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キャリア・エリートへの道

自分自身に負けない

はじめに

 2004年7月2日、晴れて内々定を頂き、私の就職活動は終わった。国家公務員を目指そうと志した時点では、こうして「キャリア・エリートへの道」の原稿を自分が書いているとは考えもしなかった。しかし、今私は、自らの夢を実現する入口に立っている。

 難関な国家試験でありながら、同時に就職活動の側面も持ち合わせている国 I 試験を突破することができたのは、「自分自身に負けない」よう努力し続けたからだと思う。

 強い自分を創るのも弱い自分を創るのもその人次第である。家族や恩師、友人達のアドバイスに耳を傾け、また、真摯に自分と向き合えば、自分の悪いところが見えてくる。あとは、それを直すべく努力するだけである。自分を知る勇気とより良い自分になりたいという気持ちがあれば、必ず人生はいい方向に転んでくれると私は信じている。

 以下、このような考えを持つ私がどのような人生を送ってきたか、何故国家公務員を目指したのか、そしてどうやって試験を突破したのかをできうる限り詳細に書き記したいと思う。話が横道に逸れることもあるが、そういう場合は、私なりに考えた受験勉強ないし受験哲学としてこれは知っておいてもらいたいという点についての考察である。また、全文にわたって「である」調を用いているため、大変偉そうな文体になってしまったが、この点についてはご容赦願いたい。

わがまま少年誕生

 1982年11月19日、私は広島県広島市の市民病院で生まれた。母も一人っ子、そして私も一人っ子ということもあって、極めてわがままな子供であった。母方の祖父や祖母にとって私は一人孫であったし、父方の祖母(祖父は父の結婚前に亡くなっており、写真でしか見たことのない人である)にとっても初孫であったため、かなり甘やかされていた。その一方で、親戚一同の愛情を一身に受けることができたのも事実である。そして、このことは、人をまず信頼するとか、人への感謝を忘れないという私の性格に結びついているように思う。

 祖父は、戦前・戦後の広島を生き抜いて一代で財産を成した人である。おじいちゃん子であった私は、祖父から何でも欲しい物をもらったし、好きな所に連れて行ってもらった。上記に述べたように、わがまま放題の私であったが、物を欲しがる時期に好きなように与えてもらったおかげで、物欲のない人間になれたと考えている。

小学校時代

 小学校(普通の公立小学校)入学時の私は、わがままそのものであって、およそ我慢とか忍耐という文字から程遠い存在であった。低学年時は、勉強もできず、運動もそんなにできた方ではなかったため、クラスの中でも平凡であった。むしろ、劣等生であった。

 平凡な上にわがままかつ負けず嫌いで手に負えない少年に転機が訪れたのは、小学校のリレーの選手に選ばれた時であった。中学時代、陸上で東京都記録を持っていた父が、張り切って指導してくれたことを今でも鮮明に覚えている。そこで初めて、人よりも(我慢して)努力すれば結果が得られるという体験をした私は、自分に自信を持てるようになった。

 高学年になると、その後の人格形成に大きな影響を与えることとなるサッカーと受験勉強という二足の草鞋を履くことになるが、「頑張れば人よりも上にいける」悦びを知った私は、わがままな面は改善されないものの、努力によってレギュラーを掴み、また、希望していた慶応義塾普通部入学試験に合格することができた。

中学校時代〜初めての挫折〜

 小学校時代の偏差値からすると、普通部よりも上位の開成・武蔵・麻布といった御三家(いわゆる進学校)を狙うという選択肢もありえた。しかし、それでも、普通部を選択したのは、中高大という一貫教育の中で、通常ならば受験戦争で犠牲にされてしまいがちな趣味や運動というものに力を注ぎ、幅広い視野を持った人間になって欲しいという親の教育方針と、慶應独特ののんびりとした雰囲気でありながら、引き締めなければならないところは引き締めるというメリハリの利いた校風に魅力を感じたことが理由であった。

