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キャリア・エリートへの道

偶然を幸運にするための努力

内定を勝ち取った何か

 2004年度国 I 法律職最終合格、そして第1希望の防衛庁から内定を頂き、私の国 I 受験は最高の形で終幕を迎えました。しかし、択一試験はボーダージャストの58点、最終席次はおそらく全国で下から2番目(最終合格者485人中433番)という紙一重の差での最終合格でした。自分で言うのも少し恥ずかしいのですが、年々人物重視の傾向が強まっている現在の状況だからこそ内定を勝ち取ることができました。しかし、成績面では不利な状況であったにもかかわらず内定者として名を連ねることができたのは、他の優秀な受験生を淘汰する何かを自分が持っていたからだと思います。

 長期的視点のもとで計画をたて実行し上位合格を果たす、これは大変立派なことだと思います。むしろそういう人こそ官僚として国家行政を中央から担うには適した人材だと思います。

 しかし、長い大学生活には勉強以外にも時間を費やすに値することがたくさんあります。そのことに力を入れすぎて受験勉強が疎かになり、本番が近づくにつれ不安と焦燥に襲われている受験生もまた数多くいることでしょう。そんな受験生達の励みになればと思い、分不相応ながら今回、「キャリア・エリートへの道」を書かせていただくことにしました。

 自分という人間を語るに際し、ただ単に自分史を展開するのも私的には大変面白いと思うのですが、他の人にとっては退屈かもしれません。そこで自己分析の要素を加味して私が官僚を、最終的に防衛庁の役人を目指すにいたった理由を中心に据えて冷静に分析していこうと思います。一気にスクロールで飛ばされないように面白い文章になればと願うばかりですが……。

高知県民特有の気質

 私は1982年5月28日、高知県香美郡野市町で生まれました。現在国道沿いに大型店舗が乱立し始めていますが、依然として田畑とビニルハウスが主役の地位を占めている典型的な田舎街です。

 親戚の多くは専業農家、または農協関係者であることから分かるように高知県は未だに農業主体の県であり、県内総生産額は鳥取県に次いでワースト2の脆弱な県です。ちなみに下水道の普及率もワースト2、道路の普及率に至っては全国最下位で、中央の援助無くしては存続できない情け無い県です。しかし、私は故郷である高知県におおいに愛着心を抱いています。これは全国津々浦々住居を移しているために、拠り所となる「故郷」を人一倍欲しているからだと思います。

 私は高知県→徳島県松茂→広島県江田島→青森県八戸→長崎県佐世保→徳島県松茂そして京都府京都市(大学入学)と住居を転々としました。父親が海上自衛官の幹部であるために2年に1度は転勤を命ぜられるからです。父は防大出身のエリート幹部ではなく、内部からの叩き上げの幹部です。私の家族構成は自衛官の父、栄養士の母、自由奔放な姉の計4人、両親とも高知県出身の人で先祖代々高知県の生まれです。加えて親戚皆が高知の人で、他県で暮らしているのは私の家族だけでした。

 高知の男を総称する言葉として「土佐っぽ」という言葉があります。「いごっそう」という言葉が世間的な認知度は高いでしょうか。はねっかえりで自尊心が高く、そして短気で気難しい高知県民特有の気質を持った人を指します。純系土佐人の血を承継している私も、生まれたときから既に以上の「はねっかえり=反発心、自尊心が強い=負けず嫌い、短気で気難しい」気質を持っていたことになります。

公務員の家系

 父は自衛官ですが、祖父も国鉄で公安室公安室長を務めた警察官でした。さらに母方の伯父も現在高知県警で働いています。この様に私は公務員の家系に生まれました。私が公務員を最終進路として選択したのは必然だったのかもしれません。

自己中心的

 父の転勤のため青森県で幼稚園〜小学校1年生2学期までを過ごしました。負けず嫌いだった私はその気質を遺憾なく発揮し、早々と首領に伸し上ります。遠足で全員に渡された「プロ野球チップス」のカードそして「ビックリマン」のシールは全て自然と自分の物になり、友人が隣の組の園児に泣かされたとなると保育士の監視が緩む「お昼寝の時間」を狙い教室に乗り込み武力を以ってして謝罪させ、他の幼稚園との交流会でも制圧に積極的に乗り出し交流会の趣旨を台無しにしました。両親以外の大人から初めて本気で怒られる機会となりました。

 順風満帆で藤原道長ばりの幼稚園ライフを満喫していた私ですが、今でも1つだけ悔やんでいることがあります。演劇会「三匹のやぎのがらがらどん」で長兄のやぎの役ではなく、結局は長兄のやぎに倒されてしまうトロルの役を拝命したことです。今思えばベストキャスティングですが、両親以外の大人に初めて不満を抱く機会となりました。

