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よき出会いを 内々定をもらった今2005年7月7日、総務省から内々定をいただき、12日間にわたる官庁訪問が終了しました。意外にもそれなりに順調に進んだ官庁訪問でしたが、自分の23年間の人生の中で一番大きな決断をしました。これまで第1希望であった文部科学省から、この官庁訪問で好印象を抱いた総務省に志望を変えたからです。すごく悩みましたが、決めた以上これからの自分の人生、そして世の中がよりハッピーになれるように、前をむいて歩んでいきたいと思っています。 自分のこれまでの人生を振り返ってみて、読者のみなさんに役にたつことがあるかどうかはわかりませんが、自分が来年から社会人としての一歩を踏み出す前に、自分のこれまでの人生を総括するという意味でも、これまでの経験を書かせていただきますので、時間のあるときに読んでいただけたら幸いです。 岐阜県ってどんなところさて、ぼくは岐阜県の出身です。岐阜県はあまり知名度も高くなく、東京に来てから、岐阜県の場所があまり正確に認知されていないことに驚きました。たしかに、岐阜はこれといって目立ったものはないかもしれません。よく聞かれて困る質問は、「岐阜の名物って何?」です(苦笑)。隣の愛知県(名古屋市)に目線がいってしまうので、岐阜は注目されないのもまあ納得できるのですがね。 でも岐阜には、世界遺産である白川郷・五箇山の合掌造り集落がありますし、織田信長が天下不布を唱えた岐阜城もあります。地理的には日本の中心に位置し、「東京から東濃へ」と首都機能移転を唱えてもいます。北と南ではまったく風土や気候は違うのですが、海に囲まれていない県である代わりに、山に囲まれて川が街を流れ、平野が広がるきれいな地域です。有名人としては、先日総選挙を賑わせた岐阜1区の衆議院議員、野田聖子やアテネ五輪金メダリストの高橋尚子らを輩出していて、けっこう見所はある、はずです。また、前知事の梶原拓さんは地方六団体の中心的存在として活躍されてきました。そんな感じでこれからおもしろい県かもしれませんね。皆さんも合格・内定した暁にはぜひ1度足を運んでみてください。 小学校時代そのようなところで育ったぼくですが、小学校時代はすくすく育ちました(笑)。東京のような建物ばかりの都会と違って、通学路の途中には用水があったり田んぼがあったり公園があったり、いろいろ自然に囲まれていました。帰り道の道草や、家に帰った後自転車で公園にいって遊んだり堤防を走ったりしたことは楽しかったものです。 小学校時代から、ぼくはどうやら目立ちたがり屋だったみたいで、よく学級委員などをやっていました。なぜ学級委員をやりたがるようになったかはよくわからないのですが、そういうリーダー職が好きだったのかもしれません。小学校時代にそういう経験を多くしたことや、学校の勉強が得意だったことが、いまの自分を形成する礎になったことは間違いないでしょう。 また、小学校時代は水泳に力をいれていました。もともとは水が苦手だったのですが、スイミングスクールに通うようになってぐんぐん上達し、いつの間にやら水泳が好きになっていました。その後選手コースという大会等に出場するために週3、4回練習するコースにはいって県大会などにも出場するようにもなりました。練習はとてもきつく、時にはずる休みもした覚えもありますが、大会でいい結果を残せたことはとても記憶に残っています。いまでも水泳は好きで、たまに大学のプールで泳いだりもしています。 その後、5年生の半ばころから野球への憧れがまして少年野球に入団しました。毎週土日に小学校で練習したり、試合にでかけたりでした。もともと好きで遊びでやっていたこともあり、レギュラーになることができ、最後の市大会ではそれまで負け続けていた相手を倒して優勝することができました。少年野球には、父兄の協力が欠かせません。ユニフォーム、バット、グローブ等用具をそろえるのもけっこうお金がかかるし、試合にいくとなれば車で連れていってもらわないといけないし、練習の指導をするのも地域のお父さんです。とても大変だと思いますが、野球が好きな大人にとっては楽しくもあり、そんな父兄の方々の善意にとてもお世話になった気がします。いま思うに、地域のスポーツ少年団というのは、地域コミュニティ再興の1つのツールにもなるのではないかなと感じました。 