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キャリア・エリートへの道

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〜2次落ち、無内定後、3度目の挑戦で内定獲得〜

0.はしがき

 「キャリアエリートへの道」……。なんか格好よすぎですね。みなさんはこの言葉を受けてどのようなイメージをわかせるでしょうか。ここでは、私なりの「キャリアエリート」の定義を述べた上で、私の人生の特徴的なシーンを「つまみ食い」して、どのような人間が国家公務員 I 種試験に合格・内定したのかをお伝えしたいと思います。

 私は「キャリアエリート」というのは、公務員だけではない、ましてや I 種職員だけではないと考えます。自分の夢の実現に向けて、組織をツールに働けている人、これがキャリアエリートではないでしょうか。だから私は、ホストをやっている高校時代の先輩も、「日本のより多くの女性を、本来の魅力的な女性に戻す」という夢に燃え仕事をする点で、キャリアエリートだと思っています。

 あなたの夢によっては、この道を歩むために、多くの人に競争で勝たなければならないかもしれません。ときには人を傷つけることがあるかもしれません。それでも、かなえたい夢であれば、自分のため、社会のため、挑戦すべきだと思います。なぜなら、夢をかなえるために生きようが生きまいが、周りの人を多少なりとも傷つけてしまうと思うからです。またそれが、生を受け、ある程度の収入・教養の下で育てられた人の社会への恩返しだと思うのです。(世の中、日本の中でさえ、インターネットを見られない人、そもそも公務員なんて9時5時マターリ職だと思う人、平気で毎日痴漢をするリーマン、その日さえよければいい、知らない奴は傷ついていいと本気で思っているチーマーなど、様々な考えを持つ人がいます……。)

 というわけで、真面目に公務員を目指し(目指せる経済環境にあり)、インターネットを使える条件下の人にとっては想定の範囲内の人生かもしれませんが、「ふぅん、こんな奴が今度環境省に入るのネ〜」という風に思っていただければ幸いです。各時代ごとにフレーズを分けるつもりですので、勉強時間の合間に1フレーズずつ読んでいただけると読みやすいかと思います(虫食いのように、興味のある時代部分だけでも読んでもらえたらと思います)。

1.生い立ち

 生まれは埼玉県・春日部市。クレヨンしんちゃんで有名な街です。父は国家 II 種の公務員、母は書道家です(後に生まれる弟は、少し秋葉系で、砂漠の緑化に燃える理工学部生)。男の初孫ということで、大きなこいのぼりを贈られたり、当時10数万円する五月人形が贈られたりなど、親戚中から大事にされていた記憶があります。

 この当時、私は甘えん坊でした。よく父と一緒に寝たがったり、弟や周囲にいたずらをして注目されたがったりしていました。また、親が朝、町内会の打ち合わせで出ていて、家にいなかったとき、急に「見捨てられた」と不安になり、親が帰るなり泣きついた経験があります。

2.幼稚園時代

 私は、幼稚園時代をクレヨンしんちゃんのモデルとなった幼稚園で過ごしていました(しかもひまわり組)。といっても、野原しんのすけのように個性的ではなく、自己主張も強くない園児でした。そして、非常にシャイでムッツリでした(笑)。「階段を上る女子の園児を下から覗いてみたいけれど、スカートの下を覗いている自分の姿は絶対見られたくない!!」……こんなことを考える園児でした。

 ヱタセクスアリスとしてはもう1つ。母が習字の先生で、従兄弟をよく週末に指導していました。従兄弟(女性)は中2と小6。習字をしているのを見ている振りをしてスカートから見えるブルマーを眺めていました。あまり真剣そうに見ているので、「リュウジもやるかい??」と母に言われ、あわててやらないと言ったのを覚えています(汗)。私はブルマーを見るのは好きでしたが、習字の雰囲気は苦手だったのです。先入観から苦手意識が先に来ると、いい面を知らないままやめてしまう、挑戦しない悪い癖に後々後悔することになります。従兄弟とはよく近所の公園でサッカーをしていました。今でも相談に乗ってもらう、いわば姉貴です。

 ただし、不公平なことには声を大にして主張していた子でもありました。当時、人気だったタイコを順番を破って使う園児がいたのですが、腕っ節の強いその園児に対しても「次は僕の番なんだぞ」と大声で言っていたらしいです(担任の先生との連絡帳より)。おそらく、曲がったことに対しては素直にモノをいう母の姿に影響されたのかもしれません(といっても、このタイコ事件は明らかに「自分のため」の主張ですが(笑))。

 当時の私はあがり症でした。その例として、幼稚園の卒業企画で、ホームビデオで園児を1人1人自己紹介したことが挙げられます。(1)名前、(2)組、(3)好きな異性の発表、(4)一発ネタ、とあるのですが、幼稚園児・リュウジからみて(3)と(4)はかなり難問でした。親からお笑い番組を止められ、真似をすることすらできません。また、(3)はシャイな私にとってかなり苦しみました。私は結局(3)では好きな人の名前は言えませんでした。鈴木さんであることには違いなかったのですが、もう1人の、近くにいてよく話をしていた別の鈴木さんの名前を挙げてしまいました(笑)。(4)は自分の両手でジャンケンしあうというかなりお寒い内容を撮ってもらいました。ただ、このときのドキドキ感は恋愛のそれとは違い、まるで「やってはいけないことをやってしまう」ようなドキドキ感だったように思います。

 幼稚園の頃の夢はサッカー選手として活躍し、ズームイン朝のサッカーコーナーで注目されることでした。

3.小学校時代(低学年)

 1年の頃は引き続きサッカーが流行していて、休み時間にはサッカーゴールでよくPK戦をしていました。みな思い思いに自分のシュート名をつけます。吹き出してしまいそうな名前が今では懐かしいです。……私のシュート名は勘弁してください(笑)。

 1・2年のころはクラスの一部の子とよくぶつかっていました。そのパターンは決まっていて、(1)B君が「自分さえよければいい」的な行動をする。(2)リュウジが「ダメだ」と怒り出す。(3)「うるさい、いいだろ」と言われ突付き合う。当時の私は、自分よりいい条件をもつ人(例えば給食のカレーを多めにとる)を羨みつつ、認めたくない、潰したいという思いが強かったのだと思います。それを、「自分だけいけないんだよ。」と優等生っぽい発言をすることで正当化しようとしていたのでしょう。もし、「じゃあリュウジも多くよそりなよ」と言われていたら乗っていた……かもしれないです(わかりません)。そして、方法がよくありませんでした。非難するだけで、謝るまで言い続け、追い詰めることしか考えていなかったのです。「次から余ったのをB君がもらえばいいよ」この発言が、相手の優位性を認めるからか、できませんでした。その結果、サッカーをする友達など、周りの遊ぶ友人には困ることはありませんでしたが、数人からは疎まれていました。当時の担任の先生は「今まで見た生徒の中で一番正義感がある」と通知表に書いていましたが、そんな立派なものではないと、私は思います。それでも数人以外に全く嫌われていなかったのは不思議です。おそらく、不公平に対する気持ちは共通していて、その思いをぶつけていることは、気持ちを代弁することになり、周りを傷つけるものではなかったから、ですかね……(苦笑)。おそらく、この頃の私を知る友人たちが私の進路を知ると「あ〜、そんなもんかもね」と言われるかもしれません。

 また2年に進級する頃、私はサッカーから野球に転向することになります。(1)サッカーには当時プロがなく、給料が安く人気がないこと (2)1つの流れとしてサッカーから野球に友達が流れていたことがあります。「おいおい、そんな安直でいいのか??」「Jリーグが数年後にできるのに。頭堅いな、リュウジちゃんよ」とお怒りの方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)、当時の社会からの情報源としては、朝のズームイン朝と夕方のニュースTVくらいでしたので、仕方ないといえば仕方ないと私は思います。

4.小学校(中学年)

 そんな、シャイな反面、感情表現が不得手な私でしたが、3年生に進級する際に1つの転機を迎えます。新しい担任の先生との出会いです。私のこの不器用な性格に対して、大人として接することによって自分の感情表現の仕方や、ものの言い方が特殊であることを客観的に気付かせてくれました。私が1人でいるときを見計らって、さして問題でもないように、「リュウジの言っていることは正しいんだけどなぁ。相手も君と同じ考えを持つ『人』なんだ。だから、より相手が受け入れやすいように話すと、もっと納得してくれると思うなぁ」とアドバイスをいただきました。他の人に聞かれないように、そして、大きな問題でもないように振舞ってくれる先生の後姿を見て、話を聞く側の立場というのを始めて認識したと思います(え、遅すぎる??)。

 ここから私は変わりました。「はじめはバカにされてもいい。うまい人の真似でもいい。なんとかうまく自分の考えを伝えたい」と思うようになり、一気に授業での挙手回数も増えていきました。特に算数や社会などでは、自分の考えから授業が始まった瞬間がとても楽しく、そして、その余裕から他のクラスメイトの意見もよく聞くことができるようになったと思います。

 そして、勉強に必要なスキルは「自分はできる」と思い込むことだと、私は思いました。授業の中で自信を持って発表し、注目されることで、「オレってできる」と勝手に思い込み、勉強し、できるようになり、また「オレってできる」と思い込み、手を挙げる。この好循環を3年生でつかんだからです。「キャリアエリート〜」諸先輩方の文章を見て、改めて思います。「私はあの頃の成績は小学校でもトップクラスでした」という記述が非常に多いのです。そのように振り返るということは、「オレってできる」という思い込みが当時あったからであり、「できる」と思うからこそ、勉強する……と私は思うのです。人間の脳の性能自体は、元々はさして変わらず、使い方次第で能力が変わることが有力な説となっています。そうであるのならば、「自分は勉強ができるんだ」と思い込むことこそ、初期の勉強では必要なのかもしれません。

 また、この頃にもう1つ、良い出会いがありました。新しい野球の監督との出会いです。新しい監督はとにかく厳しく、集中力が切れて、怠けていると、バットのグリップで頭をコンコンと叩かれました。怖さから2回ほど連続して練習を怠けました。ただ、「ここで終わったら格好が悪すぎる」「監督に逃げたと思われたくない」との思いが練習に足を運ばせたのだと思います。しかし、以前より休憩時間も減り、体の小さかった私はよくバテてしまっていました。その中でも個人ノックが最恐で(笑)、監督と1対1でノックを受けるときが、みなの一番緊張する時間でした。ノックを受ける人の後ろは、校舎の頑丈な壁。取れないとはね返って自分に当たります。しかもそのノックの打球の速さが中学レベルの速さで、とても怖いのです。私は初め、びびってほとんど取れませんでした(背中を数発直撃)。取れない私を見て監督もあきらめ、だんだんゆるい球を打ちます。ノック後、自分だけ弱いノックだったという劣等感がたまらなく嫌でした。「絶対うまくなってやる」と心に誓い、私は監督の(1)練習の2時間前にはご飯を食べない (2)飲み物はぬるま湯の麦茶 (3)毎日100本素振りをすること等のアドバイスを忠実に守っていくことになります。練習中は鬼のような監督も、実は優しい方だということを(1)転校するチームメイトを送る餞(はなむけ)の言葉や、(2)自発的なヘッドスライディングに対し「そういう気持ちがあればどんどんうまくなる」と言われたことから感じ、甲子園経験者である監督にずっとついていこうと心に誓いました。また、「礼儀とは何か、目上の人と社会でどのように接すべきか」ということを、私はこのとき学んだと思います。ただ、それでも登校する際に監督の家の前を通るときは緊張していました。

 4年のとき、一番印象に残っているのは「俺がレギュラー事件」です。当時、私は9番ライトで打率2割ながらかろうじて試合に出る存在でした。私は覚えていませんが、友人の話では、私は「オレが不動のレギュラーだ」とみんなの前で言ってしまったらしいのです(9番ライトでそれはないだろとあの頃の自分に思わず突っ込みを入れたくなりますが(笑))。それを聞いた監督がレギュラーだけを内内に集め、「おそらくこのメンバーでやっていく。だからそういうことを言うな。圧勝して中盤から控えを出して勝てるチームを作ろう」と言ってくれたのです。また、監督に「お前、先週の試合で途中交代のとき、いやな顔をしたな。今度その顔をしたら、実力に関係なく試合に出さんぞ」との言葉は私の心に刺さりました。しかし、実は努力をしている私を見てくれていて、その部分を評価していたからこそ「実力に関係なく」という言葉を付け加えてくれたことを知り、1人で感動していたのを覚えています(毎晩9時から、私は家の前で毎日欠かさず素振りをしていたのですが、そのことを監督は知っていたようです)。

5.小学校(高学年)