 小学校に入学すると、他の幼稚園からの新入生と合流します。父が偶に見ていた任侠映画の影響でしょうか、多くの舎弟を従えていた私は自分のクラスを苦労なく制圧し、さらに他のクラスとの勢力争いにも勝利します。夏休みに入る頃には肩で風を切って小学校1年生区画の廊下を歩いていた覚えがあります。今思うと、どうしてこの状況を一生涯通じて持続できなかったのかただただ悔やむばかりです。

 この様に、この期間は私の野望を阻む存在は保育士そして小学校の担任以外なく、自らの傍若無人な振る舞いを省みることはありませんでした。そのために極めて自己中心的な子供に育ちました。

明朗活発

 小学校1年生の3学期に初めての転校を経験することになります。この時はまだ転校することに対する悲しみはありませんでした。転校先は長崎県佐世保市という長崎市内からは多少の距離があるものの、その影響を色濃く受けている街です。

 博多弁が飛び交う中で当初は疎外感を感じ孤立していたのですが、大人しくしているのは性に合わず積極的にクラスの輪の中に溶け込もうと努力するようになります。この後もう1度転校を経験するのですが、転校を繰り返すことよって私は明朗活発な性格になったのだと思います。内気なシャイボーイではクラスの一員として受け入れられるのに時間がかかるために、努めて明るく振舞うようになりました。初対面の人にでも臆することなく話しかけられるようになったのは、その必要性があったからだと言えます。

 また、この地で親友と呼べる友人ができました。同じ自衛官官舎に住んでいて、スーパーファミコン全盛の時代にもかかわらず裏山や川沿いの窪地に秘密基地を作ったり、陸上自衛隊の駐屯地に忍び込んだりして毎日夕暮れまで遊んでいました。時には彼と喧嘩もしましたが、親友という存在がいたからこそ私は友人との付き合い方の初歩的な部分を学ぶことができたのだと思います。

 父が徳島空港に航空管制官として赴任することが決まったため、3年生の3学期に再度の転校を経験します。親友との別れは辛く、泣きながら手を振っていたのを今でも鮮明に覚えています。

学業優先

 私はこの徳島の地で高校卒業まで過ごすことになります。勿論この間も父は転勤を繰り返すのですが、姉の中学進学さらには私が県内唯一の私立中学に進学したために単身赴任生活を送ることになったのです。

 徳島県には現在も私立中学校が1つしかありません。小学生の当事「神童」とまで言われた私は田舎の中学にしては珍しく高い競争率の中、入学試験を難なく突破し見事に入学を果たします。

 小学生の頃は大変優秀なお子さんで、テストは100点が当たり前、6年生から通い始めた塾で行われる模試でも1番を他に譲り渡したことはありませんでした。何故に私がこうも可愛気も無く学道に精進することになったのか。それは負けず嫌いの性格と、そして何より肥満体型にあったと思います。

 脈々と受け継がれてきた遺伝的なものなのか、母の作る料理を毎日胃がはちきれんばかりに食べ続けた結果なのか分かりませんが、物心付いたときには全身に必要以上の脂肪を蓄えていました。それ故にどう頑張ってもスポーツの面では1番になれません。私の「負けたくない」という思いは自然と勉強に向けられるようになります。

 とは言ったものの、首都圏の小学生の様に毎日勉強ばかりしていたわけではありません。放課後は運動場でサッカーやドッヂボールをして遊んでいました。肥満のわりに運動神経は良いほうで、クラス対抗球技大会のメンバーに毎回選ばれました。サッカーでは地元のクラブチームに所属し女子生徒の視線を釘付けにしいる奴らを集中的に狙い巨体を生かしたタックルを喰らわせ、ドッヂボールでは調子に乗って挑発を繰り返す奴の顔面に体重を乗せた重いボールをぶつけていました。釣竿とルアーを自転車に積み込み近所の川に釣りにも行きました。家に帰って大人しく机に向かうなんてことはありませんでした。

反権力志向

 私が公務員、特に防衛庁の役人として国防の仕事を中央から担いたいと思うようになったきっかけは司馬遼太郎の小説です。

 小学生の当時から私は日本史に興味を持ち、織田信長をはじめ多くの伝記を持っていました。活字の高尚なものではなく漫画のものばかりでしたが。日本史に興味を抱くようになったのは、両親が史跡を訪れる機会を数多く設けてくれたからです。

 日本各地を転々としましたから、様々な観光地に休日の度にでかけました。両親が共に日本史に興味を持っていたこともあり、寺社や史跡を観光することが多かったように思います。一番印象に残っているのは肥後25万石の大名加藤清正の居城熊本城で、その雄大な佇まいに心を打たれました。

