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キャリア・エリートへの道

逆境乗り越え満願成就!−ゆりかごから霞ヶ関まで−

はじめに

 僕は2005年7月、厚生労働省から内々定を頂くことができた。幾重もの紆余曲折を経たが、今こうして無事に内々定まで辿り着くことができ、心底ホッとしている。思えば僕には内々定に際して不利な条件が多数あった。

 まず年齢。僕は2005年に25歳になる。特に留学や大学院に通っていた、などという格好のつく理由も一切ない。気がついたら3年ほど寄り道をしていただけである。

 次に最終合格順位。公言するのは少々憚られるが、法律職480人合格中約360番。法律・経済・行政区分内定予定者を遥かに逸脱する順位だ。渡辺先生にも常々50番以内を目指し、内々定に有利な状況を作るように、との指導を受けており、合格発表当日に順位を知った瞬間は生きた心地がしなかったのを覚えている。

 そして僕の大学。東大ではない。実際に大学名が重要なのかどうかは定かではないが、受験当時はやはり少なからずコンプレックスを抱いてはいた。この文章を読んでくれている受験生諸君の中にも、国 I といえば東大法学部が有利なのでは?という偏見を持っている方はいらっしゃると思う。僕が官庁訪問を終えて率直な感想を言うと、昔ほど東大偏重ではないだろうが、一切関係ないわけでもない印象である。ただ今さら自分の大学についてどうこう言っても始まらないので、東大生は東大生としてその身分を誇ればいいだろうし、東大生以外の人はそのハンデ(?)を乗り越える(試験で高得点を取る、etc)ためのモチベーションにすればいいと思う。

 最後に、載せるのは自粛しようとも思ったが、ひょっとしたらこれと同じ又はこれに類似した状況の受験生がいるかもしれないので、彼らの不安を解消する意味も籠めて載せようと思う。

 僕には前科がある。といっても傷害や窃盗などといったいわば凶悪犯罪の類ではない。所詮スピード違反ではある。しかし速度超過の程度が尋常ではなく、行政処分のみでは済まない状況であった。少々のスピード違反とは比べ物にならない額の罰金を納め、当然即免停。そして裁判所から召集され、検察官に「事実関係に異議がおありなら公開法廷にて調整することになります。異議がないのでしたら略式裁判の手続きを採らせていただきます」と通告される。その場で恐る恐る「これは前科になるのですか?」と尋ねると、はっきり「なります」と。同時に「前科とはいっても世間一般に言う前科とは意味合いが異なりますので公安関係以外の就職には一切影響しないとは思いますよ」と半ば慰めとも受け取れるような言葉も頂いた。その当時から公務員を目指そうとしていたこともあり、頭の中が真っ白になった記憶がある。公務員を志そうという人間がスピード違反を犯していることにそもそもズレがあるのではあるが……。

 このように、今挙げたものでも4つ不利な要素が考えられた。よって僕はここまで辿り着ける自信は正直無かった。これを乗り越えることができたのも、現在の採用活動が人物重視の色合いを濃くしてきているという幸運、官庁訪問当時の僕の性格が担当面接官とうまく合致したという幸運、これまで何気なく生きてきた24年間の環境・経験が、幸い僕が官僚として生きていく土台を形成してくれていた、などという幸運が重なったからこそだと思う。そして、僕が試験勉強を乗り切るために直接的なサポートを賜った渡辺先生はじめ、多くの人々のおかげだと切に思う。僕ほど周囲の環境に恵まれた人間はいないと思う。この場を借りて、あらためて感謝の意を表したい。

 先日、その渡辺先生よりキャリア・エリートの執筆依頼を頂いた。僕は正直文章に自信があまりないので、10000字を悠に超える長文が書けるか不安であった。しかし、渡辺先生のおっしゃる「キャリア・エリートへの道」の企画の趣旨に賛同したことと、自分の半生を文章にして残す、ということにも強い興味をもったため喜んで引き受けることにした。

 これから、薄れゆく記憶を辿りながら、今の自分の人格に多少なりとも影響を与えたと思われるエピソードを交えながら半生を語ってみようと思う。

生い立ち

 僕は福岡市で、現4人兄弟の長男として生まれた。1歳の時に父親の仕事の関係で宮崎に引越たため、福岡に住んでいたときの記憶は残念ながら無い。ただ福岡に住んでいる祖母はじめ母方の親戚には、毎年1〜2回の福岡帰りの度に非常によくしてもらっていたので、物心ついた頃から里帰りが楽しみで仕方なかった。

