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キャリア・エリートへの道

出会いが人生を変える

はじめに

 最初に、渡辺先生からこの原稿を書いてほしいと言われたときは軽い冗談かと思い安請け合いをしてしまいました。しかし、翌日に先生からしっかりと正式な依頼のメールが来ていたときは、正直に言って戸惑いました。

 私は、国 I 法律職を2度受験し、1回目は1次落ち、2回目では最終合格したものの合格席次も下位であり、官庁訪問でも志望省庁から内定をもらえなかった人間です。そして、結果として、民間企業へ進みます。ですから、私がいわゆる「キャリア」にはならない人間であるため、本稿を読んでくださる皆さんが抱く将来像に合致するかといえば「?」が付きますし、果たして「エリート」か、と自分に問えばそこからは程遠い存在だと自覚しています。そんな自分に、果たしてこの原稿を書く資格があるのか、また、自分のこれまでの人生を綴ることで、読んでくださる皆さんにメリットはあるのだろうかと悩みました。

 しかし、厳然たる事実として、国 I は合格者数より不合格者の方が多い試験です。また、志望官庁から内定をもらえる人(約40%)より、もらえない人(約60%)の方が多い試験です。そうすると、進路について、少なからず、私と同じような境遇に立たされる人がいるのではないでしょうか(縁起でもない話ですが…)。そこで、そうした人たちに自分の経験を伝えることで少しでも役立つことができれば、という想いが芽生え、寄稿することにしました。一方で、着実に「キャリア・エリートへの道」を歩まれている人には、私の数々の失敗談を反面教師として読んで頂ければ幸いです。

 本稿では、まず私の生い立ち(幼少時代から高校時代)について述べ、大学での学生生活や公務員試験受験体験、民間企業の就職活動の体験とそれらの経験から学んだこと、感じたことについて述べたいと思います。途中で読み飽きてしまうかもしれない、長文・駄文ですが、皆さんの進路選択において何らかの後押しをすることができるのであれば望外の喜びです。

少年時代

 私は、神奈川県横浜市で生まれました。父は会社員、母は専業主婦、そして8歳上の兄という家族構成です。兄との年の差を除けばごく普通の家庭に生まれた私は、1歳で大阪府吹田市に移り、そこで5歳まで過ごしました。この頃に、父と一緒によく京都や奈良の神社仏閣に行ったことを覚えています。私にとっては、電車に乗ってどこかにでかけるということが楽しみであっただけで、神社仏閣に興味があったわけではありませんでしたが、この頃に日本の古来の文化に触れていたことは、私の日本文化に対する価値観を形成する上で大きく影響していると思います。また、ちょうど阪神タイガースが優勝した年に大阪に住んでいたこともあり、自然と野球に興味を覚え、将来はプロ野球選手になることを夢見るようになりました。

 こうして、大阪での少年時代を過ごした後、現住所でもある神奈川県川崎市に引っ越しました。このとき、風疹をこじらせて髄膜脳炎という病気にかかり、3日間意識を失う(気が付いたら3日経っていました) という経験をしました。風疹の合併症として髄膜脳炎が発症するのはおよそ5000人に1人の確率で、脳の病気ということもあり、医師からは後遺症の可能性を指摘されていたようですが、1ヶ月の入院を経て奇跡的に後遺症もなく退院することができました。この経験を思い返すと、人生一度きりで、普通に生活できるのは今しかないということを強く思いますし、この出来事が私のその後の人生を象徴しているかのようにも思えます。

小学生時代前半

 小学生時代前半の私は、一言で言えば「問題児」でした。具体的には、8歳の年の差をものともせずに兄弟ゲンカに明け暮れ(果敢に立ち向かいましたが、勝った記憶なし)、友人ともしばしばケンカをしました。一番ひどかったのは、授業中に小学校を抜け出して近くの公園で遊んでいたことです(もちろん、発見された後に教頭先生から大目玉を食らいましたが……)。

 少し話がそれますが、民間企業の面接で「小学校時代のあなたはどんな子でしたか?」という質問をされたことがあります。そのとき、私は「やんちゃでした。」と答えました。やんちゃも問題児も意味するところは大して変わらないと思います。つまり、言いたいことは、自分のものの言い方一つで相手の受け取る印象が全然違うということで、これは面接に臨むに当たって肝に銘じるべきだと思います。

