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外務省への道 合格の瞬間 (前書きに代えて)最終合格を言い渡された日は北朝鮮からミサイルが飛んだ日だった。この日からニュースの見方が変わり、単なる視聴者ではなくなった。だから合格の喜びよりも職務の重さに対する緊張感、躊躇が自分の心を占めており、合格したという実感は思ったほど無かった。終わってもしばらくは寝ぼけて勉強しようと机に向かったり、試験に落ちる夢を頻繁に見たりした。ああ、終わったんだとその都度自分に聞かせなければならなかった。 内定が決まった夜、自分の部屋に戻り、教科書と紙が散乱する机の上をぼんやりと眺めた。色とりどりのテキストにWの字が大きく浮かんでいる。Wセミナーに入るに当たって、自分はその資金を調達するため、大学生活の最初の丸1年を棒に振った。親から借りればいいものを、意地を張ってずっと働き続けたのだ。そうして稼いだ50万円を大事に握り締めて大学生協に申し込みに行った日の事を今でもよく覚えている。あれから2年半が経ち、自分は想い描いた夢をかなえた。益体の無い自意識や劣等感と戦い続けた過去の自分が遠くに見えて何か感慨深い。「無駄では無かったよ」と褒めてあげたい気持ちでいっぱいになり、つい目が潤んだ。 本編 はじめに渡辺先生によればキャリア・エリートは単に一定の資格や地位のある人ではなく、より多くの人々を幸福にするという強い使命感と責任感をもった人でなければならないということだが、やはりエリートという言葉は苦手である。だから「キャリア・エリートへの道」という名前をみても少々、気後れする。何だ偏屈な奴だなと気を害す方もいるかと思うがご容赦いただきたい。ここに記すのは自意識と劣等感が強い青年のたまたま上手く行ったお話でしかない。今、自分は外交官という地位を得つつあるが、地位は装飾の類に過ぎない。もう一度、この服を脱いで、裸体になって、それでも自身に誇れるものがあるかなと反省してみる。自分の何が評価されたのだろう。反省を通して、「内定者」「エリート」という煌びやかな地位を得る前の自分をここで伝えたい。自分は誰よりも優れたものは持ち合わせていない。「内定者」だからスゲーみたいな感じで臨んでほしくはない。普通の青年である。だからエリートの服を脱いで、今までのあり方、歩いてきた道を徒然なるままに書き記すだけに留めてみたい。将来の国家の理想像も下書きさえ未だ描ききっていない。その「エリート」の服を着ている資格が自分にあるかどうかさえ迷っている状態なのであるから。 生まれ、少年時代日本海の荒波と穏やかな人間が同居する金沢の町に、自分は生まれた。穏やかな父の名ではなく、気性の荒い祖父から一文字とり、ただ多くを望まず健康であればよいと名を授かった。夏の暑い盛りであったが、「太平洋の懸橋」になった新渡戸稲造と同じ誕生日に生まれたことは、後に外交官を志す自分を励ました。 家族は会社員の父、看護士の母、2つ下の妹がいる。母はとにかく厳しく、父はとにかく何も言わなかったが、父と母なりの愛情を一身に受けて不自由なく育った。スポーツも勉強も中の上くらいにこなす普通の少年であり、小学校も中学校も普通に皆が行く地元の公立に通った。そんな自分の転機は一体何処にあったのか、遡って考えてみる。 人の前に立って話す小学3年生の時、クラスの学級委員長に初めて任命された。どういう経緯でそうなったかまでは覚えていないが、それが自分を特徴づける性格の一端の芽生えであったことは間違いないと思う。それ以来、毎年のようにリーダー職に就くようになり、終には600人の小学校の児童会長にまで昇った。 中学に入り、さらに色々な職に就いた。学年代表、応援団員、テニス部副部長、生徒会長、その煌びやかな地位の響きは他所に、その地位が与えてくれる緊張感と追い詰められるような感覚に中毒した。1年生の後期に学年主任から生徒会の末端ポストが空いているからと人生初の選挙に臨んだ。1,200人の前で手に汗を握り、震える声で原稿を読んだ。素直な言葉がうけて何とか選ばれた。3年生の後期の生徒会長選では、もう原稿は要らなかった。とかく集会や会議は退屈で演説も棒読みで味気ない。皆が早く終わってくれと下を向いて欠伸をかいている。どうしたら皆の視線を集められるだろうか、いつからか自分は原稿を捨て、自分独自の抑揚と言葉で聴衆を煽るようになった。齢15にして大勢の前で話す快感の味を覚え、聴衆を惹きつける言葉と動作を身につけた。投票の8割を獲得し、圧倒的な勝利を手に入れた。1,200人という数字は自分を成長させるに十分な数字だった。 当然、こうした性格が育つに連れ、自分は周囲でも目立つ人間となっていった。人当たりのいい性格を授けられていたので、対人関係の大体は良好に保てたが、上手くいかない事も多かった。全ての人に好かれるということは不可能に近いということを学んだ。失敗から来る恐怖、人を傷つける言葉、地位の持つ苦味も十分に知った。憧憬、羨望、誹謗、中傷を含む全ての目を前に、自分の内面は明と暗で濁った。 様々な生徒・先生に好かれ、様々な生徒・先生に疎まれた。一度、演説で作文用紙を破り捨て、学校の矛盾を大声で怒鳴り、学校のあるべき理想を唱えた。すぐさま教員室に呼ばれ、次の日に反省演説をさせられた。前代未聞だと叱咤され、教員の大半に白い目で見られた。教師通信簿制の導入、「学校へ行こう」という番組の招致などを掲げていったが、どれも実現できずに一蹴されて終わった。考えの未熟な当時の自分には公立学校の限界だと映ったが、後から思えば、自分の行動力や勇気が十分に足りなかったのだ。当時の自分は、以来、代議制や内閣制を模した学級代表制も生徒会制も全く無力と感じ、そのカタチだけの学習方針に失望した。 しかし、こんな自分でも信じて支えてくれる先生がいた。自分の人生に影響を与えた人間の一人で、1年生の時から自分を育ててくれた女性の先生だった。口うるさく、態度もでかく、先生の間でも賛否両論の人だったが、この強くて時に優しい女傑が自分は好きだった。彼女のおかげで、自分は沈まずに済んだ。よく叱られ、よく褒められ、今の自分があるのはこの人のおかげだと今更ながらに感じる。まさに恩師である。 非公式だが慣例で生徒会長は皆、地元の名門である公立高校を受けることになっていた。学年400人中の上位20人くらいが対象となるが、自分はまったくの圏外、努力は人一倍だが、結果が付いてこない。E判定のまま試験を迎える。