 司馬遼太郎の小説を初めて手にしたのは小学校4年生の夏休みでした。夏休みに高知に帰省していた私は、夏休みの課題である自由研究のテーマに高知が生んだ英雄「坂本龍馬」を選びました。朝からパチンコに行こうとしている父を捕まえ、龍馬歴史資料館に連れて行ってもらい、さらには参考文献として活字の伝記が欲しいとせがみました。「いいものがある」、と言って帰宅した父は2階の押入れからダンボール箱を引っ張り出し、その箱の中から『竜馬がゆく』全8冊を取り出し私に与えました。その箱の中には司馬遼太郎の小説がギッシリと詰まっていたのを覚えています。

 挿絵もなく活字だらけの本をこんなに読めるわけがないと思いましたが、横で見ていた祖母や母の「まだ読めるわけないしょう」という言葉が私の闘争心に火をつけ、意地になって国語辞書を片手に四苦八苦しながらも読破しました。小学生の私にその全てが理解できるはずもなかったのですが、頭の中で歴史上の人物が生き生きと躍動し、自分がその場に居合わせるような錯覚に陥るという感覚は漫画では味わえないものでした。司馬遼太郎の小説に魅了された私は現在にいたるまで、司馬遼太郎に限らず歴史小説を愛読しています。

 坂本龍馬だけではなく、『世に棲む日日』の高杉晋作や『国盗り物語』の斎藤道三の既存権力に立ち向かい新たな一時代を築き上げていく雄姿に魅せられ、自身も何か日本史に残るような大きなことがしたいと思うようになりました。そして結果的に将来の進路として防衛庁の役人を目指すことに帰結するのですが、当分の間はその思いだけが強まり、具体的な答えを見つけられないまま燻っている状態が続きます。

 また、同時に理不尽な既存権力に従うことは愚かだと考えるようになりました。生来の反発心の強さと相俟って私は徹底的に権力に歯向かうようになります。当時の私にとって権力とは専ら「退学」の2文字をちらつかせ理不尽な校則で生徒を縛り付ける教師達でした。決して無闇矢鱈と反抗していたわけではなく、また反抗することが格好良いとも思いませんでしたが、自分が納得できないまま権力に無条件に従うことはできませんでした。当時は今よりも未熟であり稚拙な判断にもとづいていたのかもしれませんが、それが幼い私なりの信条でした。

 唯一の例外は両親に対してです。人類学上当然の成長過程として誰もが「反抗期」をむかえます。当然私にも平等にその時期が訪れます。しかし、その反抗期は選りに選って父が再度徳島勤務となり徳島に戻っていたときに訪れてしまいます。

 反抗期が本格化する前にその予兆を察知した父は、父親としての絶対的な威厳と圧倒的な武力の差を私に示し最後通牒を突きつけます。大日本帝国が太平洋戦争時に犯した過ちを繰り返すほど私は愚かではありません。原子爆弾が投下されてしまう前に早急に無条件降伏することに決め、私の反抗期は初期の段階の僅かな期間で終了することとなりました。

退廃

 前述した様に、私が進学した中学校は中高一貫教育を売りにしている県内唯一の私立中学校であり、そのため県内各地から優秀な生徒が集まります。定期試験の度に学校側が生徒の競争心を煽るために、上位50名の名前を職員室前の掲示板に貼り出します。私はその頂点を目指そうと、持ち前の負けず嫌いを闘争心に変え入学当初から勉学に励みます。努力の甲斐あり中学過程が終了する2年生までは常時10番以内をキープし続けるのですが、高校過程に突入する3年生になると私の成績は下降の一途を辿ります。

 どれだけ努力しても頂点を獲れない虚しさと高校受験が無いために生ずる中弛みが、私から勉強する意欲を日に日に奪っていったのです。登校しても授業中は寝ているか、起きていても絶妙なカモフラージュを日々考案し歴史小説や漫画を読み漁るだけ、放課後はほぼ毎日友人の父親が税金対策で購入したマンションに入り浸り、専ら麻雀に興じていました。そこは日々の雑事から解放される永遠のネバーランドの様に思えました。

 私の弛みっぷりは職員室でも問題視されていたらしく、中学を卒業する頃に生活指導兼剣道部顧問の体育教師に呼び出され、剣道部に勧誘されました。心身を鍛えるためだと言われ、麻雀にも飽きてきた頃で肥満解消にでもなればいいかという軽い気持ちで入部を決めました。

 部活動に関しては、学校自体が学業を優先しており冷ややかなスタンスであったために盛んではありませんでしたが、日本の伝統競技である剣道については例外であり設備は充実していました。しかし、学業重視の校風を反映し帰宅部が主流派であったので部員は僅かしかいませんでした。