 高学年での思い出は3つあります。(1)反面教師との出会い、(2)運動会での応援団長の経験、(3)陸上大会での選考です。

 (1)の反面教師との出会いは、とても衝撃的でした。集合写真の際、女子のみを撮ると引き上げようとしたり、1000Mを走り終えた直後の私に「タイムが悪い」と跳び蹴りをしたり、「君、私立の受験も考えてるんだよね〜。なら、この役員、やってくれて、いいよね〜」と通知表をカサに仕事を押し付けられたりしました。上から人を見る傾向が強く、生徒に向けては「あれしろ、これしろ」と言い、やわらかく理不尽な点について指摘すると「いいから、とにかくしろ」と強引に押し付けられました。あげくに「昨日教室にタバコの吸殻が落ちてたけど、素直そうに見せといてお前じゃないの〜」と言われ、「お前の笑顔には裏がある」のような言葉まで言われていました。ただ、この時期にこのような人に会えて、私は良かったと思います。「人は成長していかないとこんな奴になってしまうよ」と3年の担任の先生がアドバイスをくれているようにも思えたからです。母からは「ガマンしなさい」と言われましたが、「親父の役所の仕事の方が、ぜーったいガマンしてるね」とませたことを言って母を安心させようとしていました。

 (2)の運動会での応援団長の経験は、「新しい考えを形にする楽しさ」「意見集約の難しさ」「全校生徒1000人の注目を受ける感動」の3つを得られたと思っています。

 新しい考えとしては、私は既存のマニュアルにのっとった応援スタイルに倦怠感を感じていたので、「どのようなスタイルの応援がみんなで参加しやすいか」「最近の流行りモノを取り入れられないか」という観点で、情報を集め、新しい応援マニュアルを作るべく話し合いました。そして、「マンガのキャラクターのコスプレで応援」「Jリーグの応援スタイルを取り入れる」「プロ野球のヤクルトの応援のようにカサを振る」などの方法で臨みました。

 一方で、応援団員から多様な意見が出され、その中でも対立があったりしました。それでも、みんなでとことん話し合いながら結論を出せたのは良かったと思います。難点としては、私が衣装やバカ騒ぎに固執しすぎたため、控えめな女子たちに完全には協調できていなかったこと、細かいところに目が行かず、団員のアドバイスを全ては聞けなかったこと、でしょうか。

 そして、応援団の最大の見せ場である応援合戦では、1000人を超える生徒が私の声、動作の1つ1つに集中しているのを感じ、独特の充実感を覚えました。お祭のように声を出してくれる団員、終わった後に「応援合戦だけもう一度やりたい」と話している下級生を見て、「みんなで話して、意見をぶつけ合った甲斐があったな」と思いました。

 また、女性を性の対象として見始めたのもこの頃でしょうか。応援団長をしてから何通か下駄箱に手紙が入っていたことがあったりなどして、「好きだってことは何してもいいんだよなぁ(お恥ずかしいことに、ムッツリの、人を傷つけることを知らない少年だったと思います)」と授業のときや1人の帰り道で考えていました。(お小遣い月1800円の小6の私と小3、小5の女子とデートなどとは、どう考えてもクレイジーですが、実際に行動には移していませんので悪しからず)

 (3)の陸上大会の選考では、初めて「人を蹴落とす」経験をしました。市内大会に出場できる学校代表の残り1人枠をめぐり、友人とガチンコで争ったのです。「1000m。一本勝負。早く通過した方が勝ち」と例の反面教師に言われました。結果は、途中でスパートをかけた私が勝ったのですが、抜いて大勢が決した後、悪コンディションの中走っていた彼の苦しそうな姿を見て胸が痛みました。しかし、「出られるのは1人なんだ。仕方ないんだ」と自分に言い聞かせていました。私立中学受験や失恋、官庁訪問など、胸を痛める機会がこれから出てきますが、ここが私の「競争」を意識した原点だと思います。

6.小学生時代の集大成

 小学生時代を締めくくったのが、野球の市内リーグ戦でした。私は、どんなときも怪我以外は必ずバットを振り続けてきました。それは私の精神力よりも、監督の指導や共に厳しさを共感できる幼友達がいたことが大きいと思います。その成果が打率7割8分5厘、春日部市1試合最多安打記録(6)を生み、MVPにつながったと思っています。選ばれたときは、優勝の方がうれしかったので特に感慨もなかったのですが、埼玉新聞に顔写真付きで載り、それが小学校の掲示板に大々的に張られたときは言葉にできないほどうれしかったです。それは、ある方法論を信じ、努力を継続した成果を皆が見てくれること、「今年の春日部のMVPってうちの学校からなんだ(ベッドタウンのため、市内に小学校が当時20校以上ありました)」と生徒に思われることが想像できたからだと思います。

 実はその1年前、関節炎で2週間近く歩けず、立てなかったことがありました。そのとき初めて当たり前のように動く足の大切さ、周りの方の世話になって自分が生きていることを痛感しました。2週間ぶりに歩こうとすると、よろけて前に進めなかったのです。そしてこのとき、私は監督のやさしさを目にします。私が動けず、家でテレビを見て落ち込んでいると、監督が家に来てくれたのです。「お前は長男なんだから、苦しいけどここでへこたれちゃダメだぞ」「チームで一番体が小さいのに一番努力家だったからな。だから、治すときはじっくり治すんだ」と言ってくださいました。そのときは半分監督に対する怖さもありましたが、MVPを取ったとき、センターゴロを達成したとき、私は監督のことを考えていました。「監督に育ててもらって今がある」と。この先、中学野球、高校受験やディベートの対策、国家 I 種受験など、忍耐の経験がありましたが、チームでの練習が、「この程度ならまだまだ!!」と思わせてくれる原動力になっていたと思います。小学校の頃の夢、それはプロ野球選手となって1億円プレイヤーになることで、そのために早稲田実業中学に勉強で入り、甲子園に行くことを考えていました。

7.中学校野球部時代

 しかしながら、私は地元の公立中学に進学します。正直に申し上げると、中学受験を目指し勉強をしてはいたのですが、希望する早稲田実業、立教にことごとく落ちたのです。勉強合宿に野球の県大会のために出席しなかったり、模試なども大会の試合に劣後したりした結果かもしれません。ただ、「ここでチームを離れたら、『リュウジがいたら……』と絶対に思われる。後悔したくない。オレがここまでやってこれたのも、監督とみんなのおかげだ」との思いからの選択だったので、私はまったく後悔していません。そして、「悔いのないように生きるためのお金は出す。その代わり妥協して過ごすな」との家の教えに対して、逆にその立場を利用して甘えていた部分があったかもしれません。

 私は入学後、迷わず野球部の門を叩きます。しかし、今思うと、もう少し色々な部活動を見た上で判断しても良かったかもしれません。それだけ当時の私には視野の狭さを感じます。というのは、確かに過去において素振りの継続により野球での成功をもたらしましたが、それ以外の分野にも成功する要素や興味はあったからです。もしかしたらそこに、春日部市MVPのプライドが邪魔をしたのかもしれません。

 野球部は縦社会が非常に厳しいところで、レギュラーか否かを問わず、先輩には立ち止まっての挨拶が強制されます。頭は坊主で、私はできれば女子にモテそうな髪型にしたいと思っていましたが、野球部に入っている自分に満足だったので、それ以上は求めませんでした。毎日グランド(500m弱)を20週走り、筋トレを90回ずつこなし、他の部活の生徒が帰りだす頃に初めてキャッチボールを許されました。ただ、私はこの頃、純粋に学年の枠にとらわれた練習方法・管理システムに疑問を抱いていました。「オレは、3年とまではいかなくとも、2年と同じクラスにはあるはず!!」そう考えた私は、顧問にアピールしようとしました。(1)小学校の頃にMVPをとっていたということを暗に知ってもらうこと、(2)プレーでの監督へのアピール、の2点です。おそらく監督の考えにあるデメリットは「管理の複雑化と試合に出られない2年と私との衝突」であり、そのデメリットを上回る実力が必要だと私は考えました。(1)のMVP受賞のアピールでは、そのときのエースが同じ少年野球チーム出身でMVP受賞者であったため、その先輩と顧問の前で昔話を話すことでアピールが可能でした。(2)の自分の最大の強みの出塁率の高さ・足の実戦アピールは時間がかかりました。実戦機会がなかったからです。そんな中、「モチベーション向上」のため、野球部1年生対女子ソフト部のソフトの試合が恒例行事となっており、これを使おうと私は考えました。私は敢えてバットを振らず、3打席ともにセフティーバントで塁に出て見せました。顧問が転がす野球が好きだったことも考慮にありましたが、はっきりと自分の強みを示したことで、代打の機会が与えられるようになりました。う〜ん、官庁訪問ほどではありませんが、策士ですね、私も。

 1年の夏ごろから次第に代打で出してもらうようになりましたが、速球派のピッチャーに見逃しの三振をしたこと(消極性)からベンチからも外されます。そして、1年にしては好待遇だった私も、いったんその地位を追われると腐っていきました。バットの素振りを毎晩しなくなっていったのです。このことが冬に大きな災いを招くことになります。3年生が引退し、1・2年体制になった(私が1年生の)秋・冬。私は2年生のレギュラーでない人たちにいじめられていました。水筒を丸ごととられたり、眼鏡を壊されたりしていました。そして、1年生の中でも無視する人が増えていきました。おそらく、かつての私がいい待遇だったことが気に入らなかったのかもしれません。また、関わると厄介だったからかもしれません。片付けの量が少ないと先輩からケチを付けられ、幼友達もまとめていじめられるのが怖いせいか、野球部の時間では私を無視していました。幼い頃からの友達ではありますが、「幼なじみ」でも「親友」でもないと私が思うのはこれ故です。「高校に入ったら、真の友人を見つけたい」私はそう考えていました。

 いじめをなくすため、2年に進級した春から素振りを再開し、実績で誰も後ろ指を刺されないようにすることを目指し、また、仲良くやっていきたいことを上級生の主将にも打ち明け、傲慢な態度に見えることがないようにすることで、問題解決に当たりました。このとき思ったのが、初心を忘れる怖さです。小学校のときには確かに「素振りをしていないとブランクが怖い」と感じ、続けていたのに、中学に入りそれができませんでした。スランプの結果が素直についてきて、それを実感しました。

 中学のときの挫折は、いじめの他に心臓の疾患があります。中1のときに宣告された不整脈は、日常の運動に支障はないものの、正常な人よりも持久力がなく、長距離走の場合は普通の人より体力の負担が大きく、辛く感じるらしいのです。ただ、自分だけそのことを理由に軽めの練習をこなしたくなかったし、なにより試合に出してもらっているという自負がありました。したがって、顧問の先生には事情を話したものの、メニューはそのままに続けさせてもらっていました。ただ、1年の時、連日の検診から思ったように走り込みができずにヒジを壊し、ピッチャーを下ろされたときや、ランニング後に嘔吐してしまったときは、かなりの屈辱感を感じました。「人以上に努力をして、なぜオレだけ結果が伴いにくい体なんだ!!」と自分を恨んだこともありました。

 しかしその中で、3年生の最後の大会の後で春日部市選抜主将に選ばれ、春日部共栄高校から野球推薦のお話をいただいたことは私にとって大きな自信になり、自分自身を客観的に見るよい機会になりました。私の中学校は、最後の市内大会も1回戦で負けたチームでしたので、市選抜、しかも主将に指名されることはまったく考えていませんでした。また、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、春日部共栄とは甲子園出場8回を誇る高校であり、地元の選手を育て、社会人野球やプロ野球に送り出すことで有名な高校でした(OBとしては現横浜の土肥投手がいます)。ただ、私は選ばれたことに喜びを感じつつも、別の道を進むことを決意します。なぜなら、「オレってプロは無理かなぁ」と、前述の心臓のハンディによる挫折感から純粋に考えるようになったからです。努力だけでなく、生まれ持った環境の問題もあることを身をもって感じたのです。「おそらく、プロ野球以外にも多くの人を感動させる職業、大金をもらえる職業はあるさ」「お前は与えられた環境の中で十分暴れたじゃないか。暴れさせてもらえたじゃないか。このような成果が出せたのは自分の努力以上に周りの方の支えがあってこそだろ」と自分自身に言い聞かせて、納得していたように思います。

 それでも私は、野球の経験を通じて「努力をすれば、どこかで見てくれている人はいる。それは見てほしくてするのでなく、努力をした後に必然的に表れたものを見てくれるということ。だから、あきらめず、やりぬいた上で結果を待つことが大事である」ということを実感できたと思います。そして、私は野球部の経験から、「役割を果たすことの達成感」を得たと思います。私は試合経験から、状況に応じて顧問がどのようなサインを出したがるかを1球目のサインで考えることができました。具体的には「ここは絶対バントで送るだろ」「点差が離れている。ヒットエンドラン待ちのための、初球見送りのサインだな」「オレには2ストライクからでもスクイズのサインはある。カットのサインはそのための布石では」などです。そして、顧問が考えていた通りのシナリオを自分が作り、チャンスが生まれる瞬間。これが私の中学時代最高の瞬間でした。これが私の、いわゆる「チャンスメイク」です。

