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キャリア・エリートへの道

3年間の就職活動で得られたもの

1.はじめに(読者に伝えたいこと)

 私は今年度3回目の受験にして国家公務員 I 種試験(法律職)に合格し、官庁訪問を経て、幸いにもある官庁から採用されました。晴れて来年の4月から霞ヶ関で働くこととなります。私が他の合格者ともっとも大きく異なる点は、この試験に「3回挑戦した」ことだと思います。私のまわりで3年間も国家 I 種試験のために勉強し続けた人はいません。たいていは遅くても2回目の試験で合格します。2回で受からない受験生はあきらめて他の進路へ進みます。私は2回落ちても、諦めずに国家 I 種受け続けることを選択しました。その理由は、「どうしても I 種の霞ヶ関(官庁訪問)に挑戦したかったから」です。霞ヶ関へ官庁訪問する権利を得るには国家公務員 I 種試験に合格しなければなりません。私はその官庁訪問への切符を手に入れるまでに3年間(学部4年生〜大学院修士過程2年生)かかりました。私は国家 I 種試験だけを見てきたわけではありません。国家公務員 II 種試験、地方上級試験、そして幅広く民間企業(マスコミ、商社、金融、鉄道など)も受けました。国家 I 種試験を目指しながら、これほど幅広く就職活動を経験した学生はそうはいないと自負しています。様々な業界を見ていながらなぜ私がここまで国家 I 種に執着したのか。なぜ3年間も試験勉強を続けるモチベーションが続いたのか。本稿では以上のようなことを踏まえながら自分の体験を書きたいと思います。本稿を読んで、国家 I 種を目指す受験生はもちろん、進路に悩む学生、またはそのご両親にも参考にしていただけたらと思っています。

 もちろん本稿は1人の学生の思ったことを綴ったにすぎませんので、共感しがたい部分も多いかと思います。しかし、少しでも多くの人のお役に立てればと思っています。

2.家庭環境について(何も言わない両親)

 国家 I 種に合格したことにとどまらず、私がここまで成長できた最大の要因は家庭環境にあったと確信しています。家族、特に両親なくして今の自分の成長はありえません。両親には感謝してもしきれないほどの気持ちでいっぱいです。これから一生かけて恩返ししていきたいと思っています。

 私の家族は父、母、自分、弟、妹の5人家族です。父はサラリーマン、母はパートとして保育所で働いています。絵に描いたようなごく普通の家庭です。私の家では昔から父も母も「勉強しろ」など小言を言うことはほぼ皆無に近いほどありませんでした。何か欲しい物があると、たいていは買ってくれました。そんな家庭環境で私は甘やかされて育ったのかもしれません。大学も私学の大学院まで行かせてもらい、6年間1人暮らしをさせてもらいました。学部時代の4年間は体育会の野球部に所属していたため、ほとんどアルバイトもせず、莫大な額の仕送りを受け取っていました。

 幼少の頃はそのような家庭環境を当然のことと思い込み、わがままな子供であったように思います。記憶をたどると、今ではとても恥ずかしくて言えないようなこともたくさんありました。しかし、中学生の後半ぐらいから私の心境に徐々に変化が生じました。両親の「何も言わない姿勢」に逆にプレッシャーを感じるようになったのです。「好きなようにしなさい。けれど、つまずいたら私たちはもう知りません」といったような両親からの無言のプレッシャーを浴びせられているような気がしてなりませんでした。そのように感じるようになってからは、私は本気で自分の進路、将来について考えるようになり、勉強にも意欲的に取り組むようになりました。ここが私の人生の分岐点だったように思います。甘い家庭環境に流され、努力を知らない人間になってしまっていたら、今の自分はないと思います。中学生のとき、両親の私に対する「本当の気持ち」をわずかながらも考えることができたことが、その後の私の人生の方向性を変えました。この両親の私に対して抱いていた「本当の気持ち」をきちんと理解できるようになってきたのは、実はつい最近のことです。このことについては本稿の後半で詳述します。

3.幼少期〜小学校(健康優良児)

