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私の教育論
宿題の出し方から見た教育観
 

 宿題の出し方は、教師にとって重要な技術である。多すぎては生徒が学習意欲をなくすし、少なすぎては生徒に充分な学力が身につかないからである。

 現在、主として、大学生相手に、憲法と行政法を教えている。そこでは、1科目週1回1コマ3時間の講義に対して、予習3時間と復習3時間を課している。1科目あたり講義のある日は3時間だが、他の日は平均1時間となる。前日に3時間予習をし、翌日に3時間復習をするのが理想的である。大学生としては、こんなものだろう。やれば合格に近くなるし、やらなければ合格から遠ざかる。小・中学生と違い義務教育ではないから、やるかやらないかは、本人の自由意思である。もちろん、学習効果を考え、確認テストを随時やるが、講座によってはできないこともある。しかし、この程度の努力をし、この程度の知識を身につけない人は、むしろ公務員にならないほうが公のためにはいいとも言える。

 これに対して、小・中学校は違う。相手は大人ではないし、義務教育であるから、平均的なレベルは必ず確保する必要がある。私の妻は、10年ほど小学校の先生をしていたが、「学年に10を掛けた時間(1年生は10分、4年生は40分)だけ宿題を出すのが理想的だ」と先輩の先生に教えられたという。小学生は、だいたいこんなものだろう。

 ところが、長女が3年生の時に1日3時間の宿題を課する先生がいた。通常の宿題の他に「自由勉強」なる大量の宿題が出るのである。例えば、国語の音読を各単元ごとに10回(宿題で出した分は含まない)、算数ドリル各単元2回(問題も書く)、漢字ドリル1回(授業中や宿題で出した分は含まない)を夏休み前までに課するのである。もちろん、クラスでも上位の子は1学期の終了に間に合ったようである。しかし、中間的なレベルの娘は7月に毎日3時間やっても間に合わず、神経性の慢性じんましんになりながら、やっと8月の初めに終了した。後で知ったのだが、驚くべきことに、10月の初めになっても30人余のクラスで10人以上がまだ1学期の宿題を終えていなかった。
 私は、妻にせかされて、やむを得ず10月初めの父兄面談に出席することになり、先生に、「なぜこんなに宿題を出すのか。」と尋ねた。先生は、「一人の落ちこぼれも出したくない。」、本音としては、「塾に行かせたくない。」とのこと。その趣旨は、よくわかった。繰り返しも重要である。
 しかし、「自由勉強」と称して、低学年の子どもに宿題を出すのは、方法論として間違っている。低学年の子どもは、計画の立て方を知らない(大学生も最初は勉強の仕方と計画の立て方を知らないので、私が教えている)。それで、「その日の分が終わった時点で、『ここからここまでをやってね。』と言って下さい。」と言うと、なぜか先生は、「それはできない。」と言う。先生が計画的に宿題を出せないのに、子どもができる訳がない。ちなみに、私が、自分で計画的に勉強するようになったのは、中学生からである(その時、参考にした『中学コース』が、廃刊となったのは、時代の流れと言うべきか?)。

 勉強も、量と質のバランスが大事である。先生には、勉強の質という観点が欠落していた(また、質より量を優先するので、宿題のチェックは甘かった)。娘は「もっと遊びたい」と言うので、1年からやっていたそろばん塾は、2年でやめさせていたが、3年になり塾よりも忙しくなって、遊べなくなってしまった。これ以上、やったら娘の体がもたないので、それ以降は国語の音読は各単元ごとに10回やるが、宿題で出した分を含める(その代わりに図書館で借りた本を読ませる)。また、算数ドリルは各単元1回やるが、間違ったところは必ず2回やる(問題も書く)ということで、例外を認めていただいた。しかし、あくまで例外なので、最後まで苦しんでいた子も少なくないと聞く。

 他方、友人の長男は娘と同学年であるが、彼の先生は、全く宿題を出さないという。「宿題は自分でやるもので、本人の自主性を尊重する必要があるため」と言う。東京都に住んでいる友達の子供の先生に多いタイプである。これも困る。易きに流れるのが人間である。自分の子どもが学校から帰るとすぐ遊びに行ってしまうので、友人の奥さんは心配していた。ただ、勉強の遅れは、体力がある限り取り戻せるが、健康を害したのでは、学力があっても何にもならない。健康と学力とどちらが重要かと言われれば健康だが、宿題を出さないのも困る。人間は忘れる動物である。結局、これだと先生が楽をして、塾が繁栄するだけである。

 もちろん、学年ごとに適量・適質の宿題を出す先生もいる。このような先生は、計画的に授業を進め、宿題も丁寧にチェックしている。しかし、私が子どもの頃に比べて、そのような先生は少なくなっているように思われる。
 ただ、塾が発達して、どのレベルの子どもを念頭に宿題を出していいのか、多くの先生は迷っているようにも思える。