 現在に至ってもその思い出が色褪せることはなく、今でも福岡に帰ることは非常に楽しみである。20年前と比較して体力的に衰えた感の否めない祖母に毎年会いに帰ることも当然のようになっている。今回の内々定報告で一番喜んでくれたと思われるのがその祖母である。内々定を勝ち取ってもちろん自分も嬉しいのであるが、このように自分以外の関係者に喜びを与えることもできるし、そのことによりまた自分も嬉しくなる。来年また同じような思いをする受験生が1人でも多く出てくることを強く願う。受験生は息抜きついでにこの文章を読んでくれているものと思うが、合格・内定目指して是非妥協なく頑張って欲しいと思う。

幼少時代

 僕の幼少時代は、一見女の子と見間違えられるほど美貌であったらしい。また、人見知りする性格だったらしく1人では外に出ることができず、いつも家で折り紙をしたり積み木をしたりして遊んでいた。基本的に外に出なかったのでかなり色白で、この点も美貌だと言われていた1つの要因だったものと思われる。

 もちろん一切外に出ないわけではなく、親と一緒ならば平気で出ていた。要するにかなりの甘えん坊だったわけだが、好奇心だけは極めて旺盛だったようである。好奇心旺盛な性格は今も変わっていない。というかむしろ磨きがかかっている感がある。

 4歳からは近くの幼稚園に通った。まわりが知らない人ばっかりで不安いっぱい、毎日通うのが辛かった覚えがある。幼稚園教育の一環か、お絵かきの時間があったのだが、僕は毎回絵ではなく配られた紙にびっしり漢字を書いていた。このことがどうも先生達の間で問題になっていたらしく、ある日僕は担任に「漢字ではなく絵を描くように」と注意された。幼稚園時代はまだ先生の言うことをちゃんと聞くいい子だったので、しぶしぶながら絵を描く努力はした。しかし何を描いても見られたものではなく、僕には美術の才能は皆無だったようだ。当然今も変わらない。

 僕がなぜ4歳の頃から漢字を書いていたかというと、僕は相撲が大好きな子供だったのである。当時は千代の富士時代だったのであるが、幕以上の力士は全部覚えていたようで、お絵かきの時間に書いていた漢字もだいたい力士の四股名である。よって、天才児であったわけでは一切ない。

小学生時代

 小学生時代といって特にエピソードは思いつかないが、集団生活に慣れ始めてからは幼稚園時代の人見知りの性格から一変非常に積極的な性格になり、クラスの皆とよく悪ふざけなどして遊ぶようになった。時には度が過ぎて内気な女の子をいじめて泣かしたり先生に殴られたりもしていた。関東地方のいわゆる都会では俄かに信じられないかもしれないが、地方(少なくとも宮崎県)はある程度の体罰は普通に行なわれていた。僕ら児童達も悪いことをしたり先生の言うことを聞かなかったりしたらひっぱたかれるのが当然だと思っていたし、誰1人としてそのことに疑問を持っていなかった。こちらのように親が学校に怒鳴り込むなんてことは考えられなかったし、むしろ親に言いつけたら怒鳴り込むどころか、「あんたが悪いでしょ!」と言ってさらに叩かれたであろう。

 このような風習は時代錯誤である、という見方が現在は主流なのかもしれない。しかし僕は、以前に比べて子供が甘やかされて育つ比率が上がった結果が今の日本の活力減退に少なからず影響している気がしている(少々論理飛躍があり、かつ偏った見解なので賛否両論あるとは思います)。子供がかわいくて仕方のないのもわかるが、子供が叩かれた事実だけを以て怒鳴りこむなどといういきすぎた親バカが、最終的に子供に悪い意味で返ってくる可能性があることを認識して欲しいと思う。