中学校時代中学校は地元の2つの小学校の生徒が集まります。1学年200名ほどですが、ぼくの通っていた小学校の生徒が3分の2、もう1つの小学校の生徒が3分の1を占めており、もともと知っている人がたくさんいました。その中でぼくは、小学校時代に引き続き学級委員などを積極的にやっていました。この3年間は、学級・学年・学校運営に関わり、大きく自分を鍛えてくれたと思います。学年主任の先生や、クラスの担任に怒られることもたくさんありました。けど、それでもめげずに(笑)頑張ってきたおかげて、たくさんのいい経験ができたと思っています。 中学2、3年のとき、いまでもお付き合いしている恩師が担任になりました。その先生は、見た目はこわめで、声はでかくて、ちょっと太っていて貫禄もあるという感じで、厳しいところがたくさんありました。しかし一方で、子どもたち1人1人を見てそれぞれに対応した指導を行っていましたし、社会の授業は、実際にいろんな土地へ足を運んでは「使える」生の教材を見つけて作っていて、子どもたちに考えさせる熱心なものでしたし、なによりヤル気まんまんで、合唱祭や大縄跳び大会など常に先頭にたってクラスをリードしていました。ぼくは、学級委員等をやってきていわゆるリーダー的ポジションにいましたので、彼から「リーダーとは」なるものを教えてもらったり、具体的に合唱祭等のイベントを通じてクラスをどう運営し盛り上げていくかを教えてもらったりし、個人的に非常にお世話になりました。大変でしたがとても充実した日々を送ることができたと思うし、いまの自分を形作るのに最も大きな影響力を及ぼした時間じゃないかなと思っています。その先生への憧れから、ぼくは教師という職業に憧れをいだき、教育に興味をもつようになりました。大学にはいって教育に関わるサークルやボランティアをしたり、文部科学省を志望したりするようになったのも、この時代がきっかけであることは間違いありません。とてもいい出会いができたと思います。その先生とは、卒業してからもずっと年賀状のやりとりをしたり、帰省したときに会いにいったりなど、付き合いは続いています。これからも付き合っていけるといいと思っています。 中学校時代のもう1つの柱は、バスケットボールとの出会いです。小学校6年生の終わりごろから、バスケットが好きな男の子と一緒に、放課後練習するようにはなっていたのですが、中学校にはいって本格的に部活というかたちでバスケットをするようになりました。ちょうどこの頃「スラムダンク」というアニメ・漫画がむちゃくちゃ流行った時期で、入部希望者は多かったですね。でも、先輩にいやなやつが多くてしばらくは我慢の時代でした(笑)。部活のこういう理不尽な上下関係も学びました。かといって自分がそういう理不尽な上下関係を後輩に押し付けることはなかったですけどね。練習の甲斐あって上達はしていきましたが、なかなか市大会で優勝することはできなかったです。個人的には、背が高いこともあってセンターというゴール下でプレーする攻守の要役をやっていて、得点は多かったです。 また、ぼくは副キャプテンをやっていたのですが、キャプテンは本当にバスケット一筋って感じの人で、高校でもバスケット部の強いところにはいってキャプテンになり、進学校でバスケット部の副キャプテンをしていたぼくの高校と何度か対戦しました。その後大学でもバスケット部を4年間続け、いまは社会人のバスケットチームでプレーしています。実はぼくをバスケットに誘ってくれたのがその子で、よき出会いをしたなぁといまさらですが思っています。 中学校のときに経験した新鮮なイベントとしては、中学2年の夏休みに、シンガポール・オーストラリアに約2週間行ってきた海外研修があります。これは家族旅行ではなく、地元の市が派遣する研修というかたちで市内各中学・高校から数名ずつの計50名くらいで一緒に施設見学やファームステイ、ホームステイをしました。シンガポールは1日くらいの滞在でちょっと立ち寄ったくらいでしたが、オーストラリアのファームステイでは、一面に広がる草原を舞台に、乗馬をしたりブーメランをとばしたり、羊の毛を刈ったり普段しない体験をすることができましたし、ホームステイでは、シドニーの都会を味わいながら、ホストファミリーに暖かくお世話になって、貴重な日々を過ごすことができました。