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キャリア・エリートへの道

人生色々

はじめに

 自分の人生について振り返って書くということを渡辺先生から頼まれたときには、何から書いていいのか困ったが、めったにある機会でもないので、印象に残っていることや、今の自分を形作る原因になったことなどを中心に書こうと思う。

 ここで書けることはほんの一部で、公にはいえないことや馬鹿なエピソードもたくさんあるので、実際の人生はここで紹介するよりも面白く波乱万丈なものであると思う。

楽しかった小学校時代

 私は、地元(東京)の区立の小学校に通っていた。4年生から家の近くの塾に行き始め、しばらくたったある日家のポストにサピックスからの宣伝のはがきがあり、そこに「難関校の登竜門に君は挑戦してみませんか?」というような内容が書かれており、そんな文句に触発されてちょっと挑戦してやろうということになった。やはり、負けず嫌いで、自分の学力に自信というか、過信していたようである。

 ところが入塾テストを受けてみると、自分が今までやってきた範囲をはるかに超えて難しく、ショックを受けて帰ってきたことを覚えている。そんなこんなで、できる人たちのたくさんいるところでやってみたいという考えに至り、5年生の終わりから電車でサピックスに通うようになった。そこでは、自分よりもはるかにできる人がたくさんいることにショックを受けたものである。何度も下のクラスと上のクラスを行ったり来たりしながら勉強していた。

 話は変わるが、テストの点数などに関しては本当に厳しい母で、それ以外はほとんど何も注文をつけることはなく自由に遊ばせてもらった。「勉強しなさい!」といわれたことはほとんどなかったと記憶している。そして、逆に何も生活態度に注文をつけないことが無言の圧力となり、あまり悪いことはできないと感じており、いい意味での信頼関係ができたと思う。そんなあるとき母が、「私は御三家じゃなきゃいやだからね」と言うので、なんと厳しい要求をする人か……と絶句したが、おかげさまで何が何でも試験に受かってやろうという気持ちになり、それなりにがんばったと思う。よくあんな母親の厳しさに耐えることができたものだと今は考えている。とはいうものの、1日何時間も勉強をしたとか、苦痛だったとかはなく、塾も小学校も楽しんでいた。つまり、テストの結果さえ問題なければよかったのである。塾のない日は地元の友達とゲームセンターに行ったり、その帰りに立ち食いうどんを食べたり、休みになればデイズニーランドに行ったりして、遊び方がちょっとませていたようだ。というか、ませ餓鬼だった。女の子と遊ぶことが好きだった……(笑)。学校に行くことがとても楽しく、安らぎの場所のようになっていたと思えるし、今までの人生で最も楽しかったと振り返ることのできる小学校時代を送れたのではないかと思う。

 小学校時代を通して、目標を高く設定してそれに向かって努力することと、勉強と遊びのメリハリをつけて効率よくやること、そして、どんなことも?楽しんでやることを学んだと、今振り返って思う。ただ、好きなことも嫌いなことも進んでやったかというとそうではなく、嫌いなことは適当に手を抜いてやる技術も身につけたのではないか……。そして、今22歳になっても小学校のときに考えていたこととあまりかわらない考え方をしていると自分では感じている。自分の性格的な基礎が出来上がったのは小学校時代であったのだろう。

あっという間に過ぎた中学高校時代

 なんとか、御三家のK中学に入ることができ、その後順風満帆かと思っていたが、やはり人生は甘くなかった。中学でテニス部に入り、テニスが楽しくて、楽しくて仕方がなかったので、毎日毎日練習していた。テニスは楽しかったが部活動自体はしごかれることの連続で、何度やめようと思ったことかわからないが、ここでやめたら自分に負けることになると言い聞かせて、苦しい部活も耐えしのぐことができたのではないかと思う。

 部活ばかりの生活の結果、中3の時には、クラスで下から5番ぐらい、英語と数学はほぼ赤点という状況が生じてしまった。授業を聞いてもつまらないしわからないし、まあどうでもいいのかなあ……といった感じで危機感はあまりなかったと思う。そんなこんなで、気づいたときには悪い意味ですばらしい成績になっていたのである。

