The Future [ HOMEキャリア・エリートへの道>私を支えてくれた人への感謝
キャリア・エリートへの道

私を支えてくれた人への感謝

はじめに

 私が国家公務員 I 種試験に合格し、農林水産省に内々定をもらってまもなく、渡辺先生に報告をしたところこの原稿を依頼されました。内心、私でよいのか非常に不安でしたが、ここまでお世話をしていただいた先生に何らかの形で恩返しをしたいと考えたこと、自分のここまでの人生を形として残してみようと感じたこと、そして私の体験がこれからキャリアを目指す皆様にとって少しでも役に立てばと思ったことなどから、正式に依頼を引き受けました。

 本文では、私が今までどのような人生を歩んできたのかを中心にお話したいと思います。そしてタイトルにも書きましたとおり私がいかに人に支えられながら生き、またギリギリのところで救われ現在に至ったのかを感じていただければと思います。また、民間主導の景気回復がなされ、公務員がメディアによってたたかれるこの時代に、なぜ国家公務員・農林水産省を目指し現在に至ったのか、どのようにして合格をしたのかなども加えたいと思います。私の独断と偏見がいたるところに入ってしまい、また表現がいたらず稚拙な文章になってしまうかとは思いますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

嵐の日に誕生

 私が生まれた昭和58年8月11日は台風が本土に上陸した日でした。暴風によってガラスが割れ、豪雨によって河川が氾濫し自主避難をする住民が出るほどの台風だったそうです。私のうまれた神奈川県平塚市の病院は、川からかなり近い位置にあり、事実避難勧告もでかかっていたのですが、その日を中止すると子供(私)が生きて生まれてくる可能性が低くなるとのことから母が医師に「子供はうませてください」と頼みこみの私は生をうけました。あと少しで浸水し分娩が危なかったということを後に聞き、強い母親に感謝するとともに私の人生の始まりがこんなにもドラマッチックだったことにも驚きました。本当にありがとうございました。

おとなしい幼稚園児

 神奈川県の平塚で生まれた私は、4歳で父の転勤によって愛知県名古屋市に引越しをしました。そして、幼稚園に入園にしましたが当時の私を親は「あまりしゃべらないおとなしい子」であったと言っています。3歳までに仲良くなった子たちとの別れが幼心につらかったこと、新しい環境なじめなかったことが原因だと思います。幼稚園では、仲の良い2・3人の子としかしゃべらず、送り迎えのバスではずっと寝ていました。そんな生活を1年送った後、5歳のときに再び神奈川県の小田原市に引越しをしました。慣れない環境を脱出できたことはうれしかったのですが、今はそのときもっと友達を作っておけばよかったと少し後悔しています。

ひたすら遊んだ時代part1 〜小学校低学年〜

 小田原にきて、すぐ小学校に入学しました。小学校低学年のときに親が大量に買い込んだ、勉強のためのいわゆる「ドリル」を少しずつではありますがやっていたため、成績は良かったです。そのおかげで、まわりからの信頼も得ることができ友達もたくさんできました。また、遊びのほうも新しくできた友達とともに毎日走り回っていました。このころは、まだ野原や山など子供たちの遊び場が多く残っており、毎日暗くなるまで遊んでは親にしかられていました。

受験part1 〜中学受験〜

 そんな遊びほうけていた私に転機がおとずれたのが小学校4年の秋です。父の出身校である慶應義塾大学の「三田会」という祭りに赴きそこで「僕もこういう環境の中で学生時代をすごしたい」と幼いながらも考えました。

 そこで親のすすめもあって中学受験用の塾に小学校4年から通い始めたのです。しかしながら小学校6年にあがるまでは毎日勉強していたというわけではありません。学校では塾の勉強はほぼ何もやりませんでしたし、放課後も塾が始まるまでずっとバスケットボールをして遊んでいました。もちろん、塾・そして帰宅後は復習などを行っていましたが深夜までみっちりということはありませんでした。

 そんな生活をおくっていながらも6年生になり、受験まで1年を切ってくるとすこし身が引き締まってきました。塾での授業も密度の濃いものになり、私自身もほぼ毎日勉強するようになりました。とはいってもやはり勉強一辺倒というわけではなく部活や委員会の仕事もおこなっていましたし、もちろん遊んでもいました。

