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キャリア・エリートへの道

理系から国 I 法律職への挑戦

はじめに

 私は、普段自分の過去について振り返ることがなかなかありませんでした。そのため、渡辺先生からキャリアエリートの原稿執筆を依頼されたときは、そんな自分にとって良い機会だと思い、お引き受けすることにしました。私がこの原稿執筆全体を通じて感じたことは、私はそれほど器用な生き方ができず、これまでただひたすら、目の前のことに全力投球していただけだったということです。

 私のような未熟者が伝えられることがどれほどあるのか分かりませんし、私の過去についてどれだけ客観的に書けるのか自信はありません。しかし、私という人間がどのように生きてきて、どういったきっかけで公務員という職業を志望し、これからどう生きたいと思っているのかをなるべくありのままに書き連ねることで、これから公務員を目指される方のご参考になればと思います。

生い立ち

 私は1981年12月7日に兵庫県の姫路市に生まれ、高校生までこの地で過ごしました。姫路には、世界文化遺産に指定されている姫路城や、弁慶が幼少時代を過ごした寺院などの歴史建造物があり、また、町の名前にも往時の城下町の名残を感じさせるなど、姫路はそんな歴史ある町です。

 私の家族は、父が地元中小企業に勤める会社員で母はパートタイマー、2歳年下の妹、3歳年下の妹、10歳年下の弟の6人家族です。父方と母方、両方の祖父母ともに実家の近くに住んでおり、同居こそしていませんでしたが、小さい頃は毎日のように祖父母の家に行ってはかわいがってもらっていました。このように経済的には決して裕福ではないけれども、大家族の明るくわいわいとした雰囲気の中で育ちました。

保育園から小学校まで

 保育園・幼稚園の頃のことを私はよく覚えていないのですが、母親によると、男の子にいじめられてよく泣き、代わりに女の子とままごとをしてよく遊ぶという内気な子供だったようです。

 そのようなこともあって、結局小学校は実家の校区ではなく、同じ市内に住む祖母の校区にある小学校にバスで通うことになりました。新しい環境の中で、小学校低学年の時に素晴らしい担任の先生と出会えたため、学級委員長を務めたり、読書会で代表を務めたり、と積極的に物事にチャレンジする醍醐味を知るようになりました。この先生は生徒1人1人の良いところを見つけ育ててくれる素敵な先生で、今でもよく覚えています。

 また小学校1年生の時から通い始めた塾でも、良い先生とめぐり会うことができて、勉強を通じて自分の限界に挑戦することの楽しさを教わりました。この塾では、実際の学年とは関係なく、学習すればするほど上の学年の学習内容へ進めるというシステムだったので、上級生と同じ内容の学習をしていることに喜びを見出して頑張り、塾をやめた小学4年生頃には中学2年生程度の内容までを学習していました。この先生は子供であった私の知的な好奇心や向上心を存分に追求できる環境をいつも作ってくださったため、私は最大限努力することにとてもやりがいを感じることができました。今でもこの先生には弟がお世話になっており、交流が続いています。

 そして、一生懸命勉強する中で、小学校4年生頃から地元私立中学の受験を考え始め、受験専門の塾に通い始めることになります。そこでは以前とは異なり、さらに優秀な生徒が大勢いて、内容の難しい授業や全国模試が毎週行われていました。私の成績は到底良いと呼べるものではありませんでしたが、私はいつも自分のベストを尽くすということを肝に銘じて受験勉強に励み続け、その結果、地元私立中学である淳心学院中学に進学することになります。

中学時代

 淳心学院は中高一貫のミッションスクールで、校則は無く、すべて自主性に任されているという大変自由な校風の学校です。(もちろん自由と言っても必ずそこには自己責任が伴いますが)。中学1・2年生の頃は、クラブには所属していなかったので、放課後はいつも学校の図書館に残って、その日の課題を終わらせて、分からないところがあれば職員室へ質問しにいってその場で疑問を解消する、という形で勉強していました。そして、一旦帰宅すれば大好きなプロ野球中継を見て、10時ごろには就寝するというシンプルな生活を送っていました。週末には当時まだ赤ん坊だった弟と戯れたり、弟を自転車の後ろに乗せて近所を散策したり、妹の中学受験の勉強を手伝ったり、父親と野球やテニスをしたりなどしていました。そして中学2年生のときに、数学研究会というサークルに入り数学オリンピックの予選に挑戦したり(全然太刀打ちできませんでしたが)、「高校への数学」という数学雑誌に問題を解いて投稿したりしていました。この時にとても優秀なサークルの先輩たちに恵まれ刺激を多く受けることができました。(特に良く世話をしてくださった先輩は東大大学院で助手をなさっていて、今でも一緒にお酒を飲む際には別分野での苦労話をうかがって刺激を受けることが多いです。)