 そんな中3も半ばになったある日友達に誘われて、大学受験用の塾の入塾テストを受けに行くと、自分だけ落ちる羽目になりかなり危機感を覚えた。このままではT大に入るとかいえなくなる……。本当にいい時期に誘ってもらったものである。そこからは、人生で一番勉強する日々が始まったと思う(高1から高2)。部活は休んだりすることは絶対的に禁止であったので、部活から帰って眠いにもかかわらず、夜中まで勉強したものである。数学は比較的すぐにできるようになったが、英語はまったく点数が上がらないので、宿題の多いといわれている2つの塾に数ヶ月同時に通ったりもした。今思うと、よくもあんなにもがんばれたものだと思う。気合が違ったなあと。その結果、高2の時には大学受験で浪人することはないだろうと落ち着いて考えることができるまでになり、リラックスして大学受験を迎えられた。結局高校3年の後半は、数学以外の塾はやめてしまい、自分で勉強すれば十分だと言う結論に達した。

 中学高校時代に学んだことは、人間だめになっても必死でがんばればよい結果に結びつくものであり、勉強と運動の両立が困難であるといわれながらも実際には気合があれば何の問題もないということである。失敗を恐れるよりも、失敗してからどのように立ち直れるのかが大切だと考えるようになった。ただでは起きないと……。そして、自分にとって当面の目標は何であるかを見据えた上で、その目標に向かって生活のリズムや意識付けをすることが大切に思った。もし、大学受験で浪人してもいいと考えたり、そもそも早いうちから大学受験をうっすらとでも意識しなかったとすれば、間違いなく浪人していた自分の姿が目に浮かぶ。一番の目標がなんであって、そのためにほかの生活のどの部分までを犠牲にするのか……、といったことを常に考えることが重要であると思う。

ふらふらしていた大学時代

 そんなこんなで、将来は○○官僚になりたいと思っていた私は、東京大学文科 I 類に入学し、法学部に進学した。なぜそのように考えるようになったのかというと、私の父が会社を経営しており、そんな父が常々、「金は手に入るが、人のために純粋に仕事ができるという喜びや名誉は手に入れたくてもなかなかできることではない」といっており、それなら公務員なのではないかと自然に考えるようになっていたわけだ。大学ではテニスサークルに入ったが、がんばったのかというと、ほどほどにサボりながら楽しんだ。サークルよりも自分にとって大切なことがあるのではないかと思う日々を送り、だらだらと3年生になってしまった。その間、司法試験の勉強をしてみようとか海外の大学に留学してみようとかいろいろ考えたが、結局もともと考えていた官僚になる試験を受けようということで落ち着いてしまった。そのときに何か行動を思い切って起こしていれば、今はこの文章を書いていることもないと思ったりもする。

 3年生までの学校の授業で、法律とはなんとつまらないものか、経済の授業や勉強のほうがなんと新鮮で楽しいことか、と思う日々が続いたため、当然法律が苦手であるので、Wセミナーのお世話にならなくてはまずいことになると考え、法律科目を学校でというよりも塾で勉強した。それでもやはり法律に対して苦手意識のある私は、ちょうどそのころテニスがまた楽しくなってきたので、法律の勉強もほどほどでいいかなあといった感じでWセミナーに通っていた。

 秋ごろの渡辺先生のゼミに入ったころには、点数はぎりぎりであったと思う。大学3年の年末に、渡辺先生に「択一試験の民法が2問ぐらいしかできないのですがどうしたらよいでしょうか?」と切羽詰って聞きにいったことは記憶に新しい。先生のよきアドバイスと自分のがんばりもあって、翌年の春には合格に至る点数は取れるのではないか、という所まで来ることができ、本番の試験を迎えた。

 試験では、論文試験の国際法の予想が的中したことや、人事院面接での手ごたえがとてもよく、自分の努力以上の成績(1桁合格)を収めることができたように思う。そしていよいよ官庁訪問である。

 ところでここまでの話は、全部2003年度の試験の話で、今この原稿を書いているのは2005年1月である。よって、1年間何らかの原因で留年したことをわかっていただきたい。その経緯をこれから述べる。

第1次官庁訪問時代(失敗談)