 このように、様々なことを行いながらも私は慶応義塾普通部に合格しました。合格の際には、塾の先生に大変お世話になったのを覚えています。当時、普通部の受験は2月1日が1次で2日に1次合格発表、3日に2次で4日には最終合格発表が出されるといったスケジュールで行われました。合格したからには、すべての試験を突破したわけですが、私の場合は「補欠合格」でしたので、辞退者が出れば合格というなんとも不安定な地位に置かれたのです。「合格が決定しだいご連絡をさし上げます」と普通部の方にいわれ、不安でたまらない日々をすごすこととなりました。そんなとき励ましてくれたのが、塾の先生だったのです。「おまえなら絶対大丈夫!おまえが受からないで誰がうかる!? おまえは運が強いし、なによりほかの人よりいろんな経験をしている。そういうことは面接で絶対みてくれているよ」という言葉は今でも忘れていません。結局、最終合格発表日から1週間後に電話がなり、晴れて合格となりました。合格の報告をしたとき、先生も自分のことのように喜んでくれた顔は今でも目に焼きついています。本当にありがとうございました。

バスケットボール時代part1 〜中学生編〜

 普通部に入学してすぐ、私はバスケットボール部に入部しました。理由は単純で、背が大きかったことと当時流行ったある漫画に影響をうけたことです。体が大きい割に体力がまったくなかった私は、入部当初その練習についていくのにとても苦労しました。実際、1年生の頃は何度もやめようと思いました。しかし、寸でのところで私がやめなかったのは一緒に入部した同期の仲間たちのおかげでした。どんなにきつい練習でもお互い励ましあい、また練習中は切磋琢磨していた仲間と離れるということは考えられませんでした。

 2年生になると、練習にも慣れてきて、バスケットボールの素晴らしさを実感できるようになってきました。練習のキツさは今までとまったく変わらず、むしろ一層厳しくなりましたが、それ以上に仲間との結びつきも強くなり一致団結してチームの目標である「県大会上位」にむかってひた走りました。そんな私たちに対して、コーチも普段は厳しい指導に加えてプライベートや勉強面でのサポートもして下さるようになり、私にとってより充実した部活へと変化していきました。

 3年生の夏、目標までは届かなかったものの悔いが残らない試合を最後にすることができ中学でのバスケットボール生活の幕は閉じました。また、私自身も地区の最優秀選手に選ばれました。これも、ずっと一緒にすごしてきた仲間と、熱血指導をしてくださったコーチのおかげであり、いまでも感謝しています。本当にありがとうございました。

中国シルクロードへの旅

 中学生時代にはバスケットボール以外にもイベントはありました。その最も貴重なひとつが中国シルクロードへの旅です。これは祖父と2人でツアーに参加していきました。

 この旅で私にとって印象的であったことが2つほどあります。第1に中国の発展の勢いです。私が行った平成8年は中国がまさに発展しようとしている段階でした。バスで移動しているとあちこちで目まぐるしく工事が行われていて、「これがすべて完成したとき、中国は世界有数の国に成長しているのだろうな」と子ども心に感心したことを記憶しています。実際現在では、当時工事中であった建物はすべて完成しており、世界でも注目される国へと成長しています。こうした中で、日本がいかに中国とつきあっていくか、つまり日中関係における交渉をいかに「うまく」すすめていけるか、ということは私の中に常にある問題意識です。農作物の面でも広大な土地をもっているだけあり、大きな影響力をもっておりますので、今後の交渉に注目して、また私自身も少しでも関わっていけたらと考えております。

 第2に印象的であったことは、東と西の経済格差です。シルクロードはご存知のとおり中国を東西に横断しております。その中で、東から西に向かって旅を進めていくと、だんだんと高い建物がなくなり、家も質素になってくるという現象が顕著になってくるのです。同じ国なのにどうしてここまで差があるのか、と感じ、こちらも子ども心に驚愕した覚えがあります。実際現在でも東西の経済格差は政策としては進められているもののまだまだ埋まったとはいえないと考えています。しかし、これが政策的に成功したときは真に中国が大国へと発展するときであると考えており、私自身これからの動きに興味をもっている事柄のひとつであります。