 さて、話を元に戻して、こんな私にも更生の時が来ます。3年生の担任の先生との出会いが私を変えました。初めは、問題児ぶりをいかんなく発揮していました。しかし、学級新聞を作る係だったときに、締切日をすっぽかしていまいました。そのとき、先生からは、その日のうちに持ってきてくれれば良いと言われましたが、放課後に私は友人と遊んでしまい、結局学校には行きませんでした。翌日、当然の如く叱られたわけですが、そこで先生は、私がきっと新聞を持ってくると信じて7時まで学校で待っていたと言ってくれました。その言葉により、私は先生の期待を裏切ってしまったと感じ、非常に申し訳なく思い、自分の行動を悔い、恥じました。そして、これ以来、こんな自分でも期待をして信じてくれるその先生を慕い、その先生の言うことを聞くようになり、時には先生に厳しく叱ってもらうことで自分の悪いところを直してもらいました。

 一方、阪神優勝を目の当たりにしてからプロ野球選手になることを夢見ていた私は、地元の少年野球チームの所属資格が小学3年生からだったので、3年生になったと同時に迷わず入りました。少年野球の練習日は毎週土日しかありませんでしたが、この頃の私は、暇さえあれば友人とキャッチボールをしたり、1人でもいわゆる「壁当て」をしたりして、野球にのめりこんでいました。

小学生時代後半

 小学4年生になって、私の周りで学習塾に通う友人がちらほら現れるようになりました。私が仲良くしていた友人もそのうちの1人だったので、その友人に感化されて私も近くの学習塾に通いたいと思うようになり、親に相談しましたが、親は簡単には首を縦に振らず、やっとの思いでOKの返事をもらいました。ところが、元来勉強嫌いで必要に迫られなければ勉強しない性格の私は、塾へ行くといっても、勉強しに行くという感覚ではなく、塾でできた新たな友達と遊びに行くというような感覚で通っていました。しかも、野球も続けてやっていたので、勉強に十分な時間を割くことはなく、成績は低迷していました。

 このような状況でも親は寛大でいてくれたため、塾通いと野球に明け暮れる日々が2年ほど続きましたが、6年生になると塾の授業数が増えたり、毎週日曜に模試があったりするようになり、徐々に野球との両立が難しくなってきました。そこで、野球か塾かの選択を迫られましたが、私は塾を選択しました。というのは、塾には親に無理を言って通わせてもらっていたので、最後までやり通さなければという想いがあったことと、志望校を目標として意識するようになっていたからです。そして、塾一本に絞ってからは、しっかりと勉強するようになったと思います。苦手科目だった算数(これが勉強に関してその後の私をずっと苦しめることになるわけですが……)からは逃げることばかり考えていましたが、他の科目でカバーすることで、それなりの力をつけることができました。

 そうして迎えた人生初の受験でしたが、第1志望の学校にも第2志望の学校にも落ち(やはり苦手の算数が最後まで尾を引きました)、第3志望であった桐蔭学園中学に合格しました。桐蔭学園は、塾に通い始めて間もない頃に漠然と入りたいと思って意識していた学校だったので、「まぁ、最初に立てた目標は達成したのだから、結果良しとしよう」と思い、第1志望に落ちたことをあまりショックな出来事とは捉えずに、校舎が広くスポーツも盛んであるということも後押しとなり、進学することに決めました。

 ここで、以上のような野球や中学受験に加えて、この頃のエピソードとして『はだしのゲン』を読んでいたことを挙げなければなりません。『はだしのゲン』は、小学校の図書室にある唯一の漫画であったため、休み時間などによく読んでいました。この漫画から、歴史のことをよく分からないなりにも、核兵器が人々にもたらす残酷さ、悲惨さを学び、こんなものはあってはならないと強い憤りを覚えました。さらに、漠然と「戦争」について意識するようになったのですが、私にとって非常にインパクトのある経験であったと思います。

中学生時代

 桐蔭学園は、中高一貫で男女別学と能力別授業という特色ある制度を有する学校です。男女別学というのは、男女の生徒がそれぞれ在籍しているものの、校舎・授業は別で、男女が一緒になるのは、登下校時と高校3年の1年間だけというシステムです。それゆえ、中学は実質的に男子校でした。また、能力別授業は、英語科目と数学科目(高校では国語科目も)の授業を生徒各々の能力に応じてクラス分けし、定期テスト毎に上位10人と下位10人を入れ替えるという制度です。

 中学生になって初めて、英語という外国語の勉強をすることが、私にとって非常に新鮮で、外国に対して興味を持つきっかけとなりました。その他の勉強に関しては、能力別授業のおかげで定期テストの度に、直前期だけ上のクラスになるという目標を持って取り組み、一夜漬けで試験を受けていました。しかし、これを繰り返すことで、物事に取り組む際に常に目標意識を持つという私の姿勢が形成されたと思います。