加えて、オーストラリアの広大な土地、特に広く長くて、制限速度が90kmとなっていた道路がとても記憶に残っています。あいにく、まだまだ英語がほとんどわからない状態でいったので、コミュニケーションはあまり満足にとれなかったのが悔やまれます。ホストファミリーの家に日本人のベビーシッターがいることもあって、自分でなんとかして意思疎通を図ることが少なく、そのため語学の実用体験としては不十分なものに終わってしまいました。もっと積極的にコミュニケーンをとって、その後もコンタクトを取り続けていれば、もっと英語も得意になったかもしれないですけどね(苦笑)。この海外研修体験がぼくの人生を形作るのには、残念ながらそれほど影響を与えませんでした。 中学校の勉強は、とても楽しかったです。衝撃的だったのは、それまで順調にきていてテストもだいたいいつも90点とか100点とかだった小学校時代なのに、中学校にはいって最初の国語のテストが57点だったこと。これには正直ショックでした。これが発奮材料になったのかどうかはわかりませんが、ノート作りを頑張ったり、積極的に発表したり、勉強を一生懸命やって、いい成績を残すように取り組みました。ぼくにとって通知表や学校の成績は1つの勲章みたいなものでしたから、頑張りましたね。おかげで県内一の進学校を受けることのできる成績で、初めての入試である高校入試にも無事合格することができました。塾には小学校5年生から通っていたのですが、地元の個人塾で、友だちと一緒に通って、勉強しつつも一緒に楽しむといったような感じでのびのびやっていました。東京にでてきて、小学生のうちから電車に乗って塾に通うような現実を知って、かなりびっくりしたことを今でも覚えています。やっぱりどこか変じゃないですかね。 高校時代高校時代は、これまで歩きで通える範囲内だった小・中学校とは違って、電車で1時間くらいかけて県の中心街地へいくということで、自分の行動範囲が一歩、二歩と広がり、それにともなってさまざまな出会いもありました。全体としては、かなり充実していてとても楽しい毎日を送ることができたんじゃないかなと思っています。高校時代の友だちとは今もけっこう連絡をとっていて、これからもかけがえのない仲間であると思います。もちろん中学時代の友だちも、実家の近くにいる地元仲間って感じで、すごく癒されるし楽しいメンバーなんですけどね。 まず、高校にはいってはじめてのクラスでの役割決めが、大きな出会いを生み出しました。ぼくの通っていた高校には、体育祭のときだけでなく常時活動している応援団がありまして、応援委員というカタチで各クラスから1名ずつ出さなければならないことになっています。この応援団は50年以上の伝統を有していて、特に野球部の甲子園予選の応援などを行う歴史ある応援団です。入学当初、校歌を歌うときにこの応援団の人たちがいきなりでてきて、前で「振り」をしながら大声で歌っているのをみて、「まじかよ〜」って衝撃をうけた覚えがあったので、絶対やりたくないと思っていたのですが、もちろん考えることはみんな同じで一向に決まりませんでした。挙句の果てには放課後に残されてだれがジョーカーを引くか我慢比べみたいな雰囲気になってきたので、「それならもうやるよ」って感じでぼくともう1人の子が引き受けることになったわけです。 そんないざこざからはじまった応援団ですが、練習が放課後週3回ありまして、それがとてもしんどかったです。「振り」をやるというのは、腕をずっとあげていなくてはならないので、とても疲れます。その上で大きな声をだして、腕を回したりするわけです。初めてのことですし、もちろん上下関係はより厳しいですし、はじめはやっぱり後悔しました。 ですが、しばらく練習を続けてくると慣れてきて、先輩たちともうまく付き合えるようになって、何より、夏の大会の応援を暑い中学生服を着て裸足で一生懸命やり、野球部が負けて応援団としての打ち上げではじめて飲み会にいってお酒を覚える中で、応援団という場が自分にとってのコミュニティの一つになった気がしました。体育祭では、応援団の人が各団の中心メンバーとなって一般参加者を募り、団ごとに工夫した応援を行うのですが、普段の練習とは違って明るく楽しくやるし、男女一緒にやるのでわきあいあいといった感じで、すごくいいですね(笑)。そういう経験を経て、応援団というものにだんだんと浸かっていきました。 