 前述したように幼少期の私は、わがままな子供だったように思います。自分の思い通りにならないと度々機嫌を損ねて両親を困らせていました。ただ、自分で言うのもなんですが、私はなぜか勉強もスポーツも幼少のころはできるほうでした。それはおそらく両親が積極的に私をいろいろな所へ連れて行ってくれたり、本を読んでくれたりしたからだと思います。幼少期から小学生時代はそのような「貯金」のおかげで他の子に劣等感を覚えることはありませんでした。しかし、そこで変な「おごり」が生まれてしまい、後の私の人生に重くのしかかることとなります。

(1)勉強について

 勉強はほとんど特別なことをしていたわけではなかったのですが、成績はクラスで上のほうでした。それで私は「自分は勉強ができる」と勝手に勘違いしてしまいます。この勘違いが後の人生に痛いほど重くのしかかります。小学校の段階で勉強ができるかできないかは、その時点では将来にほとんど関係ないと思います。ただ、「机に向かう習慣をつけておくこと」と「努力ができる人間になること」の2点の礎は小学校、あるいはもっと幼少のときにあると思います。この2点がその後の人生を大きく左右すると思っています。残念ながら私は上の2点とも、少なくとも「勉強」の分野では幼少期に培うことができませんでした。それは自分で自然に培うこともあれば、家庭環境によって培われる場合もあると思います。私は「自分は勉強ができる」と勘違いしてしまったため、客観的にはわずかの勉強量でも、主観的には「自分は勉強をしっかりしたのだ」という「ずれた満足感」を得るようになりました。その結果、他人より勉強の「量」をこなすことができなくなり、たまたまあった幼少からの「貯金」を切り崩しながら大学受験まで迎えることになります。

(2)野球との出会い

 昔から父が野球中継を見ることが好きで、よく中日戦(地元が岐阜県なので)をテレビで見ていました。その当時、中日ドラゴンズの4番バッターであった落合博満選手の背中に憧れ、野球に興味を持つようになりました。彼は現在中日ドラゴンズの監督を務めています。私は現在でも熱烈なドラゴンズファンです。夜中のスポーツニュースを見てドラゴンズ戦の結果に一喜一憂するのがプロ野球シーズン中の私の日課です。現在の中日がより好きなのは、落合が監督をしているからでもあります。彼は「オレ竜」などと暴君のような言われ方をしていますが、私には彼はかなりの智将に見えます。自分の中では理想の指揮官像です。なぜそう思うかについて語りだすとそれだけで原稿が終わってしまうのでここでは割愛します。端的に言うと、彼は野球の「采配」がうまいのではなく、選手の「士気」を高めることに長けていると思います。私が将来部下を持って働くようになったときには彼は是非とも参考にしたい人物の一人です。

 前置きが長くなりましたが、私は以上のような経緯で野球に興味を持つようになりました。そして、近所のある友人に誘われたことをきっかけとして、小学校3年(9歳)から地元の少年野球チームに所属しました。なんとなく始めたのですが、この野球が私のその後の人生の強力な「軸」となります。精神面、体力面、人間関係など、すべて社会で必要な能力を野球で培っていきます。最初はなかなかうまくできませんでしたが、すぐに慣れ、小学校4年にはチームの4番になっていました。そのまま野球にのめりこみ、6年生まですごしました。小学校の野球部では精神的な部分よりも基礎体力の向上が収穫でした。学校を休まない健康児になりました。

4.中学校時代(両親からの無言のプレッシャー)

 中学校でもそのまま野球部に入部しました。ただ、学年別でチームを編成していた小学校とは違い、中学校では3学年合同であったため上下関係のいろはを学びました。野球部の活動はありましたが、勉強では中学校でも苦労した覚えはありません。塾には通っていましたが、学校から帰ると遊びに行くというのが日課でした。2年生までは期末試験前日も勉強せず釣りに行っていたことを覚えています。それでも学年では常に10番以内の成績はキープしていました。まだ「貯金」に余裕があったからです。