 話はそれましたが、小さい頃に(といっても中学生ですが)貴重な体験をさせてもらい、両親と祖父母には感謝しています。本当にありがとうございました。

バスケットボール時代part2 〜高校生編〜

 高校に入ると再びバスケットボールに打ち込む生活となります。単純に、もっとバスケットボールを続けていきたいと考えたことがきっかけです。しかし、中学生のときとは違い挫折というものをなんども味わうことになったのです。

 中学生の頃は、部活内でも地区内でも背が高いほうであったためにレギュラーを外されたことはありませんでした。ですが、高校生になって自分の身体能力に頼り練習をおろそかにしていると、途端にまわりの連中に次々と追い抜かれレギュラーを逃したではなく背番号すらもらえないという苦汁を飲まされることとなりました。こうした中で私は、「悔しい」という気持ちよりもむしろ「情けない」という気持ちのほうが強く「絶対レギュラーを掴みなおしてやる」と頑なに誓いました。闘争心というものが芽生えたのはおそらくこのときが初めてだったと思います。

 今までいかにサボろうかと考えていた基礎練習も人一倍行い、また毎日最後の最後まで残って練習していました。こうした努力を神様はみていたのでしょうか。考えを改めてから2ヵ月後に再び背番号をもらうことができました。

 こうして努力に目覚めた私は、朝は5時半に起きシュートを打ち、夜は9時過ぎまで体育館に残り練習をしているという日々を2年間続けました。私たち自身が決めた「県で優勝しインターハイに出場する」という目標に向かって毎日突き進みました。

 ですが運命は残酷でした。県大会で惜しくも敗退してしまったのです。最終戦(引退試合)では、最後のブザーがなると同時に全員がコートで泣き崩れました。「やはり神様はいなかったのか…」そのときは完全にそう思い込みました。しかし時間がたつにつれ、心は不思議とすっきりしていきました。これは中学時代のバスケットボールを引退したときとはまったく違う感情です。努力をしたからこその新しい達成感を得ることができたのです。結果はふるわなかったのですが、晴れやかに高校バスケットボールを卒業することができました。

 私のサボりを見抜き厳しくしてくれた先生、また最後の最後までともに汗を流し、笑い、涙をながした仲間たちに感謝しています。本当にありがとうございました。

ひたすら遊んだ時代part2 〜大学1年編〜

 大学入学して、バスケットボールを体育会で本格的にやろうとは思いませんでした。6年間、私なりに真剣に打ち込んで、また達成感も得られたので他のことにもチャレンジしたいと考えたのであります。そこで、バスケットボールは趣味としてサークルでやろうと決心しました。

 では、ずっと打ち込んできたバスケットボールの代わりに何をやったか?といいますと、ただひたすら遊んでいました。はっきり言って朝から晩まで勉強をまったくしませんでした。居酒屋のアルバイトをしながらためたお金で深夜まで友達と遊び、またアルバイト、遊びとその繰り返しでした。しかも良いのか悪いのか、そんな私でも大学の単位はきっちりとることができたので、さらに調子に乗って遊びまくっていました。まわりからみたら、堕落した生活にしか見えなかったかもしれません。

 しかし、この時代がまったくといっていいほど悪かったとは思いません。ひたすら遊んだおかげで様々な人と知り合え、人間関係というものを学ぶことができたのです。大学の友達に加えて専門学校生、社会人、フリーターの人々などと話す機会を持つことができ、人間としての視野がかなり広がりました。人種のるつぼではありませんが、世の中にはいろいろな人がいて、それぞれの人生を送っている、そのまったく違ったひとりひとりが共通して幸せになることのできる社会を作りたいとこの頃漠然と思い始めました。これが「公務員」という単語が頭の片隅に浮かんだ最初です。

自分の将来を考える 〜職業選択編〜

 遊んでばかりではどうかと思い、次第に将来について考え始めます。私が大学2年の夏でした。この頃から職業選択ということに興味を持ち始めます。公務員もその中のひとつでした。

