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少数派からのスタート はじめに私は2004年現在、慶應義塾大学の法学部法律学科に所属しています。2004年度の国家公務員 I 種試験法律職に最終合格し、内々定をいただくことができました。国家公務員として働くことが何よりの希望であった私は、民間の就職活動は全くせず、進路に関しては国家公務員 I 種試験のみに絞りました。無謀ともいえる私ではありますが、自分は世間一般の方々が抱く試験の合格者とは一味違った人間であるのではないかという自負もあり、自分の生い立ちを振り返りながら、自分がどのような人間なのか紹介させていただきたいと思います。私のありのままの姿を見てもらって、これから国家公務員を目指す方々に偏見のない正確な情報を提供することができればよいかと思います。 小学校時代私は愛媛県八幡浜市に生まれました。多くの人が第1次産業に従事する農業中心の町で、町全体が温厚な空気に包まれているみかんの町でした。そのような土地柄が人格形成に大きな影響を与えたのだと思っています。 私が小学生のときは、恵まれた自然を存分に楽しみ、山や川でよく遊ぶ活発な子供でした。みんなと一緒に遊ぶことが大好きで、放課後には野球・サッカー・川遊び・昆虫採集など、ありとあらゆる遊びを経験した気がします。そういった遊びに集まってくる多くの友人に恵まれ、また少々危険な遊びに対しても寛容であった両親のおかげで、遊びに関しては十分満足していました。また、小学校の先生にも恵まれ、遊びをただの遊びで満足しない先生で、ドッジボールや縄跳びについては、正式なルールのもとでの大会の出場を勧めていただきました。ドッジボールの大会では、クラブ活動ではない烏合の衆である私達が愛媛県大会で4位になり、四国大会に出場するという快挙を成し遂げることができました。良い結果のために印象に残っているというよりも、何か目標をもってみんなでひとつになってがんばるということを小学校の時に経験できたことが何より自分にとっての財産になったと思います。 また、私は学校生活以外で小学校1年生の時から剣道の道場に通っていました。3歳年上の兄が先に剣道を習っていたことが何より剣道をはじめた動機でした。週3回の練習で、日曜日には試合があれば出場するというものでした。夏は暑くて臭くて、冬は寒くて痛くて、何度も投げ出そうとしたこともありましたが、低学年チームの大将に選ばれたり、5年生でAチームに入り、6年生の時には主将を任されたりしたことで、次第に剣道の活動に対する姿勢は積極的なものになっていきました。地方の大会ではほとんど負けることがないくらい強くなることができました。道場の先生方や小学校の違うチームメイト、保護者の方々、練習でお世話になった警察署の方々など、剣道や日々の生活に様々な影響を受けた時期でもありました。結局小学校を卒業する前に愛媛県の剣道連盟より優秀選手賞を受賞するほど、大変充実した活動とすることができました。 学業については、ほとんど意識することがありませんでした。高学年の時には塾には通っていたのですが、進学のための勉強ではなく、周りの友人が通っていたので通ったという程度でした。特に親が勉強しなさいということもなく、宿題をする程度でしたが、学校のテスト・通知表は悪くなかったと記憶しています。そして、そのまま自分の住んでいる地区の公立中学校に進学することになりました。 中学校時代中学校は1学年200人程度の比較的大きな学校でしたが、奇妙な学区分けのせいで、その中学校には私の小学校からは4人しか行きませんでした。もちろん他の人たちは他の同じ小学校からの持ち上がりで、ほとんど知り合いの状態でした。入学した4月はまだ友達もおらず、大変でしたが、振り返ってみると何か物事をはじめるときにはいつも少数派からのスタートであるという運命の始まりだったような気がします。 中学校生活の中心になったのはやはり部活動でした。小学校から剣道を続けていたということで、剣道部に入ることにしました。剣道部では小学校時代他の少年団にいた顔見知りの先輩方や同輩と一緒になって、人間関係ははじめから非常にスムーズにいきました。