運よく自分の苦手な数学は易化し、国語は一度何かの問題集で見た文章が現れた。とりあえず受かった。運が良かった。年相応の栄光と挫折を味わい、自分の才能を信じてくれる人と別れ、高校時代へ入った。 高校1年生 夢が見つからない 高校に入ってからの成績は平均よりちょっと上くらい、地元の国立大学に行けるか行けないかくらいのものだった。部活や学園生活を楽しみ、人並みに勉強する。もともとギリギリの成績で入ったものだからしょうがない。高校生活に慣れた頃、2年次から文系・理系どちらに進むかで迷った。中学の時はアナウンサーになりたかったが、今は何か違うなあとウヤムヤに思いつつ、これといった夢が無い。ある時、父親にどうしようかと相談した。「お前は将来何がしたいんや」と聞かれ、「うーん、外国とか行きたいかな」と答えた。 「んじゃ、外交官にでもなったら」と軽く答えが返ってきた。外交官とは何ぞや。すぐさま職業大辞典を調べてみる。かくかくしかじかのことが書いてある。当時の外務 I 種試験の時代は東大がほとんどのシェアを占めていた。田舎の少年には途方もない夢である。 しかし、外交官という響きが気に入った。夢は大きいほうがいいし、なにより努力し続ける目標になる。結局、英語と歴史が大好きで、数学・理科が嫌いだったこともあり、とりあえず文系に進むことにした。職業としての「外交官」との出会いはこのように軽く、不純なものであった。 高校2年生 東京へ行きたい 東京に出てから冬が好きになった。東京の空は冬でも青く澄んでいて清々しい。 金沢という伝統の町に生まれ、日本海の荒波の中に育った。1年の大半は雨で、11月を過ぎると太陽はほとんど出ない。朝起きると空はいつも真っ暗で、気分まで落ちてくる。城下町と言えど自分の目に光るものは乏しく、人間も雪国特有のどこか影を背負った感じの者が多く暗かった。自然、この町を出てみたくなる。厳しい親の下を離れたかったのもあったが、こんなつまらない町にずっといたら自分は駄目になるのではないかと思った。まず東京に出てみたかった。政治・経済・文化の中心であるとともに、優秀な人物が大勢集まる。テレビに映る世界を現実に移してみたい。世界に誇る都市で自分を磨きなおしてみたかった。そして、できるなら、そこからさらに世界へ飛び立っていきたかった。 東京へ出たいと両親に伝えた。東大か早慶でなければ外へは出さないと一蹴された。事実、外交官になるには東大しかないと分かった。2年生になり、勉強に力を入れ始めた。中高一貫校も有名私立も発達していない田舎では、情報も有名予備校もほとんど無い。地方では一流の高校でも全国的には無名であり、学年で東大・早慶は合わせて10人いるかいないかである。独学でがむしゃらに勉強した。毎日8時近くまで部活をして飯を食った後、夜中3時まで勉強する生活を過ごした。短期的な成果は良好に出てきて、成績は一変し、クラスで常に首席をキープするようになり、自分もやれば出来るではないかと調子づいてきた。 また、高校2年生にして初めて日本の外へ出ることが出来た。我が校では修学旅行は韓国へ行くことが慣例となっている。初めての海外、現地の学生と話し、飯を食い、町並みに目を向ける。日本との関係が深いこの国で、自分は外交官へと進むための初歩を踏んだ気がする。北朝鮮との国境線にある統一展望台や独立記念館、現地の高校を訪ねたとき、初めて自分が「日本人」であることを認識した。そしてソトの視点から日本を眺めるような不思議な感覚を体験した。高い櫓から、長細い日本の国土を見下ろしているような気分だった。統一展望台では「国際」「民族」についても考えさせられたと同時に、日本人の幸福さを苦くも思った。今、文章化したような明確な言葉ではなく、当時はどれも感覚的なものにすぎなかったが、今ある自分の「種」が芽を出すための「光」を浴びたような重要な経験であった。うっすらとであるが自分の目が開いたのである。 高校3年生 挫折 勉強に集中するため、部活を止めた。仲間は団体戦でインターハイに出場して格好良く映り、自分が少し情けなく感じた。まあ、一度立てた目標は諦めず追い続けるべきである。とりあえず通過点である東大合格に向かって勉強を今までと変わらぬ調子で続けたが、勉強のやり方が悪かったようで成績は終盤で大きく停滞していった。誰よりも禁欲に努力した自負はあるが、センター試験に失敗し、足きりの封筒が届けられる。人生初の挫折経験である。友人や先生達に俺は東大に行って日本を支える男になるんだと振りまいていたので、穴を掘って隠れたい思いであった。男として情けないが、アシキリ封筒を前に、部屋で1人枕を濡らした。努力した分、悔しいんだよと周りは慰めてくれた。 浪人時代 限定的な上京 さて、身の程知らずさを思い知らされたが、どうも諦めが悪い性分である。両親に頭を下げて、東京の予備校に行かせて欲しいと願い出た。無駄な出費である。しかし、先ほど書いたが、教育環境は首都圏に比べ乏しく、我が県から東大・早慶はほとんど出ない。浪人をするなら外へ出たほうが良い。それに、両親の下にいては甘えがどうしても出てしまう。 願いは許された。全く申し訳ないが、決めたからには最善の結果を持って帰るしかない。それしか両親の情に応える道は無い。18歳にして住み慣れた家を出る、金沢の町を出る。上京の日、母親は泣いてしまうからと見送りには来なかった。自分の上京の願いはこの限定的な状況の下で成就する。次に失敗したら、また自分はこの町に帰ってこなくてはならなくなる。なんとしても東京に残ってやると夜行バスの中で静かに誓った。少年よ大志を抱いて上京せよだ。外交官よりも東大が自分の心を占めていた。まず東大に行かなければ……。 早朝の新宿にバスが着き、ついで某予備校が経営する寮に向かう。その寮は千葉県の松戸にあり、70人程度の寮生と寮長・寮母の他に、「リーダー」と呼ばれるOB大学生の舎監がいる。テレビは禁止、夜九時以降は他室訪問禁止、外泊も月一回など多くの寮則があったが初めての寮暮らしであるし、何より親の目を離れることができた。高校生と大学生の間の不思議な地位の下での生活にやはり心は躍った。朝の電車に驚いたとか、うどんのスープの色が濃いとか、東京に出てからの生活の感想は、普通の上京大学生と同じようなもので、ただ遊ぶことが許されていないという違いしかない。テレビがどうしても見たいときは寮生で集まって近くの電気屋に行った。日本がワールドカップ初出場の年だったから少々は勘弁して欲しい。見終わって、昭和の風景だなと笑いながら帰ったことも今では懐かしい。 