 1対1でぶつかり合う剣道は確かに魅力的で性に合っていたのですが、汗臭い青春を送る気は起こらず、そして何より貴重な休日を部活に割かれるのは苦痛であったために剣道にのめり込むことはなく、週に2・3度顔を出す程度のいい加減な部員でした。センスは自他共に認めるところで、いい加減な練習態度にもかかわらず個人戦3回戦程度までは駒を進めていました。結局敗戦を悔しいと思うこともなく、猛稽古の中に身を投じることもなく、高校2年の春に勉強を理由に退部します。当初の心身を鍛えるという目的も達成されず、部活を頻繁にサボり無気力なままフラフラしていましたし、また動けば動いた分だけ体がカロリーを欲するために肥満解消の目的もこれ以上の体重増加を防いだだけに留まりました。

転機

 1997年橋本政権時の「新ガイドライン」、1999年の能登半島沖不審船事案や東ティモール避難民救援国際平和協力業務実施などをうけて日本の防衛、安全保障さらには憲法問題についての議論が盛んになりました。これらの議論に関して自衛官の息子が何も分からないのはまずいなと思い、まずは安全保障について勉強しようと『日米安保とは何か』という本を購入しました。そこで初めて自衛隊の歴史的変遷を知り、また何が問題となっているのかを理解しました。

 当時も、現在も自衛隊の海外派遣は憲法の平和主義に反する、軍国主義の復活だと主張する論者や盛んにデモ抗議を繰り返す集団がいます。父が自衛官なので自衛隊の存在について否定する動きに反感を感じたのも事実ですが、現実の脅威に目を向けず世界平和を声高に唱え続けることに何の意味があるのか私には理解できません。確かに世界平和は崇高な理念であり尊重されなければなりませんが、彼らの全くの軍事力をこの世界から排除すれば世界平和が実現するという主張は短絡的であり現実的ではありません。歴史上の歪みから絶えず生ずる民族紛争、不透明な軍事力を背景に常に脅威となり続ける独裁国家が存在している事実を蚊帳の外に置いているからです。理想に埋没することなく現実を直視し、軍事力を正しく運用することが国家の安全と世界の均衡を、そして戦争の起こらない平和をもたらすのだと思います。また、国防という仕事は文字通り国を守りそして国を創る仕事であり、どこか明治維新志士達の姿を思わせるスケールの大きい仕事であり魅力的でした。以上のような考えから国防を担う仕事に就きたいと思うようになりました。

実行

 政策面から国防に関わりたかったので、自衛官の道ではなく防衛庁官僚の道を目指すことにしました。官僚になるためには東大か京大の法学部を出とかなければならないという単純な思い込みから、私は怠惰な生活に別れを告げ突如として受験モードに入ります。それが高校2年の春でした。

 自由奔放な校風に憧れて最終的に京都大学を第1志望にしました。将来という具体的な目標を見つけることができたので、学内での成績順位を気にすることもなくなり、机に向かうモチベーションを回復した私は京都大学に合格するために可能な限りの時間を費やします。非効率的な授業を見限りひたすら内職に明け暮れ、放課後も真直ぐ自宅に戻る生活を送りました。迎えた入試本番、最大懸案事項の数学が比較的簡単だったために職員室の下馬評を覆し京都大学合格を果たしました。

 この時期、私は不可能だと思っていたことをもう1つ可能にしました。それは肥満体質からの脱却、つまりダイエットに成功しました。ダイエットを試みた理由は、遅めの思春期が到来したわけでもなく、恋心が芽生えたわけでもありません。

 高校の時に何故かプロレスが極内輪で流行し、深夜のプロレス中継を観戦しているうちに自分もレスラーのような筋肉隆々の肉体になりたいと思い、ダンベルを購入し筋トレに勤しんだのがきっかけです。筋肉の増加による基礎代謝の上昇が体脂肪燃焼率を高めたために、やや体重が減少しました。「あ、人間て痩せるんだ」と増量しか経験したことのなかった私は新たな発見をし、減量という目標を新たに追加し、その実現に向けて最大限努力するようになります。京大合格と減量が私の2大目標として設定されました。

 食欲を抑制してしまうと極度のストレスを感じるために特に食事制限はせず、バス通学を自転車通学に切り替え片道1時間かけて登校し、また帰宅後は愛犬を伴いロードワーク、そして就寝前の筋トレ。これを繰り返すことで私の肉体は徐々に、しかし確実に体脂肪を減らしていき、高校を卒業するまでの2年間で約25kgの減量に成功しました。