 だいぶ話が逸れたが、要するに僕はしょっちゅう叩かれながら育ってきた、ということである。今の打たれ強い性格はこのような小学生時代に起因していると思う。

 話は変わるが、我が家は家族で昆虫採集をすることが趣味であった。僕の幼稚園時代はまだ弟が生まれておらず、家族も少なかったためそこまで盛んではなかったが、3番目が物心ついた頃からは3兄弟と両親で毎週のように色んなところで昆虫採集をしていた。時には泊りがけでキャンプを張りながらの遠征もしていた。この昆虫採集はかなり本格的で、標本には5000円程するドイツ式標本箱を使用していたし、前線で走り回る母親以外の4人は10メートル近い昆虫網を振り回していた。山の奥深くまで浸入するため、多少の危険も伴う。蛇に噛まれたことはないが、ムカデや毛虫に刺されることはしばしばあった。また、スズメバチに刺された気の毒な御人もいた。額を刺されたのだが、刺された直後は直径5cm近く腫れていた気がする。近くに病院もなかったので、3兄弟が小便をティッシュに浸して額にテープで張り付ける、という応急処置を施していた。当の刺された本人は、周囲の心配をよそに何事もなかったように網を振り回し、スズメバチが再来したら血相変えて捕獲し、復讐を楽しんでいた。

 そういうわけで我が家は昆虫に対して、世間一般の人たちが抱くような嫌悪感は一切なく、むしろ親しみすらある。最近も電車に迷い込んで来た蝉を捕獲して次の駅まで親切にお連れしたところである。まわりの視線は冷たい気がしたが。

中学・高校時代

 上述のとおり、僕の育ってきた地域は宮崎県である。宮崎県においては、中学受験というものが存在しない。存在しないわけではないらしいが当時の僕は、受験は高校からだと思い込んでいた。そういうわけで小学校時代は勉強らしい勉強を一切やった覚えがなく、毎日のように野山を駆け回って遊んでいた。なんの考えもなく地元の公立中学校に進み、ここでも中学2年までは遊びまわっていた。3年になると周囲も「受験、受験」と騒ぎ始めたためか、僕もそれなりの対策を講じた覚えがある。そして第1志望の高校に進学できた(倍率はほんの1.5倍で今思えばなんと楽な競争だったのか、と思う)。

 僕の進学した高校は一応県でも有数の進学校だったのだが、入った当初は試験順位もなかなか健闘していた。しかし2年の中期頃の失恋あたりを境に順位も急転直下を辿り、一時期94人中90番あたりまで沈んでいた。だからといって落ち込んでグレていたわけでもなく(もちろん失恋直後は落ち込んだが……)、非常に楽しい高校生活を送っていた。大変長い停滞期間を経て、3年の後半にようやく危機感が芽生えてきたようで順位もだいぶ持ち直しはしたが、結局志望大学には合格することができず浪人することになった。

浪人時代

 僕は駿台福岡校で1年浪人した。当時宮崎には著名の予備校はなかったため、大手予備校のある福岡で、寮に入って予備校に通った。浪人期間中、僕は生まれて始めて勉強らしい勉強をした。特に前半はすごかった。生まれて始めて授業の予習・復習をし、授業後も積極的に先生に質問を繰り返した。このため当然のように前期の成績は順調に伸び、志望大学へまっしぐらといった感じであった。しかし、当時の僕の精神力で1年間も集中力が続くわけがなく、秋学期が始まった頃にちょっとしたきっかけから麻雀を習得。また、毎週末はサッカーに興じるようになり勉強時間は春学期の半分程度に落ち込んだと思われる。週末のサッカーについては運動不足の解消という観点から考えると必ずしも負の効果のみだったとはいえないが、麻雀は……。とはいえ今このことに関して何の後悔もしていない。当時の僕なりに精一杯やったのではないか、という風に思うようにしている。

 浪人時代に忘れられない出来事といえば、長年ファンだったダイエーホークスが41年ぶりに日本一に輝いたことである。優勝を決めた試合では、友達3人で連れ立ってキャナルシティの大型ビジョンの前で福岡市民とともにその瞬間を楽しんだ。寮は門限8時半だったが、策をめぐらし、その日は一晩中騒ぎ明かした。川にも飛び込んだし、楽しい思い出であった。そのダイエーは昨年経営不振からソフトバンクに球団を身売りしてしまったが、球団の形が変わらずホッとしている。