 中学3年生の時から2年ほど軟式テニス部に所属し、それなりにクラブ活動もしましたが、あくまで勉強により高いプライオリティーを置いていたので、自分の勉強に支障が無い程度にやっていただけでした。今となってはもう少し余裕を持って部活動に励んでいれば良かったなと思うこともあります。また、入学後から勉強し始めた英語にもとても魅かれ、この頃からNHKのラジオ講座を聞き始めました。ほとんど毎日欠かさず高3まで聞き続けたことは、自信になると共に、学んだことは今後、仕事をしていく上での財産にもなると思っています。

高校時代

 基本的には、受験勉強一色だった高校時代ですが、高1の夏休みに高校の友人と共にカナダへ3週間の語学研修に参加しました。きっかけは高校のカナダ人英語教師が彼の母国での英語の勉強を勧めたことでした。初めての海外旅行だったのですが、意外に自分の英語が通じたのがとても嬉しくて、様々な人に話しかけた記憶があります。ホームステイしたイギリス人夫婦の家には、スイス人・台湾人・アメリカ人なども居候していたため、色々な価値観や行動様式に触れることができて非常に驚きました。また語学学校では特に韓国人の学生と仲良くなり、一緒に花火に行ったり、ハイキングに行ったり、韓国料理を一緒に作って食べたりとカナダに居ながらも韓国文化に触れる経験もできました。初めて海外生活を経験することによって、私が継続して行ってきたラジオ講座の勉強に自信を抱くことができたのと同時に、自分と異なる価値観を持つ人と、どうしたら相手を尊重しながら関わることができるかを考え、それを実践する貴重な機会が得られました。この経験が内定先官庁を志望する前提となる「国際的な関わり」というものに対するイメージの原型になっています。

 また、高校1年生の時に阪神大震災3周年を記念して行われた「生き方を考える高校生フォーラム」というスピーチコンテストに、学校を代表して参加しました。そこでは、カナダの福祉制度についてその長所と明るくひたむきに生きることの尊さについて身振りを交えて話したのですが、思いがけず地区大会で優勝することができ、とても良い思い出になりました。私自身阪神大震災を経験し、またその後には近くの仮設住宅へ炊き出しに行って被災者の人を励まそうとした経験があるので、人の理想的な生き方とは何か、人にとっての幸せとは何か……といった問題をスピーチの内容を推敲する過程で考えさせられました。

 高校2年生の時には、生徒会の役員として、いくつかの新しい試みを始めました。まず、近くの児童施設との交流(施設の子の面倒をみに行ったり、文化祭など学校行事に招待して案内したりなど)や募金活動の強化を行いました。また、当時大きな関心を集めていたダイオキシン問題に端を発して、焼却炉で燃やすごみの量を極力減らそうという生徒会の方針で、学校内のゴミ箱の撤去という荒業を行いました。かなり不評な政策だったため、次の生徒会長選挙で共に仕事をした生徒会長はあえなく落選してしまいやるせなさを感じました。しかし、自分たちが信じるところを貫いたことについては多少誇らしかったのを覚えています。

 大学受験については、2年生ぐらいまで、どこを受けるかについて迷っていました。一時期は、元々視野にいれていた東大以外に医学部を受けることも考えました。しかし、医学部進学に伴ってその先の進路が確定しまうことに対して私の覚悟が決まっておらず、そんな状態で医学部に行くのは、将来医者になった時の患者さんに申し訳ないと思い、東大の理科一類を受験することに決めました。  

 東大ならば、大学2生の時に自分の好きな学部にあらためて進路希望を提出できる点で、大学に入ってから自分の適性についてじっくり考える時間が与えられるというのが魅力的に思えたからです(その意味で大学の選択は消極的なものだったと言えるかもしれません)。高校2年の時から、高校3年に混じって東大模試などを受けてある程度良い成績をとっており、高校3年の時も十分合格できるレベルに達していると判断して、結局東大のみ受験しました。

大学時代(1・2年生)

 そうして受験した結果、理科一類に入学しました。まず大学に入って明確に意識したことは、とにかく良い成績をとろうということでした。そうしないと2年生の進学振り分け(これは、1、2年の成績で3年生からの学部を決めるシステム)の時に自分のいける学部の選択が狭まってしまうからです。最初の学期は大学で色々なことを勉強しようと思って週20コマ以上受講し、これらすべての課題・レポート・試験の類いをしっかりやることに忙殺される毎日でした。まさに、受験生の生活の延長のようなライフスタイルでした。そのおかげで、成績もそこそこ良く、単位もかなりの程度揃いましたが、生活のリズムが単調で大学生活に対して味気なさも多少感じていました。1年生の夏休みも、実家でひたすら家庭教師と塾のアルバイトをし、多いときは1日に10時間程度、塾や家々をまわって講義をしていました。たまの休みには、好きな作曲家のCDを漁りに行ったり、歴史物の本を読んだり、パソコンのゲームをしたりしてただ時間を潰していただけでした。