楽しい仲間と優れたカリキュラムの中で勉強を続け、自分の名前も全国区の模試の上位に載るようになる。A判定を積み重ねながらも、ときに去年の失敗に怯えた。生活の中では、もちろんいくつかのトラブルもあり、自分が渦の中心で迷惑をかけたこともあった。集団生活もなかなか難しいものだなと思った。人間関係の方が勉強より遥かに難しい。 外務省 浪人時代では、一時期、外交官よりも官僚・政治家への憧れが強くなった。そのような気持ちを育てた一つに『サンクチュアリ』という漫画がある。『北斗の拳』でも有名な武論尊氏が原作し、池上遼一氏が作画した漫画である。大まかな内容は以下のとおりだ。 幼いころ、両親の都合でカンボジアに来ていたが、ポルポト政権の下で両親を失い、難民キャンプを経て日本に命からがら逃げ帰ってきた2人の少年がいた。生きるということが凝縮した世界から帰ってきた2人の目に映ったのは、人々の目に光がない、漠然とした不安が広がり、生きることがどういうことかが見えない日本であった。高校時代のある日、2人はじゃんけんでそれぞれの道を決める。勝ったほうは表の世界、すなわち政治の世界へ、負けたほうは裏の道、すなわち極道の世界へ進み、それぞれが表と裏から日本を変える、そして生きた日本人を作り出すという信念の下で戦い続けるという話である。 そこに描かれた人間性、信念、行動に自分は惹かれた。漫画ではあるが、自分のヒーローを得た心地が当時にあった。高校時代から持ち続けたぼんやりとした幼いイメージに、権力的で、現実的なイメージが塗り重ねられた。それ以来、外国へ行くということに加え、日本を意識した仕事がしたいと思うようになった。 さて、色々な心の変遷や悩みとぶつかりながら、受験期を迎える。そして東大の合格発表の日を迎えた。多くの人々がごった返す中、既に仲間たちは掲示板を見たらしく、大騒ぎしていた。お前も早く見てこいよ、みんな受かってるぜと言われ、掲示板の前に向かうが、また自分の名前が無かった。呆然としながらラガーマンたちに胴上げされる友人たちをずっと見ていた。そして、その後は誰とも話さず、逃げるように寮に帰った。 大学1年生 進んで艱難を選択すべし 自分には、何が足りなかったのだろうか。たぶん、いろいろ足りなかったのだろう。 受験中に、前述したリーダーから次期のリーダーをやらないかという誘いを受けていた。仕事内容は日曜を除くほぼ毎日夕方から夜にかけて、管理業務を行うというもので、住居費が免除されると共に若干の手当てが出るというものだった。一方で、通学時間が2時間弱かかる上、仕事の都合上、サークルなど自由に使える時間を諦めなければならなかったので迷っていた。 東京大学を落ちて、正式にリーダーの職に就くことに承諾した。浪人して余分な出費をかけてしまったこと、私立大学になってしまったことの負担を少しでも返したいという経済的な動機が背後にまずあった。そして、生活費や学費の一部だけでも自分で賄うことで、多少なりとも自立してみたかった。よく自分はもう大人だから一人で何でもできるという大学生がいる。親に守られていながら何が大人だと思う。自分もその一人ではあるのだが。 自分に足りなかったのは恐らく苦労ではなかったのか。甘えた環境の中でぬくぬくと暮らしてきたから、このような不甲斐無い結末を迎えてしまったのではないかという考えが自分の中にあった。色々挫折して、なるべく色んな世界に首を突っ込んで苦労しないと自分の幅は広がらないし、タフにならないのではないか。なにより、自分が強くならなければ本当に人に優しくなれない。人々の痛みを理解できるようになれるためにも、自分に多くの苦労や苦痛を与えなければならない。その先に自分の理想の姿があった。 あの発表の日に決めたのは、これからは自分が成長すると思う方向を自分で見定め、それに向かって走っていくこと、もっと苦労して、自分の軽みを修正するということだった。何か言葉を言うには、それを使うための経験が必要だと思う。それが中身のある言葉というものではないかと思う。そうでなければ言葉はただの音となり、人に響かないものとなる。だから、理想を語るためにも、自分の幅を広め、深みを得るためにも、進んで艱難を選択して、もっと重みのある、自分を誇れる行動をしていかなければならないと思いつめていた。それほど、当時の自分は自分に絶望していたのだと思う。両親からも厳しい言葉を受け、再び自分を責めていた。周りからはあまり理解されなかったが、艱難を進んで選択し、自分に厳しくあることを重要な信念の核におこうと決めた。 大学1年生時代は、浪人時代より辛かった。今までの人生の中で一番きつい時期だった。仕事自体はたいしたことはないが、その拘束がきつく、自由がなかった。仕事の時間が時間だけに、サークルや飲み会にはほぼ参加できない。自然、学校の生活になじめなくなった。また、最初はやさしく、調子の良かった上司も、だんだんと酷くなってきた。自分にも至らない部分はあったと反省しているが、何かと気に食わないことがあると自分に当たられた。スタッフ同士の人間関係は良くなく、なかなか良い環境といえる場所ではなかった。自分はリーダーという立場だから、せめて寮生の前だけでも凛として、いい兄貴でいなければと努めたが、それがまた上司との軋轢を再生産するもとになったりもした。家と呼べる場所ではなかった。学校へ行き、必修の授業を受けるがそんなに面白くない。学校が終わるとすぐに帰らなければならず、駅へ急ぐ。途中でラケットのバッグや楽しそうに笑う学生が眼に入る。寮に戻って管理人室のなかに入り、特にたいした仕事もないから充実感もない。夜中自分の部屋に戻り、俺はいったい何をやっているんだ、ちゃんと成長しているのかが分からなくて、自分の選択が間違いだったような気がして、よく泣いた。 自分の心を落ち着ける場所や自由が少し欲しかった。夏休み、友人は海外旅行だったり、語学留学だったり、サークルの合宿だったり、楽しそうだった。「お前は頑張りすぎなんだよ、親に借りればいいじゃん、素直に普通にやればいいじゃん」と周りの友人に言われたことがあった。でも、自分にはできなかった。はじめての自己改革の試みをとめたくなかったし、公務員を目指す人間として、そんな甘い考えを抱くのは嫌だった。そうして、最初は自分の選んだことだし、最近の大学生は何か甘いんだと思っていた。しかし、心の余裕がなくなると、心は狭くなってしまうことが分かった。そして、その先で、自分がただ単に、それをできなくて羨んでいるだけだと気づいて、また絶望した。自分には高尚な思想も何もない。