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キャリア・エリートへの道

熱意こそ人生を変える

まえがき

 私は2002年3月に慶応義塾大学総合政策学部を卒業し、2003年に国家 I 種法律職で最終合格・内々定をいただきました。国家公務員への道を考えている方に、少しでも参考になればと思い合格体験記を書いています。私は民間への就職活動を考えつつも、満足いく就職活動をすることができず、遅まきながら自分の人生を真剣に考えた結果が国家公務員でした。私は国家 I 種公務員試験を受けるために、法律の勉強をまったく一からはじめた人間です。非法学部で試験を受けるかどうか迷っている人でも、普通に努力すれば必ず合格することはできると思います。なにも特別な能力はいりません。正確な情報を集め、正しい努力をすれば、なりたい自分を実現することは可能なのです。

 ザ・フューチャーの「キャリア・エリートへの道」では、国家 I 種公務員試験合格者のありのままの姿を広く社会一般に伝え、世間一般の合格・内定者に対する誤った先入観(誤解)をなくし、全国の国家 I 種公務員を目指す方々のために正確な情報を提供するのが目的と聞きました。よって私も先例にならい、私がどのような人生を歩んで国家 I 種公務員を目指すようになったのかを紹介させていただきます。

生い立ち〜小学校時代

 小学校時代は3年生から学校のクラブ野球部に所属していました。私は宮崎県の出身で、当時は大きなサッカークラブも存在せず、何か運動をするといえば野球しかありませんでした。ですが、そこで出会った友人や先輩、指導者の影響は大きかったと言えます。つまり、人はそれぞれが異なった性格と価値観を持っているということを経験的に学びました。やさしい監督、厳しいコーチ、子煩悩な保護者、下手なのにえらそうな先輩、勝負どころに強いチームメイトなどなど。実に多様な個性がありました。練習は週3回しかありませんでしたが、県代表として九州大会に出場できたくらいの強豪チームでした。今思えば、それぞれの個性が伸びつつも組織としてまとまっていたのでしょう。野球がない日も、チームメイトの友人たちと毎日毎日遊んでしました。釣りをしたりミニ四駆を走らせたり山でサバイバルゲームをしたり、本当に楽しい時間を過ごしていました。

 学業のほうも、私は常にクラスの上位にいました。成績で5が並ぶことも珍しくありませんでした。家では毎日30分から1時間程度の勉強をやらされていたからでしょう。というのも、成績が一定以下になったら野球をやめるという親との約束があったからです。時には昼は外で遊び、夜はゲームばかりして勉強をせず、親に「明日退部届をだす」といわれて泣きながら勉強をしたこともありました。ですが、強制であれ何であれ、必要程度の勉強をさせてくれた親には感謝しています。少なくとも小学生時代の私にとっては、勉強の量が多すぎると思ったことはありませんでしたし、勉強量や成績を他人と比べることはしませんでした。「勉強する(させられる)ことが当たり前」だと思っていたからです。これは私の持論ですが、自分の中で「世間の標準ライン」を意識してはならないと思います。このくらい勉強すれば大丈夫、このくらいの努力をすれば人よりやっている、というような目安は設けてはならないと思います。国家 I 種の試験に合格するには大変な勉強をしなければならないと言われますが、昔の中国の科挙に比べれば微々たる量です。人がどれだけやったか、世間では何が標準かといったことは、その時々で変わ6年生の時、中高一貫学校への進学をすすめられました。当時私のいた町には全国初の「公立」中高一貫学校と私立の進学向け中高一貫学校がありました。田舎の学校ですので、入学試験はさほど難しいものではなく、私は両方とも合格することができただろうと思いますが、今まで同じ小学校だった友人とまだまだ遊びたかったし、野球もしたかったので普通の市立中学に進学しました。その小学校の学区にいた生徒はほぼ全員が同じ中学校に通うことになっていたからです。るものです。自分に必要なものは自分で見つける、常識にはとらわれないといったスタンスがこの時期から形成されていたと思います。