 2学期目からは多少余裕も出てきたので、少し色々な活動に精を出そうと思い、化学部でパソコンの勉強をしたり、近くのプールに定期的に通ったり、東大で勉強する留学生をサポートするサークルに入ったり、バイトも増やしたり、などと勉強以外の活動も徐々に増やしていきました。

 結局、理系だった1・2年生の時には、数学・化学・物理の勉強の他に、コンピュータープログラミングや統計、伊豆大島での地層調査など、その時の専門の勉強を主にやりました。しかし、同時に、この分野での自分の能力に限界を感じ始め、理系の勉強を続けていった時の将来の展望が必ずしも自分の目指すところと一致しないのではないかと考え始めました。つまり、最初は理系の勉強を続けた場合、世の中の役に立つような技術の開発に関わりたいという風に漠然と考えていましたが、自分の理系に対する関心が相対的に薄れる中で、実社会にもっとコミットするには専門を思い切って変えた方が良いのではないかという風に考えるようになりました。

 そして、当時授業を受けていて面白かった国際関係の勉強を本格的にやりたいと思い始め、最終的に、2年生の時の進学振り分けで国際関係論分科に進学することになります

留学時代(大学3・4年)

 後から振り返って大学時代で最も楽しく、そして大きな影響を受けたのは米国留学時代の1年間でした。きっかけは、大学2年生の時に所属していたサークルの先輩が同じ交換留学の制度を利用して米国の大学に留学したという話を聞いて、興味を持ったことでした。そこで、留学を申請してみたところ、たまたま自分の大学が提携していたカリフォルニア大学に1年間交換留学をすることになりました。カリフォルニアでの思い出はたくさんありますが、将来の進路を考える材料となった出来事について幾つか書いてみたいと思います。

 1つ目は、米国留学中に住んでいたInternational houseと呼ばれる学生寮での経験です。そこでは60ヶ国以上からの留学生が住んでいる為、とても国際的な雰囲気があり、そこでの多様さを通じて自分が今まで全く知らなかった国に対する関心がかき立てられました。(例えば、北欧からの留学生とは福祉システムについて、東アジアの留学生とは歴史問題や日本のアニメについて、中東からの留学生には9・11に対する思いやムスリムの実情についてなど、様々な議論をしました。)また、自分のルームメイトだったケニア人は、とても敬虔なムスリムだったのですが、ムスリムと一口で言ってもその中で信じられないほどの多様さがあることを学びました。そして、両親のなけなしのお金でアメリカに留学し、自分が置かれた環境のありがたみを噛み締めつつ精一杯勉強していた彼の姿に、同じ部屋に住んでいた人間として、深く感銘を受けました。

 2つ目には、留学中の12月から1月の1ヶ月程でアメリカを一周したことです。カリフォルニアから出発して、南はマイアミから北はシカゴ、バッファローまで、アメリカの諸都市を巡りました。「アメリカ」と一口に言っても、中身は非常に多様で、マイアミでは1月でもビーチで泳げたものが、ナイアガラの滝に行けば氷点下20℃になるなど気候一つとってみても驚きでした。このような人種・文化・気候などが多様さを内側に抱えながら、一つにまとまっているアメリカという国の奥深さを感じ、自分がアメリカに対して持っていたイメージがいかに偏ったものであったかを痛感させられました。

 3つ目には、日本の大学からの研究者や、日本の会社や官庁から派遣されて留学に来ている人が集まって月に数回開かれていた勉強会が挙げられます。この勉強会参加者の専門分野は様々ですが、各回発表者を決め、各発表内容に関連して自由に議論をするというものでした。テーマは、北朝鮮情勢、世界各国の人権条約の批准状況、インターネット上の著作権など多岐に渡るものでした。ここでは色々な職業の人々と議論をすることで、自分の興味関心や適性を意識させられる機会が多々ありました。こうした勉強会に加えて、もちろん大学の授業も刺激に溢れるものでした。とても有名な教授の授業を直接受けることの楽しさに加えて、興味本位で受講した日本政治の授業においても日本経済の停滞の原因や特殊な政治慣行の弊害などについて意見を求められることも多く、日本の国をより良くする為にはどうしたら良いのかについてよく考えさせられました。この結果として、公務員という仕事が、そのような日本に対する思いを直接仕事にでき、自分の理想に通ずるものが一番多いのではないかという考えを持つ様になりました。

 米国留学によって、1年間余計に大学に行くことになりましたが、その間の経験を通じて、自分の適性や進路について考える時間を多く持つことができ、大変意義深いものでした。