 入学すると、早速サッカー部に入部した私であったが、しばらくすると、チームメイトから相手にされなくなってしまった。おそらく、人生最初の挫折がこの時期にあたると思われる。原因は、多少なりとも技術があった私が、心無い言葉を友達に言ってしまったことにあるらしい(問題の解決後、彼とは親友となる)。「らしい」というのも、勝手気まま・マイペース・わがままという側面を持っていた私は、自分でも気づかないうちにそういうことをしていたのである。サッカーというチームスポーツにおいて、チームメイトから信頼を失った私は、プレーにも支障が生じ、当初自分よりも評価が低かった友人達にも抜かれ、どうしていいかわからなくなってしまった。

 当時の私には、「自分のせい」だということは考えもつかないことであったが、父から「お前に何か原因があるんじゃないか」と言われ、顧問の先生と相談し、その友達と直接話したことによって、ようやく自分の非を認めることができた。このとき、やっと社会は、自分と他者の関係によって成り立つものであり、自分の気持ちや都合で物事がまわるわけではないことに気づいたのだった。自分に良くないところがあるということを認めたくない、それに目を向けたくないのが、人情である。しかし、それでは、問題解決の本質は見えてこないし、修正すべく努力する糸口すら見つからないのである。

 それから、自分の悪いところを直そうと努めるようになると、失われかけていた友人関係・信頼関係は修復し、人間関係がうまく行くと練習にも身が入るようになり、1つ1つステップを踏んで、レギュラーを勝ち取ることに成功した。

 中学時代を振り返ると、サッカー部での体験を通して自分自身の最大の欠点に気づくことができた以外にも、生涯にわたって付き合っていくであろう友人達や最大の趣味であるギターを始めたことなど、様々な出来事があった。

高校時代〜自分の基礎を確立〜

 慶應義塾は、中学は普通部・中等部・湘南藤沢の3校があり、高校は慶応義塾高等学校・志木・湘南藤沢・ニューヨークの4校がある。したがって、我々、内部生の進学先は、4つあることになるが、私はそのうちの慶応義塾高等学校(塾校と略することが多い)に進学した。

 普通部と同じく日吉にある塾校だが、よく言えば自由奔放、悪く言えば放任主義の学校であり、礼儀正しい普通部とはかなり色彩が異なる。打ち込むもののある人間にとっては、素晴らしい土壌であると同時に、やることの見つからない者にとっては、堕落していってしまう危険のあるところである。幸いにして、サッカーとギターという道を見つけていた私にとっては、最高の学校であった。

 まず、サッカーという部活動を通じて、忍耐力を得ることができた。小中と比べ、途中交代での出場が多く、いわゆるスタメンではなかった。途中までは、レギュラー候補だっただけに、外されたときは、辞めようかとも思った。しかし、自分の評価が悪くとも、理不尽な処置が下されても、まず自分の悪いところを見つめるというスタンスを確立した私は、チームメイトや家族にも支えられながら、完全燃焼することができた。小中高とサッカーをやり通したことによって、身に着けた忍耐力・継続力は、私の最大の武器となった。

 次に、バンドである。おそらく受験があれば、部活動だけで手一杯で、さらにもう1つ趣味を作ることはできなかったであろう。自分達で努力して1つの音をつむぎ上げていくという作業を繰り返すバンドでは、サッカーにも増して協調性が求められた。その一方で、ライブにおいては、ただ上手に演奏するだけではなく、観客を楽しませるというパフォーマンスが要求されるのである。バンドは大学時代に入ってからも続けたが、慶応義塾高等学校の名物、日吉祭(学園祭)の後夜祭において、2000人近い観衆を前に、ライブを行い成功させた経験は、物事を成功させるには、準備に準備を重ねることと、緊張を維持しながらもそれを楽しむくらいの余裕が必要だということを教えてくれた。