3年生が引退して私が最高学年になると主将に指名されました。主将になってすごく大変なことがありました。それは、小学校の時と違い、しっかりとした指導者がおらず、顧問の先生も剣道の初心者であったため、練習のメニューから試合のメンバーまで、すべてを主将権限で決めなくてはいけなかったことです。同じ学年の部員が少なく、相談することもできず、後輩の意見・不満を聞きながらみんなを引っ張っていくことは大変でした。Aチームには3年生が自分ひとりだけというチームで、2年生たちは来年があるからという気持ちで練習・試合ともに中途半端でした。そんな状況を打破するために、みんなに今しっかりがんばらないと来年も再来年もいつまでたっても勝つことはできないぞと説得し、多少強引に部員を引っ張りました。具体的には夕方の部活が終了した後、夜中の地元の大人の人の練習に混ぜてもらい、そこにAチームのメンバーを連れて行きました。練習内容を敢えて厳しくすることもありました。その結果、県大会のような大きな大会では勝てませんでしたが、地方の大会では負けなくなり、何度も優勝することができました。また、私自身も主将で大将ということで、一層の責任感が身につくと同時に、いろいろ言った手前負けられないということで、練習は非常にまじめで、かつ陰でも努力し、この時期にストイックな性格が身についたと思っています。 自分の人格形成には剣道を通じた活動の影響が大きいと思いますが、将来の進路について強い影響を与えた事件が起こったのも中学生時代のことでした。 当時、愛知県で起こった中学生のいじめを苦にした自殺に関する報道をきっかけに、全国的にいじめを苦にした自殺が頻発していました。私の隣の中学校でも1人の女生徒がいじめを苦に自殺し、人事ではない空気で、学校全体がいじめに対してぴりぴりしていたことを覚えています。私はなぜかいじめっ子ともいじめられっ子とも仲がよかったこともあり、いじめが些細な原因から起きて、その大半が解決可能なのではないかという強い信念を持っていました。いじめられっ子の相談にのることもあり、身近な問題としていじめというものを何とかしたいと思うようになっていました。その当時は漠然と教育に携わる仕事がしたいという希望程度のものでしたが、このことが今の自分の進路に何より強い影響を与えていると思います。また、進路指導の時に担任の先生にこのようなことを話した際に、教師個人には限界があるという旨の愚痴をこぼしていたことも、国家公務員を志望した遠因になっていると思います。 中学校時代の学業については、3年生になるまではほとんど意識することはありませんでした。中間・期末テストの試験発表と同時に勉強を開始し、それ以外では宿題のほかは勉強をすることはなかったと思います。それでも順位はよく、たいてい1番で、悪い時でも一桁にいました。授業をまじめに受けていたことと、他の人より多少要領がよかったこと、剣道で培った集中力のおかげだと思います。中学校3年の秋、部活動を引退してから本格的に受験勉強をはじめました。地元の県立高校の受験を考えていたのですが、自分の実力を試してみようと思い、中四国で一番進学実績がよいと言われている松山市にある私立の進学校の受験もしてみようということになりました。過去問を入手して解いてみたところ、全く分からず空欄ばかりで、さすがにみんなと同じ勉強ではまずいと思い、親に通信教育のテキストを頼み、難関校用のテキストを購入して勉強をはじめることにしました。半年間みっちり勉強して何とその進学校に合格することができました。県立高校に進学するつもりでしたが、受かってしまったから自分よりもすごく優秀な人たちの中で勉強したいという気持ちが強くなり、結局その進学校に進学することにしました。 高校時代高校では親元を離れて寮生活をするようになりました。やはり高校も少数派からのスタートで、同じ中学校はもちろん、同じ市からも同級生はいませんでした。知り合いは1人もいませんでしたが、中学校の時にその境遇には慣れていたことと、他の同級生も進学校で全国から学生が集まるためか、ほとんど同じようなものだったので、みんなと仲良くなるのにそう時間はかかりませんでした。そして、高校時代は何よりも勉強をしました。 