱いていました。それまでの人生において、必死に闘ったことなど無く、ましてや、何かで成功・勝利を掴んだというような経験にも乏しかったので、どうしても自分が成功するというイメージが湧かなかったためだと思います。確かに、自分は0から始めて、あと一歩といういい勝負ができるところまできた、しかしそんなに人生うまくいくものなのだろうか、本当に自分が早稲田なんて受かるのか、という気持ちでした。この時、私を大きく支えたのは、自分が1年間してきた努力でした。1日も妥協せず、やれるだけの事をやってきた、これだけやって駄目ならもう仕方ない、と腹をくくることができました。そして、どうせ元々、無謀極まりない勝負だったのだから、ダメで元々、最後の1秒まで足掻きまくってやろうと思いました。

 そして私は、試験前夜、朝方まで最後の悪あがきをし、会場へ向かう電車の中や試験の合間の休み時間にも、参考書を読み続けました。すると直前に何気なく読んでいた箇所がいくつも試験本番で出題されていました。最後まで諦めなければ、こんな奇跡のような事も起こるようです。私は早稲田大学法学部に合格しました。

大学時代

 念願叶って、早稲田大学に入学した私ですが、浪人の終わりの時期に漠然と日本を動かしこの国を変えていくようなスケールの大きい仕事ができそうだと思い、国家 I 種試験を目指そうと考え始めていました。そして、それは目標としていた早稲田大学法学部に合格し自信を持ったことで、より強まりました。

 しかし、大学に入学すると毎晩行われる新歓コンパの嵐によって、すっかり国 I のことなど私の頭から抜け落ちてしまいました。そして、その代わりという訳ではないのですが、私が夢中になったのはロックバンドの活動でした。

 友人の誘いを受けて大学1年〜3年の秋頃までやっていたのですが、当初はメンバーの足を引っ張ってばかりのひどい有り様でした。しかし大学受験で「努力をする」ということを学んだ私は、練習方法を徹底的に研究し、それを3年間愚直に続けました。その結果、一般的に「才能が重要」と言われる音楽においても見違えるような成長をすることができました。そのため、努力というのは万能の才能なのだ、と私は確信を持つようになっていました。

 また最初は、とにかくただロックが好きだということが、バンド活動をする動機だったのですが、洋楽のロックの中には、非常にメッセージ性の強いものがあり、それらは社会的・政治的・哲学的・宗教的な様々なメッセージを発することによって、音楽を聴いた人の心を変えることができ、そして人の価値観を変えることによって、人が住む社会をも変えていくことができる、というツールとしての可能性に強く惹かれるようになっていきました。特にその中でも社会の激しい非難にも屈さず、ストイックに自分の信念を貫き、世の中を変えようとするアーティスト達の存在は私に強い影響を与えました。

 大学3年の秋頃にバンド活動を止めるまでは、勉強をそっちのけでバンドにのめり込んでいた私でしたが、それ以降、自分の将来について真剣に考え始めました。そして、大学入学当初に考えていた国 I 受験を目指すことに決めました。

国家 I 種の試験勉強

 大学3年の11月に国 I 受験を決意したものの、大学の単位もかなり不足していたので、結局国 I の勉強を始めたのは、大学の後期試験が終わった2月になってからでした。それまで大学でも、試験直前ぐらいしか勉強したことがなく、また、大学受験は完全な私大文系型で、数学・理科に関しては1教科もやったことがなかったため、教養での高得点も困難で、当然のように大学4年の初受験は1次落ちでした。

 2度目の受験時には、Wセミナーの渡辺ゼミに入りました。そのゼミ以外には、私は他にほとんど授業を受けていませんでした。このゼミでは、過去問の徹底的な分析を行います。それによって、国 I の合格のために必要な学力のレベルを具体的に知ることができました。また合格者を毎年多数出すゼミなので他の合格者のレベルを知ることにもなり、周りに国 I を受ける知り合いがほとんどいなかった私には非常にためになりました。

 そして1年後の国家 I 種試験に無事最終合格することができました。

官庁訪問

 国 I では筆記試験と同じか、もしくはそれ以上に官庁訪問が重要です。しかも最終合格者は今年、内定者数の2.5倍になっており、その半数以上は内定を得られないという事になります。また、東大生以外の学生にとっては、試験以上に困難に感じる人も多いと思います。私も私大生でしたので、実際に官庁訪問をするまでは、やはり私大は不利なのではないか、本当に内々定が頂けるのかと、とても不安でした。

 しかし実際には、私大生でも内々定を取っている学生は(東大生に比べれば少ないですが)存在するわけですから、出身大学などは気にせず、自分がやると決めた以上は、最後まで諦めずにベストを尽くすしかないのではないでしょうか。私も最後まで諦めずに足掻き続けたことが功を奏し、なんとか内々定を頂くことができました。私の経験上、官庁訪問は本当に何が起こるかわかりません。突然奈落の底に突き落とされることがあれば、信じられない奇跡の逆転も起こります。ですから、どんな苦境に立たされても、絶対に自分で先に勝負を投げてしまわないで下さい。闘いは先に自分の負けを認めた人から、負けが確定していきます。官庁訪問でもそれは全く同じだと思いますので、最後の一瞬まで諦めないで自分を信じるという力は、必ず大きな武器になるはずです。

最後に

 私は冒頭にも述べましたが、国Tだけではなく「何かと闘っている全ての人」を応援します。私は本来、人間とはこの世に生まれて来ただけでは、何の意味も持たない生き物だと思います。でも、だからこそ生きていく過程で、自分自身の存在意義を創り出していかなければならないし、その可能性を与えられているのだと思います。創り出す方法は人それぞれ、様々だとは思いますが、私には「ただひたすら努力する」「最後まで足掻く」「絶対に諦めない」というような方法しかありませんでした。でも私はそれで良かったと思っています。それだけでも、十分、ここまでやることができました。私のような人間でもできたのですから、まして私以外の全ての人にとって可能なのだと思います。ですから、今どんなに苦しい状況にある人でも、絶対に諦めないで欲しいのです。1人1人が諦めずに闘うということは、その人の人生を変えるだけではなく、今の閉塞感で一杯のこの日本をも変えていくことに繋がっていくはずだと私は信じています。

 そして、未熟な私を今まで助けてくれた全ての人と、私の書いたこの文に最後までお付き合いして下さった方、本当にありがとうございました。

(了)
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