あっても借り物だったり、日々意識して実践していられるものではなかった。ただ意地を張っていただけだった。それでも思い出したように自分を震わせるために、自分に語りかける。「万事最奥が馬だ」と。この日々が必ず、自分のために、そして日本のために生かせる日が来ると。当時、学校も帰る場所も、落ち着ける場所はなかった。理解してくれる友人もほとんどいなかった。ごくわずかだが、理解を示し自分を支えてくれた友人には本当に感謝している。 凹んでばっかりでもしょうがない、部屋の壁に大きく「腐るな」と書いて張った。夏休みから空いた時間を使ってさらにコンビ二でバイトを始めた。理事長はバイトをしてもかまわないといっていたが、上司に見つかるとまた面倒くさくなると思い、寮から歩いて1時間以上かかるが、隣町まで足を運んだ。2年生からはダブルスクールを始めたかったので、さらにバイトをしないと間に合わなかったし、当時は親の手はどうしても借りたくなかったのだ。夏休みが終わっても、空いた時間を見つけてはそのバイトにも精を出した。結局週7で働くことになってしまったが、夢に向かっての下積みであるから頑張れた。勉強面でも何か目標をたてて動かないと本当に腐ってしまうから何かを探した。とりあえず自分には教養が無いなと前から思っていたし、管理人室の中にこもっていて拘束下での時間ならたくさんあったので、とりあえず本を100冊くらい読んでやろうという野心を思いついた。もともと本嫌いだったが、このチャンスは生かすべきである。それから映画(ビデオ)も50本以上見てやろうと目標を立てた。ドストエフスキーの『罪と罰』から、ルソーの『社会契約論』まで、最初は岩波文庫を片っ端から読んだ。二年生からは国Tや政治学の勉強が増えるだろうから、せめて一年生の時は違った分野に眼を通しておこうと思い、文学や思想等を中心によく読んだ。寮生からはいつも難しい本を読んでいるというイメージを持たれた。寮生の退寮時に、この寮で一番勉強していたのはリーダーでしたね、と言われ、光栄だった。浪人である寮生となるべく同じ環境の下にありたかったので、遊びの面はほとんど控えていたので、そうした態度を示せていたことが嬉しかった。自分の成人式も放棄し、センター試験前の寮生と共に生活をしていたかったし、2浪で成人式に出られない受験生をおいて自分だけ帰るわけには行かなかった。 そうこうして、1年が過ぎようとしていた。何度も自分がちゃんと前に進んでいるのかがわからなくて悩んだ。意地を張らず、こんな無駄な生活はやめて、他の大学生のように普通のバイトをして、良好な人間関係を作って、留学でもダブルスクールでもやって自分のスキルアップを図ったほうが効果的じゃないのかと何度も思った。止めようとも何度も思った。だけど、無駄かもしれないが、もう少し意地を張っていたかった。自分が下した決断は最後までやり遂げなければならない、じゃないと逃げることになるし、自分は変わらないと思ったからだ。友人の生活が煌びやかに映ろうが、悔しさで眠れないことがあろうが、すべては自分の決めたことだ。これを覆せば自分はまた弱くなってしまう。初心を貫徹すること、これは固執ではないはずだ、自分の信念にかかわってくる問題だったからだ。そうした自己との葛藤に、終わりが近づいた。寮が老朽化により、今年度いっぱいでなくなることが決定されたのだ。そうして3月でリーダーを終えた。1年なんだかんだでやり通した。そして4月のある日、生活費に消える給料を切り詰めて貯めた50万円をぎゅっと握り締め、大学の生協に行った。自分で作ったものだったから、今まで見たものよりも重く、大切に感じられた。そして、念願のダブルスクールを申し込んだ。やっと、入り口か、長かったな、周りか見たら馬鹿なやつだなって思われるんだろうなって思いながらも、その日は充実感があった。ずっと自分を支えてくれた友人から、「すごいね」と一言だけ言われて、涙がまた出そうになった。退寮日を向かえ、続々と寮生が出て行く、自分は自分を育てるだけでいっぱいいっぱいだったから、何か彼らにできたのだろうか。その答えを得ることはすぐにはできなかった。大学3年生の冬、官庁の説明会の件で、とある大学へ行った。そこで寮生と再会し、昔話をする。自分のしたことは無駄ではなかったことを知った。別れ際に握手を求められ、ぎゅっと握られた感触がずっと手に残っていたのをよく覚えている。ちゃんと自分の足跡はあったのだと。無我夢中で、自分勝手で、それでもこの1年は自分に大きなものを残した気がする。今の自分の原点は間違いなくここにある。どんなに辛くても、すべては最後には自分を成長させてくれること、「万事塞翁が馬」が自分の座右の銘となった。不器用だったと思う、回りも見えずに闇雲に走ってしまった感もある。後悔もあるし、反省も多い。だけど、これだけ苦しかった状況から逃げずに初心を貫いたことは自分を強くした。今なら言える。このときが無ければ自分は変わっていなかったと。だから自分は大学生活の中でこの一年をとても大事な時期であったと、位置づけている。合格できてよかった。過去の自分に、間違いでは無かったよ、無駄ではなかったよとやっと言えたのだから。 大学2年生(1) 打ち上げ花火 長かった拘束生活を終え、2年生からは両親の援助を得て普通の部屋を借りた。苦労するとどうしても心が狭くなってしまう。大学に入った意味をもう一度問い直した。もう少し、大学に即した生活をしなければならないという反省と、1年生の時ほど収入が望めなかったので、新しい区切りとして普通の生活を始めた。今年は何をすべきか。とりあえず、ダブルスクールや大学の勉強も大切だが、さらなる社会勉強も必要だなと思っていた。ふとしたきっかけで花火師の免許を取り、某テーマパーク等で花火を上げる仕事をすることになった。花火師といっても花火を作ることまではできず、打ち上げに関与できるだけであり、業界では「煙火打揚従事者」と呼ばれる職種である。今度は肉体的な仕事にチャレンジしてみたかったという動機が背後にある。危険で、きつい仕事を学生時代に経験しておくことは、将来公務員として働く自分に何かを与えてくれるかもしれないと感じたからであり、それが自分の理想の人格へ近づくためにも必要であると考えたからである。苦労や痛みがなければ、人の気持ちは判らない。その信条のみは継続された。最初の仕事のとき、花火の玉を渡され、「これは爆弾だからな、お前は死んでもかまわねえけど、周りにだけは迷惑をかけるな」と言われた。怖かった。