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キャリア・エリートへの道

高校生の時からの夢を掴む

1.はじめに

 私は平成17年度国家公務員 I 種試験に合格し、18年度から霞ヶ関で働くことになりました。「官僚」というものになって働くことは、漠然とではありながら高校生のころから抱いていた夢であり、そんな夢の第一歩を歩き始めた今、この原稿を書くことが読んでいる方にとって有益であると共に、私にとっても「官僚」とは何か、そして真のエリートとは何かについて考えるきっかけになればと思います。

2次試験後の人事院面接そして最終合格後の3週間にもわたった官庁訪問のなかで、何度も繰り返し、時には嫌になるほど公務員(特に国家公務員)を志望する理由を聞かれました。そこで私は、「自分が生まれ育った日本の将来のために働きたいと思い、国家公務員であれば民間企業よりも直接的に日本の繁栄に関われるからである」というような主旨の抽象的なことを何度も繰り返し述べました。このような漠然とした理由で、希望官庁から内定を頂けたのは本当に幸運以外のなにものでもありません。しかし私は、なにか劇的なエピソードがあってその体験に関係する省庁に入りたいと思い、そのために国家公務員になろうと思った訳ではなく、これまで20年以上の人生を歩みその中で経験した様々な事を総合し、そして自分は国家公務員になりたいと思いその上で個別の省庁を決めたのです。そんな私の国家公務員の志望理由は、面接の場で1分やそこらで話せるものではありません。そこで、まずこれまでの人生を振り返ることで、どういった経緯で私が自然と国家公務員を目指すようになったのか自分自身でも確認してみたいと思います。

この原稿が、私と同じような理由で国家公務員を目指している人の参考に、また私と全く逆の、つまり具体的な個別の経験に基づき国家公務員を目指している人にとってもなんらかの比較対象になり有益なものとなればと思います。以下私のこれまでの人生を長々と拙い文章で記述しますが、最後まで読んでいただければ幸いです。

2.家庭環境

 私は1982年に愛知県のある中規模自治体に生まれました。名古屋市の近郊に位置し、典型的なベッドタウンでした。今はだいぶ変わってしまったのですが10年ほど前までは、いたるところに田んぼや畑があり200万人都市の近郊にある割には自然の多いところでした。大学進学前までこの自治体で暮らすこととなるのですが、私の人生にとってこの地に生まれたことは大きな影響力を持っていました。この自治体には「自然」と「都市」という日本の魅力の二大要素があり、どこかで自分が生まれたこの自治体と日本全体が重なるところがありました。

 家族構成は、会社員の父と専業主婦の母そして5つ離れた姉と2つ離れた兄がいます。父も母も実家は県内にあり、また何度か引っ越したことはあるもののすべて同じ町内であり、また親戚もほとんど県内に住んでいたので小さいころはあまり県外に出た記憶はありません。そのせいもあってか、大学を選ぶときには1人暮らしができるところということも大きな考慮事由でした。父は会社人間であり平日の帰宅は深夜になるが多く、休日出勤もしばしばありました。一方母は専業主婦だったので常に家にいた記憶があります。私の家族・親戚には公務員として働いている人はおらず、公務員とは程遠い環境でした。そういう意味で私は家族の中で異端だったのかもしれません。しかしそんな異端な道を歩むことを決めた私を両親は心から応援してくれ、官庁訪問期間中の精神的に不安定になりがちな時期には大きな心の支えになってくれ、非常に有り難く思っています。

 以下本格的にこれまでを振り返り、現在でも覚えている出来事を思い出しその当時何を考えて生きていたのか記述していきたいと思います。

3.幼少期〜小学校時代

 当時は、首都圏近郊で盛んな「お受験」なるものが存在するなど知るわけも無く何の疑問も持たず近くの公立の幼稚園、小学校に通いました。田舎であったこと、また愛知県では中学受験は例外中の例外(確か同学年の約100人中、3〜4人)であったことなどから、小学校時代にはほとんど勉強をした記憶がありません。低学年のころは、毎日15時前には学校が終わり、かばんを置くと家をすぐ飛び出し神社や公園で毎日のように野球やサッカーをやっていました。高学年になっても塾に通う生徒は皆無で、私もサッカー部に所属し毎日日が暮れるまで練習していました。そんな小学生生活を送っていた私は、教師の言う事も良く聞き、成績はほどほどで毎年級長を務め、6年生時にはサッカー部のキャプテンを任されるなど一般的にいう「優等生」でした。当時は別に無理をして優等生を演じていたわけでもなく、ただなんとなくまとめ役が自分に合っていて楽しかったからやっていただけでした。しかし小学生時代のこれらの経験が、私が国家公務員を職業として選択する際に無意識のうちに影響を与えていたと思います。