 しかし、中学の後半になり、高校受験がちらつき始めると心境に変化が生じてきました。成績は上位だったのものの、勉強に意欲的になる周りの友人を見て何も意識が変わらない自分に不安を感じるようになったのです。相変わらず両親は私に何も言いませんでした。友人たちは家で親に「勉強しろ」としつこく言われると口々に言っています。しかし、私の両親は勉強のことについては一切何も言いません。その姿勢に私は徐々に違和感を抱くようになります。その違和感は私へのプレッシャーへと代わっていきました。「ここでがんばらなくては両親に突き放される」という恐怖感におそわれました。そう感じるようになってからは意識的に勉強に取り組むようになりました。ただ、幼少期から机に向かう習慣がなかった私は、短時間の勉強量で満足してしまう(集中力が切れる)性格だったため、そこまで勉強の時間量が増えたわけではありませんでした。それでも、危機感を持って取り組んでいたおかげで成績は上昇し、3年生のときには学年1位を取ったこともありました。入試の模擬試験を受けたところ、志望高校で成績上位に名前を載せることができ、再び私は「自分は勉強ができる」という錯覚に囚われてしまいます。高校受験もこの勢いで乗り切り、無事地元の進学校に合格しました。幼少の「貯金」をすっかり使い果たしたとはつゆ知らず、楽しい高校生活に思いを馳せていました。

●リーダーになることへの快感

 私は昔から人から注目されることが好きでした。小学校の頃はみんなの前でバカなことしたり、言ったりして笑わせるひょうきんな子供でした。中学でも目立ちたいという性格は変わりませんでした。しかし、人を笑わせることだけでなく人の前に出ることにも快感を覚えるようになっていきます。中学2年生の時にはじめて学級委員を務めました。3年のときには選挙に立候補して生徒会に入りました。この頃から、リーダーとなって自分が組織の先頭に立って物事を動かしていくことにやりがいを感じるようになってきました。これが私の国家T種を目指した原点です。

5.高校時代 (大変身、そして勉強でははじめての挫折)

(1)激ヤセして人生が変わる

●自分に自信がない

 私は希望に胸を膨らませて高校に入学しました。私の通った高校は私の実家からおよそ15km離れており、自転車で1時間以上かかる距離にありました。なぜそんなに遠くの高校をわざわざ選んだかというと、その高校が私の通える範囲では上位の進学校であったということが一つの理由としてあったのですが、もう一つ大きな理由がありました。それは、私がそれまでの幼、小、中の10年間、まったく同じメンバーで同じ田舎の学校に通うという環境にあり、新しい友人、新しい地域へ飛び込んでいきたかったからです。また、それまで定着してしまった自分の「キャラクター」というものを思い切って刷新したいと思っていたからでした。私は中学の頃の自分があまり好きではありませんでした。男子からはおもしろいやつということで、多少人気があったかもしれませんが、女子からはほとんど相手にされていませんでした。むしろ敬遠されていたような気がします。当時の私は今の姿からはとても想像できないほど太っていました。私の中学の卒業写真を見て私と判別できる人はまずいないと思います。身長が今より10cm以上低く、体重は今より10キロ以上ありました。野球はやっていましたが、とにかく食べる量が半端ではありませんでした。医者にこれ以上太ると内臓に負担がかかるから食べる量を控えなさいとも言われるほど不健康な体型でした。そんな体型に加え、当時の私は度のきつい黒ぶちの眼鏡をかけていました。近視用の眼鏡ではなく矯正用の眼鏡でした。今の私の姿を知る方々はその姿を想像しがたいと思います。そんな姿で、かつ幼稚な行動をとる私に女生徒とたちは引いていたのだと思います。私も中学生となって、思春期に入ると人並みに人を好きになったりもしました。しかし、とてもそれを相手に告白しようとか、積極的になることができませんでした。当時の私は勉強以外のことについては自分という人間にまったく自信がありませんでした。とにかくこの体型を何とかしなければ一生この状態から抜け出せないと危機感を感じていました。それで様々なダイエットに挑戦しました。しかし、一向に効果は現れず、ストレスがたまってむしろ太る一方でした。現在私はダイエットを考えることはほぼない生活を送っていますが、ダイエットのつらさは今でも痛いほどわかります。今までダイエットを経験したことない人には分からないと思いますが、人間の欲求の中で最も我慢することが苦痛なのは、ずば抜けて「食欲」だと思います。食欲が満たされないと体に力が入らず、ストレスがたまり、全てのことがうまくいかなくなります。