しかし、そういった部分は、慣れれば多少楽になった。大きな花火大会の時はたまに危ない思いをさせられることもあったが、最近は機械により花火の打ち上げが管理されており、普段は自分が思っていたほど危険な目に合わされることはそこまで無かった。地べたを這いずり回って花火の燃えカスを拾ったり、不発弾を着ているシャツでくるんで運んだり、火花が雨のように振ってきたり、真冬の夜風が体に沁みたり、なかなか良い体験をさせてもらえた。もし苦心した事といえば、それは今まで接したことの無い世代の人たちとのコミュニケーションである。普段の学生生活とは、また違った世界だった。若い人もいるが、たいていは40〜50代の人が多く、最年長は74歳という環境の中で、自分はいかに振舞うべきか考えさせられた。まず、元気よく振る舞い、はきはきと行動すること。基本中の基本だけどこれが一番大切で、今の若者にはできないことだよ、と親父さんから褒めてもらえた。やっぱり嬉しかった。おじさんやおじいさん達との関係を深めるために、それからは健康系の話題や食べ物の話題を多く仕入れた。一緒に飯を食って、仕事して、お酒を飲んで、こんな自分を受け入れてくれて、職場の皆さんには感謝の思いでいっぱいだ。こうした仕事をする日々の中で、夏休み、クリスマス、大晦日など、自分がすべての季節の一端を作り上げている実感があった。一瞬のうちに咲いて散る花火の傍にいて、滅びの中に美を感じる日本人の心を誇らしく感じることもできた。仕事終わりには親父衆が飲みに連れて行ってくれる。ガード下のおでん屋や会社の寮で慣れない焼酎を飲みながら、いろんな話をしてもらった。とても貴重な時間だった。そうして出会った多くの人たちに支えられ、育てられ、今の自分がある。本当に自分は恵まれていたのだなと、今になって、そのことが分かり、なぜあの時、もっと感謝の気持ちを示すことができなかったのかと後悔している。人の何気ない言葉や行為に自分が支えられていること、自分以外はみな大切な師であること、それを今になって実感する。この花火の仕事は4年生の正月まで続けた。ここには、書ききれないが、他にも思ったことや考えたことがたくさんあり、自分の大学生活の中で大きな成長をもたらしてくれた場所であった。最後に一つだけ自分が大切に思ったことを記したい。それは大晦日のカウントダウンのイベントで朝早くからテーマパークで働いていたときのことだった。大晦日だからとても寒い、みんな作業着の下にカイロを付けたり、ストッキングをはいたりして工夫するが、夜が更けるに連れ寒さが増してくる。本当に長い1日だ。いつの間にか、手の平の所々に小さな傷ができていた。ようやく準備も終わり、やれやれ後は打ち上げの時間を待つだけという段階になった。そのパークが職員に無料で年越しソバを振舞っているというのを聞き、休憩がてら仲間でスタッフ食堂にソバを食いに向かった。食堂のドアを開けると500人は軽く収容できる食堂が園内のスタッフでいっぱいになっていた。こんな日にこんなにも働いている人がいるのかと驚いた。列に並んでいるとソバを茹でているオバちゃんたちがしゃべっている声が聞こえてくる。笑いながらだ。「あんた今日何時までよ?」「もちろん朝までや!あんたもやろ?」こんなに多くの人が大晦日から正月にかけて働いているのかと驚いた。自分だけが頑張っているのではなかった。大晦日・正月、多くの店の明かりがついている。電車が運行し、人で町がごった返している。楽しんでいる人がいるところには必ずそこに働いている人がいる。ある台風の日、花火を仕込んだが中止になり、早くに撤収した時がある。その帰る道、風に煽られびしょ濡れになりながら交通整理をしている人がいた映像が思い出された。正月も、お盆も、クリスマスも、大晦日も。雨の日も風の日も。暑い日も寒い日も。春夏秋冬、毎日、多くの人が働いてその日々を作っていることを知って、それを肌で感じることがようやくできて、自分はとても感動した。日本を動かしているのは決して少数のエリートではない。すべての人の営みの上に、自分たちが暮らしている「日常」が維持されているのである。誰かが寝ているときも誰かが働き、誰かが楽しんでいるときも誰かがそれを支えているということ、そんなシンプルだがあまり意識されてなかったことを、その日、体で感じることができた。ソバを食いながら、日本中で今働いている人を夢想した。みんなで今日という日を支えているんだな。そしてこれが無限にバトンタッチされて毎日が続いているのだなと。自分達だけが寒い中働いているという大間違いな考えは払拭され、すべての働く人への敬意へと変わった。それぞれが辛い思いをしながら頑張っているんだろうなと思うと、すごく今までの自分が小さく感じた。こういった感覚は、たぶん大切なんじゃないだろうか。少なくとも自分は、このとき抱いたこの思いを忘れずにいたいと思っている。花火の話は以上でおしまい。 大学2年生(2) 『君を忘れない』 大学2年の時に、もう1つ自分の心に影響を与えた作品がある。それは、『君を忘れない』という神風特攻隊の青年たちを描いた映画だった。 昔のことなので、特攻隊というとお爺ちゃんの時代のお話に感じるかもしれない。だけどそこに登場した人物は今の自分と同じような年頃である。昔の人物ではなく、今の自分の、周りにいる「友人」の1人のように隣にいると捉えて見た。愛国心という言葉には色々な考えがあるだろう。お国のために命を捨てることの是非をここで問うわけではない。それが、確固とした信念に基づいた人もいれば、泣く泣くやらざるを得なかった人もいるだろう。つらい思いをした人がたくさんいたということ、とくに自分と同じ年頃の青年がたどった道に思いをはせると、心が動いた。時代は違うが、自分以外の人や事のために、自分の人生をささげた人物がいたという事実を目の前に明確にみた。しかも、それは自分と同じ年の青年たちだったということに対して、心が大きく動いた。 自分の姿を省みてみる。旨いものを食い、暖かい布団に寝て、学校生活も楽しく送っていて不自由なことはほとんど無い。自分が少し「ズルいな」と感じた。自分をひどく恥じた。 自分には何ができるだろうかと手のひらをじっと見つめた。国を愛するとは少し違うが、自分以外の人のために何かをしたかった。それは現在や未来の人のためでなく、過去の人のためにも、いい国になったなと微笑まれるような国を作り上げる大きな仕事をしたいと思った。そして、国家の先に、地域を、さらにその先に世界を見据えて、段階的に平和や幸福を感じられる国家、地域、世界にするための仕事をしたいと思った。 