はじめはやることを考えもしなかった応援団を3年間も続けることができたのは、厳しい練習のなかにも楽しい部分があり、メリハリがある中で応援という一つの「表現」を磨いていけたからだと思います。3年生の体育祭のときには赤団の団長をやり、一般参加者に振りを教えながら、全体としての動きが美しくなるよう、いろいろ考えて練習をしたり、そのなかで団員がうまく仲良くなっていくよう工夫したり、本番までの限られた時間の中で一生懸命やりました。結果は1位と僅差の2位タイで、すごく悔しかったのですが、とてもいい思い出をつくることができました。 応援団の練習が週3回1時間ずつある中で、並行してぼくは引き続きバスケット部にはいったので、ほぼ毎日バスケットの練習にも参加しました。1年生のときは筋トレとかが多くて、ついていくのが大変で時には休むこともありましたが、先輩の代のときにも一応ユニフォームをもらうことができ、自分たちの代になってからは副キャプテンとして、またチームの大黒柱として、うまくなるように頑張りました。進学校であるため、どうしても他の強豪校に比べて練習量は劣るのですが、誰がどういう役割を果たしてチームとしてどう機能させるかを考えながら、チーム作りをしていきました。その結果、一度は県大会でベスト4まで進むことができました。 高校時代のバスケットは、個人的にはプレーの幅をひろげたりだとか、仲間とどうプレーをするとチームとしていい形になるかだとか、学ぶところもたくさんあったのですが、最後の県大会で1回戦負けを喫してしまったことがすごい心残りで、それが大学にはいってもバスケットを続ける要因になったかもしれませんね。 高校時代の勉強は、とてもレベルが高かったなというのが印象です。でも、高校の授業で行われる勉強をしっかり身につけようと毎日こつこつと勉強したおかげで、知らず知らずのうちにかなりの実力が身についていたのだと思っています。とりわけ数学のテストはむちゃくちゃ難しくて、一番はじめの実力テストは、学年で400人もいて、平均点が200点満点のテストなのに20数点という破滅的なテストでした。ですがそういうテストでも190点くらいとって、偏差値が100を超えるというようなありえない結果を残す人もいて、そういうやつらに負けないように頑張ろうと思って、一生懸命勉強したんだと思います。何をするにも、負けず嫌いだというのはいいことだとぼくは思いますね。 おかげで、県内一の進学校においてもぼくはいい成績をおさめることができ、自然と東京大学というものが視野にはいってくるようになりました。当然東京大学というところでどういうことができるのかなんてことは当時のぼくには何もわかっていなくて、ただ、ぼくの成績がよくて、このままいけば東大も受かるんじゃないか、というまわりの空気や自分の感触だけが、受験のきっかけだったと思います。そういう意味では、いわゆる学歴社会のなかにいたんだなあと思わされます。特にどういう大学でどういう教育が行われているかということは、調べようとも思いませんでしたし、当時はいまほど調べる資料がなかったと思います。東京大学にはいろんな可能性が転がっているので、まず東京大学にはいるという結果ありきな進路指導をされたのかもしれないですが、いまは各大学が積極的にアピールをするようになってきているので、情報を取捨選択して、希望を決められるというのはとてもいいと思いますね。希望官庁選びも同じだと思います。各省庁は積極的にアピールを行ってくると思うので、アンテナを高くたてて、常に情報を取捨選択しながら希望官庁を見つけていくことが必要だと思います。 浪人時代ここまでは順調にきていた勉強ですが、はじめて大きなつまずきを見せます。大学受験に失敗してしまい、近くの予備校に通って勉強する浪人時代を迎えてしまいました。大学の試験の出来はフィフティーフィフティーかなと思っていたので、落ちたことも納得しましたが、やっぱり悔しかったですね。浪人時代は代々木ゼミナールに通うため毎日名古屋まで通っていましたが、そこで予備校のエッセンスをとらえた授業を受け、より成績を高めていきました。キャラクターも豊かで、効果的な授業を行う予備校の先生にも、当時憧れを抱きましたね。予備校でつんだ東京大学に合格するためのトレーニングのおかげで、2年目の試験はけっこう余裕でクリアし、無事合格することができました。