 6年生の時、中高一貫学校への進学をすすめられました。当時私のいた町には全国初の「公立」中高一貫学校と私立の進学向け中高一貫学校がありました。田舎の学校ですので、入学試験はさほど難しいものではなく、私は両方とも合格することができただろうと思いますが、今まで同じ小学校だった友人とまだまだ遊びたかったし、野球もしたかったので普通の市立中学に進学しました。その小学校の学区にいた生徒はほぼ全員が同じ中学校に通うことになっていたからです。

中学時代

 中学校に入って、最初のテストは1学年8クラス中11番でした。

 野球の方も、3年生よりも私たちの代の方が圧倒的に上手だったと思います。ただ、当時の監督の方針で、大会には3年生ばかりが出場しており、非常に不満でした。放課後は部活に行く前に、クラスの友達と30分程度談笑をしてから行くようになりました。単純に言えば、女子に興味があったということですが。

 2年になったころには、野球部の友人と一緒にいても楽しくなくなっていました。休日は一緒に遊んだりするのですが、学校の勉強の話や進路の話があわなくなっていたのです。野球部の友達は成績表に1がいくつとか2がいくつとか言い合いをしていて、楽しそうでした。

 私は自然に野球部の中から孤立していきました。それでも野球では市内で一番強かったですし、いろいろなことが惰性で動きはじめた時期だったと思います。私はかなり自信過剰な状態でした。小学校時代からの「人の目を気にしない」性格のせいで、かなり自己中心的な行動をしていたと思います。教師に反抗してもあまり怒られず、それもまた私を孤独な気持ちにさせました。他の生徒みたいに殴られたり、職員室に呼んでしかってもらいたいと思っていました。ただ、そんな中でも私をしかってくれる教師がいました。その先生の教科は数学なのに、英語のやさしい先生のときにわざわざ授業を見回りにきたときに、私が遊んでいたのを見つけました。その授業が終わって休み時間になると廊下に呼び出され、かなり痛烈なビンタをされました。その先生は合気道の師範をできるほどの武道家でもあり、同時に書道の師範免許も有していました。ビンタされようがげんこつをもらおうが、私はその先生を学校で一番尊敬していました。

 3年に上がるときは、進学課のある高校にいくつもりだったので、その先生に「3年になったら担任をしてください」と言いに行きました。私はいわゆる不良ではありませんでしたが、かなり自己満足の世界にいたと思いますし、また、当時もそう自覚していました。ただ、そんな自分を変えたいと思い、変えるための行動を起こしたいと常に思っていました。そして、最後の野球大会ではまさかの準優勝に終わり、私は県立高校の進学課(理数コース)へと進むことになりました。野球部の友人たちは、野球推薦で高校に行った人や工業高校、商業高校などへ進学し、私と同じ高校に進む友人はひとりもいませんでした。ここで私はまったく新しい環境へ進むことになり、何かが変わるのではないかという希望を抱いていました。

高校時代

 県北部でもっとも学力の高い公立学校に進学した私は、まわりのクラスメートを警戒していました。どれほどの秀才があつまっているのか、いわゆる「勉強オタク」のような人ばかりではないのかと思っていました。また、教師も生徒を無視してひたすら受験対策をするのではないかと心配していました。

 部活については、野球は好きだけれど甲子園にいけるような学校ではない。勉強しなければ、いい大学には行けない。中学校まで一緒にいた友達は高校に誰もいない。1年生の時は、自分の居場所探しで必死でした。野球を捨てられず親に頼んで野球部に入ることを認めてもらい、クラスの中では初めて会った人とも積極的に話しかけて友達になりました。勉強もしましたが、中学校ではトップクラスの成績だったのに高校では中盤くらいに落ちてきました。宿題だけで勉強に満足するようになり、何も身についていない状態でした。

 部活では先輩との体力差が大きく、技術だけでは劣らないものの、さすがに試合に出られない不満はありませんでした。中学校から続いてきた、勉強そこそこ、部活そこそこ、恋愛そこそこの自分に甘い性格は何も変わらず、変わったことといえば私の成績が下がっただけでした。

 一方で学校生活は本当に心から楽しめるものでした。個性豊かな友人たちとの学校生活は、毎日を充実させてくれました。文化祭では劇に涙を流し、美術製作のために山へ木材を切りに行き、3m×12mの看板を作ったりしました。