8.中学校受験期

 私は野球推薦を断り、私立大学の附属高校を総ナメにする受験の末、中央大学附属高校に進学します。と、かなり省略して書きましたが、それが私にとって当時ベストに思える選択肢でした。野球をしないことを決めたので、勉強による高校入学が前提となるのですが、私は希望するレベルの県立高校に行けないほど、内申点と偏差値がアンバランスな子で、勉強のレベルが合うのは私立高校しか選択としてありませんでした。原因は、ことあるごとに自分の中で正論と思う意見をぶつけ、論理矛盾をいう教師や説明がつかない教師に蔑視や軽蔑した発言があったからだと思います。そんな生徒をかわいいと思う教師は、よほど包容力があるか、論理的に説明した上で納得させてくれる教師だけでした。当然、このような教師は非常に少数で、「扱いにくい生徒(そもそも生徒は「扱う」ものではないですが)」として内申点は相当に落ち込んでいっていました。

 社会的経験(年輪)の薄い、中学校のペーパー教師は、表向きに「みんなのよりよい学校生活のため」と言ってよく規則を守らせたがります。しかし、それは自分に減点をつけられたくない教師のエゴであり、体裁のいいウソではないかと私は当時考えていたのです。なぜなら、普段買い物に行くために自転車を使うときはヘルメットをしなければならない法律はないのに、校則で登下校時はヘルメットをさせます。なぜか。買い物の途中での事故は中学校に責任はないが、登校下校時では責任が生じるからではないでしょうか。本当に「生徒のため」と思うのであれば、自転車で外出するときは必ずヘルメットをすればよいのです。このような意見を教員室で主張して以降、私は「扱いにくい生徒」としてのレッテルを貼られていたかもしれません。このような中学教師陣との確執などから、人一倍「自由な校風」というものに憧れるようになったと思います。「重要なのはお互いの個性、差を認めることにある。何をやってもいいが、その範囲は他者を傷つけない範囲で生まれるべきではないか。」と、私は「感情表現が下手で、モノをはっきり言う個性」を否定されることで、強く思ったのです。

 また、個性を否定され、今の言葉で言う「勝ち組」からあぶれたことで、私は将来について、自分はどのように選択すればいいのかを真剣に考えるようになります。当時の中学校での暗黙の出世コースは、大都市の県立高校(浦和高校、春日部高校など)に推薦で入り、一浪して国立または早慶に入り、そのネームバリューを使って大企業に入り、一生安定した暮らしを送ることでした。私は、このコースにあぶれたことも手伝い(笑)、この出世コース・幸福論が、これからは、そして私に対しては有効でないように客観的に感じるようになりました。「それはそれで、県立高早慶大経由大企業行きの人生選択自体は否定しない。しかし、オレはそのコースでは退屈する。オレはいっぱしのリーマンでは終わりたくない(公務員も立派な、いっぱしのリーマンだと思います)」と、当時は大きなことを考え、弁護士やジャーナリストなどの自分ひとりのサービスで大きな効果が生まれそうな仕事に憧れを持っていました。そして、「組織の名前で儲け、組織の中で埋もれるではなく、自分の力で、価値が出せる人間になりたい」と、現在の選択とは逆説的な考えを持っていました。「そのためには、学校の名前より、個性だ、自分の専門性だ。将来学校名より専門性、実際の成績が重視されるアメリカのような会社のシステムになるときが絶対に日本にも来る。そのために個性が磨ける学校に入りたい」と、当時の新聞を読みながら大きなことを考え、口だけ言っていました(後から感じましたが、名前にしてもないよりはあるに越したことがないようにも思います)。

 そして、私は中央大学附属高校と出会います。高校の説明会で、一通りの学校側の説明が終わった後、「もしよかったらまだ生徒が残っていますので、話を聞いていってください。生徒が不満を言えば、それを聞いてもらって評価してもらえばいいです。ただ、そういった生徒は少ないと思いますが」と言われたのを覚えています。そして校内で、今まで見たことのない種類の生き物を見て「ココだ!!」と思いました。相当な遊び人風で、ラルフローレンのセーターに片手に携帯、長髪のメッシュ。しかし、その人が意外にも、(携帯で話しながら)当たり前のように道端の空き缶をゴミ箱に捨てているのです。カバンのポケットには課題図書が入っています。「おめー、タチバナ(ラーメン屋)混み出すやん、早くこいよ」電話越しの声が自分に向けられているかのように感じさえしました。「こんな個性の強い学校なら、今まで知らない社会を知ったり、話下手で目上への人当たりが良くない私も揉まれるのではないか」……このことから、手段が目的となっている気がしていた大学受験をせずに、大学に入れ、かつ、自由な校風で個性が磨かれそうな中大附属高校に強く惹かれていました。また、当時興味を抱き始めていた法曹やジャーナリストの輩出も、高校として多いこともプラス要因でした(ちなみに幣校は国内での高校別司法試験合格者総数2位を誇り、OBに小倉智昭氏や秋元康氏がいます)。

 ジャーナリストや法曹を多く排出する大学の秘密はどこにあるのか。当時私はこう考えていました。「目指す人が、目指す人同士で切磋琢磨しているからではないか」と。だから、大学の名前だけで勝負する就職活動(当時は大学ごとに願書の申し込み先が違うという話を聞き、真に受けていました)と違い、難しい試験のある司法試験やマスコミは、実力主義で採られていると思っていたのです(もちろん後者についてはそのようなことはないと今では思います)。よって、私は少なくとも、検察官やジャーナリストになりたいのであれば、そのような人材が集まる大学・学部には入れればよいのではないかと思っていたのです。

9.高校入学

 中大附属に入った私は2つのカルチャーショックを受けます。(1)やりたいことは自分で見つけること、実はそれが難しいこと、(2)男子のみの環境であること、です。

 私は、男子校ながらお洒落な高校の中で、必死にやりたいことを考え、情報を集めました。そして、打ち込みたいことを見つけるため、野球と通じるやりたいことを実際にイメージしてみました。(1)みんなの前で目立つ何かがしたい。(2)やっている自分がかっこいいと思えることがしたい。(3)それに対して全力で取り組めるほど、楽しい!!と実感できる活動がいい。野球も確かにその選択肢中の1つではありましたが、心臓のハンディや一時間半の通学距離を思うと乗り気ではありませんでした。そして、最終的に私は生徒会に入りました。(1)学校生活の中で生徒が「こうあったらいいな」というのを形にできる。(2)人的ネットワークを広げられそう。女子高などとの交流もある。(3)話を聞いた先輩に尊敬する人を見た、ことが理由でした。

 思えばこの頃から、急速に女子にモテたいと思い始めていました(笑)。おそらく、(1)中学時代に野球ばかりでほとんどモテず、「色気がなく真面目で生意気な人」と勝手にレッテル張りされるのが嫌だったことを、高校に入っても引っぱりたくなかったこと、(2)話下手だけど、話はしたい、というところからきていたと思います。そして、かっこいい高校に入って、格好いい先輩・友人に遊び方を教えてもらおうと必死でした(笑)。田舎学生が東京の落ち着いた学生を見て、思い切り見栄を張っている見苦しい姿をご想像してもらえればと思います。それが髪を伸ばし、茶色くし、コンタクトにし、合コンを重ねる高校生かつなったのだと思います。実際に、真の男のかっこよさに気付くのは「中附バック事件」(後述)のときでした。

 生徒会の仕事は主に3つ。(1)学園祭の運営、(2)各部活動の予算折衝、(3)多摩地区の生徒会同士の情報交換です。(3)はすごく真面目で、少年犯罪や痴漢被害などを生徒会としてどのような手段が取れるか、というシンポジウムまでやるほどでした。その中で、私は1人の女性のことが好きになります。彼女は決してルックスがいいというわけではなかったのですが、考え方が非常にしっかりしていて、自分の意見をはっきりと言う人でした。わたしはそこに惹かれ、電話越しの告白をしたのですが、結局失敗に終わりました。彼女の家が母子家庭で、放課後もアルバイトで生計を支えていること、にもかかわらず、多摩の高校生のためにできることはないかと活動していることに心を打たれ、「オレって自分のことしか考えていない、かなり小さいやつだなぁ」と1人夜空を眺め思っていました。

10.合コンメイク

 ふられた後も、かなり合コンをしていました(きっかけはモテない男の脱皮したかったこと。しだいに初めて会う女の子と色々な話をして、信頼され、相手が夢中に話してくれて、それを楽しむことが自分にとって快感になっていきました)。友人が持ってきたコネを広げつつ、同時に自分も別口から合コンをメイクします。淑徳与野、大宮光陵、大宮工業、武蔵野女子学院、吉祥女子、藤村女子、日大豊山女子、専修大松戸、女子聖学院、立教女学院、桜蔭、女子学院、大妻中野、恵泉、専修大附属、清瀬、志木、岩槻、宮代、川越女子、星野女子、浦和一女、浦和明の星、日本女子体育大、桜華女子、大宮開成など。1週間に1つ話があるとワクワクするという、妙な感覚がありました。おそらく、今まで家族や部活、暮らすつながりの人以外の価値観に触れることが少なく、会う1人1人の価値観や趣味、考え方に触れるのが非常に新鮮だったからだと思います。私も男ですから、性的対象としての女性と話すという楽しさも正直に言ってないということはありえないのですが。カラオケに行って、マックで話して、最後にプリクラを撮ります。趣味が合えば放課後にラーメンを食べにいったり、プールやショッピングなどのデートを楽しんでいました。当時は俗に言うヤリコンなども周りには一部ありましたが、妄想はするものの、シャイな自分には到底行動の選択肢に入るものではありませんでした。おそらく、私は相手の話を色々聞くのが好きなタイプなのだと思います。知らないことには素直に「知らないから教えてほしい」と言うことができて、「相手がこれを聞いたら喜ぶかな」ということに話を聞きつつも考え、引き出しを探る少年でした。そんな中、高校1年生の9月に、ある学園祭で私は博美と出会います。

 彼女は中学生時、剣道で全国大会にも出場したこともある女性剣士でした。そんな、1つのことに夢中になる真面目さに惹かれていました。自分も、2人きりでは何を話してよいかわからなかったので、自分が夢中になってきたこと、夢中になっていることを話しました。できたら、今夢中になっていることも脚色せずに話せたらと思います。しかし、かっこよく見せたいがために、多少大げさに話をしてしまいました。しかし、この頃には色々な人と話すことで、自然といい雰囲気を作ることをマスターしていたのかもしれません。中附の吹奏楽部のコンサート鑑賞の帰り道、私は告白し、付き合うことになります。

 そして、私は彼女に夢中になったので、合コンからも足を洗うようになりました。しかし、その夢中の度合いが彼女自身に真に向かっていたものではなかった、と今では思います。彼女は、私にホッとする時間を求めていました。厳しい練習、特進クラスゆえのハードな予習復習。「あれ、高校に入るときはオレと偏差値が7違ったはずじゃ」と思うくらいの勉強のレベルとハードさに、勉強を教えていても焦りを覚えていました。実際相乗効果で私の成績も上がりました。しかし、私が彼女に求めていたのは、彼女とのイベントや刺激でした。その差異を感じた彼女をどう思っていたでしょう(おそらくそれらを求めていたのは、中学時代に張られたレッテルやコンプレックスを自分自身で必死に否定したがっていたからだと思います)。私は3ヶ月を経て別れを告げられました。「メイワクしてる」とポケベルに入れられた言葉は今でも残っていますし、私の反省材料です。ただ、その頃の私は、「自分が誠意を尽くせばわかってくれる」と勝手に考えていました。「しっかりした理由が聞きたい」と彼女の最寄り駅まで聞きに行きました。更に彼女の心象を悪くしたのは言うまでもありません。私はしっかりとした答えを直接聞けばなんとかなると思い込み、自分で探すことを放棄していました。

 そんな中、泥沼にはまる私を見て、生徒会の先輩が「何も言わずに土曜の午後、会室に来い」と私に言いました。行った先は西川口の繁華街。その中で先輩に言われました。「女なんて金出せばこんなもんなんだよ。お前が求めてたレベルのものってのは金で完結してんの。たぶんね」私はそのときになって、「お金では買えない人とのつながりの価値」を実感したように思います。いかに彼女に迷惑をかけていたかを思い知りました。

11.400万円分の挫折(中附バッグ事件)

 そして、このとき生徒会で「中附バッグ事件」が起こります。簡単に言えば「私の生徒会副会長職のクビ」です。きっかけは自分たちの学校に制服やバッグがなかったことに対して、私が作成を企画したことにあります。その当時、東京では自分たちのバッグなどのアイテムに自分たちのアイデンティティーや誇りを持つ風潮がありました。「では生徒会が作ってやろう」と、私は生徒会の中で有志と募り計画していきました。折も折、バスケ部がバスケ部のスクールバッグを出し、部内外で人気となっていたことにも、この動きに拍車をかけました。「生徒会が中附のスクールバッグを作るらしい」この噂はすぐに全校生徒、教職員の間にも話題になりました。そして、生活指導部、生徒会顧問からは、「なぜ、制服やアイテムを敢えて定めなかった自由な校風を、そのような近視眼的な目的のために壊すのか」と反論されました。しかし、「そのバッグを持つか否かは生徒が判断する。校章や学ランを選択することと同じである。また、あくまで学校は非公認の形をとってもらえれば支障はない。学生に原価で売るシステムさえ承認してもらえるのであればよい。むしろ軌道に乗り生協で販売できるならば、選択するアイテムが増えるので高校側も都合がよいのでは」と私は再反論。しかし、「生徒会が作る」という客観的なアクション自体が、教職員の間で問題視されていたように思います。「生徒会副会長ら有志が作る」という広報のもと、具体的なデザインに美術部を巻き込み、発注会社も決まりました(初期投資400万円)。私は学校の生徒のために、みんなが喜ぶ何かを在任中に実現したかったのです。しかし、思わぬところで落とし穴を食らいます。