2003年の試験に合格した私は、官庁訪問をするに際してどの省を回るかということを試験前から考え、その結果、第3希望まで回れるにもかかわらず、ほぼX省のみでいこうという結論に至った。理由は、説明会を聞いた中でもっとも格好良かったことと、やはり、国のことを真剣に考えていると感じたことと、なにより、X省というブランドイメージがあったことであったと思う。そして、今までの自分の順調な道のりを考えるに、ここで面接を失敗することはあまりないのではないか、という勘違いをしていた。本当に今思うと恥ずかしい限りである。ただ、そのときは真剣にそのように考え、もしそれで採用されるにいたらないとしても後悔することはないだろう、それなら自分は公務員に向いてないのだから民間の会社に就職しようと考えていた。結局その年は、ほかの自分のとりうる進路についてはまったく考慮していず、官庁訪問を迎えることとなった。

 官庁訪問では、ほかの人が切られていく中で、自分だけは大丈夫だろうと思って過ごしていたが、終わってから考えれば、X省に入りたい人の言うこととは思えない発言があったと思うし、結果として、訪問3日目か4日目の11時ぐらいに、今回は縁がなかったということで、といわれ官庁訪問が終わった。私にとっては、人生ではじめての挫折?だった。天狗の鼻をへし折られた感じである。悔しかったが同時になんだか晴れやかであった。

 終わってみて思ったことは、いろいろあるが、やはりその一番は、「結局自分は人生について考えてきたようで何も考えてこなかったのではないか」ということである。自分では確かに官僚になりたいし、官庁の中ではX省に入りたいと思って生きてきたはずであるのだが、実はただX省だから入りたかったとか、そこに入れば自分も含めて、私に期待してくれる自分の周りのほとんどの人の期待にこたえることになるから、などという理由によって今回の就職を捉えていたのではないか(もちろん、人のために役に立ちたいから国家公務員を目指したという気持ちには嘘はないが)。

 いろいろショックも受け、考えさせられ、本当に自分のやりたいことは何なのかを考えて人生の第一歩を踏み出す必要があることに、気づかされたように思う。そしてそのときは、自分は公務員に向いてないから潔く民間の会社に入ろうと決めた。

民間の就職活動

 夏休みごろから、秋採用をしている会社をいくつか回り、受けたところからは内定をいただくことができ、面接を受けていて官庁訪問のときよりも自分が素直に話せていて、また感覚も公務員よりも民間の会社にあっているのではないかと感じることができた。そして、秋にはある会社の内定式に出ることになったが、そんなときにやはりどこかでは、公務員として国の仕事がしたいのではないかと考える日々が続いた。またその一方で、自分で小さな塾でも開いて、地元の人のために生きていくこともいいのではないかと考え、真剣に塾をやろうとして行動したりもした。大学4年の1年間は、そのような感じで過ぎ、その間に渡辺先生も含めてさまざまな成功している人からの話も聞き、人生をどう生きていくべきなのかを本当に悶々としながら毎日考えていたと思う。結局、今までブランクなくストレートにきたし、まだ自分は21であると考えて、1年留年していろいろな選択肢を考えてみようという結論に達した。自分にとってはかなりの妥協であったし、苦渋の選択であったように思うが、今振り返れば、あわてて人生の一歩目を踏み出さなくてよかったと思える。時には立ち止まって考えることがこんなにも大切なことであるとはそのときは思いもしなかった。

 2004年になると、就活をはじめた。民間の会社と、公務員とどちらが自分にとって本当に行きたい場所なのか、じっくりと考えて、贅沢であるがどちらも内定をもらってから考えればいいと思い、また就職活動が自分にとってよい社会勉強にもなると思い、10社ぐらい回った。(そのときは、自分は民間の会社のほうが向いているのではないかと思っていたし、内定をいただけるところに行こうと真剣に考えていた。)結果として、かなり落とされもしたが、ここなら是非働きたいという会社にめぐり合うことができ、すっかりその会社に行く気が満々だった。そして、霞ヶ関で働きたいという気持ちは強いものの、官庁訪問しても、公務員に向いてない自分が採用に至ることはほぼないのではないかという気持ちでいた。ただ、だめもとでやってみよう! そんな中で、官庁訪問に突入する。

第2次官庁訪問時代

 昨年回ったX省はもう無理だろうという判断の元で、2004年度はA省・B省・C省の順で回ることにする。1順目を終わったところで、B省とC省の雰囲気と手ごたえがよかったと思い、2順目はC省、B省と回る。翌週も、同じように回ったが、3順目でC省をきられてしまい、結局次からはひとつに絞らなくてはならなかったので、落ち込むこともないと思ってB省に行く。そして、内定をいただくことができた。