 私が小学校で得た最大の財産は、なんといっても友人です(彼らのほとんどとは中学も同じなのですが……)。私が東京大学、そして国家公務員というある意味で非常に狭い部分社会で生活することになり考え方などか偏狭になりがちな中で、彼らの境遇はバラエティーに富み、営業をやっている者、自動車工、医学生、既に結婚し専業主婦の者などで考え方も様々で、長期休暇などで地元に帰り彼らと会うと新鮮な気持ちになり常に現在の自分を確認することができます。小学校から私学に行くことにも、私が体験したことの無いすばらしい魅力があるのだとは思いますが、一生親しくできる地元の友人ができた事で公立の学校に通って良かったと思っています。

4.中学校時代

 愛知県では中学受験が盛んでは無かったことから、当然地元の中学校に行きました。しかしその中学は市内でも最も荒れた中学でした。現在は教師・保護者の方の多大な御尽力の甲斐あって優良な学校になっているみたいですが、当時は茶髪、タバコ、教師への暴行など日常茶飯事の学校でした。確か、部活内での下級生に対する暴行及び部員の集団喫煙の為、3年生最後の大会前は試合当日まで練習禁止、全員でグランドの草取りをした記憶があります。そのような雰囲気の学校では十分に授業を行うことは出来ず、また学生も勉強などしない者が大半であったので、私も一応宿題ぐらいはやりましたがそれ以外は全く勉強しませんでした。しかし定期テストなどでは周りが勉強していなかったことからだいたい常に上位にいました。そんな環境にあって私は、学校内でバイクを疾走させたり授業中に徘徊したりする荒れた生徒たちを何故そんな行動をとるのか理解できず心のどこかで軽蔑していたのと同様に、もしかしたらそれ以上に成績のみで学生を判断し、中学レベルの勉強を指導できるというだけで偉そうにしている教師たちを軽蔑するようになっていました。 

 このような荒れた中学校でも3年になると高校受験が現実的な問題になってきました。当時の愛知県の公立入試は内申点と筆記試験の比率が約1対1であったにもかかわらず、教師を軽蔑し不真面目であった私の内申点はかなり低かったです。しかし教師に媚びてまで内申点を上げようとするのは自分の性にあっていないと思い、それならば筆記試験の方で挽回しようと夏休み前から塾に通う事にしました。おそらくそこで塾長と出会っていなければ今の私は無かったと思っています。塾での席順は前から成績順で私はほとんど一番前だったのですが、たいがいの授業は頬杖をついたままつまらなさそうに聞いていました。そんなある日英語を担当していた塾長と進路に関する面談を行う事になったのですが、その席で塾長から「確かにお前は勉強はできるけど、今のままではコンピューターみたいで人間としての魅力を感じない。他人に対して真剣に向き合わない人は、他人からも真剣に向き合ってもらえない。」と言われ、自分が他人の小さな悪い面ばかり見て他人の大きな良い面を見てこなかったことに気づかされました。塾長がはじめて自分に対し真剣に向き合ってくれ厳しい言葉を掛けてくれたことで、自分の欠点に気づき私は人間的に一回り成長することが出来ました。尊敬できる大人のもとで半年間勉強し、内申点はすでに手遅れでしたが筆記の成績の方は順調に伸び併願校であった私立高校、第1志望の名古屋市内の公立高校共に合格することが出来ました。

5.高校時代

 こうして入った高校は、県内ではそれなりの高校であったことから落ち着いた雰囲気でした。進学校であったことから成績でしか学生を見ない教師もいましたが大半の教師は、勉強は学生の自主性に任せ、それ以外の所もしっかり見ていました。勉強を強制することも無く、強制の補習なども一切ないため大学受験で浪人する学生が多いもの事実ですが、教師というものを軽蔑していた私にとってはこの学校にはいったのは正解だったと思っています。ある教師が「定期試験は生徒の達成度を測ると同時に教師自身の指導力を測るものでもあって、仮に試験結果が悪かったら教師も自身の指導力を反省しなければならない」とおっしゃられ、こんな教師もいるのかと思ったことを鮮明に覚えています。