 中学校に引き続き体育では殴られ、数学では椅子が飛んでくることもありましたが、それはそれで楽しい学校生活でした。ただ、やはり大学進学と野球はあいかわらず中途半端な状態でした。志望大学の欄には、ありあわせの大学名を書き、志望動機もきわめて陳腐な内容でした。部活では、監督とそりがあわず、監督に向かって「お前なんかやめろ」と言ってしまう有り様で、目的意識のない高校生活を送りました。

 3年の4月になって新しい監督が転勤して、はじめて野球に打ち込むことができました。それまでの私は、勉強にしろ野球にしろ、ある程度の能力があることをいいことに、真剣に努力しないことを環境や指導者のせいにしていました。新しい監督はすぐに私の弱点を見抜き、「好きなようにやりなさい、ただ、まず自分が一生懸命やらないことには誰も君の力になってくれないよ」と言いました。しかることもほめることもせず、ただその一言です。私は自分を恥じ、他人に文句を言う前に自分自身精一杯の努力をしました。

 残念ながら甲子園予選では1回戦敗退、そして全国模試ではC判定と、はじめて自分の力不足を実感していました。私は、まさに「井の中の蛙」だったと思います。それに気づかせてくれた監督や、今まで出会った人たちのことを考え、もっともっといろんな人に出会って、いろんな価値観を見てみたいと感じるようになりました。

 そんなときに大学のパンフレットを見ていて、心に留まったのが慶応大学のSFCでした。従来の「法学部」や「経済学部」といった枠を取り払い、理系も文系もなく、ただ自分のやりたいことを柔軟にとりいれることができる。私は本当に何の勉強がしたいのかわかりませんでしたが、ともかくこの大学に入っていろんな世界を見てみたいと思いました。そして、誰しもが熱意を感じる内容の自己推薦書を作り、AO入試に合格したのです。

 しかし今でも、大学に合格できたのは偶然だったと思います。試験内容は1次試験が自己推薦書の書類審査、2次試験が面接だけなのです。合格しても、本当に合格したのか、なぜ合格できたのか実感できずにいたのが本音でした。ですから、入学して学生証に「慶応義塾大学」とあり、その横に私の顔写真があるのを眺めながら、自分が自分でないような不思議な気分になりました。

 なお、このとき私がSFCで勉強したいと書いたのは『世界の平和を創造するための手段』でした。きっかけは黒柳徹子さんの本で、何の罪も無い小さな子供たちが地雷や特殊工作班の爆弾によって殺されていることを読んだからです。警戒心の薄い子供たちもつ家族を標的にするために、くまのぬいぐるみに起爆装置を仕掛けることなどが書いてありました。外交官になって、必ず世界の平和に貢献すると主張しました。ただ、AO入試の面接で聞かれた1つの質問が気になっていました。「何の関係も無い日本の外交官が、アフリカの紛争地域に行って何が出来るの?」そのときの私の答えは「何の関係もない日本だからこそ、中立で普遍的な平和を実現することができる」でした。今でもその答えは間違っていないと思います。ですが、大学に入って歴史や国際関係を勉強するにつれ、それは理想論にすぎないのではないかと思うようになってしまうのです。

大学時代

 1年時、私はひたすら国際関係を勉強しました。そして1つの壁にあたりました。イランイラク戦争がアメリカの中東戦略によるものではないか、そしてアメリカは長期的戦争で弱体化した中東地域に平和をもたらす正義として介入するのではないか。皮肉にも、その私の仮説は実現する方向で動いています。やはり、世界の常識では物理的パワーがないと平和の実現は困難である、そして日本の外交は現実の平和を創造する手段など持ち合わせてはいないのではないか。大学1年の時にそう考えたときに外交官への憧れは薄れていきました。