 私はそこで高校に入ったらもっと本格的にダイエットをして、自分に自信が持てるようになろうと心に誓っていました。しかし、これまで様々なダイエットに挑戦してきたにもかかわらず脱落してきていたので、今度はどんな方法を試せばよいか途方にくれていました。しかし、入学して1ヶ月もたたないうちにこの悩みは吹き飛ぶことになります。

●部活動と長い登下校が最良のダイエットに

 私は、入学してすぐ硬式野球部に入りました。それまで続けてきた野球を高校でもやりたいと素直に思っていたからです。入部してすぐ待っていたのは、キャッチボールではなく、雑用とひたすらの筋力トレーニングでした。毎日毎日、走らされ、腕立て、腹筋、スクワットなど器具なしでできるトレーニングをグラウンドの端で列に並ばされてひたすらやりました。体力には自信のあった私ですが、あまりにも中学校の野球部と比べるとハードであり、上下関係も厳しいので、慣れるまでは本当につらかったです。偏見かもしれませんが、私は今でも高校野球を3年間続けたという人に対しては、その高校の野球部が強いか弱いかにかかわらず一目置きます。高校野球は3年間休みもほとんどなく、仲間とともにグラウンドに通い続け、ハードな練習をする世界であると実感しました。しかし、高校野球は人生で大事な3年間の青春を費やすに十分の価値があり、私自身もはしくれながら高校野球児として仲間達と日々汗を流し、本気で甲子園を目指した一球児であったことは今でも心から誇りに思っています。この経験は一生私の財産となり、糧となることは間違いないと思っています。

 このように、日々の部活動は自分にとって充実していながらも身体的にはとてもハードでした。さらに私には部活動の終了後にさらに15キロもの長いが帰路が待っていました。へとへとになりながらも友人と自転車で帰りました。今となってはいい思い出です。このように、きつい部活動に加え、長い自転車での登下校は相当な運動量でした。毎日家に着く頃には疲れ果てて、食事もあまりのどを通りませんでした。特に夏の季節は暑い中でハードに体を動かすため、大量に汗をかき、それ以上の水分を補給していたので、水分でかなり腹が満たされてしまっていたということもありました。このようにして夕食を食べる量が激減しました。その代わり朝におなかが減るので、朝ごはんは猛烈に食べました。

 このような生活を毎日繰り返していくうちに体に変化が生じてきました。なんと高校に入学してから毎月3キロずつのペースで体重が減り始めたのです。不健康な体系はみるみるスマートになっていきました。驚異的なハイペースでの減量でした。初めの2,3ヶ月はこれまでにないダイエットへの成功に心底喜びを感じていました。しかし、喜んだのははじめの数ヶ月だけでした。毎月3キロずつ減り続ける私の体重は、止まることを知らず、半年後には入学当時約75キロあった体重は55キロまで減っていました。さすがに60キロ代を切ってくると、逆に今度は「やせ過ぎ」の心配をしなくてはならなくなりました。そう思い始めてからは、夕食をきちんと取れるように、水分の取る量を調節したりなど、体調の管理に努めるようにしました。またこの頃から、部活動や登下校も徐々に体が慣れてきて、少しずつ生活にも余裕が出てきました。

 以上のような経緯で、私は「太りすぎ」の体型から、現在の「やせ気味」の体型に大変身しました。急な減量で不健康なやせ方をしたように思われるかもしれませんが、実はこの時期は体重が減ると同時に身長が急激に伸びました。だから、実はとても有効なダイエットを成功させたのではないかと自分なりに思っています。夕食の量を減らし、朝、昼ごはんをたくさん食べるというのは今から思えば非常に一般的な方法だったようにも思えます。