 この困難な2大目標を達成したことで、愚直な努力は必ず目標の実現をもたらすという確信と、さらには内面的にも外面的にも自信を手に入れました。

部活一色の大学生活

 夢にまで見た大学生活、決して堕落せずに学生の本分をわきまえた4年間にすると心に誓ったはずなのですが……。

 独り暮らしの不摂生な生活により、以前の肥満体型に戻ってしまうことを怖れた私は、定期的に運動できる環境に身を置こうと思い運動系サークルか体育会運動部に入ろうと思いました。部活はサークルと違い毎日練習があり体型を維持するのにはむしろ好都合、またやるからにはいい加減にはしたくはなかったので体育会を選びました。高校時代剣道部に在籍しておきながら中途半端なまま退部してしまったことを、多少なりとも後悔していた部分もありました。

 ソフトボール部に決めた理由は

  1. 練習が毎朝あるものの始業時刻までには終わるために学業に支障をきたさない
  2. 生涯通じてプレーできるスポーツである
  3. 体育会らしからぬ上下関係の厳しくないアットホームな雰囲気

 主に以上の理由から入部を決めました。

 しかし、毎朝練習があるということは毎日規則正しい生活を送ることが絶対条件であり、朝まで飲みに行ったりすることは滅多にありませんでした。また、大学が長期の休みに入ると練習時間が午前中4時間に延長されるために練習後は疲れ果て、昼寝のつもりが気がつくと日が沈んでおり、起きた後も特にやることが無いのでまた眠りにつくという毎日の繰り返しでした。日々の練習に加え、合宿・遠征・大会などで休みのほとんどが割かれてしまい、帰省することすら困難な有様で、夏休みや春休みに旅行の計画を立てている友人が心底羨ましかったです。

 初めは体育のソフトボールに毛が生えた程度のものだろうと安易に考えていたのですが、競技のソフトボールとなると全く違うスポーツになります。使用するのはゴムボールではなく硬球、塁間が短い為に一瞬の躊躇が勝敗に大きな影響を与え、投手の投げるボールも重力に逆らって変化します。チームのエースは下投げで常人の上投げよりも早い球を投げるため体感速度は140km/h以上、速すぎて入部当初はバットにボールが全く当たりませんでした。

 チームには高校総体優勝経験者も数名在籍しており、レベルが高く素人の私がレギュラーポジションを掴むためには人一倍の練習が必要でした。ベンチで勝利を迎えてもどこか疎外感を感じてしまい、喜びの輪に加わることができず、それが何よりも悔しくて練習に明け暮れました。練習が終わると当然の様に昼過ぎまで自主練、そして夕方にジムに通うのが日課になりました。練習の甲斐あり、2回生の夏季西日本大会でそれなりの成績を修めて以降レギュラーに定着することができ、私の部活ライフは一層充実しました。

 この様に、私の大学生活は3回生の秋に引退するまで部活一色の生活であり、勉強のほうは疎かになる一方でした。

 部活は辛く厳しいものでしたが、高校までには無い上下を含めた濃密な人間関係が私を内面的に大きく成長させてくれました。入部当初は生来の気難しさと自己中心的性格、さらには順調に人生の階段を駆け上がるに伴って順調に成長を続けた天狗の鼻が災いし、周囲に大いに迷惑をかけました。その都度注意してくれる同回生や上回生に恵まれ、次第に周囲を慮るようになります。内面的な部分に及んで注意を受けるという経験は初めてであり反感を覚えたのも事実ですが、プライベートでの人間関係がチームのプレーにまで影響するために反省し改善する必要に迫られました。注意を聞き入れることは頑固者の私には難しかったのですが、生来の気質といえども真摯に受け止めて意識していると徐々にですが修正されていくもので、ソフトボール部での3年間で角張った部分が強引にも削り取られ、多少の人間的な丸みがでたように思えます。過去の自分の振る舞いを振り返ると恥ずかしいばかりですが、この部に入部していなかったら自己の内面的欠陥を見直す機会を得ることはなかったでしょう。この様な経験を含めて私が部活を通して得たものはとても貴重なものだと思います。

防衛庁を志す

 学部の友達が司法試験だのロースクールだの騒ぎ始めた頃、部活に明け暮れていた私も将来のことを意識し始めるようになります。大学入学後3年間経っても防衛庁に入庁したいという気持ちは変わることなく、むしろ昔よりも具体的な志望として固まっていました。

 北朝鮮が日本領海に打ち込んだテポドンは、日本の防衛政策そして防衛技術の不備を露にしました。それを瀬戸際外交だと容認してしまう政府、軟弱でその場しのぎのものとしか思えない外交を展開し続ける政府に怒りを覚えると同時に、アジア諸国の圧力とどこか夢見がちな世論に屈し、中途半端な政策と時代遅れの装備しか揃えることができず、アメリカに依存しなければ自国を守れない悲しい現状を痛感しました。