うちの高校からはだいたい文系理系あわせて毎年10人くらいしか東大に行かないので、1年目は行けなくてまわりに意外に思われましたが、2度目の挑戦でうまくいってよかったです。 受験というのは、長期的なコツコツとした勉強のような側面も必要だとは思うのですが、特定の大学にはいるための勉強等受験のための勉強というのはけっこう短期決戦なところがあると思います。必要な科目を勉強するのに必要最低限な時間を投資する、その中で苦手科目を克服し、得意科目を伸ばすという戦略を考える。大学受験より勉強する科目が多い公務員試験の場合も同様に、より効果的な勉強をおこなうために、どの教科にどれくらいの時間を投資して、得点をとっていくかという戦略を考えることが必要だと思います。 大学時代そういうわけで無事東京大学に合格し、はじめて東京にでてくることになりました。これまで育った地を離れ、一緒に過ごした家族とも別に暮らすことになり、はじめてで不安なところもたくさんありつつ、新しくはじめる生活への期待もまじりながらのスタートでした。東京はやはり岐阜とはなにもかも違うところで、新しい出会いや発見がありました。いまの自分があるのも東京にでてきたからだと思うし、そういう意味では幸せだなあと感じます。残り半年間の学生生活をより有意義なものにしていきたいものですね。 さて、大学時代の生活の方向性を決めたのが、はじめにあった「オリ合宿」というものでした。東京大学では、クラスわけがあって、1こ上の同じクラスの人たちがクラスのメンバーとの顔合わせのセッティングをしてくれます。その顔合わせ飲みの翌日からは、「オリ合宿」といって、いきなりクラスのみんなで旅行にいって仲良くなるという企画があって、それを1こ上の先輩がリードしてくれるわけです。合宿の夜には飲み会があって、そこで自己紹介等をしながらお互いを知り合っていくのですが、そこで出会ったある先輩と話をしたことが、ぼくの大学生活の半分を決めたといっても過言ではありません。 その人は、active programというサークルの代表をやっていました。そのサークルは、大学生であっても大学内にとどまらず、積極的に社会に価値を提供していこうというコンセプトで、勉強会をおこなったり社会人を招いた講演会を行ったり、プロジェクトを行ったりしているものでした。その代表が、これまで会ったことのないような人で、目をキラキラさせながら(笑)、アツくビジョンを語る感じで、当時のぼくにとってはとても魅力的に思えました。そのときクラスのメンバーで仲良くなった人もそれに興味を持ったのもあって、ちょっと参加してみようかなと思ったわけです。 大学といえばサークルをやりたいなと思い、ぼくはバスケットのサークルと、勉強会系の文科系サークルの2つをやりたいなあと思っていました。それでactive programが開く講演会やワークショップに参加してみましたが、とりあえずはじめの半年は、一参加者として参加する程度で、特に大きな動きもありませんでした。大きく動いたのは1年生の夏でした。 その夏、ぼくはactive programのメンバーもう1人と一緒に、「KING」というビジネスプランコンテストに参加しました。メンバーみんなで予選の課題論文を提出した結果、ぼくともう1人が受かって、6泊7日でその場で出会った6人が1つのチームを組んで、テーマに沿ったビジネスプランを練り上げプレゼンするという大きなイベントへの出場を決めたのです。6泊7日でビジネスプランを作るというのは、とても大変なことで、毎日あまり寝られませんでした。急造チームですから時にはけんかをすることもあったり、コンサルタントの方にだめだしをされたり、うまく進みませんでしたが、みんなで知恵をふりしぼってなんとかプランを完成させました。ぼくはそのとき、チームがけんかしたときに間にはいったり、プレゼン資料をみんなが寝ている中ちまちまと作ったり、陰ながらの貢献をしていました。結果として予選リーグを突破し、大舞台での決勝プレゼンまで進むことができて、とてもびっくりしました。イベント的要素が大きいこのコンテストでしたが、すごく楽しく充実した7日間を過ごすことができましたね。おかげでパワーポイントの使い方がすごくうまくなりました。とても疲れていたので、その日家に帰ってやかんの湯をわかしたまま寝てしまって、次の日熱気を感じて目を覚ますほどで、もうすこしで死ぬところでした(やかんは丸焦げ)。 