 部活については、野球からほぼ1年間離れていて、片や巷ではJリーグが開幕してサッカーブームが巻き起こっていたこともあり、サッカーをやるようになりました。ただ、桐蔭学園中学のサッカー部は全国大会に出場するようなチームだったので、それまでサッカーをしたことのない私は到底レベルが及ばず、同好会に所属していました。

 一方で、桐蔭学園は中学1年から高校2年まで学校行事として、毎年夏に登山、冬はスキーに行きます。ここで始めたスキーは今でも毎年続けており、様々な物事に触れる機会を提供してくれる学校で良かったと、今更ながら思います。

 今振り返ると、中高一貫校であったことにも起因すると思いますが、中学生時代のほとんどは将来のことなど何も考えず、その日暮らしをしていました。そのせいか、思い返しても、あまり思い出がありません。そして、当時の私もそんな生活にやはり物足りなさを感じていたのだと思います。高校進学が迫ってきた頃には、高校では何か1つ打ち込むことがほしいと思うようになりました。

高校生活−部活を中心に−

 高校では、中学から進学する生徒と高校から入学してくる生徒とを合わせて男子だけで約1000名の人数になります。しかも、中学の友人達とは別々のクラスになるので、中高一貫といっても、高校は新たなスタートになります。

 上で述べたように何か1つのことに打ち込みたいと考えていた私は、高校入学と共に軟式野球部へ入ることに決めました。私が軟式野球部を選んだ理由は3点あり、小学生のときに野球をやっていたこと、桐蔭学園の硬式野球部は甲子園にも出場するレベルであり、自分には無理だと思ったこと、しかし、軟式であっても国体で優勝する等の実績があったということです。そして、この軟式野球部での活動が私の高校生活の9割を占めるといっても過言ではありません。

 軟式野球部は、3学年合わせて80名くらいの大きな部で、入部当初は中学で野球部に入っていた周囲の人達の中で、初心者同然の自分が果たしてやっていけるのかと不安に思いました。しかし、自分でやると決めた以上は最後までやり通し、結果を残したいと考えていたので、短期的な目標ではなく、高校3年時に20人の試合メンバーに入るという目標を定め、それに向けて着実に練習していこうと決めました。

 まず、周囲とのレベル差を埋めるには、人より多く練習しなければならないと考えました。軟式野球部のグラウンドはサッカー場の隣にあり、サッカー場は夜8時まで照明が点いていたので、その照明を頼りに練習日は毎日夜8時まで居残り練習をしました。また、自分に足りない部分がありすぎたので、一度に直そうとするのではなく1つ1つ意識しながら練習するように心がけました。それから、人のプレーから学ぶようにしたり、練習がない日も友人と自主練したりするなど、野球一色の生活を送りました。この経験を通じて、自分の目標とする姿と現在の自分を照らし合わせて足りないものは何かということを客観的に把握する力が身に付いたと思います。

 ちなみに、高校野球は、3年生の夏の大会が最後の大会となるので、次の学年は2年生の秋から代替わりをして最上級生となります。2年生の夏までは紅白戦くらいしか試合に出場したことのなかった私ですが、代替わりして徐々に試合に出られるようになりました。そして迎えた2年生の秋の大会で、レギュラーではありませんでしたが、試合メンバーの20人に選ばれました。しかし、最初にメンバーの発表があってから初戦まで、少し間がありそこでの練習で私は緩慢なプレーをしていて、それが原因で大会直前にメンバーから外されました。今になって考えると、メンバーに入ったことで慢心していたのでしょう。こうした「詰めの甘さ」は今でも否定できない私の短所であり、これからの大きな課題だと思っています。この大会は、自分たちの代となったにもかかわらず試合を外から眺めなければならなかったという非常に悔しい経験でしたが、翌年の春には必ずメンバーに入ってやるという今までより更に強い気持ちになりました。

 そして、冬のトレーニングでは自分に対して厳しく取り組み、来るべき春の大会に備えていましたが、春の大会では直前に怪我をしてしまい、再びメンバーに入ることはできませんでした。このときに、大学受験のことを考えれば、いっそのことここで辞めてしまって、勉強に集中したほうが良いのではないか(実際に、そうした部活の友人も何人かいました)という考えが頭を過ぎりましたが、自分の意志で野球をやると決めて入った野球部であり、まだ可能性があるのに最後までチャレンジをせずに投げ出すのは嫌だったので、部活を継続することにしました。そして、最後の夏の大会で、ようやくメンバーに入ることができ、しかもチームも神奈川県大会で優勝するという成績を残すことができました。

 こうして、3年間、野球に明け暮れた生活を送ることで、みんなで1つになって目標を達成する喜びを感じ、自分がチームのために何ができるかを考え続けることで、全体の中での個の役割というものを意識するようになりました。