●自分に自信が持てるようになって生活が明るくなる

 この大変身に対して、周囲の反応は想像以上でした。家族は毎日私の姿を見ているのでそれほどではありませんでしたが、久しぶりに会う中学の友達や親戚などは、すっかりやせた私の姿を見てかなり驚いていました。「誰ですか?」と私と判別できない同級生もいたぐらいです。その驚く姿を見るたびに私は、自分が「変わった」ということを実感しました。さらにそれに加えて、私は高校からは眼鏡からコンタクトレンズに変えました。(現在は裸眼です)黒ぶちめがねは以前からあまり評判がよくなかったためです。私の、高校生活はとても明るくなりました。私は不健康な体型が一つのコンプレックスであり、それを克服したことで自分に自信がもてるようになったからだと思います。周囲からはどう思われていたかは定かではありませんが、私は勉強以外にも自分に自信が持てるようになりました。これは私の人生の中でかなり大きな出来事です。女の子とも積極的に話ができるようになりました。(ただし、やせても女の子にはちっともモテませんでした・・・)

(2)ついに勉強の「貯金」がなくなる

●最初の学内テスト

 私の入学した高校は同じ普通科でも「普通クラス」と比較的に成績の良い「選抜クラス」とに分けられていました。私は入学式のときに自分が「選抜クラス」に入ったということを自然に知ることになります。同じクラスの生徒が新入生代表として挨拶をしたからです。新入生代表を務める生徒は入試でトップを取った生徒でした。私が現役で大学に合格できたのはおそらく運良く3年間この「選抜クラス」にいられたからだと思います。周りの学生のレベルが高く、勉強に対する意識も高かったため、彼らの影響を少なからず受けていたからだと思います。よく「背伸びをしてレベルの高い学校を選ぶよりも、ワンランクレベルを落としたほうがいい」というような話を聞きますが、それは個々人の性格によるのであって一概に判断できないと思います。私は実は周りのレベルが高いほど燃えるタイプでした。国家 I 種を受けるにあたっても、優秀な人たちの中で「なんとか自分も!」というような気持ちで自分を奮い立たせていました。レベルの高いクラスに身を置いたことで、周りにいい刺激を受けながら3年間過ごすことができたと思います。

 入学して新学期が始まると早々に「実力テスト」を受けさせられました。私はその成績を見て愕然とした覚えがあります。5教科の総合成績が学年で39番だったのです。中学では10番以内を逃したことがなかった自分でしたが、高校はやはり世界が違うと思いました。しかし、今思えば恥ずかしい思い出です。田舎の100人足らずの学校の10番以内と、地区の比較的成績の良い生徒が集まった学校での400人の中の順位は違って当たり前です。むしろ、39番は自分にとってはいいほうでした。その後は2度とそのような順位は取れなくなります。

●部活中心の高校生活

 高校生活は学校の授業以外は部活中心の毎日でした。私の高校は練習時間こそ短いですが、中身の濃い練習をすることで強豪校に打ち勝とうと、日々の練習を工夫してきました。実際に地区大会では、地元の私立の強豪校を打ち破ったり、県の上位の大会に出場したりすることもありました。この野球部での体験が「形勢が不利な状態でも、努力、工夫によって有利な者に打ち勝つ」という私の負けず嫌いな性格を呼び覚ますきっかけだったのかもしれません。高校野球の3年間では、体力面、精神面、人間関係の多面において自分を成長させることができました。前述しましたが野球部で養ったことが大学受験から公務員試験、就職活動など、今の自分の全てに生きていることは間違いありません。高校野球の3年間は決して楽しいことばかりではありませんでしたが、途中で辞めていたら確実に今の自分はなかったと思います。