そのコンテストが終わった頃から、active programにも動きがでてきました。2つのプロジェクトが始動しはじめたのです。1つは東南アジアの児童買春問題を解決するプロジェクト、もう1つは土曜日に学校とは違った学びの場をつくるプロジェクト。ぼくは教育に興味があったので、土曜学校プロジェクトに参加することにしました。そこで、プロジェクトに興味があって集まってきたいろんな大学生と出会うことができました。教員を志望している人もいればそうでない人もいて、みんな思い思い集まって、知恵をだしあっていきました。active programの顧問であり、教育を変えたいと思っている参議院議員の方にも会うことができ、いろいろアドバイスをいただきながら、土曜学校の方向付けをしていきました。紆余曲折を経て、ぼくがその冬には代表を継ぐことになり、開校にむけての指揮をとることになりました。はじめてのことだらけで何をやっていいかわからず、路頭に迷う毎日でしたが、その中で試行錯誤しながらメンバーと開校準備を進めていきました。本当にいろんなメンバーが集まっているので、意見を集約するのも大変で、けんかもよく起きるし、当時のぼくにとって見れば先輩が多いし、なかなかやりづらさを感じることは多かったのですが、その中でそれなりに鍛えられた気がします。また、プロジェクトを通じて、議員のアドバイザーの方からいろんなレクチャーを受けることもでき、大変参考になりました。開校がうまくいき、5、6人の子どもたちが参加してくれて楽しんでくれたときは、涙がでそうになるくらいうれしかったですね。 以来約1年半にわたって、代表としていろんなイベントに参加したり、コンテンツを作ったり、全体的なプランニングをしたりと、精力的に活動し、大学の勉強では得ることのできない経験をすることができました。土曜学校のいいところは、大学生というおとなと子どもの中間のような存在が、親子のタテの関係や子ども同士のヨコの関係にはいりこんでいって「ナナメの関係」を形成し、保護者・大学生・子どもがまさに三位一体となって、1つの学びの場をつくっていくというコンセプトです。各家庭にはそれぞれいろんな特徴があって、もっているものや知恵も違うし、それらをだしあって大きなパワーを生み出すダイナミズムを感じることができました。そういう実感が、教育や社会保障など、住民の生活に密着したサービスのあり方を考えるときのぼく自身の指針になり、官庁訪問でもそういう話をすることができたのだと思います。このプロジェクトがなかったら、小学生の子どもたちやその保護者の方と出会い話をすることはなかっただろうし、他大学の学生ともそれほど知り合うことができたわけでもなかっただろうし、ぼくの大学生活がからっぽになっていたと思います。本当に貴重な体験をさせてもらったなと感謝しています。この活動を通じて、またこの活動をやっていることで広がったネットワークもたくさんあいます。文科省の役人の方と出会うことが出来たのもそうだし、なにより近くに議員さんがいるというのは、政治や行政をとても身近に感じることができました。岐阜ではとてもこういう体験はできなかったでしょう。そういう実感が、自分を国家公務員へと志望させた大きな要因であると思っています。 もう一方のサークルであるバスケットのほうも、並行して精力的に活動していました。特にぼくらの代は背の高い人が少なく、ぼくは代替わりで副キャプテンになり、チームの柱として活躍しました。こちらでは、バスケットを楽しくやったり、飲み会でわいわい騒いだりなど、いわゆる大学生っぽい体験をさせてもらいました。合宿は1日中バスケをして夜は飲み会という日々が続くもので、とてもヘビーなのですがOB・OGもたくさん参加してくれて、とても楽しいものになっています。部活とは違った雰囲気のなか、初心者の人も一緒にのびのびとバスケができる場所でした。 引退してOBになってからもちょくちょく参加していたのですが、その先輩から別のチームに誘われて、大学3年の春から別のチームに参加し始めました。こっちは、一応サークルではあるのですが、うまい人が多く、練習もけっこう本格的にみっちりやる感じです。でもサークルのような楽しい雰囲気もあっておもしろいです。練習はとてもきつくて、中・高時代部活をやっていたけれどここでの練習のほうがきついんじゃないかと思うくらいでした。