大学受験と将来を考えたとき

 以上のように、毎日野球に明け暮れていた高校生活だったので、勉強の方はといえば、中学生の時と同様、定期テストを一夜漬けで乗り切るという程度しかしていませんでした。したがって、受験勉強に本格的にとりかかったのは部活を引退した後の9月からでした。その頃、私の周囲は医学部に入って医者になりたい人や、理工学部に入って建築家になりたい人など、自分が将来なにをやりたいかということについてしっかりとしたビジョンを既に持った人で溢れていました。しかし、小学校でプロ野球選手になるという空想を抱いて以来、将来について深く考えなかった私は、果たして自分は何がしたいのかと悩んでいました。

 そんなときに、文化祭でOBや在学生のご父兄を招いて、仕事について話を聞いて自分の志望を考えるというイベントがあり、このとき、私は外務省に勤務されていた方のお話を伺いました。話の内容は、儀典に関するものがメインでしたが、儀典のみならず外交の面白さ・やり甲斐を存分に語ってくださったのを覚えています。私が中高生の頃は「国際化」という言葉が流行っており、私はその言葉に敏感に反応して海外へ行ってみたいという強い気持ちを抱きながらも、一度も海外へ行ったことがなかったため、将来は海外で働ける仕事をしたいと以前から思っていました。それに加え、小学生以来、核兵器に対して許せない気持ちや、戦争をなくしたいという想いを抱いていたこともあり、将来は外務省で外交に携わりたいと思うようになりました。そこで、外務省に入るにはどうしたらいいのかということを調べたところ、外交官試験(今は国 I と外専に分かれていますが、当時は外 I と外専で外交官試験という括りでした)を受ける必要があり、その試験科目を考えると大学では法学部に入るのが良いという結論に至りました。

 一方、志望校については、3年生になったばかりの頃から学校が生徒に調査することによって、漠然とですが、北海道大学に行きたいと思うようになっていました。キャンパスが広いということと、1人暮らしをしたいと思っていたことが理由です。

 こうして、北海道大学法学部合格を目指して受験勉強に励んだわけですが、桐蔭学園には桐蔭横浜大学という大学があり、大学の図書館を高校生が利用することが可能だったので、ほぼ毎日その図書館に通いました。というのは、同じクラスの友人達も図書館で勉強しており、その友人達が勉強している姿を見ることで自分もやらなきゃと思ったり、分からないことがあればお互い教えあったりして切磋琢磨できたからです。この友人達とは今でも年に数回は会って、一緒に呑みに行くような関係を維持しており、医学部や建築専攻など進路がそれぞれバラバラなので良い刺激を与え合っています。

 周知のこととは思いますが、国立大学の法学部を目指す上では、数学が2次試験で必要となります。前述の通り、算数も数学も苦手であった私には大変厳しいものでしたが、数学のレベルを人並みにできるようにし、その弱みを他で補えるような戦略を立てました。また、国立大学のみの一本勝負というわけにもいかないので、私大との併願も考えました。そこで、国立大学の試験科目をベースにして、センター試験以降は英・数・国しか勉強するつもりがなかったので、法学部で数学受験のできる大学を選びました。そのうちの1つに中央大学があったわけですが、中央大学法学部には法律学科、政治学科、国際企業関係法学科の3学科があり、法律的な考え方だけでなく国際的視野・経済的視野を身に付けることができる(であろう)国際企業関係法学科の受験をすることに決めました。

 結果として、北海道大学は前期も後期も受験しましたが、不合格に終わりました。一方で、中央大学には合格したのですが、そのまま中央大学に進学するか、もう1年浪人して再度北海道大学を目指すかどうかということで悩みました。しかし、高校の担任の先生から外交官になるなら北海道大学よりも中央大学のほうが良いのではないかというアドバイスを頂き、一緒に勉強していた友人からも中央なら良いのではないかということを言われました。私としても、もう1年受験勉強をしたくないという気持ちが非常に強く、中央大学も北海道大学に負けず広大なキャンパスを有しているということもあったため、中央大学に進学することに決めました。

 現在では、この選択は間違っていたとは思いませんし、中央大学に進学して本当に良かったと思っています。

大学生活 ―1年生編―

 皆さんも経験したかと思いますが、大学に入るとまず、サークルの勧誘に遭いました。そこで、私は、外務省を志望していたことから、現役外務省職員の方との接点を求めて外交官試験受験団体である外交研究会という団体に入りました。大学1・2年生の中心は、この外交研究会での活動でした。