 勉強はそれほど強制されなかったことから、小学校から続けていたサッカーを高校でも部活で続ける事にしました。毎日練習があったもののグランドが狭かったこともあり十分な練習はできず、また練習は全然厳しくありませんでした。私は幸いにも1年生の夏には大会の選手登録されました(試合には出られませんでしたが)。しかし普段は実戦を全く意識していない単調な練習の繰り返しでした。そこでもう少し実戦で使える練習をするべきである旨を顧問に申し出たところ、サッカー経験の無い顧問と喧嘩になりそれがきっかけとなり1年で部活をやめてしまいました。その後顧問が転勤になったことからたまにサッカー部に顔を出していたものの本格的に復帰するわけではなく、だからといって塾に行くわけでもなくただ毎日プラプラしていました。毎日時間だけは有ったので、さまざまな本を読んだり自分の将来について考えたりするようになりました。そのなかで当時、旧大蔵省の汚職事件が大きな問題になっており世の中には国家公務員、さらには「キャリア官僚」なるものがあって彼らが日本の行政において大きなプレゼンスを発揮していることを知りました。マスメディアは、官僚制は日本にとって有害であって全く有益にならないというような論調でしたが、一度のスキャンダルでここまで非難・糾弾されるのは、現実においては国家公務員が日本において必要不可欠であることの裏返しであると当時の私は思い、そのように日本の現在そして将来に対して重い責任をおっている仕事に憧れ、漠然と国家公務員を志望するようになりました。

 高校での勉強に関しては、カリキュラム上文理選択は3年生からで、全範囲ではないものの全員数III・Cの他、化学・物理・生物、日本史・世界史・地理の大部分の範囲が必修でした。当時はなんとなく医者になって離島医療などをやりたいとも思っていたので、一般的には3年生からの文理選択は遅く大学入試には不利ですが、私にとっては都合が良かったです。また高校で多くの科目を勉強していたおかげで、公務員試験の教養試験はそれほど苦にはなりませんでした。

 勉強が強制されない学校だったと述べましたがそれでも授業のレベルは高く特に英語と数学の予習は必須でした。私は毎日コツコツ勉強することがあまり得意でない性格なので、1年生の時は4月中に、2・3年生の時は春休み中には数学と英語はその年の教科書の1年分の予習を済ませ、普段は気の向いた時に復習を中心に勉強していました。そのため学校ではあまりカリカリ勉強はしていませんでしたが、テストでの成績は良かったです。3年生になり大学受験も現実的になってくると、周りは昼の休憩時間なども1人で必死に勉強するなど勉強一本になる人が多くなる中で、私は勉強も大事だがもっと大切なものが有るのではないかと思うようになりなりました。そこで学校では授業中は勉強しないと決めました。志望校を決めるにあたり漠然と国家公務員になりたいと思っていたこと、学校での成績も十分であったので東京大学文科一類を受験する事に決めました。併願校は慶応大学法学部法律学科なども考えたのですが当時は東大に絶対受かると過信していたので受けず、東大の後期試験さえ出願しませんでした。そんな状況にも関わらずそれほど必死に勉強していなかったのでセンター試験は良かったものの、東大入試に落ちてしまいました。そこで自分が人生を舐めていて、慢心していたことを痛感しました。併願校を受けていなかったので進路が無く、浪人しまた東大を受ける事にしました。そこで予備校に通うことして、今度は真摯に勉強をしました。そして併願校として慶応大学法学部法律学科をセンター推薦で受験し、東京大学文科一類にも無事合格することができました。

 ここで私の両親がどういう教育方針であったのか少し触れたいと思います。父親は県内の中堅私立大学、母親も県内の女子大の出身で一般的に言う高学歴では決してありません。おそらく両親は私が人から言われて何かすると言うことが嫌いな性格なことをよく理解していたのだと思いますが、中学・高校通して親から勉強しなさいと言われた記憶はありません。それは両親が教育に対して無関心だったわけではなく、私が自分から参考書を買いたい、塾に行きたいと言えば何もいわずお金を出してくれました。両親は勉強に限らず部活や習い事など全てを私の好きなようにやらせてくれました。私が東大を受けることを両親に伝えたのも3年生の秋になってからであり、東京で1人暮らしをするには金銭的なこともあるからで、進路に関する問題からではありませんでした。浪人が決定した時も自分が納得できるようにしなさいと言ってくれました。私も両親が口は出さないけれども、影からきちんと自分を見てくれていたと理解して感謝していました。