 このように仕事を漠然と探していく中で、なぜ国家公務員という職業にたどりついたのか、そのきっかけをお話ししたいと思います。

 まず、そもそも職業を選ぶ中で私が重視したことは、「仕事が自分自身にあうかどうか」ということでした。そして、自分にあった仕事をみつけるためには、まず自分自身をよく知らなければならないと考え、自己分析というものを始めたのです。さらに、自己分析をするにあたって、たくさんの経験が必要であると考え、海岸のゴミ拾いや老人会の雑用などのボランティアを行いました。このような体験の中で、自分自身が「他人が喜び幸せを感じることが、私自身の一番の幸せである」ということに気づき、世のひとのために働く公務員という職業を目指そうと決めました。さらに、その中でも特に、国家公務員という職業につくことができれば、より大きな視点から物事をみることにより、前述したようなひとりひとり違った人生を背負っている人々を共通して幸せにすることができるのではないかと考えました。こうしたことから、私自身に合う職業は国家公務員であると思い、最難関である国家 I 種試験を突破すべく勉強を始めました。

自分の将来を考える 〜省庁選択編〜

 人々を幸せにしたい、そんな思いから受験を決意したわけですが、ではどの省庁にいけば私の思いがかなうのか、という新たな疑問が浮上したわけであります。そして出た結論が農林水産省でした。その理由は、農林水産省が人が生きていくうえで必要不可欠な「食」の根本を支える官庁であり、この根本を私自身が支えることができれば、「食す」をいう行動をする国民すべてに幸せを提供するチャンスがあるのではないかと考えたことです。つまり、交渉する、政策を考える、景気をよくする、などを考えるには食べて元気をつけ頭を働かせなければならないのです。人間の行うすべての行動の原点に食というものがついている、ということに気づき、ではこの原点さえよりよいものにすれば日本がもっともっと素晴らしい国になるのではないかと漠然と考え付き、農林水産省を目指すようになったのであります。このようなことを胸に秘めつつ、国家 I 種の受験を決心したのが、私が大学2年の秋であり、そして実績などでも群を抜くWセミナーへの入学を決めました。 

受験part2 〜国家 I 種試験編スタート〜

 このようにして、私の受験生活はスタートしました。受験自体10年ぶりなので、緊張する反面、うれしさや一種の期待感もあり、夢に向かって突き進もうと決意しました。

 大学2年時は基礎講座であり、週1回のんびりと通っていました。大学でも講義のあった法律科目でしたので、苦手意識はなくスムーズに科目にとけこむことができました。また、もともと知っていた知識にさらに付け加えていく嬉しさというものが湧き、いわゆる「知識欲」というものを初めて感じることができました。さらに、時間にも余裕があったため、適度にアルバイトをし、適度に遊ぶこともできました。このように私の受験生活は順風満帆に幕を切ったのであります。

受験を乗り切るために 〜「心」編〜

 このように、基礎講座はなんなく卒業でき、ついに本講座がスタートします。大学3年生になった5月のことです。はじめは憲法の講座でした。この最初の講義のとき渡辺先生から当時の受験生たち(私の先輩方)の状況を聞き、あと1年で私もこのような境遇におかれるということを実感させられ緊張感が増し、それと同時にやる気がみなぎったことを今でも覚えています。

 こうした講義が最初は週1回であったものの、次第に増え週4回となります。私は学校のほうでゼミにも入り、また週1回程度、サークルでバスケットボールを行っていたためこのころから次第に日程がきつくなってきました。それでも私が受験生活を乗り切った、ということを少しお話したいと思います。

 そもそも私がゼミに入った理由は、第1に学生時代になにかひとつ形になるものを残したいと思ったことがあげられます。その中でゼミの「卒業論文」はまさにうってつけの材料でした。第2に法律について詳しく学びたいと考えたことです。そこで現在入っている憲法ゼミへ入ることを決めました。そして第3に幅広い交友関係をもちたいと考えたことです。様々な環境で様々な友達と知り合うことによって私自身のプラスになるのではと考えたのです。こうしたこともあって、いくら受験がきつくなっても「ゼミを辞める」という選択肢はありませんでした。事実、夏休みにゼミで行った模擬裁判の打ち合わせにもすべて出席しましたし。もちろん普段の講義も休むことはありませんでした。