 外交研究会の主な活動は、試験科目(外専)に合わせた憲法・経済学・国際法の週3回のゼミです。1年生のはじめのうちは、勉強の仕方など全然分からなかったので、このゼミが非常に役立ちましたが、やはり、ただ出席してゼミをこなすことで精一杯という受身の態度でした。

 外交研究会の活動以外については、大学に入って間もない5月に、たまたま掲示板でイギリスの大学への短期語学留学のチラシを見つけ、すぐに親に相談して行くことに決め、高校生の頃に抱いていた海外への想いを意外と早い時期に実現することができました。初めて行った海外で感じたことは2つありました。1つは、日本という国が外国から注目されていることです。特に、日本のアニメに関して、メキシコ人がポケモンに詳しかったことが印象的でした。もう1つは、自分が日本人であるということです。他人と初対面の場合、日本では自分の名前を言うだけなのに、海外では名前に加えて国籍を言うことが常でした。このことは、否応なしに自分が日本人であることを強く意識させました。

 一方で、1年生から2年生になるころ、外務省でいわゆる「松尾事件」が起きました。事件の内容についてここであえて言及するつもりはありませんが、私は、この事件で暴露された事実が外務省に潜む組織としての体質なのだと思い(この点は、私の当時の主観であることを強調しておきます)、外務省に対する興味を一気に失いました。

大学生活 ―2年生編―

 2年生になって、外交研究会のゼミは、2年生がチューターになり、1年生に教えます。私は、憲法の担当になりましたが、人に教えることの難しさを痛感したのと同時に、自ら勉強する面白さも感じ、自分から勉強する姿勢が身に付いたと思います。しかし、このゼミに対しては、ゼミで教えてくれるチューターが2年生であるという点に疑問を感じていました。というのは、2年生といっても、大学で1年間しか勉強しておらず、大して力があるわけでもないのに1年生に教えるというのはおこがましいと思いますし、ゼミの質も高いものにならないと思っていたからです。そこで、ゼミのチューターを3年生が担当するように変えたらどうかという提案をしました。もちろん、様々な反対意見がありましたが、うまく調整することで自分の提案を受け入れてもらうことができました。これは、自分が主体的に物事を変えようと思って変えられた初めての経験であり、今でも非常に印象深い思い出になっています。

 また、外交研究会では、2年生が会の運営主体となります。そこで、私は企画という役職を担当しました。企画とは、OB会や納会、合宿を担当する係でしたが、この役職をやろうと思った理由は、先輩が「納会や合宿の準備で自分がどれだけ大変な思いをしても、みんなの喜んでいる顔を見るだけで、すべての苦労が吹っ飛んで自分も楽しい気持ちになれる」と言っていたことでした。確かに、この役職を担当することで、自分が楽しむ以前に周りを楽しませようとする姿勢が身に付いたかなと思います。

 このように大学2年の大半は外交研究会での日々を過ごしていたわけですが、2年生で1番印象的な出来事は2001年9月11日に起きました。私は、その日からニューヨークへの一人旅を計画していました。既に勘の良い人は気づいたかもしれませんが、私がニューヨーク行きの飛行機に乗っているときに、同時多発テロが発生したのです。ツインタワーに飛行機が突っ込み、テロの可能性があるから近くのデトロイトに着陸するということを機内アナウンスで知らされましたが、実際の映像を見たわけでもなかったので、何が起きたのかわからずただ漠然と大変なことになりそうだなぁと思っていました。着陸後は日系の航空会社だったこともあり、幸いホテルを航空会社が手配してくれたのですが、ホテルのテレビで事件の映像を見て愕然としました。そのときに、今となってはありえないと思うことですが、自分の泊まっているホテルに飛行機が飛んで来るんじゃないかというような危機感を抱きましたし、周囲の乗客の方々も一様に不安そうな顔をされている光景を目の当たりにして、自分たちの身の安全と安心が脅かされている事実に対して言いようのない感情を抱きました。

 この出来事があって、私は日本だけではなく世界において、人々の日々の安全な生活や安心して暮らせる社会を脅かす問題を解決し、人々が普通に暮らせる社会をつくりあげる仕事がしたいと考えるようになりました。そのためには、国民の生活の向上について直接企画・実行できる全体の奉仕者として、国家公務員になることが1番良いという結論に至りました。