 9・11以降の世界の混乱振りやアメリカの狂気は、国家にとって軍事力が如何に重要な構成部分であるかを示しました。建前では何とでも言えますが、それが現実です。この全世界的な流れの中で、日本の防衛政策は大きな見直しの必要性に迫られています。外務省や内閣府でも、国家の安全保障という観点から防衛政策に携わる仕事はできます。しかし、現場の第一線で任務に当たるのは自衛隊であり、その自衛隊の運用を担い、サポートする防衛庁の役割こそが重要だと思います。

 また、イラク派遣にみられるように、自衛隊が活躍する場は国際貢献という領域にまで拡大しています。それに伴い、防衛庁の担う役割も一層重要なものになっています。利権に縛られ身動きのとれない省庁ではなく、変革の時を迎え変わろうとしている防衛庁に入庁し、新たな時代の要求に応え、やり遂げていくことに大きな魅力を感じました。

国 I 勉強開始

 部活を引退までやると決めていたので、早い時期から勉強を始めたほうが良いだろうと思い、3月にW(早稲田)セミナーに入校しました。他にも候補はあったのですが、部活が忙しく決められた講義スケジュールをこなすのは無理だと判断し、ビデオ講義が主体の早稲田セミナーに決めました。予定では1年間綿密なスケジュールのもとで上位合格を果たすはずだったのですが、思い通りにはいかないのが人生なんでしょうか。

 入学当初は「俺って今勉強している」という新鮮さから積極的に講義を消化し復習も十分にこなせていました。しかし、その新鮮味が薄れ、また春から夏にかけて部活が本番のシーズンを迎えると比重は自ずと部活に再度傾きます。勉強しなければいけないとは思いながらも、練習をこなした後に3時間の講義を受けるのは体力的にも難しく、自然と早稲田セミナーから足が遠のきます。それでも、なんとか憲法・民法・行政法の主要3科目だけは講義を予定通り消化していました。しかし、睡魔に襲われ続け集中力を欠いた状態での受講を続けたためちっとも理解できず、帰宅後も復習する間も無く翌日の練習に備え就寝。この時期は、ただ単にビデオを眺めているだけでした。

 私が本格的に勉強を始めたのは部活を引退した11月以降で、ほぼゼロからのスタートでした。本格的にといっても並の受験生ほどではなく、未だに勉強に明け暮れる毎日というわけではありませんでした。毎日の練習から解放された喜びと引退した気の緩みから、華やかな学生生活を味わってみたいという欲望が疼きだしました。その欲望に負けまいと奮闘するのですが、理性対欲望の結果は、横綱と平幕が勝負するようなものであり、はなから勝負になりませんでした。

教養

 専門の勉強が順調ではなかったために、教養の勉強どころではありませんでした。そのため残された時間が極端に短くなり、効率の良い勉強法が求められました。

 主な教材としては教養模試を利用しました。毎回の模試開催日に受験する余裕は無かったので、模試を手に入れ、後日図書館等集中できる場所で3時間計りながら解きました。本番に合わせ3時間で解くことにより、本試験に向けての良い練習となると共に休養科目全教科偏りの無い学習ができと思います。復習の際に『一般知識マスター』(早稲田経営出版)を用いて、知識の整理を行いました。

 高校以来数字とデータが苦手な私は、資料解釈を教養最大の弱点としていました。模試では無得点が当たり前で、さすがに本番これでは洒落にならんと思い『資料解釈天空の解法パラダイム』(実務教育出版)を用いて弱点を克服しました。毎日継続的に行うことで、本番では全問正解することができました。やはり、短時間でも的確な弱点克服を行うことは必要だと思います。これが一問でも間違えていたら路頭に迷っていたわけですから、弱点を放置プレーしなくてよかったと心から思いました。

 教養対策を開始したのは本試験のほぼ2ヵ月前で、結局十分な対策はできませんでした。教養対策にまとめて何時間も確保するのではなく、専門の合間の僅かな時間でも、教養の勉強に充てることが大切だと思います。

専門

 私は法学部に在籍していますが、法学部の教授は学生に厳しいおじさん達ばかりですので簡単には単位をくれません。そのため、政治系科目ばかり履修するようになり、法律系科目は憲法と刑法しか履修していませんでした。そのため法学部という法律職を受験するうえでのアドヴァンテージがなく、専門科目の勉強に重点を置きました。

 基本的な勉強方法は、ビデオ講義受講→テキスト(国 I バイブル)を再読した後に判例百選&基本書で知識の整理と補充→過去問演習という流れを一貫してとりました。

 基本書としては公務員試験のタネ本である『芦部 憲法』(岩波書店)と『塩野 行政法』(有斐閣)を用いました。学説が錯綜する民法は感情的で理論派ではない私には理解し辛く、読者に優しくない基本書を読むのが苦痛でした。そこで、出題成績のある論点も図で詳しく解説されており理解し易い受験テキストを用いました。