このチームは走ること、シュートをうつことを主体とするチームなので、ぼくとしてはついていくのが大変でしたが、おかげで体力もついたし、シュートもうまくなったし、ここまで来て自分がうまくなる成長の実感を得られたことがとてもうれしく思っています。いろんな大会にも出場し、はじめて優勝というものを味わわせてくれましたしね。いろんなバスケットのチームに所属してきましたが、やはりどのチームにもカラーというものがあって、その中でぼくが果たすべき役割というのも変わってくることをすごく感じました。5人が一体となって1つのチームができあがるわけで、各チームにおいてぼくが求められていることも微妙に違うなか、それを感じながらプレーをするというのは、社会人としてチームで仕事するときにも役に立つセンスなんじゃないかなと思います。個人的にはチームプレーだけでなく、苦しいときに頑張るとか練習によって成長を感じるとか、スポーツは最良の教材だと思っているので、これからもスポーツは続けていきたいし、自分の子どもにもやってほしいなと思っています。 以上のように、主に2つサークルに全力投球してきたので、あいにくと学校の勉強のほうはお粗末なものでした。だから、3年生の秋になって国 I の勉強をはじめようと思ったときも、一部の東大生のように自分で勉強してというのは無理だと思っていたので(はじめる時期も遅いほうですし)、予備校に通うことを決めました。それでWセミナーを選び、毎日授業があるなかとりあえずインプットをひたすら続け、年明けから渡辺ゼミを通じてアウトプットをやっていきました。はじめは知らないことが多くこなすことが大変でしたが、ゼミを通じてトレーニングした結果、3月頃から成績があがっていきました。その後も演習を繰り返し、本番では予想外に高得点をとることができ、本当にうれしかったです。まわりは早くからすごく頑張っている中で若干あせりをおぼえることもありましたが、自分のなかで効果的な時間の使い方ができたんじゃないかなと思っています。渡辺ゼミをはじめWセミナーの授業には感謝です(http://www.thefuture.co.jp/watanabe_seminar/taiken15.html)。 東京大学での省庁説明会が多いこともあり、ぼくは機会を見つけては学校の友だちと説明会に参加していました。その中で、内々定をもらった総務省を知りました。はじめは、総務省って何をしているところかまったくわかりませんでしたが、まず、三位一体改革を支えているのが総務省だということがわかりました。また、話してくれる職員の方が魅力的で楽しいことが多く、内定者の先輩とも知り合いになれて時々メールで相談にのってくれて、人に惹かれた部分は大きかったですね。最終的にはそれが官庁訪問中に志望を変える要因となりましたから、なにがあるかはわからないものです。おかげで、総務省という省というよりは働いている職員に魅力を感じ志望度が高まり、官庁訪問を通じてお互いによりよく知ることができ、「相思相愛」の関係になることができました。説明会に興味を示さなければ多分こうはならなかったと思います。きっかけはどこにあるかわかりません。読者の皆さんもアンテナを高くはって、積極的にいろんな説明会に参加してほしいと思います。 終わりに自分のこれまでの人生を振り返ってみると、多くのかけがえのない出会いがあり、さまざまな経験をすることができたと思います。まわりに恵まれていたところが大きいと思っていますが、その中でも、小さいころから何事にもやると決めたことには一生懸命取り組む姿勢であったり、いつも笑顔で明るく前向きにいる姿勢であったり、恵まれた環境を生かす姿勢が自分のなかにあったので、楽しく充実した人生になってきたのではないかと思っています。官庁訪問をする中でも、一期一会の出会いはたくさんあります。渡辺ゼミにはいって勉強している今でも一期一会の出会いはあります。それを大事にして「掴み」にいってほしいと思います。そうやって自分の可能性を広げていく姿勢がすごく大切じゃないかなと思って、ぼく自身もこれからいろんな地方であるいろんな出会いを大切にしていきながら、仕事を楽しんでやっていけたらいいなと感じるところです。ぜひ総務省の業務説明会で読者のみなさんとお会いできるといいですね。 (了) |
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