6.大学時代

 こうして1年間の寄り道を経て当初の希望であった東京大学文科一類に通う事になりました。東京大学ではリベラル・アーツの習得という方針の下1,2年生は全員教養学部に入学したという形をとり,語学と一般教養のみのカリキュラムでした。講義の形式は大半のものはマスプロ形式で教授が一方的に講義するだけという退屈なものでした。そのためかゴールデンウィーク明けには出席を取る必修科目以外は,ほとんど授業に行かなくなっていました。そんな退屈な講義の中でも,興味を持ち毎週出ていたものに物理学があります。この講義では,古典力学からはじまり特殊相対論・一般相対論,量子力学の導入までを勉強したのですが,この世界では速度差がある物体の間では時間の進む速さが違うという我々の感覚では理解しがたいことが認められており,文系とはまるで違った世界に非常に興味を持ったのです。

 サッカーサークルと野球サークルの2つに参加していたものの,講義にはほとんど出ていなかったので時間はたくさんありました。そこでアルバイトに何をやるかを考え始めました。お金を稼ぐことも重要な考慮要素ではあったのですが、それ以上に今後の自分にプラスになるものを得られることをしようと思いました。そこで受験産業でのアルバイトはやめようと決めました。なぜなら塾の講師や家庭教師は確かに時給も高く,またそれまでに得た知識を教えるだけでなく自分自身確認できるというメリットもあるのですが,受験産業においては自分が教える立場であり,生徒も高校受験・大学受験とかつての自分と同じような生き方をしている者が多く,それほど多くの事を学ぶ事ができないと思ったからです。これまでの自分の経験とは全く異なった経験をしている人が多くいるよう所で働こうと思いました。そこで引越しや工事現場のアルバイト,深夜のコンビ二などで働きました。そこには,高卒でミュージシャンになるために上京しアルバイトで生活している人,会社でリストラされ働いている中年の人,単なるフリーターなどさまざまの境遇の人がいました。彼らと共に働きいろいろな話をするなかで,大学を卒業し就職するという自分の人生は,様々な生き方の1つにすぎない事に気づくと共に公務員はそのような様々なバックボーンを持った人の誰もが幸せに生活できるような制度を作らなければならず,そのようなことは非常に難しく責任は重いがやりがいのある事だと思いました。

 幸か不幸か教養学部の試験においては,このような怠惰な学生でもきちんと単位が来るものです。東京大学には「シケタイ制度」および「教官逆評定」なるものがあります。シケタイ制度とは,クラスなどを単位として各担当教科を割り振り,試験前にその科目の講義を要約したレジュメを作り,それをクラスで共有するというものです。教官逆評定とは,教授が前年どのように講義し出席をとるかどうか,単位がとりやすいかどうかをまとめ冊子にされたものの事です。私もこれらを最大限に利用し,一度も出席したことの無い講義でも,前日にシケプリに一通り目を通し試験だけ受け単位を荒稼ぎしました。

7.公務員試験

 受験生活については合格体験記等で書いたので詳しくはそちらを読んでいただきたいのですが,この文章を読んでいる人には霞ヶ関で働くために現在勉強している人も多くいると思うので,私の受験生活について簡単に触れたいと思います。私は大学受験で浪人していたことから,公務員試験は絶対に1年で合格し内定を獲得しようと思いました。そこで大学2年の11月ごろからWセミナーに通い始めました。自分の性格から試験直前期は試験勉強だけで他の事を全て犠牲にするような生活を送るのは嫌だったので,その分他人より早く勉強を始めようと思ったからです。そんな早い時期に勉強を始めている人は周りにはほとんどおらず,また翌年の3月までは基礎講座ということもあってかほとんど予習・復習もしませんでした。しかしそれでも国T試験においてどのような知識が要求されているか,またどのように勉強すれば良いか早期に分かったことで学部試験の勉強の際にも公務員試験を意識した勉強が出来ました。