 今回の官庁訪問で、よかった経験は、「自分が将来どんな公務員ではなく、どんな人間になりたいのか?」ということを、面接の中での問いかけを通して考えさせられた点である。今まではそこまで真剣にその点に関して考えたことはなかった。そして、最も印象的だったのは、B省での課長との面接である。通常課長面接は形式的なものだと聞いていたので、油断していたら、2順目の夜に突然面接があり、普段どおりやったところ、「きみは本当に考え方が甘いなあ。…(中略)…もっと考えてきてくれよ」と大変厳しい言葉を頂き、逆に次の面接までに真剣に考えさせられた。そして、落ち込むことなく、そんな課長を何とか見返してやろうと思ったりもした。(結局見返すことは、今はまだ無理であったが。)ただ、一生懸命に考えてきたという姿勢は認めてもらったように思うし、もし一生懸命に考えなかったとすれば、間違いなく落とされていたように思う。

 今年の官庁訪問と昨年の官庁訪問を比べて、今年よかった点は、民間の内定をもらっていたことであると思う。ほぼすべての面接でその点について聞かれ、うまく答えることができたと思う。そして、選択肢が狭まる中で、不安な思いになるが、自分はだめでも民間の自分の行きたい会社に行くことができるのだから何も恐れる必要はない、という気持ちですごせたこともよかったと思う。

 面接は、自分がどうしてもそこに入りたくても、試験のように努力すれば絶対に報われるというものではないと思う。結局は、人と人との縁であり、その縁をつかめるかどうかだけであると思う。落とされたからといって死ぬわけではないので、反省は必要であるがあまり考えすぎないことが大切だと言い聞かせている。そして、私は運良くか悪くか官僚になれたけれども、官僚としての人生がほかのとりうる可能性のあった選択肢よりも、数段よいというふうには思っていない。絶対に、失敗したときの私のように狭い視野で自分の人生を窮屈にしてはならない。努力する才能のある人は、どんなフィールドであっても活躍できると思うからである。

これまでに学んだ教訓

 失敗はしようと思ってできるものではない。だからこそ、失敗から学ぶことは本当に大きいと思う。私は、自分をプイッと落としてくれたX省に感謝している(落ちて当然であったが…)。それまでに生きてきた21年間よりも、失敗した1年間に学んだことのほうが大きいと思っている。本当に人生についてゆっくりと考える時間をくれたからである。失敗はしないに越したことはないが、もし失敗したとしてもそれをチャンスであったと後から思えるように、ただでは起きない精神が大切であると思う。

 また、この失敗によって自分は人間的に少しはましになったのではないかと思う。それまでは、一生懸命にがんばっても報われない人の気持ちなど考えたこともなかったし、理解しようとも思わなかった。本当に傲慢になっていたし、成功が当然になり、たとえば大学受験に受かってもまったくうれしいとは思わなかった。その結果、当然ではあるがものの見方や人生に対する心構えもまったく謙虚さがなく、視野が本当に狭かったとばかばかしく思う。そんな自分が、高々知れているとは思うが、この挫折によって今まで見えてなかったものを見るようにそして考えるようになったことは、ラッキーだったと思う。

 そして、先日ニューヨークに行って思ったこと。「何で自分はマンハッタンで働こうということを選択肢の一つに考えなかったのか?」視野を広く持ってもそれでもまだまだ狭いと思う。物質的にも、精神的にも、世界は広い。だから、自分の可能性をつぶさないように、真剣に色々な選択肢を持つことが大切だ。人がどの分野で成功を収めるかは、その人自身にとってもわからないことであると思う。

最後に

この文章が将来もっと重みを持って受け止めてくれるようになるように、日々自己研鑽を積んで、人間的に成長しなければならないと思う。そして、それが人のためになっていればこれほどうれしいことはない。

 もし、この文章を読んで、少しでも私に関心を持ってくれる人がいるならば、幸いです。人の人生は人との出会いでよい方向にも悪い方向にも変わると思います。そんな色々な人との出会いを楽しみにしています。

(了)
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