 結局第1志望だった某国立大学に受かることはできなかったが、総じて満足している。このような浪人生活ではあったが、友達など周囲の環境には非常に恵まれていたと思う。このときに知り合って今も続いている友達は皆人間がしっかりしており、やるときはやり、抜くときは抜き、変に飾ったところもなく、話していて刺激的な人間ばかりである。戦友というのは絆が深いという話を聞いたことがあるが、そのような側面もあるのかもしれない。

 国 I 受験中に知り合った友達も戦友ということになる。この先よい関係を築いていくことを楽しみにしている。

大学時代(前半)

 慶応義塾大学総合政策学部に入学した僕は、一応希望に胸を膨らませながら(?)大学の門をくぐった。サークルは予備校時代の友達と共にサッカーサークルに入った。最初は、あまりサッカーのプレイングスキルがたいしたことなかったこともあり、影の薄い存在だったと思う。

 入学当初、希望に胸を膨らませていた割には特にやりたいことも見つからず、ただダラダラ淡々と毎日を送っていた。まだ自分の将来に対して深く考えていなかったし、そもそも物事を真剣に考えることができない精神年齢だったのだろう。

 こんな状態がかなりの期間続き、その期間はアルバイトやサークルの毎日であった。バイトは、塾講師・家庭教師・駅の改札・ラーメン屋・居酒屋・印刷会社で年賀状のレイアウト作成・パチンコ屋等々色々やった。それぞれにエピソードはあるのだが、分量のバランス上今回は割愛させていただく。

 アルバイト以外で特筆すべき経験としては、ある宗教団体での話がある。ある宗教団体とは、町田近辺で活動している学生主体のサークルのようなものである。最初は「バレーボール、バスケットボール、サッカーなどを毎週やっているサークルだよ!」という文句で勧誘された。それに間違いはないのだが、“など”の部分が大いに問題である。表向きの活動はスポーツなのだが、そのうち「聖書の勉強会やってるんだけど来ない?」と誘われる。僕は誘われたときには既にその団体が宗教系だということには気がついていたのでうまくかわし続けていたのだが、どうも僕を除く全員がその勉強会に参加していたらしい。そして多くの人が日曜日のミサにも参加していたらしい。

 さて、宗教だということがわかってるのなら即刻辞めればいいことなのだが、スポーツ自体は楽しかったし、彼らとの押し問答もまた楽しかった。宗教といえば聞こえは悪いが別に僕に何の害もなかったし、彼らの言うことに理解不能なことは多々あったが、それも彼らなりに正しいと思って言っているわけで、そこには僕を騙そうという意識は感じられなかった。むしろ僕のためを思っていっている節すらあり、宗教というものを直に感じて考えさせられることは多かった。世の中には宗教戦争などの宗教をめぐる対立が存在するし、宗教を持つ国家も多い。ある宗教の本質にかかわることに関してはおそらく理屈は通用しない。彼らとの押し問答を通じて、宗教を持つ人間の思考体系のようなものを感じることができた。

 もちろん宗教には悪い部分ばかりではない。宗教というものは、信者の支えである。人間誰しも何かにすがりたい心境になることはあるだろう。そのような時に教義や神は心のよりどころとなるだろう。どんな宗教であれ宗教を持つ人は無宗教の人よりは気分的に安定する薬を持っている点で好ましいと言えると思う。

 当然、殺人を正当化するような宗教を肯定しているわけではない。宗教全て悪だと思いがちな風潮を疑問に思っているに過ぎない。この点付け加えておく。

インド旅行

 僕は4年の夏休み、サークルの後輩のマネージャーの誘いでインドとネパールに行った。このときの体験記をすべて書くと、それだけで本が1冊できてしまうことになるので、かなり割愛して書く。

 まず印象的だったのが、カーストによる差別である。近年カースト差別はなくなる傾向にある、とどこかの本に書いてあった記憶があったのだが、実際インドに行ってみるとそういうことは全く感じられなかった。それを感じた出来事を2つ挙げる。

 バラナシというヒンドゥー教の聖地での話である。僕ら一行が泊まっていたところはガンジス川の畔だったのであるが、僕はよく付近に住む民と遊んでいた。ガンジス川の対岸に、若干ボロい集落が見えたのだが、ある1人に「あそこには何かあるのか? どうやって行くのか?」と尋ねたところ、彼は「あんなところに行く? 何を言ってるんだ! あそこにはカーストにも入れない人間が住んでいるんだぞ! 行っても何もいいことはない」と結構ムキになっていた。世界史でインド史を勉強したときにカースト外の身分があることを思い出したが、しかしそこまでムキにならなくても……、と感じた。