大学時代パート1 〜職業選択の刻〜

 慶應義塾の一貫教育の最大の長所は、遊びや趣味に燃える期間が十分にあるということだと思う。まさしく、よく遊び、よく学ぶを体現してきた者からすると、大学に入学した段階では、大学時代は、自分の将来に備えて必要な能力やスキルを磨こうという気になるのは至極当然のことである。逆に、悠久の時の中で、遊ぶべき場面で遊ばなかったり、何かに打ち込むことのできなかった人間は、大学1・2年を無為に過ごして、3年になってから慌てることになるのである(外部生でも燃え尽きてしまって1・2年を無駄に過ごす人がいるが、内部生でそうなってしまうと勉強してきていない分さらに性質が悪い)。

 私は、前者の方であったので、大学時代は、社会に出るに当たっての準備期間であって、真剣に自分と向き合わなければならないと考えていた。

大学では、法学部法律学科に進学した。慶應の文系では、最もレベルが高いことと就職先の選択肢が最も広いということが理由である。大学時代に学べることは限られているが、一方で、大学時代に本気で勉強しておけばよかったと後悔する人も多い。大学時代に本気で基礎を固めた人は、応用のステップにも早く進むことができるし、仕事のできる人・優秀な先輩であればあるほど「勉強しておけ」というアドバイスをくれるので、そちらの方が真実なのだろうと考えた。しっかりと勉強できる環境という点で、法学部法律学科が適していたのである。

 法律の勉強は、当初は退屈でつまらなかった。しかし、我慢して勉強し続けてみると、だんだんと自分の中に体系というものが構築されていくのを感じ、さらに続けていくと具体的な事案に対して法律や法理論をどうあてはめれば妥当な結論が得られるかを検証するという作業に、興味を抱くようになった。おそらく、法律学に挫折する大半の人は、自分の中に体系が出来上がるまで我慢しきれずに飽きてしまうのであろう。しかし、様々な法律を継続して勉強し、法律学を極めるには、「○○法」1つだけを勉強するのではなく、あらゆる法律の概念・規定をリンクして学ばなければならないということに気づいたときは、その奥の深さにちょっとした感動を覚えるはずである。そのときまで勉強すれば、法律アレルギーにならずに済むと思う。

 このようにして、自分には法律学に対する適性があると感じた私は、自己の進路選択において、非常に悩んだ。司法試験か国家公務員かそれとも、民間企業なのか。

 まず、私にはいわゆるサラリーマンは合わないと思っていた。利潤追求のために正義を曲げなければならない場面がある、ないし民間で正義を貫きとおすということがどれほど難しいことかということを父から良く聞かされていた(もっとも、彼はそんな中で圧倒的な実力で正義を貫いており、私の最も尊敬する人間である)からだ。小さいころから、曲がったことが大嫌いであった私にとって、正しいことを追求することが困難な職場は、耐え難いと感じたのである。また、私は物欲があまりなく、金儲けに対してもたいして興味はなかったので、そういった意味でも、民間は向いていない。もっとも、法曹や官僚と比べて、民間は自由であるゆえに、まだ誰もなしえたことのない新しいことを始められるという点には魅力を感じてはいたが。

 次に司法試験について。「法律に適性がある」と感じたのならば、法曹に行くことが自然であろう。しかし、司法関係の仕事は、何かことが起こってから「事後的」に「対応」することが多い。ことを「未然」に防いだり、社会の動きを「創造」したりできる仕事ではない。正義の実現を本気で追求し、なおかつ創造的な仕事ができる、それならば国家公務員ではないかと考えたのである。そして、実際に活躍している緒先輩方にインタビューをし、「現実」を「理想」に近づけるこの仕事に一生をかけてみようと決意した。