 こうした環境から春から夏にかけての生活は過酷なもので、ライブで見ることのできない講義を何本もビデオで、という形をとりました。もちろんあせりもありました。私の周りの優秀な人々は予習・復習もしっかりやっていましたし、どんどん置いていかれている気がしました。

 このように厳しい環境を乗り越える最大のポイントは心の問題をクリアにするということだと考えます。実際私は、ここであせっていた気持ちを切り替えたのです。ゼミやサークルという貴重な体験をし、ただ遊んでいるわけではない。こうしたことを自信に持ってほかの人にはない私自身の魅力を作り上げようという決心をしたのです。また、勉強もあせったら負けであると考え、講義をペースメーカにしながらまわりのどんどん進む友達に流されることなく、あくまで自分で進むことにしました。こうした心の問題も私の中でクリアし、現実に夏まではかなり遅れていた勉強も、年末までには取り戻すことができました。そして、12月に渡辺ゼミの I '期試験に合格し年明けから参加することになったのであります。

 渡辺ゼミが始まってからすぐ、またまた厳しい日程と対峙することとなります。1月後半に大学の試験があったのです。しかし、ここでも心をうまい具合に切り替えクリアにして乗り切ることができました。また、今回は自分ひとりで乗り切ったわけではありません。渡辺先生が講義のときに、「この3時間は試験勉強をやると決めたらそれ以外は手をつけない。その時間に集中し、メリハリをつけたスケジュールを組みなさい。」ということをおっしゃってくれたことが励みになったのです。学校の試験と受験勉強、双方中途半端だと結局あせってしまい、逆効果です。それなら思い切ったスケジュールを組み、それを信じて突き進むことができれば、心の「もやもや」もすっきりし、良い結果が生まれるのだということを改めて実感しました。

 こうしたことで受験生活を乗り切ったことは、最後の官庁訪問で非常に役にたちました。学生時代、たくさんのことにチャレンジし、たくさんのことを経験しインプットした私にとって、官庁訪問はまさにそれらを話す、アウトプットするにはまさに絶好の機会でした。こうしたこともあり、官庁訪問を突破することができたのであります。

受験を乗り切るために 〜方法編〜

 次に私が受験を乗り切った具体的な勉強方法を少しお話したいと思います。まず、1次択一教養試験です。実は私が国家 I 種試験を突破するにあたってのかなりの難関であると考えたのが、択一教養試験でした。というのも、私は、先ほど述べたとおり中学受験をして以来、高校・大学と受験をせず内部進学をしてきたために、教養をいうものの勉強を10年間ほとんどしてこなかったのです。そんな私の教養試験勉強はほかの人とは一味違うものでした。

 まず、知識がまったくなかったということで、予備校のテキストのシリーズを夏休み中にチェックしました。その方法は、空いた時間、例えば電車の中などを利用して、少しずつ覚えていくというものです。私は中学以来、「電車は寝るものである」と考えてきましたが、心を鬼にしてその固定観念を打ち砕きました。このように、コツコツと知識の整理を行っておくと、直前に覚えなおす際に非常に有効です。

 また、一般知能についてですが、中学受験をしていたこともあり私はこの科目を得意としていた。本番でも満点近くとることができ、これのみですが教養における自慢のタネになりました。

 国家 I 種の教養試験の特徴として、時事にからめた問題が非常に多く出題されるということがあります。そこで毎日、新聞を読んでいました。最初はこの作業が苦痛でたまらなかったのですが、慣れてくると面白くなってきて、次の日の記事が待ち遠しくなりました。新聞は、答えのない推理小説であると考えれば興味も出てくるのではないかと思います。

 一方専門科目は、時間との戦いでした。少ない時間の中でいかに効率よく勉強していくかを心がけました。

 まず、最重要である憲法、民法、行政法は基礎からみっちり勉強しました。受験をするまではまったくといっていいほど縁のなかったいわゆる基本書とよばれる本を読みました。判例などは、「判例六法」(や各科目の「判例百選」を用いて理由と結論をおさえていきました。