 当時、有志として集まっていたもう1人の副会長と企画にノータッチであった会長が「リュウジについていけない」と言い出したのです。今までバッグの草案は自分が出し、その方針の下で進んでいました。だが、事後承諾だったり、アドバイスに対して話し合う機会がほとんどありませんでした。そのため、半ば、私の独断で進んでいるような雰囲気になってしまっていました。私は、忠告を受けて初めて行き過ぎに気がつきました。おそらく私は、当時彼女と別れて闇雲に夢中になることを求めていたのだと思います。しかし、その方法が皆と協力することであったことを忘れていたのです。チームプレイを忘れ、かつ、反省会でも同情を買うために彼女と別れたことに加え、両親の離婚話と言うありもしないウソをぶちまけてしまいました。ここで、更に私の信用はなくなります。結局、中附バッグはデザイン担当の美術部が引き継ぐこととなり、私は副会長の職を辞しました。この後、もう一人の副会長とはその後4年間、話ができない関係となります。心が痛んだのはやめた翌日に、生徒会室前に張られたビラです。「1.生徒会の主催するスクールバッグは、生徒会の名をかたり、独断で行った者の計画であり、生徒会本体とは全く関連がない。2.諸般の事情で12月12日付けで副会長を以下のように変更する。……」私は、明治政府に逆賊扱いされた赤報隊のような気分になりました。「私は何も悪気はなかった。生徒会を守るためそこまでする必要はあるのか」私は教室に入ってくるなり泣いていました。ただ、クラスの皆は私が生徒会でチームを組んでいたことも知っていましたし、スタンドプレーでクビになったことも、うすうす知っていたようです。その後、美術部によって成果は花開き、定価4980円ながら、全校生徒の4分の1が持ったといわれる中附のスクールバッグが誕生します。

 泣き出した教室で、真っ先に声をかけてくれたのが、後に親友になるKJでした。「一緒にバスケしない?」彼は私に居場所がないことを知っていたのです。それを敢えて表にせず誘ってくれたのが本当にうれしかったです。打ちのめされたときに受ける優しい言葉とはこうも人をすんなりと動かすとは、今でも不思議に思います。彼と一緒にいると楽しいし、刺激をくれます。政治の話から音楽の話まで、好みが違うからこそ分かり合えるときのうれしさがありました。

 事件の後、「等身大でいいじゃないか、格好をつけるお前ではなく、素の自分をさらけ出す自信が大事なんだ」ということを担任の先生に言われました。「まったくまったく。オレは何をしてきたんだ。かっこいいことに走りすぎていた。焦りすぎていた」と2人で教員室のベランダで朝焼けを見ながら痛感しました。人とは違う何かをするために、かっこよくて大きいことがしたい。スクールバッグ製作も、自分としてはそのような見栄が大きかったのだと思います。人との違いとは見栄を張って何かをするのではなく、自分の頭で考え、素直に形に表すこと。他人がそれにつきどう思うかとは別なのです。その点で私は、「他人にどう見られているか」ということに固執しすぎていました。また、チームプレイの中で重要な信頼を、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)の形で出していなかったと思います。そして、自分の自由とは相手の自由を認めることから始まり、同時に責任がつくことをわかっていませんでした。茶髪にしたときは、何か解放された気分になっていましたが、中学時代の教師から何も言われなくなったことからの解放であり、誰もその選択に干渉しない代わりに、守ってもくれない現実に気がついていませんでした。茶髪が理由で偏見を持った個人に信用されなくても、偏見を持つ自由はあり、その責任で生きる人にとって、信用しないこともまたチョイスなのです。そこまでの意味を考えた上で、私は髪を染めていませんでした。私は自戒の念も込め、髪を黒くしました。この旨を両親に報告し、両親からは当分の間、反省するよう言われました(実は父からは坊主にするよう言われていました)。

12.高校2年(再起への挑戦)

 2年でクラス替えした際、KJとはクラスが別々になり、その際に彼の所属するESS部に誘われました。「ESSで英語スピーチやディベート、英語劇などをやっている」と聞き、16年日本育ちの私は、初めは身構えてしまいました。しかし、「彼も外国に行くまでは日本育ちで、しかも全く行ったことのない文化に無理やり放り投げられたわけだ。びびってたけど、彼と違いオレはいつでもやめられる。女子高との交流もあるらしい。なら、やってみるか。鼻持ちならない奴ばっかりで合わなかったらやめればいい」と思いました。私はKJに入部の電話を入れます。私は英語で自己表現という未知なる物と女子高との交流に正直惹かれていました。

 そして、私はESSのスピーチコンテストを観戦中、雪乃と出会います。彼女のK女子高校からは彼女しか出ていませんでした。それにもかかわらず、周りをよく巻き込み、皆と仲がいいのです。「ノリがいいだけか」と初めは思いましたが、そうでもありません。自然に振りまく笑顔にまぶしさを感じました。そして、共通の話題から話を広げていき、ポケベルをしあう仲になりました。

 しかし、スピーチコンテストで入賞する彼女を見て私は思います。「オレにはどんな夢があるのだろうか?」「自分のどんな点を活かしてディベートをしたいのか、オレはかわかってねぇ〜!!」と思い、愕然とします。「オレって、自分自身の魅力がないじゃないか。わかってないじゃないか」今までの合コンは、人の話に合わせたり、最近の流行を話すだけで、自分自身の努力については何も胸を張って話せていなかったことに気付いたのです。「オレが胸を張って言える魅力が中学生まで遡らないとない!! なんてオレは浅い人間なんだ!!」私はそう思い、自分の弱みを正直に彼女に告げました。「そんなに気難しく考えなくていいんじゃない? やりたいことをやって楽しんで……将来やりたいこともそこから考えていけばいいのよ。私は笑うことしかできないけどね」との返答に、私は完全にKOされていました。

 これをきっかけに、私は英語ディベートに真剣に取り組みます。ディベートのパートナーと、それこそ寝る間も惜しんで発声練習や作戦会議を繰り返しました。当時のESS部のディベート大会は帰国子女が表彰台をさらうのが主流で、チーム全員が日本人・留学経験ゼロの私たちは、「どう考えても勝ち目はない」と思われていました。それだけに、「見てろよ。絶対見返してやる!!」との思いで練習や話し合いをしていました。

 当時珍しいインターネットでの論証つくりなどが功を奏し、私たちはインターハイディベートでビギナー(新人部門)3位を手にします。帰国生主体のチームに、私たちが勝てた喜び。それと同時に、全力で走りきることができた環境を作ってもらえたことに対する感謝の念を覚えた瞬間でもありました。「ありがとね」私は雪乃を自転車の後ろに乗せ、肩にのった手を握り返しながら押し殺すように言いました。「あぁ、あとおかんにもありがとうと言っておこう(笑)」

 また、高校2年の春から、正式にバンド活動も始めました。生徒会の先輩の誘いに乗った形です。小学校の頃4年間ピアノをやっていたので、その経験を生かせると思い、また尊敬する先輩からの誘いであったこともあります。ただ、「お前、ただコピーするだけなら面白くないから」と早々にカバーを考えるよう言われたことには面を喰らいました。メンバーは私だけ学年が1つ下で、よく可愛がってもらいましたし、同時に苦労もありました。周りが3年生のため、3年生のイベントスケジュールに合わせた日程が組まれた上で、私がそれに合わせる方針をとっていたからです。英語ディベートに打ち合わせとうまく折り合いを付けながら、私はバンドの練習を入れていました。

 バンドの練習では、他の4人の想像力に圧倒されました。このとき、(1)コードのイメージを壊さないように和音を変えること、(2)どのパートがメインの曲なのかを考え、その音をいかに際立たせるかを考える重要性を学びました。バンドのかっこよさはどうしてもギター、ボーカルに偏りますが、裏方の音の厚みを増やす努力とメインの音を消さない努力があってのかっこよさであると実感しました。そして、意見があればどんどん言わせてもらえました(麻雀以外)。「お前はさ、いわば特攻隊長なわけよ。(間違った意見でも「あいつは1個下だから」といって)許してくれる。その代わり、考えたものを出し続けないと、3年から手堅く弾ける奴をひっぱってきたほうがうまく弾けるよね。間違ってもいいから、『おお、これはいいね』というものを俺たちに見せてよ」……それはプレッシャーでした。場を和ませる役としては機能していたつもりですが、その点では不安もありました。「とりあえず、まずは自分のやれるパートからいい音を作っていこう」と考え、努力していました。

 ある日練習中に、「ギターの後に『ピュン・ピュン』いってない?」とベースの先輩。「あ、それオレです」「いいねぇ、その調子だよ」と言われ、私はうれしかったのを覚えています。それ以降、ミーティングの際、曲の自分なりのイメージを伝えた後、イメージに合わせた音を作る作業が始まりました。数々のダメ出しを受けつつも、お客さんのその曲へのイメージを壊さないように、かつ、ちょっとした驚きが与えられるような曲作りを目指していました。当時、バンドといっても、観客は私たちの友人や先生、そして彼らの更なる友人と、その範囲は限られていました。合コンで知り合った子も考えたのですが、「合コンで知り合った子同士が知れてしまうのはまずい」「彼女に知られたくない」との理由から却下されていました。複数の日にちで、かつ大きなホールで行えないのが、高校生バンドの悩みでしょうか。しかし、限られたステークホルダーの中でも、その楽しさは伝えられたと思います。そして、学校以外の時間に、これだけ多くの時間をかけて人生観、恋愛感、社会観を語れた仲は初めてだったと思います(人によっては8股をかけていたり、普通なら高校生がしないようなアルバイトをしていました。迷惑をかけないこととはどのようなことか、人を傷つけることとは何かと言うことを、私はこのとき先輩から学んだ気がします。練習以外にもプライベートを共有する時間が多いバンドだったからであると思います)。

 そして、ライブ当日。本番の数十分前の控え室で、手が震えながらソロの練習をつめたのを今でも鮮明に覚えています。私は本番中、他のパートを見る余裕がありませんでした。そんな私を見て、ベースの先輩が懸命にサポート、大げさにゆっくりベースギターを振らせ、「落ち着け、ゆっくりだ」というサインが伝わってきました。一瞬ふっと笑みがこぼれ、私は吹っ切れました。おかげで2番目のソロの部分は楽しみながらこなすことができました。今でも恥ずかしい、1番目のソロのシーン。手ががちがちで、目が据わっていました。野球同様、楽しんで、かつ、見てもらってこそ価値があるのにもかかわらず、実際に演奏するときにはそのことを意識できませんでした。ソロ後、演奏をダビングテープで見て、がちがちの自分に先輩からさんざんに笑われました。しかし、「力をあわせ、客が喜ぶオリジナルな演奏」というバンドにはなれていたのではないかと思います。そして、終わったあとの脱力感で、私はお祝いのお店で寝てしまいました。

 順風満帆に見えた高校2年の生活でしたが、彼女との別れの日が来ます。私が知りえたのは受験勉強の妨げになりたくない、という表向きの理由だけです。私は、彼女がもっとリラックスできる環境を提供できればと思っていましたが、うまくいきませんでした。私がこまめに心配しすぎたこと、それに対して彼女が疲れたことの両方が言えたと思います。私はショックで、「女は雪乃だけじゃない」との傲慢な思いから別の女の子と遊びに行っていました。また、別れてから、不自然に興味のないそぶりをしてしまうようになっていました。雪乃はそんな私に怒りをあらわにしたのだと思います。いやがおうにも顔を合わせる英語会連盟の会合、ディベート、英語劇の共同参加に際、私に対して何かと難癖をつけ、「あいつはなってない」と陰で文句を言います。さんざんに言われた挙句、私の目を見て話してもらえません。「なんだあいつは!!」かなり私も怒っていました。お互いが、嫌いで嫌いで、部活の関係上毎日会うにもかかわらず、毎日会うたびに「会ってしまった」と言うような顔をお互いがしていました。これは、私が不必要に彼女を傷付けてしまったこと、それに対する彼女の相当な怒りがぶつかり、私がそれに理解を示さなかたことによると今では思います。英語劇は彼女の方が経験豊富なので、英語劇の練習をする際は、何も意見することができませんでした。彼女が私以外の中附のESS部員と仲良くし、私を疎ましく見る視線が苦痛でした。私は、「こんなことならば告白なんてしなければよかった。オレは彼女に何をしてあげられたというんだ」と思い、自己嫌悪と劇に対するモチベーション維持との葛藤の中、英語劇の練習の日々が過ぎていきました。そして、私はどん底に突き落とされます。