 一方で、私は勉強以外になにか真剣に打ち込むものを探していました。バイトでもなく、サークルでもなく、何か必死になることで充実感を得られるもの……。そう考えていた矢先に、付属高校の硬式野球部が学生監督のチームであることを知り、コーチを申し出ました。私はまったく知らないチームのコーチになったので、まず選手の名前やポジションを覚えることに苦労しました。チームの方針、戦術なども知りませんでしたので、私はただチームの迷惑にならないようにしました。さすがに自信過剰癖のある私でも、知らないチームに上がりこんでエースのフォームを直したり、戦術を変えるよう主張したりすることはありません。ただ、信頼関係を築けるように毎日練習に参加しましたし、選手の相談は親身になって聞きました。この姿勢は高校3年のときに身についたものだと思います。そうしているうちに、チームにとって必要とされるコーチになれましたし、最終的には私自身が監督を任されるようになりました。私は本当に、本当に必死にやりました。私自身が犯した失敗と後悔をこの子供たちに味わせたくない。中途半端に野球をやるのではなく、へたくそでも一生懸命やって、高校時代に悔いが残らないようにしてほしい。ただ、その一心でした。小学校から大学まで、私たちの野球部には「ENJOY BASEBALL」という合言葉があります。ただ楽しいだけの野球ではなく、一生懸命にやった中でしか味わえない緊張感、満足感のある野球を楽しもうという言葉です。私は前任の監督からこの言葉を聞き、本当に心が震える思いをしました。私が求めていた野球がここにある。私の人生に必要なものがここにある、そう感じました。前任の監督に出会ったのは彼が22歳のときでしたが、いまではもっとも尊敬する人の1人です。彼は今では私立高校の英語教師をしています。前任の監督も教え子も、ここでの縁は一生大切にしていくつもりです。

 慶應藤沢高校は全体的に裕福な家庭が多く、また学校も生徒に強要することはありません。一方で、生徒は何か熱いものを求めているのです。現代の若者は無気力で、創造性が無く、礼儀を知らず、他人に合わせることしかできない、というような通説があります。しかし、私が見てきた子供たちは決してそんなことはありません。少なくとも、私なぞから見れば、頭の下がる思いで練習に打ち込んでいる生徒しかいません。部活を引退した8月から受験勉強をはじめて、内部進学でもごく少数しか合格しない医学部に進学した生徒もいます。つまり、今の子供たちは目標や動機さえあれば、いくらでも成長する能力を秘めています。しかし、大半の子供たちは私と同じくなんとなく大学に進学し、3年の秋になってはじめて就職を考え、社会との接点を持つことになるのです。私も例に漏れず、確固たる人生設計のないまま就職活動の時期を迎えました。

 いつものように惰性で就職活動をし、結局面倒くさくなって数社しか回らずに内定をもらうことができませんでした。得意の口先で、難関といわれるTV局や広告代理店なども最終面接まで行くのですが、熱意の薄さで落ちるという日々でした。人生ではじめて、大きな挫折を経験しました。人生のビジョンがまったく描けない状況を初めて経験しました。私は社会で必要とされていない人間だと感じることもありました。本当に私がしたい仕事は何なのか、考える日々が続きました。

 私が行き着いた就職の条件は、2つです。1つは、仕事を通じて社会へ貢献できるか。もう1つは、そこで働くことによって自分自身が人として成長できるか。高校野球の監督をしていたこともあり、教師になることも考えました。私が大学時代にあった教師全員が、多少の不満を抱えていながらも、「教師という仕事はおもしろい」と言いました。他の仕事をしているOBに「仕事はおもしろいですか?」と尋ねても、「おもしろくはないが、給料がよい」「やりがいはあるが、おもしろくはない」という答えが必ずありました。そういう意味では、教師は魅力的な仕事でした。しかし、私の就職条件である、「自分自身の成長」を考えると、あまりに閉鎖的職業であり、専門的職業でした。教育のおもしろさややりがいについては経験的にわかっており、他の職業には存在しない魅力があります。そして、その教育分野で自分自身を成長させることができ、また異分野の人と出会うチャンスがあるのは文部科学省だという結論に至りました。そこから私の試験勉強が始まったのです。そのとき、私は大学4年の2月でした。

大学時代のほかの経験

 私も忙しいなかでアルバイトをし、塾講師やDIYセンター、焼肉屋などを転々としました。中でも記憶に残っているのは焼肉屋のアルバイトです。ここ5年で急成長した焼肉チェーンで、その経営ノウハウと大学での勉強がリンクしてきました。つまり、新規顧客を開拓することよりも、きてくれた客の満足度を高めることで再び来てもらう、カスタマーロイヤリティを高めることが安定した成長経営を実現するということです。その焼肉屋は、「ライバルは東京ディズニーランドだ」という社訓がありました。大切な人と、また一緒に来たいと思ってもらえるようなサービスを提供する。それをアルバイトの店員にも徹底する教育システムの充実には感心させられました。