高校時代の寮は、個室ではありましたが、いわば監獄でした。朝は舎監(管理人)の点呼で始まり、学校に行って、夜は7時から学習時間で、学習時間の間に舎監が各部屋を見回るという生活でした。また、高校2年生までは夜の12時30分、高校3年生の時は夜2時に消灯で、ブレーカー自体が落ちるため、本当に寝るだけしかないようになっていました。寮は学校の敷地内にあったのでほとんど外出することもなく、生活の大半を勉強にささげました。 このような厳しい環境であったためか、多くの分かり合える友人ができました。休憩時間に思いっきりはしゃいだり、勉強時間の合間に舎監の目を盗んで発売されたばかりの週刊誌を隣の部屋に回したり、勉強のことや、政治経済のトピックについて、高校生ならではの悩みもいろいろと語り合ったような気がします。物事を深く考えて自分なりの答えを出そうとしている多くの友人に囲まれて、ただ単に情報を情報のままで吸収せず、自分なりの考えをしっかり持つというスタイルが出来上がったのは高校時代だと思います。常に今の自分に満足せず、向上心というものを強く意識するようになったのも高校生の時です。 そんな中で、寮生活においても自分の進路を強く決定付ける出来事が起こりました。このような勉強を何よりとする生活のために、私の隣の部屋の友人が受験ノイローゼにかかり、登校拒否となり、自殺未遂もあり、最終的には学校を退学することになってしまいました。隣の部屋で仲良くて、いろいろ勉強の相談ものっていたこともあり、非常に残念でした。漠然と教育に携わる仕事がしたいという希望を持っていた私でしたが、相談にのることができても何の力になってあげることができなかったという無力感を強く感じました。教育に携わる仕事がしたいと思う気持ちも強くなり、こういった学校内の諸問題で困っている児童生徒を救いたいと少し具体的な志望も持てるようになりました。進学校だけで見られるものではない、学校での成績や学校の名前で子どもを見てしまうという、日本社会における学校的な価値観を壊したいと思い始めたのもこの時期でした。 高校時代にも部活動で剣道をしましたが、高校編入生は入学後一定期間部活動に参加してはいけないことになっており、また、部活動が高校2年生の時の新人戦までということで、満足な活動はできませんでしたが、勉強の合間の息抜き程度に、体力作り程度に活動しました。高校生の間に参段を取得することもできました。 学業については、やはり最初からうまくいくということはなく、様々な挫折を味わいました。1年生の時は授業の内容についてとりわけ分からないということはないのに、自分以上に要領がよく、応用の利く友達が多く、中間・期末テストはクラスの真ん中より少し上くらいの成績が続きました。県立高校に行かずに私立の高校にわざわざ行っておきながら、この成績では自分自身納得できないし、お金を出してもらっている親にも申し訳ないと思い、忍耐強いというか、貧乏性というか、地道に勉強を続けました。その甲斐あってか、高校2年生、3年生の時には、学年で一桁をとることもしばしばありました。 すべてが順調にいっていると思わせる内容ですが、大きな落とし穴は最後にありました。大学受験です。学校の成績もよく、模試の成績もいわゆるA判定が大半だったので、東京大学文科 I 類に受かる気満々でした。結果は不合格で、もうひとつの受験校の慶應大学には合格しました。今振り返ると、生意気ではありますが、東京大学にも合格するだけの実力はついていたと思います。ただ、その実力を本番で出し切るだけの謙虚さが欠けていたのだと思います。やたらと難しい参考書に手を出して自己満足してみたり、合格前から合格した気になって、まさに取らぬ狸の皮算用というのでしょう、自分の高校から何人東大に入学するのだろうかなどと計算してみたり、今考えてみると恥ずかしいばかりです。目の前の結果に振り回されず、足元からしっかり固めていこうと考えるいい契機となり、公務員試験ではその教訓をうまく生かすことができました。浪人するか、慶應に行くか、発狂しそうなくらいに迷いました。1時間ごとに気持ちが揺れ動くようなもので、もう受験勉強したくないという気持ちと東大というネームブランドへの執着心との葛藤がありました。