 過去問演習については、『セレクションシリーズ』(早稲田公務員セミナー)を用いました。過去○年分と決めて演習する方法が主流らしいのですが、復習の際に講義の該当範囲全問題を解くようにしました。時間はかかりますが、微妙に異なる問題を数多くこなすことで、知識を定着させました。

渡辺ゼミにて

 渡辺先生の憲法・行政法の講義をビデオで受講しました。厳しい言葉で叱咤激励される東京のライブ受講生を見ながらビデオ講義でよかったなと正直思っていました。しかし、部活引退後1月経っても勉強に身が入らない現状を変えようと一大決心をして、渡辺ゼミ受講を決めました。

 やはり講義内容は高度で、ゼミの度に実力不足を痛感しました。渡辺先生の質問に答えることができない悔しさと叱咤激励を糧にして、今までの姿勢を反省し勉強に集中するようになりました。合格の見込みが低いと思っているであろう渡辺先生を見返してやる、そう思いながら勉強を続けました(http://www.thefuture.co.jp/kouza/02e.html参照)。

試験本番

 不安要素ばかりの状態で臨んだ択一試験。試験中あまりの難しさに、泣きながら受験会場を駆け出そうと何度も思いましたが、もう1年勉強することを想像して嫌気がさし、また多大な援助をしてもらった親にも会わせる顔がないと暴発しそうになる自分をなんとか抑え、無事に試験終了時間を迎えました。結果はボーダーラインの58点。数的処理全てに2をマークしたこと、勘でマークした刑法の学説問題が正解していたことを考えると幸運がもたらした紙一重の合格でした。

 1次試験と2次試験の間は僅かに3週間しかなく、1次試験の勉強に追われて2次試験対策を事前にしていなかったため極めて厳しい状況でした。憲法・行政法・民法の膨大な全論点を短期間でこなすのは不可能であり、また、1次の試験勉強に追われ2次対策に十分な時間を費やすことも難しいのが現実です。残された短い時間にあれこれ手を広げて勉強するよりも、渡辺ゼミ II 期で配られたレジュメを消化しきるほうが賢明だろうと思い、2次対策はこのゼミレジュメ以外は使用しませんでした。

 今思えば大胆かつ無謀な作戦でしたが、予想外の論点が出題されたら渡辺先生のせいにして諦めようと、渡辺先生曰く「罰当たり」的な開き直りをみせて決行しました。この作戦が見事にはまり、2次試験の総合試験を含めた全問題がレジュメ若しくはゼミ講義中に扱った内容で、考えこむことも無く一気呵成に答案を完成させました。渡辺先生の凄さを改めて認識し、また自らの強運に驚きました。ありがとう渡辺先生、先生を信じて本当に良かったです。

人事院面接での失態

 人とコミュニケーションをとることに苦手意識がなかったので、人事院面接については何ら対策を講じませんでした(他のゼミ生は京都に来ておられた渡辺先生に面接カードのチェックをしてもらっていたのですが、所用でお会いできませんでした)。これが仇となり、人事院面接は大失敗に終わりました。

 極度に緊張する場面では言いたいことを上手く伝えることができず、なんで公務員になりたいのかという基本的な質問に対してですら、自分の考えを十分に伝えることができませんでした。

 また文部科学省から派遣されている(注・業務説明会に出席した友人からの情報による)面接官に激怒し、冷静さを欠いた受け応えをしてしまいました。何故に防衛庁を志望しているのかという質問に対し、防衛政策が今後一層重要になると考えた過程を説明するために、東アジアにおける脅威について語ったところ、「君の考えは軍拡だよ、危険だねえ」と言われてしまいました。その理由を尋ねたところ「常識だよ」と返した彼に短気な私は激怒してしまい、ゆとり教育なんて愚劣極まりない政策を実行したあんたらに常識がないんだよ、とは流石に言いませんでしたがそれに近い内容で言い返しました。自分的に会心の一撃を放った直後は晴れ晴れとした気持ちと満足感に浸っていましたが、面接的には大失敗です。他の2人の面接官が大笑いされていたので何とか首の皮一枚で繋がりましたが、皆さんは一生がかかる大事な場面ですので、何を言われても冷静さを欠かないように心掛けてください。

 しかし、彼の態度も問題だと思います。圧迫面接を行うのが役割だったのかもしれませんが、人を批判する際には相手を納得させるだけの理路整然とした理由を提示するべきだと思います。

東京

 最終合格発表前に代々木オリンピックセンターで説明会があるという関西勢には優しくない日程でしたが、ここで宿泊費をけちっても仕方が無いと思い、択一試験の成績と人事院面接での失態をもとに判断すると合格しているわけもなかったのですが、人生何が起こるか分からないですし、説明会に参加しなかったことを後悔したくもなかったので説明会の日程に合わせて東京に向かいました。