 余談であるが、受験勉強を実際にしてみて、国 I 試験が最もバランスの良い勉強を要求するものであると感じた。それは、法律職であっても、経済学・財政学の知識や考え方を学ばなければならないことや、教養についてもImidasや知恵蔵といった類のものを読破するという経験は、他の職種ではありえないことであり、社会に出るにあたっての準備という観点からすると、本当にバランスのとれた試験科目であった。試験の話は後述するが、国 I 試験を志すならば、苦手科目をなるべく作らないよう、全ての科目を制覇すべきというのが私の見解である。法律だけしか知らない、経済だけしかわからないのでなく、両方をキチンと学んだ人に上位合格の道は開ける。

大学時代パート2 〜将来を見据えながらもバンド活動に励んだ2年間〜

 こうして、公務員を目指すこととした私は、最初の2年間(日吉時代)は、バンドと勉強の両立、3年以降は全てを投げ打って勉強するという計画をたてた。勉強するという強い意志を持ちながらも、バンドを辞めなかったのは、単純に楽しいだけではなく、音楽を演奏するということに自己実現の喜びを見出していたことに他ならない。自己の精神性を音に反映させ、バンドとしての完成度を高めるために一致団結し、努力する。自分の個性を強烈に発揮しつつも、最終的な目的はチームとして生み出す音にあるというバンド活動は、サッカーと相通ずるところがある。すなわち、成功体験も失敗体験もチームで共有し、充実感や満足感をみんなで分け合うことができるのである。職業選択の場面でも、こういった私の性格が、弁護士や検事のような1対1の戦いよりも、公務員という職業を選ばせたともいえる。

 大学におけるバンド活動において学んだことは、リーダーとして組織をまとめることであった。私がこころがけたことは、大きく分けて2つある。まず、1つは、自分が誰よりも努力する存在として妥協しない姿勢を見せることである。プレーヤーとして、一目置かれる者の発言は、それだけで重みが出てくるし、何よりもそういう態度が、皆の心を動かす。まさに「やってみせ」の精神である。これは、実際にプロになった友人を見ていて、その意識の高さに驚かされた経験から学んだことである。次に、誰よりも人間関係に気を配り、その上で言うべきことはきっちり言うという態度である。これは、私自身の失敗体験を通してである。私が、あまりにも、あるメンバーを甘やかしていた(つまり、本当に言いたいことがあるのに、言えなかったということ)がために、他のメンバーから不満が続出し、ついには彼はやめるはめになってしまった。その後、人間関係の修復や、後任を探すのに無駄な時間がかかったという点で、バンド活動に大きな影を落とすこととなった。やはり、相手の良くないところはキチンと言う、しかし、褒めるべき点はうんと褒める、そういうメリハリの利いた関係を構築することが大事であるし、自分との関係のみならず、他のメンバー間の関係がうまくいっているか、いないとすればどういうところに原因があるかを探ることに力を注ぐべきである。

 私が、リーダーとして身につけた以上のような考え方は、国家公務員 I 種職員として非常に大切なことではないかと思う。キャリアステップという点から、リーダーとしての職務につくことが多い職種において、単に自分だけ優秀であっても、はじまらない。若くして要職につくこともあるので、私の経験は大変役に立つのではないかと信じている。

国 I 試験にむけて

 いよいよ、国家公務員試験について、私がどのような戦略で望んだのか、述べたいと思う。

 私の国家公務員受験戦略はずばり、「150パーセントの実力をつけて、それをそのまま出し切る」であった。前段については、私の父が常々言っていることで、それだけの実力をつければ、例えアクシデントに見舞われても何とかなる、つまり「備えあれば憂いなし」ということである。後段は、上位合格すれば有利である(少なくとも不利になることはなくなる)といわれる公務員試験を受験するにあたって必要なことであり、また、自分のもてる力の全てを出し切ることのできる男になるための挑戦であった。