結局決め手に欠いたまま何日かを悶々と過ごしましたが、担任の先生の電話で進路を決定しました。担任の先生に報告もしてなかったから、先生からかかってきたのですが、先生は学校の実績のために浪人しろと言うと思っていた私の予想に反し、慶應大学に進学することを勧めてくれました。「俺はもうお前に高校の勉強で教えることはないし、合格するだけの実力もあるのだから、合格不合格のあと少しのために1年を無駄にするのではなく、慶應大学でしっかり勉強して何かあったときその時に1年浪人したと思って時間を使えばいい」という旨の話をしていただきました。その言葉で慶應大学に進学することに決めましたし、行くからには今度は中途半端なことはやめてしっかりがんばろうと決意しました。 大学時代 〜日吉時代(大学1、2年時)〜結局、浪人はせずに慶應大学に進学しました。そして、愛媛県の南予地方の人が集まる県人寮に入寮することになりました。大学生になってまで寮に入るのはどうかとも思いましたが、私立大学に通って親に金銭的な負担をかけており、また、当時は自分が料理を作ったり風呂掃除等をしたりすることが嫌だったので、入寮を決心しました。 入学してすぐは特に目先の目標もなかったので、他の大学生同様の生活を淡々と送っていました。他の大学生も同じだと思いますが、知り合いなどというものはほとんどいなくて、大学に入学してからしばらくは、大学に行ったのに誰とも会話をせずに帰ってくるということもありました。こういった状況には慣れていると思っていましたが、大学というのは勝手が違い、待っていても誰も近寄ってこないし、何も始まらないことをすぐに肌で感じました。とにかく何かを始めてみようと思い、剣道をずっとやってきたので剣道サークルに入ることにしました。また、仕送りのお金だけでは生活するのが精一杯で、飲み食い遊ぶお金が欲しかったので、近くのレンタルビデオ店でアルバイトを始めることにしました。大学生活前半の日吉キャンパス時代は、主に授業、サークル活動、アルバイト、寮生活が中心でしたので、これらについて少し振り返ってみようと思います。 授業は、周りの大学の友達の中でも唯一だと思いますが、1、2年生の間は履修した授業は一度も欠席することなく出席しました。大学の法律の授業が特に魅力的だったということはないのですが、広い教室で様々な学生が1人の教授の言葉に耳を傾けているという風景が好きで、大学の授業の雰囲気を味わうために大学の授業に通っていたといっても過言ではありません。ですから、授業中に居眠りすることはよくありましたし、授業中に別の興味のある本を熱中して読んでいたこともあるくらいです。こういうと大学受験の失敗の教訓が全く活かされていないように思えますが、自分の興味のある勉強はしっかりしました。法律では民法に興味を持ち、授業をしっかり聞きました。後に3年生の時に民法のゼミに入ることになりましたが、私が尊敬できる先生に出会えたのも、しっかりと授業に出ていたおかげかなとも思いました。また、高校まで英語しか勉強してなかったのですが、中国語の勉強がしたいと思っていたので週4コマのインテンシブコースを履修しました。そのコースは、内部進学生のような、高校生の時に中国語を履修していた人のためのクラスで、一応初心者のために最初の基礎から話してくれたのですが、授業はほとんどわかりませんでした。電車の中でラジオ講座やもっと基礎的な教科書を利用して、早く追いつけるように努力しました。結局追いつけたかどうかは疑問の残るところですが、自分の中では満足するだけ勉強できましたし、隣国中国に興味関心を広げることができたことは何よりよいことだと思います。授業は履修していませんが、これからも独学で勉強を続けたいと思っています。 サークル活動は、高校の時と同様に、体力作り程度に活動しました。剣道自体はそれなりに積み上げてきたものがあるので、割といい結果を残すことができました。このサークルでは、剣道よりも様々な人間と知り合えたことが一番の宝です。民間に就職する者、法曹を目指す者、公認会計士を目指す者など、高校の時より、より具体性をもった形でお互いの将来像をよく語りました。