 英語劇の発表会の後、私は電話で、雪乃と後輩の大輔が付き合うことをKJから聞くのです。私は机に向かって泣き崩れました。「(他の人と付き合うことの傷とは)こういう辛さだったのか」私は彼女に同情しつつ、怒りを抱く複雑な気持ちになりました。ESS部に入る時期は同時期だったものの、後輩として可愛がっていた大輔。それだけに私との関係を悩んでいたようでした。また、彼女のことを考えてか、やけによそよそしいと思っていたこともありました。それがこの結末とは……。新学期が始まって、私は2人きりの部室の中、彼の第一声を待ちました。「おい、オレに言うことがあるんじゃないのか」と心で叫びます……。目がマジになっていたと思います。開口一番その話をしなければ殴り倒していたかもしれません。そのくらい、怒りを必死に抑えていました。「リュウジさん、オレ実は……」「ああ、いいよ。ああ」会話は事実上これで終わりました。その後必死に彼はこれからも同様に接してほしいことを言っていたと思います。私は彼の気持ちに触れたとき、「もういい。オレがどうこう言うものではない」と思いました。告白されたときに私へのあてつけと思い付き合ったのであれば、それは許せませんでしたが、大輔の劇に対する真摯な姿勢を彼女は尊敬していたのだと思います。「申し訳なかった」数ヵ月後雪乃はKJを通じ、私に語りました。

13.高校3年生

 私はディベートで社会問題を取り扱うことで、検事、マルサ、マスコミの社会部など、巨悪を追及する、スケールの大きい仕事に憧れていきました。実効性以上に華々しく悪を倒す(倒しているようにさも見える)のが、社会に貢献する姿がかっこよく見えたのです。またその一方で、私は朝日新聞の信者で、「官僚や銀行は政官財の中の膿だ!! 消えてなくなれ、そのためにもマスコミで決定的な記事から革命を起こしてやるんだ!!」「絶対共産党が政権を握れば世の中は変わる」と本気で考えていました(う〜ん、環境省は採る人間を間違えたのでしょうか)。当時の私は、巨悪や社会悪に対する怒りが人一倍強かったと思います。それは、普段感じるグレーゾーンに対する怒りと同様にそれらに向けていて、朝日新聞は見事にそれらの解決策を示しているように当時の私には見えていました。それは、私の怒りを紙面で指摘することで抑えてくれていたからであって、問題の解決の実効性とは別にある、と今では思います。私は検事、国税専門官、マスコミ(社会部記者)のスキルに不可欠であろう法学部を目指し、同じような志を持つ人間に出会えることを高校での出会いと同様に期待していました。

14.大学入学とイメージとのギャップ

 私は高校卒業後、無事中央大学法学部法律学科へ進学します。大きな夢、野望を胸に。しかし、大学の入学式、私は初っ端からショックを受けました。「なんだ、この自主性の無さは」。まず法学部長の挨拶がめちゃくちゃです。「さぁ、みなさん、司法試験を受けましょう」というような挨拶。中大法学部ならば、みんな受けるのですよ。さも、そう言わんばかりの話に「へっ、バカだなぁ。弁護士の生の仕事内容と適性がわからないままに、目指す阿呆がどこにいるのさ」と思いました。案の定、周りの金髪(附属生)は苦笑い、失笑。しかし、「うん、うん」と頷いている奴も少なくありません。「なんだよ、このキモい連中は」私は驚きを通り越して恐怖を感じていました。「お前には自分の考えは無いのか、『オレはオレだ』という自分自身への誇りは無いのか〜!!」。後で話を聞くと「みんながやるからとりあえず」とか「早慶に落ちたからその分がんばる」とか、私には到底理解できない内容でした。「おいおい、こんな奴らと4年間かよ」と正直思っていました。見栄とブランドで生きるほど、私の人生は安くないと、私は憤っていました。現在の中央大学のロースクール出願者数、司法試験受験者数の多さに較べ、合格者数が少ないことは、このような見栄と惰性から受ける学生が多い点から生まれていると私は思います(したがって、純粋に自分の夢のツールとして目指している人は司法試験にこだわりませんし、司法試験でも卒業後数年内に合格しているように思います。中央大学にはそのような学生の割合として比較的低いと、あくまで私見として思うという話です)。

 入学後、私は野球サークルとバンドサークルに入りました。メインをバンドサークルに活動し、月・水・金バンド・野球、火・木に法職講座(現在の渡辺先生の出張講座に近いもの)というウィークデイズ。それなりに楽しかったのですが、それなりでした。遊び方が中途半端で、附属のときほど吹っ切れません。何か新しいことに飢えていました。おそらく、私も「なんとなく」で、今まで楽しかったことに着手してのかもしれません。その点は私も反省すべきところでしょう。

15.バンドからアカペラへの転向

 私はバンドサークルでのライブの後、1人やりきれない気分になっていました。「やっぱり知り合いしか呼べないものか」。私は、ライブハウスに出入りする客がサークルの関係者でしかないことに不満を感じていたのです。そして、発表したら反省会もなく飲むだけ。これで、本当に人を感動させる、驚かせることなんてできるのだろうか。私はこの考えをぶつけ、その上で返ってきた友人の言葉に、サークルとの決別を決意します。「何言ってんだぁ〜!! 楽しければいいじゃねーかよ〜!!(抱きついてきて、泥酔)」。おそらく、こんなことを話しているサークルの友も、就活の面接では大層なことを言っているのかもしれません(笑)。

 私は「自分の考える行動などで、より多くの人をひきつけるものは何か」ということを考えつつ、新しく自分が打ち込めるものを考えました。そして、当時はまだ存在すら一般に認知されていなかった、アカペラを知ります。当時は、「声だけではちょっと寂しい」「迫力に欠ける」「アカペラを聴く機会・土壌が育っていない」というのがアカペラに対して多い意見でした。しかし、ライブを聞いたとき私の考えは違っていました。「これはすばらしい。知らない人でも曲そのものに感動できる。現に私がそうだ。しかも、場所を選ばないから、駅前でもできる。これは流行する」そう考えました。そして、(1)自分たちの歌次第で、ストリートライブで直接お客さんを引き止める可能性があること(2)ハーモニーの美しさと合わせる難しさ(3)キレイな先輩方がたくさんいること(これは官庁訪問では話していません)から、アカペラサークルの8人目のメンバーになります。

 バンドサークルからの転向は、一見簡単に見えますが、実は非常にハンディを背負ったものでした。バンドのボーカルの声はコーラスの声と調和する声ではないからです。ボーカルではなかったものの、バンドの声の出し方に耳が慣れていた私は、発声の方法の練習から始めました。しかし、実は息を合わせる時点で大変な作業でした。「いいモノを自分たちで作れば売れる」そう思ってはいましたが、思ったようなものは初めから作れませんでした。そこから、風呂の中で音をとり、録音してみて確認、という日々が続きます。結果、デビューライブでは幾人かのお客さんに立ち止まってもらうことができました。「できたら、自分が感じたゾクゾク感を、アカペラを知らない人にも届けたい」ライブの後、私はそう思い始めました。

 そして、学園祭では総勢300人を越える人を集め、大盛況のうちに終えることになります。学園祭に行く目的を達成した人の帰りや、家族連れ・カップルに対して積極的にビラを配れたのが成功の理由かもしれません(しかし、後輩がメインの翌年は1000人強を集められ、私は度肝を抜かれます)。録音した歌を聴いて満足、周りの反応を聞いて満足、といった感じでした。とあるカップルが「アカペラがあるから聞きに行こう」と脇で言ってくれていたのが非常にうれしかったです。「そういってくれる人がいると私もハッピーなんです」私は心でそう思いました。

 その結果、京王プラザホテル多摩からオファーライブの誘いが来ました。しかし、お金をもらい一般のお客様に歌を見てもらうので、下手なものは歌えません。かつ、「クリスマスらしい曲を」との注文を付けられ、選曲は難航しました。「確かに、クリスマスソングをうまく歌えばいいだけかもしれない。しかし、それでいいのだろうか」私は定番の曲をお客様が望んでいるかがわからなかったのです。オファーの要望と、お客様のニーズ。初めて合わせてこそ、このライブは成功するといえると思いました。そこで、私たちは定番のクリスマスの歌と最近のクリスマスソングを併用して歌う方法をとります。その中で、昔からのクリスマスソングには、編曲の際変化を与えました。この試みは成功したと思います。

 しかし、私のパートは芳しくありませんでした。一致団結して歌っていたつもりです。練習も毎日しました。しかし、その頃の私には、「到達レベルから逆算して練習をする」というテクニックがなかったように思います。「目標レベルの完成度までいかにして到達させるか」その考えがなく、うまくいかなかった点を改善し、チームワークで乗り切ることしか考えていませんでした。その結果、私が担当する歌は、一部削除されることになりました。私のレベルの至らなさからです。「反省しなさい」このメンバーの先輩、多佳子さんの言葉が心に刺さりました。真面目に一生懸命やりました。しかし、努力したがダメだったこのレベル、私の歌唱力。悔しくて悔しくて、中大の山の上で叫びたかったくらいです。その打ち上げのとき、多佳子さんはそっと、私にアドバイスをくれました。「真面目だし、やる気もあるし、成果も出ている。何が足りなかったと思う?」「時間です」「そういっているとまた同じ失敗するわよ。だって、それじゃやり方が変わらないでしょ」「もっとうまくなるやり方を考えます」「考えているじゃない、あなた」「あ……」「私は何のためにデモテープを渡したのよ」「あ……」私はこのとき、ゴールを定めつつ、小目標を設定しながらチームワークを組む大切さを学びました。

16.自分の武器の発見

 話が前後しますが、大学1年の冬、私は短期留学のため、バイクの維持費用のため、お金を必要としていました。そして、求人誌などで「苦労はするが、稼ぎのよいバイト」をキーワードに友人の大垣くんと探していました。初めはガテン系のアルバイト。しかし、これは体力を使いすぎ、授業と両立させるのが厳しいものでした。「これでも授業は受けたいし、遊びたい。もっと時間給のよい、オレ達にできるものは無いものか」そこで出会ったのがNTTの代理店営業のアルバイトでした。

 時給は1,000円。1件契約するごとに200円がもらえるシンプルな歩合制です。主に団地を担当として任され、1軒1軒アポ無しで呼び鈴を鳴らします。「こんにちは。NTT東日本です」しかしお客様は、「飛び込みの営業においしい話はない」との先入観からなかなか開けてくれません。だんだんに数を重ねていくうちに、私はコツをつかみ始めました。「こんにちは。NTTです」といってドアを開けてもらうのを待ち、開けてもらえなければ、「本日はお客様のお電話の件で、御確認だけあがりました」と切り出します。すると、少しづつ契約が取れるようになってきたのです。そこで、今まで契約したときにいい雰囲気で契約できたときの特徴、すぐに信用されたときのキーワード、うまく行かなかったときの対応を洗い出し、次のルールを少しずつ自分なりに編み出していきました。

 (1)「こんにちは、NTTです。いつもお電話のご利用、ありがとうございます」と初めに頭を下げること、下げる様子を声で表し、明るい印象や契約ではなさそうなことをかもし出すのが有効であること、(2)そして、相手の声、出てきたら、外見でその人が一番に何をもとめそうかを推測すること、(3)保守的で、今までどおりのサービスを望みそうな方は「現在、お客様はNTTのお電話を使っていらっしゃいますが(当たり前)、これからも<同様に>ご契約なさいますよね。」と今までと変わらないことを確認しに来ただけであることを伝えること、(4)マイライン自体に興味がありそう、電話料金、NTTに不満がありそうな方には「これからNTTはこちらのように料金を値下げさせていただきます」と具体的なNTTの他社比較料金図を加える。単純に納得する方はそれでサイン、(5)今までのNTTの硬直的な体質を心得ている方、他社を使っている方は、正直に「長距離では東京電話さんです」と言ってしまうこと。ただ、その中でも、市内・都内ではNTTも同じ料金であること、領収書が多くなり、かさばることをデメリットとして提示。そして、「差し支えなければ領収書をお見せいただければ、割引高を計算します」とか「お電話でご不満な点がありますか。八王子支社になりますが承ります」と少しでも相手にメリットがありそうで、求めてそうなことがあればさらりと言うなどのテクニックらしいものを考えては試していました。

 私はこの営業を通じ、自然体でいる自分の人当たりのよさに気がつき、特に主婦の方から初対面の数分で打ち解けていることを他の契約社員の方との比較で知りました。相手の立場に立ち、すばやく相手のニーズを提案することや、相手の側に自分がいることのアピールの大切さも確かにありましたが、社会で生きる中で自分のオンリーワンの武器を自覚できたことはとてもうれしいことでした。また、相手によっては自分の主張に興味すらないこともあり、こちらから話しかけている以上、相手の目線と同じ話をすることが、会話を始める上でまず大事であることを学びました。また、対個人の営業では、人と人なので、会社の名前以上に、その人の人柄が非常に重視され、信頼足りうるか、そのために自分が相手のために何ができるかを常に考えることを学びました。