 マイナー科目はWセミナーの講義と配られるレジュメなどで十分対応できます。講義でやったことと、レジュメなどを覚える作業をひたすら反復しました。

 また、これらの勉強を行うにあたって一番気をつけたことは、1回3時間行われる講義では、先生のおっしゃったことを一言も聞き漏らさないよう集中する、ということです。こうすることによって、帰宅後の復習がとても楽になるのでお勧めです。また、講義を受けた後はなるべく早く(できればその日のうちに)復習すると、身につきやすいです。

 以上のこと、即ち、講義・復習(バイブルや参考書を適宜もちいる)・過去問演習(加えて、3月の答練を受ける)をすれば、必ず高得点がとれると思います。

 こうした勉強をしつつ、渡辺ゼミをペースメーカにして、1次対策、2次対策を順に行いました。2次対策は渡辺ゼミのレジュメの反復で書き方を覚え、それが確認できたら、ゼミで「ここは覚えろ」といわれたことをひたすら覚えました。これを繰り返し本番に臨んだところ、かなりの高得点がとれました。これらの点で、効率の良い勉強を教えてくださった渡辺先生に非常に感謝しております。本当にありがとうございました。

官庁訪問

 こうして、1次・2次を突破した私は官庁訪問をする権利を得ました。先ほども述べましたとおり、農林水産省をひとつの目標にして、さらに視野をひろめるべく、他省庁も2つほどまわりました。

 先輩の話から官庁訪問は「つらい」「苦しい」体験であると考えていましたが、まったくそのようなことはありませんでした。実際面接では、面接官の方が、私が知らないことを丁寧に教えてくれ非常に勉強になりました。圧迫面接といったものもほとんどなく、すべてにおいて話しやすい環境でした。農林水産省をはじめ他にまわった省庁でも、会う人すべてがおだやかでかつすばらしい人ばっかりで、心置きなく自分を発揮することができました。また、長すぎると言われていた待ち時間もまったく苦になりませんでした。官庁訪問中に知り合った友達と、面接とまったく関係ない話をしたり、時には政策議論をしたりしながら盛り上がることができたのです。こうして、話していると3時間・4時間の待ち時間もあっという間にすぎ、また面接も緊張せずに臨むことができました。

 官庁訪問では、私に貴重な体験をさせてくれた面接官の方々と、待合室で一緒になった友達全員に感謝したい気持ちでいっぱいです。私ひとりでは官庁訪問を乗り切ることは不可能であったと思います。7月7日に監査官と秘書課の方と握手したときは、涙がこぼれそうになりました。本当にありがとうございました。そして、これからも霞ヶ関でよろしくおねがいいたします。

受験生活を終えて

 私が受験生活を終えて、また振り返って思うことは、最後まであきらめなくてよかった、ということです。実際、民間の就職活動もしていましたし、そちらの方にいこうかと考えた時期もありました。しかし、自分が公務員を目指した理由や、将来の夢をいうものを思い出し、あきらめないで乗り切ることができました。

 後輩に一言だけ言わせていただきます。受験生活は、長くて、時には厳しいこともあると思います。そういった逆境の中でも、明るく楽しく自分らしさを忘れず、初志貫徹で努力してかならずや合格・内定を勝ち取ってください。きっと結果はついてくると思います。応援しています!

最後に

 ここまでお付き合いしてくださった読者のみなさま、ありがとうございました。このような感じで私は今まで生きてきました。ここで一番言いたいこと、それは自分ひとりでは絶対に生きていけないということです。確かに、一匹狼でなんでも自分で解決していく、というのが逞しく勇ましいと思えます。しかし、私は社会の中で多くの人と関わっていく以上、自分ひとりで生きていくのは不可能であると考えます。むしろ自分ひとりで生きていくのはもったいないと思います。「人」という字は人と人とが支えあっているとよくいいます。これは本当のことであると今回の受験を通じて改めて感じることができました。私がつらいとき、励ましてくれた友人や家族、あたたかく指導してくださった先生方にもう一度お礼を言って、このキャリアエリートへの道をしめたいと思います。

 本当にありがとうございました。

(了)

©1999-2005 The Future