 3月から本格的に講座が始まり,徐々に勉強を始めるようになりました。教養科目は,大学受験を2年間やった事および高校で多くの科目が必修であったことから特に不安は無かったので,一般知能を含めてほとんど勉強はしませんでした。専門科目については,時間的に余裕があったことから小手先のテクニックに頼ることなく基本書を暗記するぐらい読み込みました。勉強が順調に進んでいたことから,9月に渡辺ゼミ I 期の選抜試験を受け,運良く合格できました。渡辺ゼミでの渡辺先生そしてゼミ生との出会いは,公務員試験だけではなくこれからの人生にとって大きなものになったと思います(http://www.thefuture.co.jp/watanabe_seminar/taiken13.html)。ゼミでの渡辺先生の厳しい(?)ご指導もあって,試験勉強は順調に行っていました。3月の2回の模試では両方とも総合トップであったことから,4月の1次試験直前期は多少気が抜けてしまいましたがそれでも早くから勉強していたことで,1次試験はほぼ目標としていた点数を取ることが出来ました。1次試験のアドバンテージがあったことから2次試験,人事院面接と余裕を持って臨むことができ,最終的な成績も満足できる結果を得られました。今になって振り返ってみると合格そして内々定した要因は早くから公務員試験を意識していたこと,そして専門・教養試験でそれぞれ何点取るか,具体的に高めの目標を設定しその目標に向けて専門試験と教養試験さらには教科ごとの力の入れ具合をうまく調整できたことだと思います。

8.真のエリートとは

 上で見てきたように,中学受験もしておらず小・中・高校ともに公立出身,しかも大学受験において浪人し決して「エリート」とは言えない私が平成18年度から霞ヶ関で働く事になりました。現在日本の官僚制に対し,政界・マスメディア・世論など様々なところから批判がなされています。その批判の主なものは,1回きりのペーパー試験に合格しただけで他の職員とは比べ物にならないくらいの早さである程度まで自動的に昇進することが確約されていることから来る不合理さや非効率性にあると思います。確かに競争がそれ程厳しくない事から来る非効率性や制度の硬直などはあると思います。試験制度や昇進制度の改革は必要だと思いますが,ここではそれらに関し私の考えを述べるのではなく,現状において I 種職員がどうあるべきかについて官庁訪問などを通して現職の方などの話を伺って私が感じたことを少し述べたいと思います。

 イギリスにはノーブレス・オブリッジ(貴族の義務)という言葉があります。中世イギリスにおいては,貴族は貴族に生まれたから尊敬されているのではなく,戦争において貴族として他の民衆より先頭にたって戦ったからこそ尊敬されその結果特権を得たのであって,もし民衆よりも懸命に戦わなくなれば特権は無くなるというものでした。現在ではおそらく「地位が高い人ほど人一倍徳を持ち,懸命に働かなければならない」という意味で使われていると思います。

 現実問題として I 種職員は若くして年上の部下を持ちます。この事は事実として否定しがたいことです。しかし役職が高いというだけでその事にあぐらをかいていては部下の心まで動かすことはできないと思います。「キャリア」であることは特権を付与されるということではなく,早く階級が高くなるからこそ人より責任が重く,その分自分の頭で考え働かなければいけないということだと思います。「キャリア」が「キャリア」にふさわしい責任を果たしてこそ初めて真のエリートとして認められるものだと公務員試験及び官庁訪問を通して私は考えるようになりました。

9.おわりに

 最後になりましたが,公務員試験を含めこれまでの人生において私を支え,そして私に大いに影響を与えてくれた両親・友人・先生等にこの場を借りてお礼を述べたいと思います。

 これまで長々と私が人生のそれぞれのステージにおいて何を考え,そしてどのように行動してきたかのほんの一端を記述してきましたが,この文章が読んでくださった様々な方にとってそれぞれ少しでも有益なものであれば,幸いです。ロースクールの開設や外資系企業の人気のため公務員志望の学生が減り,加えて国民のなかで官僚への信頼が揺らぐ中で,そのような厳しい状況の中でも官僚として国民のために働く道を選んだ現在の気持ちを忘れることが無いように,そして自分の理想が今後も錆び付くことが無いようにと自戒しつつ,終わりにしたいと思います。

 最後まで読んでくださいましてありがとうございました。

(了)

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