 そして、その中で、「お前だから契約するよ」と言われることが、NTTから数百円の契約とはいえ、たまらなくうれしかったです。自分の性格に接してくれたから、初対面でもサインしてくれる……。歩合給なので契約数で勝負する営業マンも多い中、私はこの瞬間を見るたびに、「お客様の喜ぶ、間違いの無い契約をしよう」と契約社員ながら思いました。ときに、差し入れをいただいたり、食事に招待してくださるご家族もいて、今でも良い思い出です。私は、スーツに袖を通した瞬間から、NTTの契約社員の気持ちでやっていました。学生の話をしたりして同情を買ったり、留学に行きたいからこのアルバイトをしている、という泣き落としは私のプライドが許さなかったのです。金さえれば何でもしていいというわけではない。私と契約者は同等の立場にあり、情報の非対称性・泣き寝入りで得た契約は社会人のモラルに反する行為だと思っていました。しかし、この考えに同調してくれるお客様が意外にも多かったです。「実は学生でしょ。」と言われ、その気概を端的に伝えます。すると、「偉くなっても、その気持ちは決して忘れてはいけない。今の企業の不祥事はそういった初心を忘れたところにあるのよ」とアドバイスをくれた主婦の方の言葉は今でも忘れません。

 辛いこともありました。「お前みたいなガキをNTTが働かせるわけがないだろ、この詐欺師が」「くたばれ、ばかやろう」「遅い。NTTはいつも遅い」「お前適当なことを言うなよ。大体、その茶髪なんなんだよ」「こんな仕事、やってて楽しい?」「お前みたいなアホと契約できるかボケ」「名刺なんてどこででも作れる。オレは知らない奴とは契約しない」などの罵声。蹴り。ドアから突き飛ばされることもありました。ただ、そういった私への怒りも、言い返すことのできない理不尽さも、営業マンの闇の部分としては必ずあるものだと思いました。

 営業はサシで行うので、どうしても孤独感があります。自由と裁量もあるのですが、取れないとき、罵声などを受けたときは辛いものです。そんなとき、そばにいてくれたのが大垣君でした。一緒に休憩し、ご飯を食べ、「取れるだけとって、前向きにサボろう」と、よく話していました。お金をもらった後に何をしたいかを話すのも、とても楽しかったです。また、仕事以外の話を存分にできる点で、仕事とプライベートを切り離して生活することもできました。お互い初めは取れませんでしたが、いつの間にか社員以上に契約を取ってくる主力メンバーになっていました。そして、最後に「今年度四半期の三多摩成約率ナンバー1営業マンは君だよ」と言われたときは、1日ウキウキして過ごしていました。私にとって、契約数以上に、「解約されずに納得して使ってもらえている」数を示す成約率の方が私は価値があり、うれしかったのです。私は無事、大学2年の夏までに短期留学を前に、留学費用をためることができました。

17.大学2年(なりたい自分への挑戦)

 そして私はNTTの営業のアルバイトの後(短期留学から帰国後)、世間では大変厳しいとされる接客業のお店に「ヘルプ・見習い」として不定期で入ることになります。直接の原因は、お世話になっていた先輩からの連絡でしたが、「自分の人当たりのよさとは、あの煌びやかな街でどのくらい通用するんだろう。稼げるんだろう。そのような世界を知ってみたい」と考えていた部分も正直いってありました。

 お店は、体育会系の部活と似た雰囲気で、早く馴染めたと思います。8〜9割方が雑用・買い出しなどの「パシリ役」でしたが、よくかわいがってもらったと思います。思っていたよりも、世間でいわれるほど怖くない世界で、営業先での罵倒でなく、店内の激励である点で、営業よりも楽に感じました。この中で私は、「自分という人間はどのように映っているのか」「自分の長所は穏やかに相手の話を聞けることなんだな」ということに気付かせてもらいました。

 また、今まで私は、「勉強の偏差値」のモノサシで計った競争に慣らされている世界で生きていた人間であることに気が付きました。なぜならこの業界で紙の上の勉強は、極端に言えば関係なく、人当たりの良さや目の前の人間をどう喜ばせるかという一瞬の感覚が勝負であることを私は目の当たりにしたからです。ですので、たった3週間の経験ではありますが、「自分はやりたいことを実現するためには、自分のどの長所を生かして、どのモノサシの世界で勝負するか」ということを、この業界のモノサシを知ることで私は真剣に考えさせてくれました(同時にこの世界のプロに直に触れることで、業界での自分の限界も悟りましたが)。そして、この業界特有の掟(おきて)などは、今では合コンの1つの引き出しになっています。私はここでの雑用・接客の経験から、どのような人が相手でも、落ち着いて話を聞き、それに対してレスが出せる人間になれたと自負しています。ここでの度胸が官庁訪問や、企業面接で活きたといっても過言ではありません。

 歌舞伎町での接客業のアルバイトを辞めて数ヵ月後、私は新宿中央口で当時のお得意様と偶然に再会することで、私は自分の進路を真剣に考えるようになります。「今もお店には入っているの?」「いえ、元々エイシさんのヘルプでしたから、もう辞めました」「君のようなタイプは若いのに少ないから、仕事もやりやすかったろうに。どうかな、うちに来ないか」この方は某プロダクションの社員で、大物俳優・女優の実績はないものの、CMや大河ドラマ、月9・木9のドラマなどにも人を送ることで、業界では知られた会社でした。私は考え込みます。正直、俳優には興味があります。目立ちますし、自分の考える演技で感動を呼べたら……。「自分の考えるサービスでより多くの人を感動させてみたい」という私のなりたい自分の軸には合っているかもしれません。しかし、そんな俳優に私はなれるのか?(いや、正直無理だろ(笑))。おそらく彼は私がお店にいたキャラクターで仕事をすることを期待しています。だとしたら、私は人当たりのよさや柔らかさで勝負するCMのエキストラ(俗に言うチョイ役)がいいところでしょう。そして、私は高校の部活の英語劇で異彩を放ち、大学でも演劇を続けていた雪乃に相談します。「選考省略にしても写真代8万は高いなぁ。多分リュウジが考えているポストには、俳優になるには相当の壁があると思うよ」と言われました。このことで、私は「夢をつかむための自分の適性と、実現するためのポジションに就くことの可能性」を視野に入れて就職というものを考えるようになります。

 そして、私が公務員(国家 I 種)を現実的な進路先の1つとして考え始めたのは、大学2年の秋、早稲田大学でのシンポジウムがきっかけです。「官僚なんて業界の言いなりの犬に過ぎない。既得権益の中で規制をいじって自己満足に浸っているだけ。悔しかったら消費者に向き合っていない業界の考えとガチンコでぶつかって見せてみろよ」と、当時の私は考えていまして、その考えを経済産業省の企画官にぶつけたのです。「そういう考えを持つ人が好まれる省庁も実はあるんだよ。環境や自治の人には会ったかな? 少なくともオレは、インテリ面して決められたレールの上を歩いてきた学生より、君の方が好きだし、向いていると思うな」と言われ、「そうか。省庁によっては事務作業・業界のコネより、いかに人を巻き込んで仕事をするかという点が重視されているのか。これはコンサルも霞ヶ関も同じだなぁ。ならば、顔の広さと人当たりのよさで自信のある自分には長所を活かしやすい」「なんか、面白い人が多いじゃん」と思ったのが、この世界に飛び込んでもいいと思った瞬間でした。

 思えば私は、自分の考えで世の中にプラスの驚きを与えたい、と漠然と中学生のころから考えていました。そして、戦略コンサル、ジャーナリスト、霞ヶ関がこの頃に選択肢として挙がり始めました。また、父が業界の色彩の強い官庁で、我慢して働いるような(感じがする)背中を見ていた影響から、新しい意見を比較的素直に出しにくい環境では不満がたまりそうだと思ったのも現在の決断につながっているのかもしれません。

18.NGO活動(進路希望の決定と助走)

 大学2年のクリスマスライブの後、私はぽっかりと時間が空きました。「春休み中に歌以外の何かがしたい」と純粋に思っていました。逃げではなく、もっと、他にやりたいことに手を伸ばしたかったのです。アカペラは春からでもできるのですから。私はその中でNGO活動に興味を持ちました。自主的に規制の範囲内で、政治的に「みんなのためになっていそうな何か」をする。グリンピースのようにはなろうと思いませんでしたが、何かまたここで、形に残したくなったのです。

 ただ、その中で何を残すかが問題になります。そこで、できる限りボランティアの効果が残りそうで、住民の方が喜んでくれそうな計画を選びました。それが、「産業廃棄物不法投棄場を牧場に変える」という英・ウェールズでのプロジェクトでした。

 選考に通過し、1月に渡英。困ったことはその直後に起きました。私はKLMのスッチーにナンパをして親しくなった後、カーディフの入国管理官にとめられてしまいます。私はそのとき、できる限り簡単な英語でワークキャンプの意図と労働目的でないことを話しました。しかし、ウェールズ訛りが強く通じていないようです。私は海外留学生の友人に恥をしのんでお願いし、状況を説明してもらいました。そして、相手に落ち着いて話を聞いてもらうよう努めました。どうも長髪のアジア人というのはイギリスの田舎には珍しいようです。だから、NGOだと言っているのですが……(苦笑)。

 空港を出た後、私は自己の無計画さにあきれることとなります。国内と同じ感覚でユースに泊まれると思っていたのですが、駅から遠く、どこにユースがあるのかがわかりません。結局、小刻みに電話で連絡を取り到着。時間は11時を過ぎていました。そこで私はアイルランド人とルームメイトになります。今思えば、必ずユースホステルでのルームメイトとは仲良くなり、何らかの共通の話題で盛り上げていました。ヨーロッパ人は本当にサッカーが好きです。ただ、自分の笑顔が欧州人には日本人よりも通用しないことを、1日を通じて痛感しました。「これが文化の違いか」そのような思いを胸に就寝します。

 NGOの活動地に到着し、本番開始です。13カ国の学生・社会人・フリーターが同じ目的のために集まりました。フランスのフリーター3人。日本人の学生である私。ドイツの学生2人。ウェールズのチーフ・社会人。メキシコからの社会人。アルメニア、リトアニア、韓国、ベルギー、アメリカもいます。そんな中、私はフランス人のジルと仲良くなりました。きっかけはまたもやサッカーです。フランスとベルギー人のハーフであるジルはベルギーファン。「日本なんてナカタ以外いい選手はいないよ!! ベルギーが日本に負けたらワインを貢いでやるよ」「まぁまぁ。赤い悪魔(サッカーベルギー代表の愛称)って、どんなところが悪魔なのさ」と話していました。次第にお互いの言葉で挨拶をはじめました。私は、これが互いの気持が良くなることを感じ、「できるだけお互いの朝の挨拶を覚えよう。で、食事の前には各国のしきたりでやろうぜ」と提案。チーフもかなり乗り気になっていました。また、いちいち料理を作るのが面倒なときのカレーも好評でした。簡単に作れる上に「ジャパニーズカリ−」と言われ、作るたびに空になったのはうれしかったです。

 NGO活動とはいえ、肉体労働のときもあります(廃棄物の除去と芝を植える作業は、さすがにメンバーが総出で行います)。ヘナヘナになって倒れこみ、フランスの友達に笑われていましたが、その後、「少し休んでまたがんばれ!!」の言葉に励まされました。フランス人も英語は下手ですが、頑張って伝えようという思いが伝わってきて暖かかったです。そして、疲れつつも、近くの小学生から声をかけられたり、おばあさんから「何をしていて、何ができるの?」と尋ねられることに、私はうれしくなりました。

 雨の日でも作業は続きます。クタクタになってフリーの時間にすぐに寝てしまうこともありましたが、完成の瞬間は、「やっただけのことはあったな」と実感できる出来栄えでした。その間、近所の方の差し入れや、合唱団の合唱、パーティーなど、温かく見守ってもらいました。

 あるオフの日、私たちは地域の周辺のお城など、史跡へ向かいました。日本同様、ウェールズには歴史を感じさせる建物が多いのです。日本にはない芝の緑が城に映え、落ち着きを見せます。そんな芝に寝転がって、私はしばらく考え事をしていました。そして、決断しました。「ジャーナリスト、公務員、コンサル。そろそろこの中で一番なりたいものに向けて歩き出さなければいけない。オレは今まで成果が目立つことが好きだった。何に。自己満足のかっこいい自分に。どのような自己満足のかっこいい自分を見てほしかったか。みんなのためになっていると思える自分。そのなかで、みんなのためになると自分が実感している分野で社会に貢献したいのかもしれない。オレは官僚になりたい。このNGOで得た環境への思いを軸に、環境省の職員として環境問題に携わることで、22世紀に後ろ指を指されないような地球というバトンを渡したい。官僚って、一番多くの国民に影響を当たる法律をツールにする分、仕事自体が目立つし、責任も重大なのでは。自分自身の名前は目立たなくとも、ガンガン働いて環境問題に貢献したい。よし、やるぞ。もし辛いときがあっても、このとき思った決意を胸に乗り切るんだ」この思いから、まさか3年が経ち、(3度の官庁訪問で)決まるとは、この頃はまったく予想していませんでした。