こうして、世界を舞台に働きたいという気持ちと、第一義的に日本のために何かがしたいという2つの契機から、自分の将来進むべき当面の道を「外交官」と定めた。不純な動機は回りまわって再び同じ動機にたどり着いた。自分なりに考え、バラバラに散っていた気持ちを1つの筋に編み上げることができ、迷わずに邁進することができた。 ここにあげた本や映画の他にも、自分に影響を与えた書籍や映画はたくさんある。また、実際の人物からの影響もたくさん受けている。大切なことは色々な人の言葉や表現に眼や耳を向けることだ。古典を読むことは昔の人と会話するのと同じことだと考えている。大学生という頭がまだ柔らかくて、スポンジみたいに何でも吸収できるときに、自分が定まっていなくて揺れたり迷ったりするときに、こうして本を読んだりすることは一つの方法として有効だったのかもしれない。 大学3年生 現代中国政治研究のゼミ 自分が所属した大学の法学部では、3〜4年生からゼミに所属することができる。そこで、2年の冬は多くの学生がどのようなゼミに入ろうかと迷う時期であった。自分は国際政治に大きな興味を持っていたので、そういった系列のゼミを探していた。 しかし、結局参加したのは「現代中国研究」のゼミだった。なぜそのゼミを選んだのかは、今では忘れてしまった。直感というより迷い込んでしまったというのが率直な答えだろう。 同ゼミは前評判がよく、数度の志望調査でも常に一番人気のゼミであった。競争率が高いゼミほど優秀で面白い人間が集まるであろうし、その中で自分をもっと磨き、多彩な人間に感化されたいと思った。自己中心的になりがちで、考え方が固定化する性格は実感していたので、それを修正しなければという危機感もあった。自分ではまっすぐに進んでいるつもりでも、いつのまにか曲がってしまうものだ、という感覚が体にしみており、周囲の批判がある環境に身を置きたかったのだ。包括性、寛容性が自分には欠けているように思えたからでもある。自己の信念を貫くことと、固執することが同義であってはならない。 当時の社会状況も自分がそのゼミを選んだ背景にあったと思われる。ゼミを真剣に考えた2004年〜2005年という時代は日中関係がかなり悪化していた時代で、政治だけでなく経済の面でも、毎日のように中国の報道がなされていたときであった。その歴史や政治体制について考察を深めておくことは将来的に役に立つのではと漠然と考え、その感覚を信じた。 素晴しい教授と仲間に恵まれ、学校がすごく楽しくなった。3年生からはゼミを中心に生活が進むくらい、勉強も遊びも充実感を与えてくれる場所だった。グループで何かをやるということは久しぶりだったし、十分に自分を成長させてくれる場所であったと思う。卒論研究を通して、ほんの少しだが、「学問」というものに指先で触れることができたような気がした。勉強とは違う、「学び、疑い、問う」という姿勢をほんの少しながらも考え、実践しようとした経験はこれから生きてくるだろうと思われる。 総じて、ゼミの友人は一生の友人となりうるだろうし、教授には感謝しても仕切れない。先生として、東京の父として、ありがたい存在であった。仲間にもこの場を借りて、感謝の気持ちを伝えたい、みなに会えなかったら今の自分はなかったと。 大学3年生(2) 渡辺ゼミに参加 Wセミナーでは、2年生から板書生をやっていたので先生に接触する機会は多かったし、それによって勉強に投資できる資金も得られた。渡辺先生にもレギュラーの授業でお世話になり、この先生がゼミをやると聞いて、ぜひ参加してみたく思った。チラシをみれば何十人もの内定者を輩出するサバイバルゼミ、これに参加しないわけには行かない。そこで勉強仲間と入ゼミ試験に望んだ。 まあ、いつものことだ。仲間みんなが I 期に受かって自分だけ1点差で落ちた。多少凹んだが、自分も少しは打たれ強くなったもんだ。最後に勝てばそれで良いからと腐らずに勉強を続けた。2年生から続けた努力はいつか何とかなるもんだと信じた。ということで、 I '期にはなんとか合格することができた。 I 期と比較すると二軍の感は否めなかったが、下克上のつもりで最終的にはトップで受かってやると意気込んだ。しかし、その1ヵ月後のアンコール模試で専門・教養併せて30点を切るという現実に向き合わされた。さすがにこのときは行く末が暗くなった。 時は年末、試験まであと半年を切っている。自己採点の夜は仲間と居酒屋で飲んだくれた。凹んでる暇は無い、すぐに切り替えないと、自分が行く道は一本しかないんだから。ということでこの年は実家に帰らなかった。カウントダウンの花火を揚げた後は正月から喫茶店にこもって勉強した。そしてゼミがはじまった。大学の学部試験と重なる時期だったが、両立することは不可能ではなかった。勉強という観点において、ゼミで一番大事なのは、おそらくゼミの授業自体ではない。ゼミは回数と時間が限られている。ゼミの日に至るまでの入念な予習と問題演習、そしてその後の丁寧な復習の過程が一番大事なのだ。ただゼミに顔を出しているだけでは意味が無いし、ゼミでも自信を持って回答することはできなくなる。自分はハンデがあると思い、出された課題の1.5倍を自分に課し、ゼミに臨んだ。過去問10年分やって来いといわれれば15年〜20年分やって望んだ。決して受身でいてはならない。ただゼミで先生の声を聞いていても実行しなければ受からないことだけは忠告しておきたい。 ゼミで教わった勉強法で特によかったのは、朝・昼・晩のタイムテーブルを付けて勉強するやり方だった。自分は手帳を買い込み、1週間の予定、目標、達成度の評価をつぶさに記録した。朝起きた時間から勉強を始めた時間まで、だらしなく勉強してきた姿勢を改め、自己管理に重きを置いた。これがとても良かった。先生はこれの一例を板書に書いただけで、周りの受験生もそれを写してはいたが、最終合格・内定に至らなかった人の多くは実践していなかった。教養・専門、苦手・得意をうまく使い分け多大な科目数を効果的に消化することができるようになった。 また、先生は授業中よく怒る。声が小さかったり、長くくどく発言していたり、回答の証拠が不十分であったりしたときに、大きな声でみなの前で遠慮なく(それでも先生は遠慮しているとのことであるが)叱る。反骨心がおおきかった自分はその時はそれが愛情であるとは分からず、反発し、逆に先生を黙らせるくらい勉強してやろうという気を起こし、勉強を深め、姿勢を新たにした。