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私の教育論
2000年の教育を考える
   昨年連載を始めたこの企画も、私の都合で間が空いてしまった。 しかし、昨年は、いろいろな事件があった。

 まず、文京区で起きた「お受験殺人事件」だが、小学校受験の合否を巡る嫉妬が原因ではないと判明したものの、小学受験を当たり前と考える人(被害者の母親)とそうではないと考える人(加害者)の価値観の相違が人間関係にも反映し、その結果、加害者に生まれた葛藤が犯罪の原因の一つとなったとも言えよう。個人的には「小学受験の是非」(6/17)にも書いたように、国立大学の付属の小学校の受験は勧めないが、国立大学の独立法人化の議論も絡み、将来的にはその存在意義すら問題となり得よう。ただ、「中学受験の是非」を書いた段階では、長女の意思と性格を考慮して受験させないつもりではいたものの、2002年から教育内容が3割削減される(例えば、円周率を3.14と教えない)と聞くと、6年後の大学受験を考えた場合、不安になり、多少迷っている。

 また、「最近の公務員受験生」(6/21)を書いた後、A君(無事に内定をゲットした)から指摘があった。それによると、現在の大学3年生は教育過程が違っており、後輩とは話が合わないことがあるとのこと。学力の低下を示す某大手予備校のデータも私の手元にある。また、原因を自己でなく、他人に求める傾向が強くなり、「授業がわからないのは先生のせい(教え方が下手)だ」という人がやや増えてきた。私が学生の頃は「授業がわからないのは自分のせい(勉強不足)だ」と思っていた。しかし、なぜ「授業がわからない」のかは、ケース・バイ・ケースで判断する他はないと考える。現在、大学の授業の評価システムも話題になっているが、一方的な評価システム(従来は教師からの、今回は学生からの)ではなく、双面的な評価システムが必要かと思う(ただ、大学と予備校は目的が違う。予備校でも大学受験の予備校と公務員試験の予備校は違う。公務員試験は範囲が広く、定評のあるテキストは少ないので、積極的に講義や文献をうまく活用できる人の合格率が高いことは言うまでない)。

 さらに、「通学路が危ない」(7/27)との記事を書いたが、その後、通学路どころか小学校の校庭や中学校の教室までも危ないことがわかった。もはや、日本の「安全神話」は崩壊したのか? 一方で「開かれた学校」ということが叫ばれている。学校の安全性と「開かれた学校」を調和するためには、コンビニや銀行と同じように、校庭と入口など一般人の自由に出入りする箇所には監視モニターを設置する他はないと考える。監視モニターは常時録画(常時監視は人件費がかるので、時間の空いている人が適宜見ればよい)しておき、1週間ごとに何もなければ上書きをすれば充分だ。確信犯を除き、威嚇効果は充分にあると考える(警備会社のマークを張っておくだけでも泥棒はかなり防げると聞く)。できれば通学路にも、監視モニターを設置し、登下校時は、警察署が監視するか、警備会社と契約し、監視してもらう。監視モニターの設置はメーカーにも利益となる(一般競争入札と大量生産により価格が安くなり、一般の人も監視モニター設置できるようになる)。電気代は、太陽電池を屋根に設置し捻出し、余った電気は電力会社に売る。現に川越市では節電で余った予算で実施しているので、他の自治体もやってやれないことは決してない。できれば、学校の授業も録画することを勧める。授業を風邪などで休んだ生徒・児童は、その録画を見れば、授業に追いつくことも可能となり、落ちこぼれも防げる。先生同士もお互いの授業を見せあい、切磋琢磨することも可能となる。学級崩壊を防ぐのにも有効な手段となるかもしれない。ただ、先生の自主性を奪うと困るので、欠席者がいるときと特別な目的がある場合に限るのが無難なところである。ちなみに、私の講義は地方校の受講生と欠席者のため、ゼミを除き、すべて録画されているが、別段支障はない。ただ、ゼミのほうが本音を話し易く、普通の講義は建前論で終わるということも少なくない。学校の授業は、先生が生徒と本音で勝負することが命と思われるので、すべて学校の授業を録画することはお勧めできない。

 今年も、この調子で、教育論を展開する所存である。
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