 高校野球は大変充実しており、3年間続けたことに対しては今でも微塵の後悔もありません。ただ、勉強との両立に苦しんだことは事実でした。平日は家に帰るとへとへとになっており、宿題も満足にできない状況もありました。しかし、授業にはなるべく遅れないでついていこうとはしていました。高校2年の前半までは、まだ成績は半分よりは上のほうでした。しかし、受験を意識し始める2年の後半からは、予備校に通う学生など明らかに周りの雰囲気は変わってきていました。その頃辺りからテストや模試の私の順位は落ちてきました。しかし、私はこの事実をあまり気に留めなくなってきていました。部活を引退したらぐんと成績が上がるだろうと楽観的な考えを持っていました。このように開き直ることに慣れてしまっていました。

 最後の夏の甲子園県予選は1回勝って、2回戦で強豪校と当たり、大差で敗れました。部活の引退を経験されたことのある方は分かると思いますが、最後の試合で負けるとたいてい泣きます。これは、試合で負けたことが悔しいから泣くのではありません。もうこのメンバーとこのグラウンドで一生野球ができないと思うと、寂しくてしょうがなくて泣いてしまうのです。私も大粒の涙を流して泣きました。泣けるのは自分が3年間がんばった証拠だからです。3年間やったと言えば、私の国 I 受験も同じ3年間です。これもやはり内々定をもらったときには泣きました。どういう気持ちで泣いたかは後に詳述します。

 高3の7月後半に部活を引退しました。引退してからは心機一転勉強に切り替えなければなりません。しかし、これが難しいのです。たまに高校で部活をみっちりがんばって、かつ現役で東大に合格する優秀な人がいます。こういう人は部活で使っていたエネルギーを、その勢いを殺さずそのまま勉強の方向へ向けられる人々だと思います。スポーツで鍛えた集中力、体力そして根性を勉強にそのまま生かすことができればほぼ無敵です。東大だろうが、医学部であろうがどこでも一発で合格すると思います。でも、これがやはり難しいのです。なぜなら、高校生活の大半をグラウンドで過ごした学生は「机に長く座っている習慣」がないからです。だから引退してから半年というのは勉強に慣れる期間で終わってしまいます。やっと勉強をすることに慣れてきたかと思えば、もう本番を迎えてしまいます。ですから、1年浪人すれば多くの体育会系の学生は結果を出すことができると思います。

 私はこのような体育会系の学生の中でも、もっとひどいタイプでした。もとから机に長く座って勉強できない性格だった私は、引退後の夏休みには後輩の野球部に顔を出してみたり、地元の友人らと公園に集まって野球をして遊んだりしていました。夏休みが明けると周りの学生と大きく差をつけられていました。結局勉強に専念できる体制を築けぬまま、大学受験本番を迎えてしまいました。

(3)大学受験

 受験では結果的に国立大学には合格できませんでしたが、私立大学は運良く受験した全ての大学に合格することができました。当時の私は自分の努力によって合格したと思っていましたが、実際大学に入学して周りの学生に話を聞くと、いかに自分が他の受験生と比べて勉強していなかったかということが分かりました。私の大学での親友は、浪人時代は風呂と食事以外はずっと部屋にこもって毎日毎日勉強していたと言っていました。そんな受験生は周りにいくらでもいました。私は結局、毎日学校の勉強と自宅での2、3時間の勉強で満足していました。公務員試験勉強も3年間しましたが、1日当たりの時間量では実は他の受験生と比べて勉強していなかったのかもしれません。私は、短期間でも凝縮して勉強できる人を尊敬します。短期間でも毎日毎日その試験の勉強だけに集中できる人がどの試験にも強いと思います。特に、公務員試験は詰め込みが効果を発揮する試験なので、3年間ダラダラ勉強する人よりも3ヶ月集中して勉強できる人の方が成績はいいです。私が国家 I 種に落ち続けたのは、おそらく集中して一気に勉強できない自分の性格上の理由が大きかったのではないかと自分なりに分析しています(ダラダラやっていたつもりはないのですが……)。