 さらに、どの省庁に行きたいかと考えると、結論は外務省でした。もちろん、外務省に対しては既に述べた経緯で興味を失っていたわけですが、その後、外交研究会のOB会で省員の方から外交に対する熱い想いを聞き、さらに、その方が軍縮課にいた関係で、自然と軍縮の話になり「自分が在職中に核兵器を無くすことが夢だ」という言葉を伺いました。そこで、自分が小学生のときに抱いた感情、先のテロで感じた想い、これらを実現するには外務省であると強く思ったわけです。外務省に就職するには、 I 種か専門職を選択しなければならなかったわけですが、私は迷わず I 種を選びました。その理由は、第1に、私が飽きっぽい性格であるため、いわゆるスペシャリストよりもゼネラリストが向いていると思ったこと、第2に、外務省という間口の広い役所であるからこそ、そのチャンスを活かして色々な仕事に携わり、物事に対するさまざまな視点を身に付けたいと思ったことが挙げられます。

大学生活 ―3・4年生編―

 中央大学法学部では2年生の秋に、3・4年生の専門ゼミを選ばなければなりません。通常、外務省志望ということからすれば、国際法や国際政治のゼミを選択すべきであると思われますが、私は会社法のゼミを選択しました。理由は、行政官として、多様な利害関係を調整していく上で、自らの知見を広げる必要があると思ったこと、社会における企業の活動の重要性を認識しており、企業に対して目を向ける良いチャンスであると思ったことです。

 このゼミで、私はゼミ長を務めました。私の所属していたゼミは一風変わっていて、「ゼミで生涯の友をつくること」を目標にしています。したがって、ゼミ長としては、ゼミの内容の勉強だけでなく、その目標達成のためにゼミ内の人間関係にも気を配って組織をまとめる必要がありました。しかし、最初は、何事も自分がやらねばという想いが強く、周囲への配慮を欠いたため、「信頼」という組織をまとめる上で最も重要な要素を欠いてしまいました。自分としては、皆のためにと思って取り組んでいたことが、実際は皆のためになっていなかったことに自信を失くしました。そして何よりも、皆の信頼に基づいて務めたはずのゼミ長であったにもかかわらず、その信頼を失っていたことが一番の衝撃でした。

 こうした状況は、自分で気付いたわけではなく、同期に指摘されて始めて向き合った現実でした。しかし、自分でやると言ったことですし、絶対に投げ出さず最後までやり抜かなければならないという意志を持っていたので、何とかしてこの状況を打破しようと考えました。そこで、とにかく周囲と意思疎通を図って信頼関係を回復し、さらに強固にする必要があると考え、食事を共にする等、直接話をする機会を作るように心がけました。話をするときは、自分がゼミについてどう考えているのか、相手がどう考えているのかを本音で語りあえるよう、1対1で会うようにしました。特に1対1にこだわったのは、他に人がいるとどうしても他の人に気を遣ってしまい、なかなか本音で物を言えないと考えていたからです。この結果、徐々に信頼を回復していき、皆が卒業するときには別れを惜しんで涙を流し合うという得難い経験をし、ゼミをまとめたという達成感に浸りました。

 もともと、将来的にある程度の人数を束ねる立場となることがあるだろうから、そのためには学生時代に組織のまとめ役を一度は経験するのが良いのではないかと思って務めたゼミ長でしたが、この経験から、組織をまとめる立場としてだけではなく、1人の人間としてかくあるべきということを学んだと思います。すなわち、信頼こそ人間関係の基礎であり、その信頼を失うことはとても簡単で、一度失った信頼を取り戻すことがどれだけ大変かということを身をもって感じたということです。そして、信頼関係構築のためには、常に相手への思いやりをもって相手の気持ちを考えながら発言し、行動する事が何よりも重要だという事を学びました。

公務員試験受験

 さて、国家公務員試験を受けるつもりでいた私ですが、元来が勉強嫌いの私は、独学では到底無理だと思い、予備校に通うことに決めました。そこで選んだのは、大学から近いという理由でW(早稲田)セミナーでした。

 初めに述べた通り、私の試験の成績は芳しくありません。1次試験は、一般知能で解けなかった問題を全部4にしたおかげでボーダーで合格、2次試験も485人中470番という成績でした。ですから、ここで、私が勉強法について堂々と述べられるとは毛頭思っていません。しかし、2回の受験経験から、何点か皆さんの参考になることを述べられるかと思います。

 まず初めに、専門科目の過去問に早い時期から取り組むことです。本試験の約6割は過去問から出題されていると言われますが、私の経験だと実際にその通りだと思います。さらに、過去問を解くことによって知識の整理に役立ちますし、幅広い分野の中で出題されやすい部分の傾向がつかめ、より効率的に勉強ができると思います。この点、1回目の受験において、私が過去問を解き始めたのは年明けからでしたが、やはり遅すぎたと実感しました。そこで、2年目に私は渡辺ゼミに入りました。渡辺ゼミでは、毎週一定の範囲で過去問を予習しなければならないので、良いペースメーカーになると思います。また、論文対策についても、行政法の論文の書き方等、非常に勉強になりました。