今思えば、はきはき分かりやすく話すこと、要点を性格に端的に話すこと、明確な根拠を持って話すこと、すべて最終合格と内定に必要とされる能力を養うためにやってくれていたことだったんだなと反省する。知らないうちに、憲法や行政法の知識だけではなく、色んな能力を養ってもらっていたのだ。だからゼミ自体に意味は無いと誤解されるような先ほどの発言はここで修正されたことを確認したい。ただし、ここでも受身にならないこと、貪欲に先生に絡んで行くくらいが迷惑かもしれないけど、勉強してなくて黙っているよりは幾分いいのだと思う。ですよね、渡辺先生。 また、圧倒的な情報量を漏れなく確保できたことも大きい。知らないことは不安につながるが、知っていることは自信を支える糧になる。ゼミから提供されるものだけではなく、ゼミ生同士で共有しあう雰囲気がまた良かった。ライバルであるが仲間の意味合いを大きくしていた点で、ゼミのみんなを尊敬している。ゼミの仲間とは、共に学び、試験前は一緒にエントリーシートを確認しあったり、ディスカッションを開いたり、模擬面接を開いたり、1人で勉強していたらできなかった多くのものを得ることができた。そのときの仲間は現在も関係を継続している。同期になったものは共に旅行したり、遊んだり、離れ離れになったものも共に酒を飲みお互いの現状を話し合う関係が続いている。きつい時期を共有した仲間は深い絆で結ばれている。その環境を与えてくれた渡辺ゼミには非常に感謝している。 大学4年生 試験前 4年生になると、試験まであと1ヵ月という時期になる。試験直前期はメーリスグループ「7時半の会」を何人かの仲間で結成し、ともに早起きし予備校の自習室に朝から晩までこもった。1人ではなく、共に励む仲間がいることは心強かった。試験前にはカツを食いに行ったり、試験が終わった今でもグループは機能している。予備校に入ってよかったことは、いい仲間を得ることができたことだ。 4月、民間の就職活動も行った。受験との並行を可能にするため、面接を受ける会社を5社程度に絞った。もくもくと面接の日々をこなしたが、内定は1つも出なかった。かなり凹む、自己を否定されているような感覚に襲われ、友人との間に格付けが行われているような雰囲気ができ、この時期は言葉を慎重に選ばなくてはならないムードになる。ゼミで次々と内定を得る仲間の報告が入り、自分がまた取り残される感じを直前時期に味わった。 結局、また今度も駄目になるのか。大きな目標への3度目の挑戦である。また失敗するのか。2度あることは3度あるか、3度目の正直か、不自然に日々自分を奮い立たせ、よく落ち込んだ。本番に弱いという自分に付けられたレッテルを剥がしたかった。自分について語る権利をもう一度回復したかった。周りから張られ、そして自分自身もそう信じてしまっている自己の性格を変えたかった。自分を修正することができるのは自分だけであり、それは必ず、こうした逆境でしか治せないものだし、次の機会なんて来ないから今やらなければならなかった。「弱い性格は強い信念で克服することができる」。そう自分に言い聞かせた。自分を信じろ、自分に自信を持て、と人はよく言う。簡単に出されるそんな優しい無責任な言葉に対して、どれだけそれを実現することが難しいか、どれだけ迷わずに邁進ですることが難しいか、とても憤った。結局、自分を信じるとはどういうことなのか、自信を持つということはどういうことなのかも分からずに今に至っている。びびりながらでも、劣等感や自意識に苛まれながらでも、とりあえず毎日、腹の丹田に力をこめて地道に進み続けるだけで十分だ。自信なんかなくてもいい、自分なんか信じられなくてもいい、ただこれからの道を前に見据えて走っていければそれでいい。もし今の自分を肯定できなくても、自分は変わりうるのだと考え、今がその機会なんだと自分に言い聞かせればそれでいい。泣くのもいいし、夜の河原で叫ぶのもいい、自分と向き合える時間なんてそう多くは無いはずだ。コンプレックスや劣等感は成長の種であり、不安や悔しさはその養分となりうる。たまには振り回されず、落ち着いてこの状況を楽しめばいい。 重要なのは自分の価値は自分で決める、ということだ。もちろん自分には見えていない部分が多々あるので、他人の助言や辛言には耳を傾ける必要があるのは当然であるし、重要なことだ。自分はいままで、色々なことを言われてきた、色々な人々に色々な評価をされ、その全てに自分は傾き、そして分裂した。「お前は夢ばかり追いすぎ、もっと現実を見ろ」「つまらない意地を張りすぎだ」「お前なんかに無理だ」「相応のことをしてればいい」、友人からも、家族からも色々な言葉を受けた。そして、その度に自分はやはり駄目なのかと真に受け、自分を責めた。反省すること、自己を否定することが絶対の義務であるように。客観的自己を発見することは必要不可欠であるが、自己を消してまで、否定してまで他人の評価に一喜一憂してはならないと思う。社会が変われば自分が見せる態度は変わるように、性格とは限定された個人情報を元に他人が勝手に設定する面もある。自己批判は大切だが、大事な軸だけは動かしてはならない。最終的に自分の評価をして良いのは、たぶん自分だけだと思うから。自分を反省するときは全てが駄目だと思って自分を否定するんじゃなくて、いい所もたくさんあって、この部分を直せばもう少し良くなれるんだな、と思って自分に接すればいいと思う。前者では凹む時間が長い割りに、小さな欠点は同時に修復されないまま放置される傾向にあるから、後者のやり方の方が本当に反省ができるんだろうと思う。 もちろんこんなことくらいできてるよとか、お前だけが薄弱すぎるんだろという意見を受けるかもしれない。各自のやり方があって当然で、各自のやり方が正しいと思います。だから、自分を確立できていたり、十分自分に自信が持てる経験を積んできた人にはこの文章は軽く流してほしい。自分は、もしかしたら、自分のような、迷っている、自分を肯定できない後輩受験生がいるかもしれなくて、それに対するほんの一つのアドバイスが送れたら良いなと思って書いているだけであるのだ。受験というのはゼロか100かの世界だ、だから、自信につながる形を持ったものを最後のときまで持つことができない。形が無いから不安になる。自分は特にそうだった。今まで失敗だらけだったから。でも、やまない雨はないということ、どれだけ失敗しても夢はちゃんと叶うということを、同じような道を今まで歩み、壁の前であきらめてしまいそうになっている人に伝えたかったのだ。 何かの漫画にあった、「諦めたらそこで終わりだ」、スラムダンクだったかな。 