 また、ちょうどその時期は狂牛病問題が世間をにぎわせ、その他の食品安全管理が社会問題化していました。経営本部から即座に顧客対応マニュアルが送られて、私たちも徹底した安全管理が要求されることになりました。清掃作業が毎日深夜にまで及びましたが、民間企業の経営努力を見ることが出来たと思います。同時に、一度傷ついた信頼を回復することの困難さを当事者として経験することができました。

卒業後

 私は予備校に通いつつ、高校野球の指導を続けました。一度引き受けた責任として、最後までやりとおすのが私のスタイルだからです。そして、指導が一段落したところで、予備校に近いところに引っ越しました。大学では法律など1度もやったことはなかったので、予備校での講義とゼミの予習と復習が1日のすべてでした。大学も卒業し、予備校で友達もつくらなかったので、1ヶ月誰とも話をしないこともありました。精神的につらい日々でしたが、私はここで頑張らなければ人生を棒に振る、と考えて勉強しました。

 ここまで読んでいただければお分かりの通り、私は自分自身の将来のために努力をしたことがありません。いわゆる、人生の「勝負どころ」だと自分に言い聞かせて勉強しました。ここで自分に負ければ、あとはただ後悔と惰性の人生が待っているのは明白でした。今考えると、まだまだ自分に甘かったと思いますが、なんとか試験には最終合格することができました。

合格後

 業務説明会、そして採用面接がはじまりました。私は志望官庁にいい評価を受けていたと思うのですが、人事企画官面接で大失敗しました。話したいことがうまく話せず、伝えたい熱意が伝わらず、相手の質問には気の利いた答えができませんでした。案の定、私はその日に切られました。しかし、どうしてもあきらめきれず食い下がり、必死に熱意を伝えたところ、再挑戦のチャンスを頂きました。それまでの評価が高かったこともあり、その後はうまく乗り切って内々定を頂くことになりました。

 思えば、民間企業を受けたときと、志望官庁を受けたときの姿勢はまったく違います。民間ではすべての受け答えはうまくいったと思いますが、熱意が足りませんでした。志望官庁では面接には失敗しましたが、熱意でカバーすることができました。私の人生において足りないものは、私自身をさらけ出す必死さだったと思います。AO入試で偶然にも慶応大学に入学することができ、どこか自分自身に違和感がありました。本当に私は慶応大学に合格するような能力があったのだろうかと、4年間疑問に思っていました。大学の名前に自分が負けている感覚です。また、民間企業でどこか内定をいただければ、そこで働いていたかもしれません。しかし、必死で勉強した国家 I 種試験の合格は胸を張れますし、一度切られつつも内々定を頂けたことは満足しています。私がはじめて自分自身のために努力をし、はじめて等身大の自分を認められたのですから。今、太宰治の『人間失格』という小説を思い出しながら書いています。私は、まさに世間に対して仮面をかぶっていたのです。ようやく、私は人間として社会に第一歩を踏み出すことができそうです。

おわりに

 駄文ですが、最後まで読んで頂いてありがとうございました。1年前に予備校に電話をし、「法律職って何ですか?」と聞いていた頃をなつかしく思います。渡辺先生をはじめWセミナーには本当にお世話になりました。ゼミで夕食を誘ってくれた友達は職場も近いことですし、一生の付き合いになりそうです。本当にありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします。

 これを読んでいる方の多くは国家公務員をめざして勉強をされているのだと思いますが、まずしっかりとした職業観と人生プランを考えてみてください。学生の方はとくにそうです。自分にとって働くこととは何か、そして国家公務員がベストの選択なのか。世の中にはさまざまな職業があります。なければ自分で作ればいいだけの話です。それでも国家公務員になりたい何かがあるならば、試験は必ず合格するでしょうし、つらくても楽しい仕事が待っているのだと思います。受験という枠を超えて、ぜひみなさんが有意義な人生の選択をすることを切に願っています。

(了)
©1999-2004 The Future