 ところで、長女の先生は、意欲的で頭のいい子を想定して宿題を出していた。そうでない子は、そういう子に追いつかなければならないという発想である。この考え方は、高度成長期の日本人の多数派の考え方に類似する。「無理をしてでも努力することは尊い」という考え方である。しかし、大量の宿題を短時間でこなせるのは、優秀な子である。普通の子や優秀でない子は大量の勉強がこなせないので、勉強が嫌いになるだけである。長女も、『子どもチャレンジ』は進んでやるが、今でも『ドリル』(計算・漢字)を嫌がるようになってしまった。

 これに対して、友人の長男の先生は、「やる気のある子は勉強すればいいが、やる気のない子は勉強しなくてよい」という発想である。この考え方は、低成長期の日本人に増えた考え方に類似する。「何も無理をしなくてもいいじゃないか」という考え方である。私の考えは、大学生に関しては、これに近い。しかし、大学生ならともかく、小・中学生にはこの考え方を当てはめるのは、問題がある。結局、この先生も、優秀な子を想定している。「やる気」のある子は優秀だからである。

 しかし、大多数の親は「子どもにやる気がなくて困っている」のである。極端な話、子どもに「やる気」があれば、塾とか家庭教師は要らないのである。私の経験からしても、「やる気のある子に勉強を教えるには楽だが、やる気のない子に勉強を教えるのは難しい」。やる気のない子にやる気を起こさせることのできる先生は、超一流の先生である。
 ちなみに、頭はいいが、勉強が嫌いで、成績の悪い人は世の中にはたくさんいる。逆に、頭がよく、勉強が好きで、成績のいい人は非常に少ない。東大生は、一般に、頭がよく、勉強が好きで、成績のいい人と見られている。しかし、実際は違う。頭は普通の人よりはいいが、本当に頭のいい人は少ない。また、文 l ・法学部の場合、入学しても勉強するのが3分の1、勉強しないのが3分の1、どっちつかずが3分の1だった。勉強する人も国家試験に合格するため仕方なくしている人が多く、好きでしている人は少なかった。そんなに頭がよくなくても、勉強が嫌いでも、やることをやっていれば東大にも入れるし、国家試験にも合格するのである。その証拠に、塾が発達し、今までだったら入れない頭の子も、自分ではやる気がなくて他人にやる気を出させてもらった子も、たくさん東大に入っているのである。そのせいか、10年前と比べて学力がかなり低下しているとの指摘もある。
 話をもとに戻す。現実には、「宿題は(積極的には)あまりやる気はないが、(消極的には)宿題はやらなくてはならない」と思っている平均的な生徒が圧倒的に多い。このような平均的生徒を基準に宿題を出すべきなのである。

 先生によっては、下位の子に合わせて先生もいる。しかし、低学年ならともかく、中学年・高学年では、前に進まなくなる。そこで、下位の子ども達については、日本人の平均的レベルを上げるため、1学級の人数を減らし複数の先生が見るとか、東大経済学部から国 l 法律職に合格したK君の通ったアメリカの小学校のように能力別に学級編成することが望ましい。
 しかし、前者だと、上位の子どもは、塾に行かなければ満足しないかもしれない。他方、後者であれば、公教育の中で、上位の子どもにも対応が可能である。前者が平均志向の強い日本人の感性にはなじむかもしれない。しかし、算数と数学のレベルが国際的に見ても低下しているという指摘が最近なされている。そこで、塾にだけ上位の子どもを委せるというのはどうかとも思う。後者も検討されてよいのではないか? ただ、優秀な子どもを教えられるだけの知識と技量が教師にも要求される。

 そもそも、これからの日本の教育の在り方としては、基本的な知識とルールは義務教育の間にしっかり身につけ、高校からは、自分の個性を充分に発揮することに重点を置くべきではないか。それは、勉強でも、野球でも、サッカーでも、料理人でも、大工でも、美容師でも何でいい。
 ここで、一貫して大事なのは、集団の中で協調しながら、個性を発揮することに重点を置くことである。「人に迷惑をかけない」という社会生活上の最低のル−ルは、戦前は、これがあまりにも強調され過ぎたが、戦後は軽視され過ぎたように思う。社会生活上の最低のル−ルを前提として守るのが第一である。そして、個性の尊重である。他者と違うことをやり、社会に貢献するのである。
 しかし、個性の尊重と言っても、社会で生きていく上で必要な最低限度の知識とルールは、少なくとも、義務教育では、しっかりと身に付けさせる必要がある。それは、小学生の段階では、勉強だけではなく、同級生、下級生、上級生、先生方との縦と横の交流を通して、身につくものだと思う。その点、千葉県庁トップ合格のK君の通った小学校は理想的である。しかし、現在の教育は、あまりにも横割り・横並びの知育に傾き、徳育と体育が軽視されているように思う。知育だけでなく、徳育と体育に費やす時間もほしい(もっとも、最近、改善の動きも見られるが、不充分である)。三つのバランスの中に個性も磨かれていくのではなかろうか?

 宿題も、最低限度の知識を正確に身につけるという観点だけでなく、総合的観点から、計画的に適量・適質を毎日出さなければならないと考える。

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