 自分で言うととてもおかしく聞こえますが、ここでも私の人当たりのよさは健在だったと思います。「東アジア」という地理的に第三者的な立場だったこともあったかもしれません。アルメニア人とドイツ人とのケンカの仲裁に入ったり、ベジタリアンの料理のレパートリーについて争点を洗い出したりしました。その結果、各国のメンバーと毎晩1対1、メンバー日替わりで、ウェールズの夜空を眺めながらギネスを飲みつつ夢を語る、というグローバルで贅沢な時間を過ごせたと思います。

 このNGOのボランティアを通じて、私は特に、ジルと心を許せる友になれました。2ヵ月半の間、喧嘩もしたし、恋の話もしました。実は4つ年が違うのに、「リュウとジル」の間柄でした。それだけに、別れは断腸の思いでした。最後に、私はいつも海外に行く際にはお守りのようにつけていた、タケオキクチのブレスレットを彼に渡しました。初めは遠慮していた彼も、実際につけて満足気でした。彼は、自分の持つお菓子(ハリボというフランスのお菓子)を私が大好きだったことを察してか、私に彼の持っているハリボ、ワインの小ビンをすべて私にくれました。お互いにやってやれることを最大限やった感じがしました。今でも2人で撮った活動中の写真は宝物ですし、それを見るたびに、家族思いの彼の姿が思い浮かびます。

19.なりたい自分(公務員)への挑戦、1stラウンド

 公務員を志した私は、Wセミナーに通う日々が始まりました。久々の受験勉強です。慣れない環境の中にも、私は自分を甘やかしたくないため、一番前の席に座り授業を受けました。

 そして数週間後、私は数人の仲間に出会います。全国の大学テニス部を取り仕切るヒロくん、帝都大学リーグの某大学野球部副主将兼里山NGOパーソンな緑場さん、藤沢から馬場まで毎日セミナーに通う山本国際法ゼミのショウ君、マンドリン奏者で雪乃の大学のクラスメイトの順君。そして彼らはストレート(1度の受験)で内定をもらうことになります。しかし、このとき私は全員受かる予感をしていました。なぜなら、彼らと話していると刺激的だったからです。日本の状況を踏まえた上で、批判で終っていないのです。「ああしたい、こうしたい」がでている、と思いました。みんな、「今の日本には批判のみで「やるべきこと」を詰める習慣がない。答えは1つとして教わってきた教育体系の弊害かもしれないが、それを何とかしたい」という思いがあり、うれしかったです。勉強し始めた年は、友人とともに楽しく勉強できたと思います。

 ただ、あの頃の私は最後の最後で、抜かりがあったと言わざるを得ません。1次試験で、半ば、試験勉強への火が消えてしまったのです。「いかに1次の結果を踏まえ、最終合格するか」ということよりも、「ボーダープラス3点のリード(いや、そんなもんリードじゃないよ、リュウ君よ〜、と今では思いますが)をいかに守るか」を考えていたといってよいでしょう。

 お気づきかもしれませんが、私は1次試験突破後、官庁訪問の末2次落ちという辛酸をなめることになります。当時のシステムが、1次発表後の官庁訪問、最終合格後の内々定であったため、官庁訪問で自分の手ごたえを知ることができたのは収穫でしたが。この年は環境省、内閣府、国土交通省を訪問し、内閣府からは別室拘束を受け、環境省からは最終合格発表前日に「ぜひ合格を確認後来てください」と電話をいただいていました。

 私は、最終合格発表を目にした直後、落胆した姿でテレビの取材を受けました。とても爽やかな営業スマイルで話しつつ、心の中で「バ(カヤ)ロ〜〜ぅ」と叫んでいました(笑)。そして。一緒に環境省の官庁訪問をしていたショウ君と5号館のエレベーターで鉢合わせます。「オレ、2次落ちしたんだ。だから、あの部屋にはもう行けないよ」「えっ……。うう」普段は落ち着いた印象のショウ君が顔を真っ赤にしていました。「待ってるからな。絶対返って来いよ」「おまえこそ、絶対取ってこいよ。内々定」私は非常に固い握手とガンの飛ばしあいの末、彼と別れ、環境省の人事課へ向かいます。「こちらに直接いらっしゃったということは……」「はい、ダメでした」「君と一緒に働きたいという職員も多かったんですよ。でも、まだ君は若いから。今年は27歳で回っている人もいるんだし」と激励してもらい、環境省を後にしました。この後、内閣府、国土交通省も2次落ちの報告をし、私の1回目の受験・訪問は終わります。その後、ショウ君から「仇は取った。来年待ってるからな」という内々定のメールを受け、飛び上がるばかりに喜んだのを覚えています。この頃に共に勉強したセミナーの友人とは、今でも交友があり、来月にもヒロ君が主催してお祝いをしてくれる仲になっています。

20.なりたい自分(公務員)への挑戦と絶望

 共に渡辺ゼミで勉強し、官庁訪問をし、環境省に内定したショウ君、緑場さんと福島旅行に行き、独特な行政手法で知られる矢祭町長と対面することで、私はさらに「もう一度チャレンジしよう」という気を奮い立たせます。どうしても業界やマーケティングにしばられた政策・戦略では、長期的な問題に対してまったく歯が立たないこと、業界にしばられずに物事を引っぱる力が求められていることを、彼らと話していて実感したからです。それは帰り道のショウ君の以下の言葉からも考えられます。「矢祭の町長は『優秀な奴ほど中央省庁の官僚なんかなるな!!』って言ってて、嫌っていたけど、環境省であれば堂々と内定先として言ってもよかったよね」

 11月。私は渡辺ゼミへ戻っていました。一度やった内容、去年と同じ渡辺先生の突っ込み。ときどき垣間見る新ネタに、「私のような不良債権がいるもんだから新しいネタの必要が出てくるんだよな……。せめて、その分1年目のゼミ生のケツを叩くことで恩返ししよう」と思い、ゼミに臨んでいました。

 2度目の受験。私はオール模試2位の成績もむなしく、1次ボーダーという点数にショックを受けます。しかし、ショックを受けている私に、緑場さんがアドバイスをくれました。「でも1次はうかってるんでしょ。それだけでも恵まれたていると思って最後までがんばってみなよ。最後までがんばることで満足できるものもあると思うし」と話してくれました。彼は高校時代、気力が最後に切れたことで取り返しの付かない思い出を作った経験がありました。それを知っていただけに、このアドバイスは大変ありがたかったです。また、前年度厚生労働省内々定後2次落ちした末に、翌年厚生労働省に内定した渡辺ゼミの先輩からも、人事院面接対策を2時間以上受けていました。この、人と人とのつながりに、本当にありがたいものを私は感じました。

 そして、渡辺ゼミの効用は最後の最後で出たと思います。論文試験を(3問の的中の結果)満足の行く結果で突破し、人事院面接もアドバイスどおりににこやかにクリアしました。本当に、ギリギリの状態で最終合格、官庁訪問の資格を得られたと思います。

 しかし。今度は環境省から内々定が出ませんでした。実質的な8番目宣言を受け、他の省庁に行って確実に内々定を取るのも止めない、(環境省に居続けるのはリスクであるという内容でした)と言われました。そして、初日から別室拘束を受け、映画鑑賞やご飯をおごっていただいていた国税庁からも、最後の最後で面接で断られ、呆然と立ち尽くしました。そして、「だからといって死ぬわけじゃないんだし。別にさ、合格できなかった奴よりもいいんでないの。ってかこれ、民間に行けというお告げかもね」と、自分自身に語りかけていました。ただ、「今まで1000時間以上勉強してきたことが、意味無いんですよ」というような気がしたこと、「がんばればいいことあるって、それはいいことがあった奴の言うセリフであって、何にも説得力が無く無責任」と思っていたことは確かです。ですから、みなさんはだまされないでほしい。合格者の言葉で「がんばればいいことがある」というのは、どん底をまだ知らない人の言葉に過ぎないということを。そして、あえて言います。

 「いいことがあるかどうかは運命だけど、一生懸命がんばれたこと自体は、誰にも否定できないことだし、自分自身にそう思えることが、人生の中で一つの財産である」と。

 全力で走りきったこと、走りきる環境をもらえたことの幸せというのは、走った後に感じる人は感じるものだと思います。たとえそれが形の上では報われなくとも、その経験を次の夢実現のための努力につなげられれば、その人は十二分に幸せなのだと思います。ですので私は、たとえ今夏に内々定が環境省から出ず、公務員になっていなくとも、企業に就職して幸せになっていたのだと、今は思えます。ただ、去年のこの頃は成果を求めていましたので、「これからどうなるのだろう」という大きな不安と「なんでオレではダメだったんだ」という悔しさで満ちていました。

 その中でも、環境省の人事の方の涙には心を打たれました。「本当に申し訳ない。本当に君は採りたかったんだ。それだけに、なんと言えばいいのか。君みたいな子が何人かいて、その子たちと話すたびに、この人事の仕事なんかやめてしまいたい、と思ったんだ」と言われ、私ももらい泣きしてしまいました。そして、涙目になりながら、OB訪問でお世話になった大学の先輩のところへ行くと、「私の力不足だ」「君なら大丈夫だと思ってしまっていた部分があった」と彼にもまた泣いてもらいました。確かに、泣いてもらったからといって、総務省が環境省の採用人数を増やしてくれるわけではありません。しかし、私には、「それだけ私という人間を評価して、見守ってくれた人がいた」という紛れもない事実が非常に胸にこたえました。「これだけ惚れた会社に、これだけ好いてくれた人もいたのに、本当にこのままでいいのか」この問いを抱えたまま、私は民間企業の秋募集を受けることになります。

21.なりたい自分(一般企業)への挑戦、第3ラウンド

 私は、公務員になるならば国 I で入りたいと思っていました。父が II 種でやりたい仕事、ポストに就くまでにだいぶ時間がかかっていたこと、父が「交通バリアフリー法」という法案作成に携わり、日々その研究で仕事をしている父の大きく輝いている背中を眺めていて、「このスケールの大きさは譲れないのではないか。でもオレは、親父のようにタコ部屋(タスクフォース)に入るまでに時間をかけたくない」との思いをいだいていたことが大きいと思います(この法案をめぐって、成立後に与野党問わず「これは私が手がけました」と話して、自分の手柄にしたがる議員がいたり、父に対して気の利いた国会質問を作るように頼む議員がいることを知り、その姿を想像して滑稽だったのを覚えています)。したがって、スケールの大きさ・キャリアステップの速さから、私はより民間企業に魅力を感じ、民間企業を回る決意をします。

 私は外務省に最終段階で断られた渡辺ゼミの友人で、大学の友人でもある勇気と一緒に民間企業を回り始めます。しかし、彼と私とでは民間企業をとらえる就職観の深さが違いました。彼は外務省に最終面接で断られた後も、自分の最終的になりたい自分像を見失わずに、なりたい自分になるための選択肢を民間企業で得られたと思います。それに引き換え私は、その部分がわかっていませんでした。いわば恋愛にたとえるならば、「メチャクチャ好きな人はいた。でもフラれた。その女性だったからこそ描けた幸せ像って何? 好みのタイプってどんな人?」という問いに、彼は官庁訪問後に即答でき、私にはできなかったのだと思います。

 ですから私は、「なりたい自分像の提示、その像が会社で実現できるか」という条件と「その仕事に向いている適性」という条件の2条件を採用側と学生側でお互いに出し合い、マッチングを見るとすれば、後者のみの条件提示だけで就職活動を民間企業(秋募集)でしていたのだと思います。したがって、おそらく内定が出ていたとしても、私が目指す自分になれるステージからであったかというと、私はそうでないと言わざるを得ません。このことを勇気と話していて私は実感しました。「同じ年でも、ずいぶんと差をつけられてしまったな。でも、これを知らずに就職しないでよかった」と私は思いました。

 私は、秋募集は業界・企業が限られている上、どの業界が自己実現にマッチングするかがわかっていない旨を、正直に父に伝え、もう1年留年し、民間企業を回りたいこと、官庁訪問をしたいことを相談しました。父は激怒します。当然でしょう。彼は私が国 I 一本に絞り、ダメであったときのリスクも想定して行動していると思っていたからです。「おまえみたいな奴に、官庁からも内定が出るわけがない。だいたい、去年の合格を使って内定を出す官庁などあるわけがない。おとなしく秋にもらったところに行きなさい」と。そういわれて私は再反論しました。官庁訪問の今までの経緯、手ごたえ、民間企業の面接も勇気の成功例があるということ。勇気と私との決定的な差であった部分を今から埋めようとしていること。そして、最終的に環境政策で持論をぶつけ合うこと数十分。父から「お前が留年することでの経済的なことは気にしないでいい。お前が心配なだけだから。それ(まったく内定が出ないリスク)がないのであれば、暴れてくればいい」との言葉をもらいました。