他にも、包容力のありすぎる者、サービス精神旺盛な者、変な性癖をもっている者、発掘にイスラエルまで行った者、こより職人と呼ばれる前衛的な者など、いろいろな人と話し、時間を共有してきました。他人を見て自分を見つめ直すというのでしょうか、他人と差異をもった「自己」というものをしっかりと認識でき、また、他人に対して柔軟な態度をもって接することに磨きがかかったような気がします。また、サークルでは主務補という役職を任され、合宿や各種イベントの企画・運営に携わりました。剣道サークルといっても、剣道だけの仲間で終わるのはもったいないと思っていましたので、剣道以外の新歓、追いコン、温泉合宿、スキー合宿など、様々な行事に参加して盛り上げました。剣道のうまい人の下手な人も、お互いが認め合えるような、様々な個性の発揮できる場所を提供することができたつもりです。とにかくみんなに話しかけるようにしましたが、もしかすると、ただのお酒好きが絡んでいるようにしか思われていないかもしれません。 アルバイトは、気が付くと半年くらい働いたところで副店長になっていました。経理、仕入れ、延滞料金の取り立て、新しいアルバイトの採用面接、集客のための企画など、ありとあらゆることを経験しました。お金を稼ぐことの大変さを学びましたが、日本における不況というものを肌で感じることができました。映画などというものは、出費の中でも一番後に考える、まさに娯楽でありますから、月末給料前には顕著に売上が落ちました。また、デフレでマクドナルドの値下げが甚だしかった時には、大手のレンタルビデオ店がレンタル料金を大幅に値下げして、近所の競合店が潰れるということもありました。この時には、競合店の顧客を獲得すべく、すぐにビラを配布したり、入会金を値下げしたりと、慌ただしく動いたことを覚えています。アルバイトを通じて学んだ、サービス業の姿勢や、コスト意識というものは、これからも十分役に立つのではないかと思っています。また、売上を減らす大きな原因となっていた、ネットでの映画の無料ダウンロードソフトを何とかしないといけないと思いましたし、そもそもで魅力ある映画を作れるような文化政策も必要ではないかと強く感じました。 寮生活は、部屋は狭いですが、快適でした。食事が朝夕と作ってもらえるので、体調を崩すこともなく、勉強に関しては自習室があって、環境については申し分ないものでした。県人寮といえども、知っている人がいなかったので、人間関係を多少心配していたのですが、すぐに打ち解けることができました。やはり、慣れというのもあるとは思いますが、変に他人にあわせるのではなくて、自分をしっかりともって、他の人に自分を認めてもらうということが、見ず知らずの初めての集団の中に入っていく時の攻略法だと思います。寮では、2、3年生の時に寮長を経験しました。寮生活の質の向上と寮生同士の人間関係を密にすることに努めました。寮生の意見を総会や様々な場所で汲み取って、実現可能なものを寮の管理人と交渉しました。例えば、旧式の洗濯機を全て新しい型の洗濯機に変え、夜間バイトで帰寮の遅くなる人のために、風呂の利用時間とボイラーの作動時間の延長することができました。また、寮生の人間関係については、あいさつの徹底や花見、月見といった各種の飲み会、スポーツ大会、登山や旅行などを企画し、学年を越えて交流しあえる場を設けました。卒業した先輩と連絡をとって食事したり、後輩の相談を受けて一緒に悩んだり、何年か寝食をともにしただけにとどまらない深い付き合いの友人が多くできたと思います。 大学時代 〜三田時代(大学3、4年時)〜大学3年生にもなると、真剣に将来の進路を考えなくてはいけないなと感じていました。大学に入ってからも漠然と教育に関する仕事がしたいと思っていましたが、大学に入ってから多くの人とそれぞれの母校の話や教育観の話をしていると、私が教育に関して何とかしたいと思っていたいじめ、不登校や成績至上主義的な考え方は自分の身近なところだけの問題ではなく、同じようなことが全国各地で起こっていることを実感しました。その中で、実際に教職課程をとって教師になるか、公務員試験を受けて行政官として教育に携わるか、決断の時がきました。結局、国家公務員 I 種試験を受けることにしました。