 私は大学受験については自分の力の全てを出し切ったと思いこみ、浪人は考えませんでした。この年(現在24歳)になってみると浪人はしなくて良かったと思います。しかし、公務員試験では2浪をしました。その理由としては、(1)「大学と違って仕事は一生働く職場であり、とことん追及してみたかった」ということが第一にあります。大学受験は1回で見切りをつけましたが、今度はリスクを背負ってでも自分がどこまでやれるのか挑戦したかったのです。それと、(2)「国家 I 種という世界に自分がどこまで通用するか純粋に試してみたかった」とういことがありました。国家 I 種は試験も難しいですが、最大の関門はやはり官庁訪問で官庁に採用されることです。特に私大から官庁に採用されることは容易ではありません。そのような関門に対して、自分という人間がどこまで通用するのか、官庁訪問で自分をアピールする中で実感したいと思ったのです。以上の2つの理由から、私は官庁訪問の切符を手に入れるために、3度国家 I 種試験に挑戦しました。

6.大学時代(文武両道の充実した4年間)

(1)いきなりの野球部勧誘

 大学では高校入学の時と同様に希望に満ち溢れていました。私はどんな境遇でも新しい集団に属す時はとてもワクワクします。どんな新しい「出会い」と「発見」が待っているのか、楽しみでしょうがないのです。このような性格は様々な部局を転々と異動する国家 I 種に自分が向いている特質の1つだと思っています。

 大学でも何らかの形で野球はしたいと思っていました。しかし、体育会の野球部には入るつもりはありませんでした。高校時代は野球に没頭し、それはそれで良かったのですが、大学では、野球以外のいろいろなこと(サークル活動、アルバイト、ボランティア、海外旅行、ETC……)もしたいと思っていたからです。入学式からの数週間は大学のキャンパス内は部活やサークル活動の勧誘活動でにぎわいます。私もその中で手頃な野球サークルはないかと探していました。すると背の高いがっちりとした体の男に「君、いい体してるね〜。野球経験者でしょ?」とすぐに勧誘を受けました。私はその男に何の説明も受けずにグラウンドに連れていかれました。うさんくさい男でしたが、とりあえず見るだけは見てみようと思ったのです。グラウンドに着いて、そのサークルは体育会の部であるということが分かりました。平日は毎日練習。土日は試合というハードはスケジュールです。私はそれを聞いて絶対入部はしないという意思を固めました。しかし、その男は「入部しなくても練習だけ見ていきなよ」と言って、私をベンチに座らせました。そして練習が始まり、私は練習をじっと見つめていました。金属バットでボールを叩く音、みんなで声を出し合う守備練習。高校野球時代を思い出しました。見れば見るほど自分の体がうずうずしてくるのが分かりました。

 そして気がついたらグローブを持って練習の輪に混じっていました。心は固まっていても、本能に忠実な私の体は我慢できませんでした。もうその日に即入部しました。入学して1ヶ月もたたない平成13年4月15日の出来事でした。

 私は物事を何でも簡単に決めてしまう楽天家です。しかし、私はこの自分の性格をわりと気に入っています。何事も慎重になりすぎると結局何もできないまま終わってしまいます。しかし、入り口を広くしておけば、後に自分が苦労することはあっても、様々な経験ができます。後からの苦労は努力して乗り越えればいいと思うのです。その苦労を乗り越えることによってまた自分を一段成長させることができます。

 また、私の座右の銘は「一期一会」です。月並みかと思われるかもしれませんが、私は「人の人生は、人との出会いから始まり、人との出会いで終わる」と考えています。人の人生の良し悪しは人との出会いによって決まると思っています。たまには悪い出会いもあるでしょう。それはうまく対処していかなければなりません。しかし、良い出会いにたくさんめぐり合うためには「数」をこなさなければならないと思うのです。ですから、私はどんなささいな出会いでも大切にするというポリシーを持って毎日を過ごしています。私が国 I を目指したのも、ある先輩に憧れたからです。野球を始めたのも野球好きの友人がたまたま近所にいたからです。大学を選んだのも、ゼミを選んだのも全て人との出会いが絡んでいます。私は自分を野球部に勧誘したその「うさんくさい男」との出会いによって、かけがいのない充実した大学生活を手に入れることができました。さらに、後ほど彼には同じ法学部で勉強面でもとてもお世話になることになります。私は入学して早々にとても良い出会いに恵まれたのだと、今となってはしみじみと思います。