 もう1つ、同じくバラナシでの体験である。ある日僕は子供とバドミントンをしていた。その最中、近くで仲間に入りたそうな目でこちらを見ていた子供を発見した。僕は「やりたいなら一緒にやろうよ!」と誘った。次の瞬間、一緒にバドミントンをしていた子供が「NO!」と叫んだ。僕は驚きつつ理由を尋ねた。彼が言うには、「その子は僕よりもカーストが低い。そういう子供とは遊べない。もし遊んだらお父さんにしかられる」とのことであった。その子供はまだ小学校低学年くらいだった。そんな年の子供すら差別意識を持っていることにはかなり衝撃を受けた。

 カースト以外に印象的だったのが貧富の差である。これはどの街でも同様だが、ものすごい広さの敷地と大邸宅を持つ富豪がいる一方、大多数の貧困層がいる。貧困層の中にも差はあって、運送業を営みながら少しでも多くの運送料をぼったくりつつ提携している日本人向けの御土産屋に連れて行くことで中間マージンを得る、といった稼ぎ方をしている人がいたり、子供に熱湯をかけて火傷をさせて同情心に訴えつつ物乞いをさせる人がいたりする。色々な市民がいたが、皆に共通することは生きるために一生懸命であったことである。国が豊かで、何もしなくてもある程度なんとかなる日本人は、僕も含めてこのようなハングリー精神が明らかに欠けている。国が豊かだから仕方のないことかもしれないが、今の状態だと国の成長はなかなか難しいのかなぁ、と思ってしまう。しかし、学校も行かず、仕事もせずにダラダラと生きている人たちにも彼らの生活を見てもらいたいと思う。きっと何か思うことは有ると思う。僕は彼らの生き方を見て、自分が恵まれていることを痛感し、大学入学以来の適当な生活を考え直し、自分の生き方や将来のことを真剣に考えるようになった。

試験勉強

 インド旅行を経て、物事を真剣に考えるようになった僕は、公務員を目指すようになった。インドから戻ってきた時期は、ちょうど就職活動が始まる頃であった。仕事を選択するに当たり、自らが安定した生活を送るため、という基本的な動機に加え、その仕事が何になるのか、その仕事が世の中でどのように役立つのか、ということを考えた。この先何10年も仕事をしていくためには、自分自身がその仕事にやりがいを持つ必要があると考えたからだ。僕は、暗い雰囲気の漂う日本の現状を感じ、これをなんとかよくする仕事をしたいと思った。それには1人でも多くの国民が安定した生活を送れるような制度を構築することが重要である。幅広い分野において現状で最適な制度を熟考し、それを実現することは、民間企業では決してできないと考え公務員を目指すことにしたのである。

 僕は最初、W(早稲田)セミナーの国 II ・地上コースに入っていた。試験勉強の開始が10月と遅かったし法学部でもないため、とても国 I には届かないと思ったからだ。しかし、勉強が進んでいくにつれ、意外と手応えを感じ始め、年が明けた頃には完全に国 I にシフトチェンジしていた。そして1次試験もまぐれもあるだろうがかなりの高得点(今年よりも10点以上良い点数)で突破した。しかし、もともと国 II コースだったこともあり、渡辺ゼミの存在を知らず、というか渡辺先生の存在自体知らなかった。この時渡辺ゼミに入っていればまた結果も違っていた可能性はあるが、結局2次対策(特に教養論文対策)が満足にできず、2次落ちという結果であった。

 しばらく身の置き方を考え、親にもいい加減にしろなどと散々文句を言われた末、再受験を決意するに至った。再び勉強を始めたのは11月に入ってからである。それまでは一生懸命生活費を稼いでいた。勉強再開当初はだいぶ忘れていたが1年間の貯金がモノを言い、1次試験は問題なく合格した。点数的には危なかったが、想定しうる最低点が出ただけで、特に問題なかったと思っている。受験生の皆さんには試験勉強をする際に、最も悪い点数が出たとしても合格できるだろう、というくらいにまで学力を上げておくことをお勧めする。そうすることで精神面において他の受験生に優位に立つことができると思う。