 次に、合格者・内定者の話をたくさん聞くことです。やはり、合格者・内定者はそれぞれの方法でしっかりと結果を出している人達であり、そこには何か秘訣というものがあると思います。したがって、色んな人から色んな話を聞いて、自分にとって有益と思われる方法論を取捨選択して実行していくことが、合格・内定へ近付く第一歩となるような気がします。私は、1回目は合格者・内定者の話は一度も聞きませんでした。今思い返すと、合格者から勉強方法を聞けば、もっと要領の良い勉強ができたと思いますし、逆に2回目は多くの成功談を聞くことで、気付いたこと、学んだことが多かったと思います。何よりも自分が合格・内定をもらっているイメージがわきました。この成功のイメージは非常に大切だと思います。1人で勉強していると、ずっと下を向いているので暗鬱な気分になったり、模試の成績が思わしくなければ、気分が沈み、今年もだめなんじゃないかと思ったりしてしまうこともありました。しかし、合格者の話を聞いて成功のイメージを思い浮かべることで、モチベーションを大きく上げられました。

 第3に、説明会へ多く参加することです。自分の志望省庁はもちろんですが、それ以外にも、少しでも興味がある省庁の説明会には参加したほうが良いと思います。理由としては、まず、数ある省庁のそれぞれのカラーが違うことに対して、その中で自分がどの省庁に合うのか判断する材料になるからです。また、複数回参加することで、自分の志望省庁に大体どのような人がいるか見当がつくようになりますし、その中で自分がどういうポジション・キャラクターなのかということを見定めることができると思います。そして、何よりも一番大きいのは、複数省庁の説明会に参加して様々な省庁の立場を理解することで、1つの問題に対してバランスの取れた意見を持つことができるようになると思います。現在の行政課題において、私は1つの官庁が所管するのに相応しい問題は殆どないと思っており、各省庁の主張をくみ取りつつ協働して最終的にバランスの取れた政策を進めていかなければならないと思っています。その点では、複数省庁・複数テーマの説明会に参加することで1つの問題に対する多面的な見方を身に付けられるのではないでしょうか。

 そして最後に、体調管理です。私は、2回目の受験の1次試験当日は風邪をひいてしまい、熱と鼻水に悩まされながらの受験でした。試験のときに風邪をひいていたというのは、人生で初めての経験だったのですが、選択肢が全部正解に見えました。本当に、試験直前期は体調に気をつけたほうが良いと思います。

 以上の点は、国 I の受験勉強においては基本中の基本といえますが、この基本を徹底することが一番大事なのではないか、と思っています。

官庁訪問

 合格していることすら危うかった私は、もしかすると合格発表の朝8時30分に霞ヶ関に着いて、ともすれば9時5分には地下鉄に乗っている可能性さえありました。結果は合格だったわけですが、発表を見て外務省へ駆けつけて最初の面接を待っている間も、自分の目で確かめたはずなのに本当に受かっていたのかと心配になるような心理状態でした。

 このような状況で始まった官庁訪問でしたが、結果は、冒頭で述べたように内定を獲得できず、しかも最終面接で落ちるという終わり方でした。事前の対策については、果たして最終合格しているかどうかが気になっていたため、正直に言って官庁訪問対策に身が入りませんでした。しかし、秋の時期から説明会にこまめに参加していたせいもあって、ある程度の政策に対する知識もありましたし、自分なりの意見というものも持つことができていました。

 この点、私は、あらゆる政策について網羅的に知っておく必要はなく、逆に相手も政策をくまなく知っていることを求めていないと思うので、少なくとも自分が入省後に携わりたい分野の知識とその分野が抱える問題に対する自分自身の考えさえしっかりしていれば政策面での対策は十分だと思います。なお、後に述べますが、私の経験上、民間企業と官庁訪問の面接に共通して大切なことは、志望動機・大学時代に力を注いだこと・自己PR・入ってからやりたいことをそれぞれよどみなく短時間で面接官に的確に伝えることです。また、官庁訪問では最終局面まで進めば、原課面接と人事面接を合わせて10人以上の人と会うことになるでしょうし、回数を重ねるごとに向こうも色々なデータを仕入れるでしょうから、例えば、志望動機については3種類くらいの話を用意しておいた方が良いと思います。