公務員試験一本に絞った理由は、全国的な教育上の問題に立ち向かおうとした場合に、自分が教師になって目の前の児童生徒がよくなればいいと考えることができず、日本全体を見渡せる場所で働きたいと思うようになったこと、両方の選択肢を残して教職課程を履修したとしても、共倒れになる可能性が大きかったこと、本当に教師になって自分のやりたいことができるかどうか、過去に教わった先生と話したときのことが忘れられないことが挙げられると思います。公務員試験の勉強については、次の章で書こうと思います。 また、大学3年生の時に、進路について考えると同時に、学問も専門的なものになっていきました。そして、ゼミに入りました。ゼミは民法の財産法に関する勉強をするゼミで、大学1年生の時に、担当教授の民法の講義に感銘を受け、その教授のゼミに入ることにしました。「エグゼミ」といわれるほどに厳しいゼミで、毎週ひとつのテーマについてディベートをし、隔週で4000字のレポートが課されました。ゼミ自体は週に1回ですが、月曜から金曜まで、放課後や空き時間は図書館に集まって、ディベートの準備に費やしました。忙しいのに加えて、その教授が司法試験の試験委員をしている関係で、ゼミには司法試験受験生が数多く集まっていました。1学年33人いるのですが、公務員試験を考えていたのはわずか2人というほどでした。大学入学と同時に司法試験予備校に通っていた人が多いくらいなので、圧倒的に民法の知識量では負けていました。みんなで集まっても、司法試験に関する話が多く、友達からよくこのゼミに入ったなと言われていました。何とかみんなに追いつきたい一心で、週末返上で必死に勉強しました。持ち前の集中力と忍耐力で、夏休みが来るころには他のみんなと同じ土俵で話しができるようになっていたと思っています。また、このゼミで必死にがんばった勢いが公務員試験の勉強をする際にも移ったのではないかと思います。何事にも真剣に取り組む姿勢は大切です。その姿勢はいろいろなところに波及します。1日の大半の時間を図書館でみんなと過ごしていたため、民法以外にも、いろいろなことについて熱く語りあったよいゼミでした。 そして、私の生活は次第に公務員受験のための勉強中心の生活に移っていくのです。前述のように、公務員試験勉強中心の生活でしたが、ゼミ、サークル、寮生活、その他の交友関係とのバランスをとりながら楽しみ、それぞれ今でもうまく続いています。 受験勉強について受験勉強については、Wセミナー渋谷校のお世話になることにしました。慶應大学からのアクセスがよかったことと、インプットの回数が他の予備校に比べて多かったこと、割と私大生の割合が多いことが決め手になりました。私のやってきた勉強全般について言えることですが、大学受験の失敗を通じて学んだ勉強における謙虚さというものを常に気にかけていました。受験勉強以外の活動もいろいろと参加していたので、なるべく手をつける教科書、参考書、問題集を限定して、必要最小限の道具をとことんやり通すことにし、難しい問題を解くことに変な自己満足を感じていた高校時代の反省を活かしました。 具体的には、専門に関しては、法律は学部の授業である程度基礎があったので、得点源にしたいところでした。試験対策はセミナーの授業で十分だったので、授業をためないように、予習復習を怠らないように心がけました。目安は渡辺先生がおっしゃっていた予習3時間、講義3時間、復習3時間でした。先生は行政法についての勉強法としておっしゃっていたかと思いますが、予習、講義、復習の流れは全ての科目の勉強スタイルについて使わせてもらいました。そして、復習時には、既習箇所をセレクションの過去問で確認して、判例六法、判例百選に出題情報をチェックしていきました。何事にもそうだと思いますが、漫然と本を読むだけでなく、蛍光ペンを利用するなど、作業にして形を後に残すことがポイントだと思います。法律学全般的に、細かな知識を吸収する前には、全体の体系をしっかり押さえておくことが必要です。そのようなこともあって、電車の中や休み時間に基本書の通読をしたこともあります。過去問に数多く触れて、最新の判例にも気を使って、マメに努力を続けました。実際に本試験では高得点をとることができましたし、技巧的にならず、しっかり択一の勉強をしていたことで2次試験の記述試験がとても楽になったと思っています。 