公務員受験

 こうして米国への留学から帰国した後、公務員の勉強を開始しました。自分と同じように交換留学をしてから公務員受験をされた先輩が早稲田セミナーに通っていたことが決め手となって、早稲田セミナーの渋谷校に早速通い始めました。

 正直、自分が公務員受験に際して、具体的に「これをやらなきゃいけない」とか、「これをやってはいけない」という様な内容をここで書けるほど、自分自身が具体的な戦略を組み立てて勉強していた訳ではなく、実際のところは、渡辺先生がセミナーの授業でおっしゃっていた勉強方法をそのまま実践しただけであり、勉強方法の内容に関しては、ザ・フューチャーのHPや先生の授業中のアドバイスなどを是非参考にしていただけたらと思います。ただ、そうは言っても自分が受験勉強の時に心がけていた事柄は幾つかあったので、ここではそれらを列挙してみたいと思います。

1.勉強を楽しむこと
 自分は法学部の学生では無かったので、法律は全く未知の世界で、自分の法律の勉強に対する過去の積み重ねが皆無であることもあって、度々自分の知識の限界も感じましたが、未知である事が却って興味をかき立ててくれた面もありました。これは、ただそう思い込んでいたに過ぎなかったのかもしれませんが、こういう気持ちの持ち方は勉強への打ち込み具合に大きな影響を与えます。また、受験勉強で使う法律の知識を実際公務員になったらどう使おうか、と考えたりすることで勉強することに対してたとえ些細なものでも意義と喜びを見いだす様に心がけていました。

2.明確な目標を持って、それに向けて常に全力を尽くすこと
 たとえ楽しいと思っても、適当にやっていては成果を望む事は難しいでしょう。自分にとって全力でやるということは、たとえ悪い結果が出てもそれに対して言い訳を一切許さない状況を作る上で重要だといつも思っていました。すなわち、サボっていたりすると、たとえ悪い結果が出ても「あぁ、あの時サボってたから悪かっただけだ」という様に結果を総括しがちになりますが、かといって次の機会にはサボらずに頑張るかと言うと同じような過ちを繰り返す事も多々あります。失敗を次の成功に変えるためにも全力投球は必要だと思っていました。また、ただ全力でやれといっても、なかなか容易ではありません。自分も時折、全力を尽くす事自体が目的化してしまい、受験勉強が停滞したこともありました。そんな時は、公務員になぜなりたいのか、なったら何をしたいのかについて考えて、自分の勉強の意義について再確認をしました。これらの事柄は人事院面接や官庁訪問で必ず訊かれる志望動機を考える上でも重要ですし、やる意義は大きいと思います。

3.人の話に耳を傾け、アンテナを高く張ること
 目標を持つにしても、一生懸命頑張るにしても、その方向性を間違えると、その頑張りがあまり意味の無いものになってしまうかもしれません。また、特定の情報に反応するかしないかは、その人の感度に依存します。問題意識のない人にはどんなに重要な情報も素通りしてしまう可能性すらあります。自分で情報が不必要だと勝手に判断してフィルターをかけるのではなく、様々な人の話を聞いたり、色んな種類の本を読む機会を一期一会だと思って大事にしていました。

 以上のように3点を挙げましたが、皆さんお気づきのように、いずれもそれほど目新しいことではありません。しかし、逆に言えば、公務員試験というのは特別な才能やスキルが求められる試験ではなく、やるべきことをきちんとやることで結果を出せる面が多分にあるということでしょう。

終わりに

 過去に参加したカルロス・ゴーン日産社長の講演会で、彼が日産を再生させる為に必要なことは、@ビジョン、A戦略、B実行の3つだと指摘し、これらをいかにバランスよく行うかが成功の鍵であり、どれが欠けても成功は困難であるという話をされていたのを聞いたことがあります。本稿を、これら3つの要素に照らし合わせて総括してみると、@まず自分の生い立ちから大学時代までの経験が自分のビジョンを形作り、A中学受験や大学受験などの試験勉強の積み重ねが自分の公務員試験を受験する上での戦略の大枠を形作り(とは言っても具体的な戦略については、渡辺先生から教わるところが多く、本稿でもこの点については割愛しましたが)、Bそして自分の公務員になりたいという気持ちがその実行を可能にしたと言えるのかもしれません。皆さん一人一人も過去に培ってきたビジョン、戦略、実行にさらに磨きをかけて、自分の目標をつかんで頂ければと思います。その過程の中で、本稿が少しでも参考になれば幸いです。

 最後に、所属していた大学のゼミに楽天の三木谷社長が来られた時の話を少し紹介して筆を置きます。「自分がITのビジネスを手がけていることから、人からは自分がとてもリスクの高いことをやっていると言われることがあるが、私はそうは思わない。なぜなら、人生において一番のリスクは後悔することなのだから」。皆さんにとって悔いの無い公務員試験受験となることをお祈りしています。

(了)
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