(2)またもや野球中心の日々

 上述の経緯によって体育会の野球部に入部することになりました。毎日午後から夜まで練習、土日はほとんど試合に各地に出かけました。当初は毎日野球部に拘束されるのは嫌だと思っていましたが、大学生活は意外と時間が豊富にあり、逆に部活がいい自分の居場所となりました。初めての一人暮らしで、学校の講義が終わってすぐ家に帰って1人過ごすということは、寂しがり屋の私にとっては耐えられないものでした。毎日午前中は大学の講義に出て、午後から部活へ行き、夜は野球部の仲間とわいわい夕飯を食って帰るという生活でした。野球部の活動は毎日ありましたが、時間が拘束されているという感覚はほとんどありませんでした。むしろ、野球が良き「生活の軸」となり、午前もきちんと大学の講義に出ることができ、かつ毎日適度以上に運動をしているので体を健康に保つことができました。

 大学生活では早い時期からサークルや部活にとにかく入ってしまうことをお勧めします。しかも、わりと定期的に活動を行っており、きちんとした組織になっているものが良いです。大学生活は膨大な自由時間があります。よほど何かをやるといった強い意思がない限り、時間を無駄に浪費してしまいかねません。何かの集団に属して、その活動をペースメーカーにして日々の生活を組み立てるといいでしょう。4年間一貫して何かをやり通したということは後の就職活動でも大きな武器となります。

●ハイレベルな野球部で学んだこと

 私の所属した野球部はかなりのハイレベルでした。「スポーツ推薦」という大学入学制度によって入学した学生が部に何人もいました。甲子園出場経験のある実力者達がいる中で、田舎の公立高校出身の私が試合に出場することは正直かなり厳しいのが現実でした。実際に3年生までの3年間は全く試合に出ることができませんでした。試合に出るどころか、試合に出る権利のあるベンチ入りのメンバーにもなかなか選ばれませんでした。高校時代まで試合に出ることが野球の楽しみとして捉えてきた自分にとって、試合に全く出られないという環境はかなりつらいものでした。また、実力が支配する世界なので、能力のある選手は1年生でも試合に起用されます。後輩が試合に出て活躍する姿をスタンドから見る悔しい気持ちは今でも忘れられません。同じような境遇に置かれた友人は何人も部を去りました。私もかなり落ち込むときはありました。しかし、私は部を辞めるということは一度も考えたことがありません。むしろ、このような高いレベルの中で、いかに試合に出られるのかということを考えることに燃えていました。劣勢でむしろ燃える私の性格がここでも生きました。私はまず、試合に出る9人のレギュラーではなく、ランナーを指示する「ベースコーチ」という役職に進んで立候補しました。とにかくどんな形でもチームに貢献して、チーム内での自分の存在感を高めようと考えたからです。私は一塁ベースコーチに定着しました。そのことが功を奏したのか、それ以来ベンチ入りのメンバーには常に選ばれるようになりました。そして、4年生にして初めて試合出場を果たしました。初めて自分の名前がスコアーボードに掲載されたときの感動は今でも忘れられません。

 私はこの野球部で1つ大きなことを学びました。それは、「組織において自分の役割をきちんと把握して行動することの重要性」です。私は体も大きくなく、技術的に他のメンバーに比べて特に勝っている部分があったわけでもありませんでした。しかし、私は目がいいという特質を持っていました(昔悪かったのですが、なぜか治りました)。それで、時にはキャッチャーからのサインを盗み、出場している選手に教えるということもしました。なんらかの組織の属した際に、ただなんとなくその組織にいるだけでは人は組織に埋もれてしまいます。そこで、自分の持っている特質で、その組織で生かせることは一体何なのか、常に考える必要があると思います。私は現在何か新しい組織や集団に属した際には、自分がこの中でどのような役割を果たせば組織全体の向上につながるのかということを常に考えるように努めています。それが自分の新しい組織に属した時の楽しみでもあり、また自分のひとつの長所であるとも思っています。

(つづく)

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