教養に関しては、勉強すべきものはしっかり勉強し、勉強しなくていいものはほとんど勉強しませんでした。高校、大学で履修したことのある科目は得点をとりにいくという戦略です。しかし、そうはいっても大学受験の知識はほとんど残っておらず、一からのスタートだったといっても過言ではありません。そこで、英語が大嫌いなことを自分でしっかり認識していたので、英語以外で点数を取ってやろうと勉強を開始したときから考えていました。一般知能を固めておくと余計な失点を防ぐと同時に、教養の点数が計算できて戦略的な受験対策ができると思い、夏休みに一般知能マスターを何度か解きました。毎日2、3問ずつですが、継続しました。一般知識については、高校時代に履修していた科目を中心に1月の学年末試験が終了してから必死に詰め込みました。教科書を読むのは時間がもったいなかったので、模試と答練の復習中心でした。模試や答錬の解答には派生的な知識も載っていて、ところどころイミダス等を参照したくらいですが、結構な実力がついたと思います。時事については、Wセミナーの講座の配布物を繰り返し読むことに加えて、新聞ダイジェストのようなものもパラパラ読みました。ここでも模試の解答解説が大活躍でしたが、参考文献にあがっているイミダス等を調べて、より広範な情報の収集を心がけました。 私がこのようにまじめにこつこつと勉強を続けることができたのは、やはり勉強の対象を絞って、自分のやるべきことをしっかり意識していたからだと思います。また、渡辺先生をはじめ、Wセミナーの講師の方々の勧めていただいた勉強法が私の実行したかったこととあまり差異がなかったこと、渡辺ゼミに参加させていただき、同じような志の高い受験生と知り合えたことも助けになったと思います。同じ過ちを繰り返すことなく公務員試験を突破できたことは、ひとつ私のコンプレックスとなりそうであった大学受験失敗を忘れさせるに十分でした。 本試験から内々定まで本試験はすごく緊張しましたが、難なく突破することができました。官庁訪問についても緊張しましたが、高く評価してもらい、1日目から内々定の感触を得ることができました。採用担当の面接官に自分の何が評価されたのかを聞いてみたところ、「君は芯がしっかりしている」という旨のことを言っていただきました。やはり、生まれてこの方、大袈裟かもしれませんが、少数派からスタートして、大多数の人の中に入っていかなければならないという経験を多く積んできたことが、大衆に迎合するのではなく、逆に自分の人間性をしっかりと自覚して、自分の個性をどのような場所でも発揮できるようになったことにつながったのだと思いました。素直にうれしかったです。もちろん、自分の実力だけではなく、よく飲みに行って愚痴を聞いてくれた友達、1次試験、2次試験とそれぞれ前日に激励メールをくれた友達、何より陰からいろいろと支えてくれた両親、様々な人の応援があって、そして、幸運が幾重にも重なって、この結果があるのだと思っています。 最後にこの文章を最後まで読んでいただいた方々に感謝します。何度も繰り返しになるかもしれませんが、私が何より大切だと思っていることは、人と接する際に、その集団の中心であっても、そうでなくても、人に合わせることよりも自分をしっかりもって自分らしさを発揮することが一番だということです。私は、自分の生まれた環境、育った経緯から、少数のグループからいろいろ始まることが多くて自然とこのような性格の人間になりました。公務員受験生に限らず、企業の中でも、学校の中でも、地域の中でも、これが長い目でみた時にうまくやっていくコツなのではないかとも思ったりもします。 これから行政官として働くに際して、組織の中で組織に合わせるだけの人間になるのではなくて、集団の最低限のルールは守った上で、「集団の中できらやかに光る強い個性」を発揮できる人間になりますという高い目標を掲げて、文章の終わりにしたいと思います。 これから公務員試験を受験される方の、合格・内定をお祈りしています。 (了)
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