 また、官庁訪問では、自分が志望者全体の中でどのポジションにいるかということを把握することが大切です。官庁訪問の最後には、人事の採用担当から次回の予約や自分の評価について様々な言い方で伝えられます。良い評価をしてもらっているという旨を伝えられても、実は皆同じようなことを言われていたり、しかるべき評価の人であればかなり踏み込んだ言い方をされたりするでしょう。これは、経験上ですが、やはり他の人がどのような評価なのかは気になると思います。したがって、官庁訪問が始まる前から同じ志望省庁の人と仲良くなって連絡先を交換しておいて、官庁訪問中は情報の非対称性が生じないようにお互いに連絡を取り合うといったことが、いわば精神安定剤となるのではないでしょうか。

民間企業への道

 官庁訪問のショックはありましたが、今まで述べたような状態でよくやったというある程度の自己満足も得ており、また、留年すると決めたときに来年の4月からはどのような形になるにせよ、社会人になるということも同時に決めていたので、民間企業の就職活動をしようと決意しました。

 官庁訪問が終了したころは、民間企業の春採用はほとんど終了しているので、秋採用になります。秋採用は、採用活動をしている企業数が少ないということ、採用活動をしていても採用予定人数が非常に少ないというデメリットがあります。しかも、採用情報をリクナビ等で公開せずに自社ホームページで公開していることが多いため、自分で情報も見つけなければなりませんでした。また、民間企業についてはあまり知らなかったので、業界を絞ったりせず、採用活動を行っている企業をとにかく片っ端から回り、全部で20社近くエントリーしました。

 こうした状況で、いくつかの民間企業から自分の進路を選択しなければならなかったわけですが、最終的に9月の中旬に某都市銀行と東京海上日動火災保険株式会社という会社から良い評価を得ることができました。私にとっては、外務省でもそうだったように、安全と安心の提供、世界を視野に入れた仕事ということがキーフレーズだったため、それらを実現できると思った東京海上日動に行くことを決めました。

 今になって思うことですが、自分の進路を選択する際に大切なのは、自分の好き嫌いと適性は異なり、何が自分の適性であるかをしっかりと把握するということです。私が選んだ損害保険会社においては営業が不可欠であり、大半は営業に従事します。私は、営業という仕事ははっきり言って嫌いでした。しかし、それは先入観が邪魔をしていたことであり、仕事の内容を深く知ると、自分に向いている仕事だと実感するようになりました。もし、好き嫌いで判断をしてしまうと、好きな仕事に就いたものの実は向いていないというような場合もあると思いますし、興味は移り変わりがあるのではないでしょうか。自分がどういう人間か、自分にとって大切なものは何かということを正面から向き合って考えた上で、様々な業界の仕事のいずれに自分が適しているかということを見極めることが、自分が納得できる就職先を探す鍵となってくると思います。

 そして、公務員であろうが民間企業であろうが弁護士であろうが、どこに就職するかという問題よりも長い目で見て自分がどのような人間になりたいかということが一番大事であり、どこへ就職するかは最終的に「縁」だということをここで強調したいです。私にとっては、なりたい自分になるために東京海上日動も外務省も非常に魅力的な就職先です。しかし、外務省では最終段階で29人中27人が採用された一方で、東京海上日動の秋採用では600人以上が選考に参加して4人しか採用されていません。確率的に考えれば、言い方は変ですが、外務省の方が圧倒的に内定をもらいやすかったと思います。しかし、結果として東京海上日動から内定をもらい、就職することに決めたということは、そこに縁があったのだと思います。

振り返ってみて

 こうして今までの人生を振り返ってみると、人、言葉、本など様々なものとの出会いが私の人生に非常に大きな影響を与えてきたと実感します。特に、先生方、諸先輩、後輩達、数多くの友人と出会えたことは、短い人生の中での財産と言っても過言ではありません。今の私があるのも、他ならぬそうした人たちとの出会いのおかげです。この場をお借りして、今までお世話になった方々に厚くお礼申し上げます。

 これからは、社会人として周りの人からの信頼を第一に、多くの人に良い意味での影響を与えられる人間になりたいと思っています。そのためには自分の能力だけでなく、人格ももっともっと磨いていかなければなりません。言うは易く行うは難きことだと思いますが、引き続き様々な方のご指導を仰ぎつつ、自らを高める努力を怠らないように励みたいと思います。

 最後に、私は、外務省に採用されなかったこと、公務員ではなく民間企業の道へ進むことを決して後悔したりはしていません。なぜか?それは、外務省へ行こうが東京海上日動へ行こうが、それだけが私のこれからの人生をすべて決めるものではないと思うからです。自分が縁を感じ、ここが一番だと信じたところで精一杯自己研鑽を積むことこそ、私のこれからの人生をより良く、豊かにしてくれるものであると思っています。

 この「想い」をしっかりと胸に刻みつつ、この稿を終えます。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。皆さんが、自分が一番だと信じる就職先を見つけられることを願ってやみません。

(了)
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