 私は、専門科目、特に法律については、そんなに心配していなかった。試験のためだけの勉強は確かにつまらないが、それでも、法律そのものが嫌いでない私にとっては、専門については、初めから自信があった。しかし、その自信を吹き飛ばすほどの不安を教養に感じていた。受験自体が10年ぶりであり、高校・大学という過酷な受験戦争に揉まれたことのない内部生は、いわゆる教養科目では、東大生とどれほどの実力差があるか考えただけでも恐ろしいと思っていた。

 そこで、3年の夏休みには、教養を集中的に勉強し、先手必勝で苦手科目克服に励んだ。そのかいあって、一般の受験生レベルの水準にはなったが、教養が得点源というレベルにはいたらなかった。無論、その間も専門の勉強は進んでいるわけであるが、専門については、順風満帆であった。おすすめの勉強方法は、まず、(1)苦しくても訳がわからなくても、先取りして先取りしてその科目の全体を概観することである。非法学部生などでいきなり教科書を読めない人には、例えば行政法で渡辺先生が執筆なされている「3時間でわかるシリーズ」を読むなどするとよい。次に、(2)判例の結論と理由をきっちりと押さえることである。こうすることが、論文試験でも役に立つし、理由をキチンと覚えれば、結論を忘れることもないからでる。そして、最後に最も重要なことは、(3)わからなくなったり怪しくなったら、すぐに基本書や種本の該当箇所を丁寧に読み込み、そして問題演習を重ねることである。自分の弱点を見つけたら(見つけるよう普段から勇気をもって実力試しをする)、すぐにでも修正・強化を図ることが大事なのである。

 私が分析するに、失敗する受験生の多くは、これらのうちのどれか(ないし複数)が欠けていることが多い。特に、一生懸命頑張っているのに結果が出ない人は、(3)の要素が欠けている。また、私は上位合格を目指し、渡辺先生が主催されている「渡辺ゼミ」に入っていたが、渡辺先生が示してくれる合格のツボ、ポイントを聞き流してしまった人と、それを素直に聞き入れ、なおかつ誘惑にも負けずにそれを実践できた人では本当に大きな差が出ていることも注意すべき点である。

 以上のようにして、専門では波に乗った私であったが、教養についての不安はなかなか解消されなかった。というのも、模試でX判定やA判定を得ていなくても、上位合格する人は、模試よりも簡単な本試験において教養で驚異的に点数を伸ばすパターンが多いからである。模試では、特に教養があまりに難しく、頭打ちになるが、本試験では点数が伸びるのである。私が教養を克服した戦略は、時事を完全に得意科目にすること・文章理解や資料解釈でとりこぼしをしないこと・捨て科目を作らないという三本柱であった。

 1点目については、いわゆる時事項目だけでなく地理や政治・経済においても時事的色彩の強い問題が多い国 I では、時事を押さえ、そこから関連する分野に広げていくと言う勉強が最も効率的だからである。このとき、注意しなければならないのは、付け焼刃的な対処ではなく(直前期に対策本が出るがそういった類のものに頼るのではなく)、Imidas・知恵蔵・現代用語の基礎知識を読み込んで、知識を本物にすることである。2点目に付いては、ミスをしないのは当たり前のことであるが、文章理解や資料解釈が得意であれば、数的処理で多少の失敗があっても、点数としてそこまで落ちることはないし、そのように自分が思えれば、実際の試験でも心に余裕が生まれるからだ。3点目については、自然科目、人文科学のどちらかを捨ててしまう人が多いが、どちらかが簡単でどちらかが難しいということがあるので、多少なりとも知識があれば解くことができる問題をみすみすふいにするのはもったいないし、リスクをヘッジするという意味でも全科目それなりの準備をすることをおすすめする。

 こうした努力が実り、模試の結果はもちろん、本試験においても満足のいく結果を残すことができた。本試験は、1次試験でよい成績を取っていれば、2次については、危険を冒したり、冒険しなくてすむので、そういう意味でも大変有利である。実際、私自身、1次試験で十分に貯金を貯めておいたので、後半戦は手堅くまとめるというやり方で合格した。2次試験で成績を大幅に伸ばす人もいるが、基本的には逆転は難しいと考えた方がいい。「逆転は可能」という発想は、本来実力のある人が1次試験で苦戦したときに考えればよいことで、はじめからこのような考え方をしている人は危ない。

