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私の教育論
宿題の出し方から見た教育観(2)
 

 8月18日の日本経済新聞(夕刊14面)によれば、イギリスでも宿題の量を巡って政府、学校、家庭を巻き込んで論争の真っ最中という。

 論争に火をつけたのは、「宿題は必ずしも学力の向上につながっていない」と発表したダーラム大学の研究チームである。これを受けて、校長連盟のハート事務局長は、「肝心なの量より質である」とし、宿題よりも放課後のスポーツや音楽などの課外活動が重要であると発言し、政府に宿題を押しつけないように要請したという。
 イギリスでは、政府のガイドラインで「5歳で1週間に1時間」、「16歳で1日2時間半」と宿題の目安が決められているという。しかし、ブランケット教育相によれば、「イギリスの学校の4割で宿題がほとんど、またはまったくなく、むしろ、そちらが心配である」という。

 ハート事務局長もブランケット教育相も真実を語っているとするならば、イギリスの学校の6割(もちろん、適量の学校も何割か含まれよう)で宿題の出しすぎ、4割で宿題の欠落が問題となっていることになる。

 前にも述べたが、宿題や勉強には、量と質のバランスが大事である。ある一定の質を確保するためには、ある一定の量が必要である。逆に、ある一定の量が確保されなければ、ある一定の質も確保されない。
 ただ、宿題の出し方は、対象によって異なるべきである。少・中学校では義務教育であるから、国民全体のボトム・アップが課題となる。成績中位者と下位者を意識し、毎日適量を出すべきである。シビル・ミニマムを確保するのが国家の役目とするならば、上位者は塾で満足する他はない。しかし、日本の文部省は下位者のための塾は認知したが、上位者のための塾は好ましくないと考えているようである。
 高等学校では、義務教育ではないので、なるべく本人の自主性に委せるのがよい。ただ、進学校の場合、授業の予習・復習は、宿題であろうとなかろうと不可欠である。
 大学生の場合、勉強するかしないかは、基本的に自己責任である。ただ、受験指導の場合は、立場が違う。私は、講義の時点で考えて、最終的に国 l や外 l の合格最低ラインには達するのに必要な宿題を出すよう心がけている。しかし、それをやるかどうかは、本人の理解力と実行力の問題である。やった人は受かるし、やらなかった人・手を抜いた人は落ちる。私のゼミでは、選抜試験に合格している以上、全員受かってもおかしくないと思うし、毎年言って励ましてはいるが、毎年残念なことに半数の人は落ちる。残酷な言い方かもしれないが、やるべきことをやらず落ちるというのは、キャリア・エリートが当然克服しなければならない試練である(ただ、私が「この人は、受かる」と思った人は、一度失敗しても二度目には、ほとんど合格している)。
 この点、昔と比べ、生徒の学力の差異が大きくなり、親の価値観も多様化した現在の義務教育の現場に身を置き、学級崩壊・不登校・イジメなどの諸問題に直面しつつ、クラスをまとめあげようと日々努力されている先生方には、深い敬意と同情を禁じ得ない。

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