 問題は2次試験〜官庁訪問である。特に官庁訪問は去年経験していない未知の領域であり、始まるまでは少なからず不安はあった。2次試験は去年経験しているだけあって、少しは感じをつかめてはいたが、合格していたわけではないのでこちらもまた不安はあった。しかし2次試験に関しては、幸い今年は渡辺ゼミに II 期から参加しており、対策も万全にできたと思う。おかげで最終合格まで辿り着くことができ、厚生労働省に内定をもらうこともできた。

 合格した瞬間は、嬉しい気持ちよりもホッとした気持ちの方が大きかったのを覚えている。冒頭に述べたように僕は席次も悪かったし、既卒(当年3月卒業)だし、年齢もまわりより若干上だったため、内定を勝ち取るためには不利であると思われる要因だらけであった。そのため官庁訪問開始前は、内定を勝ち取った自分の姿を想像することが困難だった。内定をもらえなかったことを考えると、その後どうするのか非常に厳しい状況だったので、実際内々定が出たときは心の底からホッとした。そして徐々に、自分が努力してきた過程を回想していく中で、苦労が報われたことについての喜びが込み上げて来た。私が24年間生きてきた中で、間違いなく最高に努力した期間だったので、その分喜びもひとしおであった。同時に試験勉強中に私を支えてくれた家族・友人らの顔が頭に浮かび、感謝の気持ちと、期待に応えられたことに対する安心感でいっぱいであった。

最後に(受験生へのメッセージ)

 1次試験から内々定まで、精神的・肉体的にきつい日々が続きます。ガムシャラにやることも必要ですが、長丁場の中、たまには家族や友人と息抜きをすることも必要です。試験が近づくにつれ、日に日に追い込まれた心境に陥っていくと思います。その時期にどれだけ平常心で、かつ自分を信じて勉強できるかで勝負は決まると思います。Wセミナーは、学習面での指導体制だけでなく、勉強に行き詰まっている受験生を精神的にサポートする体制が整っています。これらを有効に利用し、最終合格・内定を勝ち取るため最善を尽くして頑張って下さい。以下に僕が皆さんにとって有効だと思うアドバイスをいくつか書きます。

 まず、業務説明会に積極的に参加することです。試験本番までまだ期間がある時期は危機感があまりなく、モチベーションの維持が難しい状況だと思います。その時に役に立ったのが人事院や各省が主催して開催されていた業務説明会でした。この業務説明会は10月頃から定期的に開催されるもので、それぞれの省庁の第一線で活躍されている方々の生の声を聞くことができる貴重なイベントです。私はこのイベントを積極的に利用することによって、業務内容を知ると同時に、自分が当省で働いている姿をイメージし、その後の試験勉強のモチベーションにしていました。自分の見識を広めるためにも様々な分野の様々な人の話を聞くことは、非常に貴重な体験だと思います。各省庁の業務説明会で得た見識は今の私にとって貴重な財産になっています。

 業務説明会には、自分の興味のある省以外にも積極的に参加すべきだと思います。なぜなら省ごとに存在するカラーというものを感じることで、自分に合う省が実は別のところにあった、ということを感じることがあるでしょう。またある問題に対して、省によって違う見方をしているものもありそういった意味である物事に対して多面的な見方もできるようになると思います。

 もう1つアドバイスをすると、当然といえば当然なのだが、友達を大事にすることです。受験全体を通して感じたことは、友達の大切さでした。大学の友達などは私の気分転換に付き合ってくれたり、落ち込んだときには相談に乗ってくれたりしました。また公務員の勉強をする中で知り合った友達とは、試験・官庁訪問の情報を交換したりするなど、お互いの合格を目指し切磋琢磨していました。彼らの存在なしには最終合格・内定もなかったかもしれません。試験が近づくにつれ徐々にあせりはじめ、余裕もなくなってきがちですが、そんなときこそ友達とお互いを励ましあうことが必要だと感じました。

 この文章が皆様の役に立てるとは思いませんが、能力のある人材が1人でも多く霞ヶ関に集まり活気ある日本が取り戻せることを切望しています。霞ヶ関よりみなさんの健闘を祈っております。

(了)

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