 私のやることは決まっていました。霞ヶ関の他に、自分の夢が実現できそうで、かつ、自分の貢献が会社の野望を達成に導く組織、業界を探すことです。そのために私は、日々OB訪問を繰り返しました。ときには待ち合わせのために3時間待たされたり、電話に出てもらうために10回近く電話でお願いした方もいらっしゃいました。それでも、70人以上の社会人の方とお話をし、社会人の方の夢と自分のやりたいこととを重ね合わせることは大変有意義な時間でした。この出会いの中で、私は自分の本当にやりたい仕事、業界を信託銀行、不動産、マスコミ、コンサル、に絞ることができました。

22.民間企業就職活動成功の要因

 このように業界を絞れた理由。それは、私の譲れない就職活動の軸は、「スケールの大きさ、より多くの人に自分の考えるサービスで感動してもらうこと、思い出に残してもらうこと」だったのだと悟りを得ることができたからと思います。確かに、環境政策に重大な影響を与える法案を仮に通せたとしても、渋谷のセンター街でピカチューのキグルミを着たギャルには何も影響はないでしょう。しかし、それでも私は、将来の国民の多くの人が「あのときの判断があったからこそ、今の社会がある」と日本史を勉強して感じてくれたり、自分が年をとった後、50〜60歳年下の若い世代が「もう環境省はいらない!!」といってくれる世の中が来ることに、存外の喜びを私は感じることができると思ったのです。「全てのファクターに大きな影響を与える職業など存在しない。ではその中で自分はどの部分に大きな喜びを感じ、自己満足ができるか。それはまるで〈理想の女性はいないけど、どの部分・性格が、自分が女性に対して本当に求めている部分なのか〉を考えるということとパラレルの関係にあるのではないか。ならば恋愛をするように企業を見まくって、オレに惚れてくれつつ、オレが一緒になりたいと思える企業を見つけるまでだ」と考え、私はこのような考えに行き着いたことによって、ずいぶんと楽な気分になることができました。

 自分の女性観には、30校以上の高校時代の合コン経験から多少自信がありました。このとき、自分が惹かれていく女性のタイプ(具体的にはアグレッシブに生きている女性が好みです。って誰も聞いてませんね(笑))を多くのサンプル(合コン)から比較するように、私は数多くの企業を見て、自分が惹かれる企業の条件を絞れました。今でも、自身の選択には満足していますし、後輩のみなさんにも、就職先の選択として自信をもってオススメできる方法です。

 自分に自信が持てると、予め「オレはこんな人間だ!!」とぶちまけることができます。気にいらない会社には気にいらないと言え、臆せずに相手企業のコアコンピタンス(恋愛でいう相手の譲れない価値観)にふれ、それについて意見を言うことができます。まるで、好みの女性ほど、誰よりも先にその人の大事にしている価値観を知りたがるのに似ているといえるでしょう。この姿勢は企業からも大変評価されたと思います。そしてぶちまける面接をこなすことによって、「就職するための面接」から「ビジネスパートナーとして対等に向き合う面接」に変貌を遂げたと思います。モテる人ほど口説く人に対して媚びることもありませんし、相手が自分にとってどんなに重要なのかを伝えるのがうまいことに似ていると思います。私が受けた面接の中で、大変印象的だったのは某外資証券会社での面接でした。「いやぁ、君は話が早い。君の能力は幹部も認めていたんだが、ポジションが違ったんでね。君はサッカーでいうFWタイプだと私どもは察知したんだが、ポストプレイヤーなんだな。うちはこれからもストライカーを100%揃えたいんだ。アセットマネジメント部門に君を推薦したいんだが、どうだろうか」と言われたことでした。合計数時間の面接時間で、そこまで見られるその会社の能力にも驚きでしたが、見てもらえた自分自身への達成感、満足感も非常に大きなものがありました。

 最終的に私は、TOKYO FMという大手ラジオキー局から内定をいただき、就職活動を終了することになります。

23.どうするよ、オレ(最後の最後の選択)

 正直申し上げて、満足しきっていました。「ここで、一流の人を番組に招きつつ、自分の価値観を磨いて、多くの人の価値観に影響を与える番組を作ろう!!」と真に考えていました。人事部からも「最終面接、代表取締役以下9人即満場一致」という評価を教えていただき、「どこにでも行かしてもらえる。問題はいかに苦労しつつも最終的になりたい自分になるためのポストで必要なスキルを磨くかだ」と考え、TOKYO FMでのOB訪問もしていました。しかし、内定報告をしたときに意外な返事をメールでして来たのが、2年前の官庁訪問で共に回っていたショウ君からのメールでした。「最後の最後まで考えて、少しでも悔いが残るなら環境省も回ってみてくれ」と返され、私は悩み始めます。「あいつはオレのことを待っていてくれた。口だけでなく、去年ダメだったときにもあきらめずに」そして、自分の胸にもう一度全てをリセットして考えました。「本当にほしいのは、どっち?」色々と考えましたが、「どちらが自分が求めているのかを公平に考える意味でも、もう一度回ろう。嫌気が差したら即刻切るまでだ。切られても今更だ」と、とりあえず回ってみようと思いました。

24.ラスト、官庁訪問

 3年連続3回目の環境省官庁訪問。おそらく3度も回ったのは、直感的に「人が合う、成功しやすいフィールドだ」と思ったからでしょう。その点では、初めの官庁訪問とはかなり志望動機も変わっていたと思います。5号館にはいると、もはやエレベーターや待合室も見慣れてしまうという奇妙な感覚に襲われていました。そして私は驚くべき光景を目にします。ショウ君が官庁訪問の窓口なのです(この部分は、正直カットも考えました。待合室の窓口と候補生が友人というシチュエーションは、見方によってはコネ採用との噂も立てられかねないからです。ショウ君に相談した結果「思ったままに書いてくれ」とのことでした。「何もやましいことはしていないのだから、堂々と全てぶちまけろ」とのショウ君の考えからだと思いました。というわけで、全て書きます。ご不明な点はどうぞお聞きください)。どう挨拶をしていいのかもわからず、とりあえず特別な感情を抑えてイスに座ります。「これを知っていて呼んだのではないだろうけど……」ただ、初めの人事面接では「切られても痛くも痒くもない」という態度と「内定先TOKYO FM」というネタを非常に評価してもらったようでした。そして、また原課訪問で驚くべき光景が、私を待ち受けていました。

 昨年、一昨年に面接していただいた職員の方と面接をしたのです。あきらかに「去年よりもどのような点が、どのくらい伸びたのか」という視点からの面接だったと思います。「去年もお会いしましたよね」と言われ、挨拶に返答しつつ、「それならば、オレも見てやろうじゃないの、1年で職員もどのくらい仕事を進めているのか。どのくらい自己実現に近づけているのか、を」と思いました。おそらく私の質問に対してその意図を理解してくださったのでしょう。いい意味で私の考えの範囲を超えるお話をしていただき、「これだよ、これがオレの好きな職員の方のタイプだよ」と思いました。非常に仕事上は厳しい方らしいので、入ってからがんばります、はい(笑)。

 1日目が終わった後、私は人事係長から意外な言葉を受けます。「良く伸びて帰ってきた。こちらが想像していた以上の伸びだったよ。」その人事係長の方は2年前から知っていた方だったので、喜びもひとしおでした。「もし、伸びが芳しくなかったら、今日で君の官庁訪問は……でしたから」と言われ、「そうだな。確かに。オレみたいな亡霊みたいな奴は、よっぽどの高値が付かないと採らないわな」と心の中で思っていました。

 そう思いつつも、「年収や合コン受けを考えると、仕事を生活の一部としてとらえるとやっぱりTOKYO FMかなぁ」とも考えていました。財務省を回った際、「200時間残業。でもちゃんと残業代は付くからやってける」と若手から言われ、「ここは生活の場としては自分とは合わないなぁ」と考えたことも、この考えに拍車をかけました。そこにアドバイスをくれたのが、現在恋をしている高校ESS時代の先輩の一言と、一時は共に公務員試験を目指した友人の言葉でした。

 先輩からは、「人生設計として、後悔しない選択肢を選ぶべきだよ。たしかにリュウ君は今は遊びたい盛りかもだけどさぁ。40のいいオジサンにリュウ君も絶対なるわけだから。そのときに環境省じゃなくて後悔しないかな」と言われ、自分の今の選択で大事なのは、人生全体の中で後悔しない方を選ぶことなんだと実感しました。

 また、現在コンサル勤務の元勉強友達からは、「もう情報収集はすんだんでしょ。もう、どちらに行っても、<もし向こうに行っていれば。いや、でも考えても仕方ないか>と感じることが、節目があるごとにあるはずだよ」と言われ、「確かに、結婚相手が1人でしかないように、就職先も体1つだからな。結婚後に、迷っていた末にお付き合いを断った友人(子持ち)に会う気分を味わうわけだな」と考えたりしていました。

 3日目。私は訪問者の中で最後の人となり、他に誰もいない状況でショウ君と2人きりになりました。「もう大丈夫。他に誰もいないから」と彼は微笑み、昔話や忙しくてご飯に食べに行けない話をしていました。「あのメールは見て驚いたよ」「いや、本当にそう思っていたことを送っただけだよ。まぁ、あと少しだからがんばれよ」

 4日目。体力的にもかなり苦しみ、夜には眠気も襲ってきていました。そして、私には人事部3人の方と一度に面接をする俗称「スーパー人事面接」が待っていました。今までと違うショウ君の声・雰囲気に気合いを入れなおそうとしました。そして、場所を伝えられた後、ショウ君が小声で伝えてきました。「ここが正念場だから」「お〜い、いいのか、こんなこと言ってきて」そう思いつつ、エレベーター待ちの時間を精一杯目覚ましの時間に使い、面接に臨みました。満足のいく内容ではありませんでしたが、出せるベストの力を100%出せたから仕方ない、とも思いました。

 そして、決断の日(解禁日)。「もう、切られたらTOKYO FM、文句なし。ただ、行けるのであれば、オレは環境省に行く」……いや。「ほかの候補生、ゴメン。オレは環境省に行く。自分の枠は自分で埋める」という決意を胸に最終面接を受けました。人事係員の方の「マル」の合図に、初めは「もう戻っていいよ」の意味の「マル」かと思い、まったく実感がありませんでした。しかし、見慣れた待合室が暗くなっており、その中で5人の人影を確認し、握手とハグを求められたとき、「オレはここで働くことになったんだ」としみじみと実感しました(この後、お祝いの飲み会で3年分の人事係長の方と一度にお相手する機会があり、「君って3年分全員知ってるんだよね。それはそれで問題なんじゃない(笑)」と言われ、私は恐縮しっぱなしでした(汗)。

25.あとがき

 思えば、私はあることをメイクし、土台を作ることが非常に好きでした。野球でチャンスを作り、合コンで楽しみや出会いの場を作り、スクールバッグ作りで学生がワクワクすることを考え、バンドで騒ぐもとを作り、アカペラで知らない人に日常の生活中に新しい驚きを作り、NGO活動で新しい牧場の土壌を作ることで、自分自身が非常に満足していました。これは私の自己満足です。これからは、ポリシーメイクを通じて、自己満足も追求しますが、より多くの人に役立つサービスを作れる土壌を整備することで社会に対してもペイできる人間になりたいと思います。これができれば、私と合コンしてくれた30数校、100人以上の女性も満足してくれるでしょう、多摩地区の営業先のおばちゃん、歌舞伎町で遊ぶ女性も多少は浮かばれるでしょう(笑)。

 最後に。今まで私を支えてくれた皆様、誠にありがとうございました。私のように自分の考えたような就職先に入れるケースは稀かもしれませんが、それを許してもらえたのは、時間的猶予をくれた両親、今まで私に数々の助言と笑いをもたらしてくれた友人、立ち止まる度にアドバイスを下さった恩師、先輩の方々、具体的なアドバイスで公務員試験の合格を導いてくださった渡辺先生はじめWセミナーの方々のおかげであると思っています。これからもお世話になること、多々ありますが、温かい目で見守ってもらえたらと思います。どのような形で恩返しできるかわかりませんが、とりあえず、身近な人から愛してみよう、行動していこうと思います。そしてできましたら、夢を環境省というツールを持って実現する、キャリアエリートを目指す私の姿を是非ご覧ください。挫折経験もこれからまだまだあるでしょうが、私はくじけません。

 そして、読んでくれた皆さん、最後までありがとう。「オレの人生のほうが面白い」と思われた方、そんな個性の持ち主であれば環境省は大歓迎です。題名から興味を持ち、合コン部分だけ読み出したあなた、その要領の良さは大事ですよ(笑)。では、仕事上、もしくはプライベートでお会いし、楽しい時間を過ごせることを考えつつ、霞ヶ関、もしくは思わぬ場面でお会いできることを楽しみにしています。

(了)
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