諦めなければ、変わることができる、そしてまた新しい始まりに出会える。 受験中、不安なこともたくさんあると思う。それでも、自分ひとりが苦労しているとは思わないことが大切ではないだろうか。時間の制約があるとか、必要な条件が備わっていないという事は常にある。重要なのはそれでもなお一歩踏み出す事だ。簡単でよく聞く陳腐なフレーズだが、それだけに難しい。これから、色々な逆境が訪れる。周りの受験生と比べてハンデを背負うこともあるかもしれない。自分だけが苦しいと思わないこと、背負った重みがそのまま自分の重みになると信じることが大切ではないか。海外経験が無かろうが、無名大学だろうが、模試の成績が悪かろうが、本番に弱い性格だろうが、家族に不幸があろうが、自分の選んだ道だ。つまずきがあって当然の茨の道を選んで皆が歩いている。その中で自分は輝けるだろうか。その輝きを生み出す場所はどこにあるのか。自分は逆境や苦労の中でこそ自分が磨かれると信じている。 制約も不利な条件も、全ては自分の心次第で風景が変わりえる。弱い性格は強い信念により克服でき、コンプレックスや劣等感は成長の種となり、養分となる。貴公を襲う全ての逆境と苦境を乗り越え、受験を通し成長していく自分を信じ、最後まで挫けずに駆け抜けて頂ほしいと心から思う。頑張ってください。 (終わりに) さて、これからはどうしようか こうして、こんな時期を乗り越えて、今、このように文章を書いているとまるで遠い昔のように感じる。なるべく当時の臨場感を出したかったので、日記やメールの履歴を見ながら当時の自分たちを振り返ってみた。まあ、結果オーライな気もする。自分に凝り固まっていた気もする。もうちょっと楽に考えて進めばよかったかなとも思う。だけど、後悔が無い人生なんて無いと思うし、これでいいかなとも思う。不器用なりに、色々考えてストイックによくがんばったかなと少しは自分を褒めてやってもバチはあたらないだろう。 さて、夢を叶えはした、これからどうやって動いていこう。周りには自分より優れた人がいっぱいいる。これからは日本のために海外の優秀な連中とも関わっていかなければならない。俺でよかったのか? 合格してすぐに充実感は不安に変わった。色々な本を読んできたつもりだが、はっきりした日本のビジョンは描けていない。それを見定めるために、外と内から国家を見つめるためにこの省を選んだのだから、当面の、一生の宿題として考え続けるつもりではあるが。本当に俺でよかったのか? 俺には何かできるだろうか? 受験中はやりたいことがあった。中国や東アジアの国際関係を選考してきたので、この東アジア地方の安全保障やEUのような地域統合に向けた仕事に携わりたいという気持ちがあった。しかし、自分の志望した語学とは違い、英語を学び、アメリカで留学をすることになった。そこで、しばらく自分を支えてきた夢の喪失が、合格後に一度にあった。もう一度自分を見つめなおさなければならなかった。そもそも俺は何がしたかったのかと。 とりあえず、旅をしてみた。前々から行きたいと思っていた北海道を旅行したとき、帯広の町に愛国駅、幸福駅というのがあった。そこで、「愛国から幸福へ」という切符を買った。 愛国という言葉にはそれぞれ考えるところがあると思う。幸福という言葉はとても無垢なのに、愛国という言葉はへんなにおいがする。しかし、愛国駅も幸福駅も訪ねたとき、駅舎のそこらじゅうに何年も前に訪れた家族やカップルや仲間たちの赤茶けた写真やメッセージが張り巡らされていて、どこか自分が思う言葉のニオイとは雰囲気の違うものだった。 もしかしたら何年も前、この駅がひらいたときは愛国という言葉は幸福と同じくらい簡単に心の敷居に入ってくることができる言葉ではなかったのだろうか。自分が生まれ、ものを学んだころ愛国という言葉はすでに何か人工的な改造を受けた言葉として世間では評せられていて自分は胡散臭いあいまいな雰囲気の中でその言葉を捉えた。いつかこの言葉を、人々が自然に使える日がまた来ればいいなと夢想した。時代を経て少しずつ自然な感情として戻ろうとも、汚してしまった表面は、かさぶたを剥がした跡のようにしみが残って消えないのかもしれない。ゆっくりと時間を経ていつか自然な感情に戻ればいいなと思った。 「幸福」か……。眠れない中、宿の天井を見ながらだらだらと考えをめぐらせた。2次試験の教養論文で、「幸福とは何か」という問題が出たときは、なんて変な問題なんだと思った。試験が終わってしまった後は、その問題への再回答を放置してしまっていた。自分はずっと中国関係の仕事がしたくて、英語を言い渡されたときは自分の夢は何だったんだっけって思った。それからしばらく考えた。よく語学は手段だという。同じように、尊敬する外務省の先輩は「自分のしたいことの先に何があるのか考えなさい」とよく言った。その先は国家のコクエキのためかな、と自分に言い聞かせてみたが、ちょっと違った感じがしていつもしっくりこなかった。とりあえず分かったふりをしていた。 この切符を見て、幸福という言葉をみて、これが目標なのではないかとふと思った。 ようやく、頭ではなく心でわかった気がした。国を愛し、人々を幸福へ導く、それが僕らの使命なのかなと。自分一人でどうにかできるわけではないし、官僚が国を動かしているという感情とはまた違うものだと信じたい。1人ひとりが方針として、少なくとも自分は何かの仕事をするときは、日本の国益という硬い言葉ではなく、人々の幸せのためになるかな、と考えながら、それを心の隅に置きながら、行動していきたいと思った。 まだまだ、自分は未熟だし、甘いと思う。こんな自分がこんな重責を背負っていけるのかという不安はあるが、まだまだ自分は成長しうると思うし、留学や在外において新たな刺激を受け、変わっていくだろう。ここはまだゴールではない、夢の先でもない。夢は手段であり、目標は人々の幸せを守ることである。日本の、地域の、世界の幸せを可能な限り、調整し、増長させ、安定させることである。「幸せとは何か」最近はそれについていろんな本を読んだり、人の声を聞いたりしているが、すぐにはその答えは出ないだろう。だけど、重要だと自分は思うから、これからもこれを忘れずに、常に再定義を行い、それに沿って行動していきたいと思う。 小さいけど重い、幸福への片道切符、自分への指針として、大事に持っていたいと思う。 (了) |
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