 宿泊施設には市ヶ谷近くのウィークリーマンションを選びました。友人宅に厄介になることもできたのですが、帰りが遅く迷惑をかけるのも気が引けましたし、1人でゆっくりと将来について考える時間も欲しかったので止めました。またしても親に対して多大なる債務を抱えてしまったわけですが、生活リズムを崩すこと無く官庁訪問期間を過ごすことができました。

 関東以外の地域から官庁訪問のため東京に来ている受験生は、面接の時に必ずと言っていいほど滞在先を聞かれます。私は防衛庁まで徒歩約15分程度の場所に借りていたので、防衛庁が絶対的な第1志望だとアピールするための良い材料となりました。

最後の正念場

 人事院の掲示板に自分の名前を見つけたときは、喜びよりも官庁訪問ができることに一安心しました。しかし、合格を噛締める間もなく、内定を勝ち取らなければ意味がないと気持ちを切り替え、防衛庁庁舎に向かうために決意も新たに地下鉄の駅に向かいました。

 気負いすぎて逆方向の電車に間違えて乗り込み大幅なタイムロスをくってしまい、防衛庁庁舎に到着した頃には多くの受験生が待合室にて待機していました。誰もが自分よりも優秀な人間に見えてたまらなく不安になりましたが、自分は今運気が最高潮に達している、官庁訪問もこの勢いで乗り切れるはずだと信じて面接に臨みました。自分の考えを100%伝えても採用されないようならば、そんな職場はこちらから願い下げだと開き直れたために、人事院での面接の様に緊張することもなく、平時の自分らしく明るくエネルギッシュに官庁訪問を乗り切ることができました。

 後日採用担当の方に自分が採用された理由を尋ねたところ、「若さでアタックだからな」という答えが返ってきました。積極果敢な姿勢が評価されたのでしょう。いい意味で受け取っておきました。

偶然を幸運にかえるもの

 それは努力です。私は希望通り防衛庁に内々定を頂くことができました。自身の受験生活は最高の終幕を迎えたわけですが、確かに全てが自分の実力ではなく、運の要素も大きかったと思います。しかし、模試が絶望的な結果でも、1次試験の結果がボーダージャストでも最後まで諦めずに勉強したことや、時間的余裕の無い中でも積極的に業務説明会に参加し、採用担当の秘書課の方に顔を覚えてもらうよう努めたことなど、自分は運を引き寄せるための十分な努力をしたと断言できます。

 京都大学に現役で合格し、国 I 試験にも一発で合格し、官庁訪問も順調にこなし内定を頂いた、これが私の大学受験以降の経緯です。この経緯から「苦労知らず」とか「挫折を知らない人間は苦境に弱い」、などとよく言われます。しかし、私は決まってこう反論します。「要所々々で然るべき努力をした必然の結果だ」と。

 京大に現役で合格できたのは、大の苦手の数学が簡単だったため。国 I にボーダーでも一発で合格できたのは、2次試験での博打の結果が吉と出たため。内定を勝ち取ることができたのも、今年の採用担当の方が明朗活発な性格と部活の人間関係で揉まれやや丸くなった人間性を良しと評価してくれたため。全て幸運がもたらした結果だと言えなくもありません。

 しかし、これら諸事情は、例えば模試の結果に打ちひしがれて努力することを放棄していたとしたら、また他の受験生に圧倒され卑屈になり採用されることをはなから諦めていたとしたら、それはただの偶然でしかなかったでしょう。偶然を決定要素に変えることができたのは然るべき努力を怠らなかったからです。

 繰り返しますが、希望通りの将来を掴むためには努力することが必要です。「努力は人を裏切らない」、使い古された文句でありインパクトのある文句ではありませんが、全くその通りだと思います。今までの短い半生の中で、私はそう確信しています。

 現在順調に勉強を続け申し分の無い力を付けている受験生の皆さんは、現状に満足せずに更なる高みを目指して、またそうでない受験生の皆さんも最後まで諦めることなく努力し続けて下さい。くれぐれも全国ブービーでも内定が貰えるんだと油断しないように。私の様に冷や冷やの受験生活はお薦めできませんから。

 皆さんが妥協することなく最後まで努力し、思い描いている将来を掴むことを切に願ってやみません。内々定解禁日のその日まで頑張って下さい。

 最後になりましたが、危なっかしい受験生活を送る私を最後まで暖かく見守って下さった早稲田セミナー京都校公務員担当の中平さん、文字通り合格に導いて下さった渡辺先生、受験生活を楽しいものにしてくれたゼミの仲間、そしてなにより合格も見込みが薄いにもかかわらず金銭面でも精神面でもサポートしてくれた両親に心から感謝しています。ありがとうございました。

(了)
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