 以上、述べた戦略は私にとってはベストであったし、実際に素晴らしい結果をもたらしてくれた方法であるが、これは私の個人的素因によるところも大きい。しかし、国 I 試験の受験勉強にあたっては、戦略を立ててそれを実行するということは大変重要である。繰り返し述べるようになるが(しつこいので少し整理してみると)、(1)勇気を持って自分のどこが駄目なのかを知る、(2)改善すべく計画を立てる(色々な人の意見を取り入れる)(3)それを柔軟かつ確実に実行することができれば、合格へ近づくことができる。

 おそらく、上記のポイントは試験勉強のみならず、自己の内面を磨くときにも役に立つと思う。面接試験や官庁訪問などでは、付け焼刃の対策ではどうにもならない。常日頃から自問自答し、より良い自分になるために努力すべきである。例えば、(1)自分の親、恩師(ゼミ生ならば渡辺先生)、親友などに、自分の問題点を聞いてみる(何にも考えずにただ聞くのは愚かなのでそれなりに自分で分析した後)→(2)問題を解決するために自分ができる最も効果的な方法を考える(近道をするという意味ではない、遠回りなようでもじっくり時間をかけたほうがよいこともある)→(3)自分が立てた計画・目標に対し、高い意識を持って実行していくといった具合に。

終わりに〜自分の人生を振り返って〜

 自分の人生を振り返ってみると、要所要所に重要な出会いがあって、私の人生に対する示唆を与えてくれた。飛びぬけた才能を持ち合わせていない私が、こうして偉そうにも後進のための文章を書くことができるのは、私を支えてくれた多くの人がいて、そのアドバイスを自分なりにアレンジして、努力することができた結果である。

 まず私の家族や親戚について。父は「超」がつくほどのエリートで、自分が最も尊敬する男である。自信に溢れ、実力も度量も人並み外れた存在であり、常に私の目標である。時に兄弟のように、時に厳格な父親として私に接してくれた。母は、天真爛漫、まさに明るい人で、私が落ちこんだときには、いつも励ましてくれる。家族の応援なくして、私の人生はありえなかった。また、伯父夫婦にも大変お世話になった。素晴らしい先輩方に取材する機会を設けてくれたのは、他ならぬ伯父である。著名なジャーナリストである伯父は、社会正義の実現のために私心無く時代を生きる人で、父と同様本当に尊敬すべき人間である。次に、その時々に出会った恩師達について。小学校の担任の先生、中学受験の塾の先生、中学校の担任の教師、そして渡辺先生。単なる受験勉強に終わらない就職活動たる国 I 試験において、その全ての面でサポートして下さった渡辺先生には感謝してもしきれない。最後に、友人である。中高とずっと一緒にサッカーをやってきた仲間、中学時代のクラスメート、バンド活動で切磋琢磨しあった友人達。一生の友と呼べるような人間が何人もいる幸せな状況には、本当に満足しているし、これこそが私の慶應における財産である。

 私は元々が非常に恵まれた環境にあったし、色々な考え方や人生に触れる機会が多かった。しかし、一方で自分自身で掴み取ってきたものもある。むしろ、自らの意志で何かを掴み取ってきたことがあるから、さらに高いレベルの環境に飛び込むことができたのではないかと思う。己に負けない、妥協の無い努力をすれば、人生は開ける。

 渡辺ゼミ生をはじめ、このHPをチェックしている受験生に対して、私の文章が少しでも役に立てば、それは望外の喜びである。自分自身のまだまだ短い人生の中でも、申し述べたいことがあって、それを形にすることができただけでも幸せではあるが、後進に対して私の文章が参考になることを願ってやまない。

(了)
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