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4/22(土)の日本経済新聞で、慶応大学の戸瀬信之教授は2002年から導入される新学習指導要領(学習内容3割削減)はさらなる学力低下を招きかねないと批判しておられる。戸瀬教授は以前にも京大の西村和雄教授とともに『小数ができない大学生』(東洋経済新報社)を書かれ、大学生の数学力の低下を指摘しておられたが、数学力だけでなく英語力や国語力の低下を嘆く大学教員も多いという。
一方で、アメリカでは1980年代の個性重視の教育が数学と理科の学力低下を招いた反省をふまえ、読み書きと数学・理科の強化を最重要課題としているようである。戸瀬教授によれば、今のままでは日本は1980年代のアメリカと同じ間違いを繰り返すことになると指摘される。
文部省のねらいは、七五三の解消にあるとみられる。七五三とは、小学校で7割、中学校で5割、高等学校で3割しか授業内容が理解できないと指摘される現実を言う。しかし、授業内容を3割削減しても問題は解決しない。確かに、授業を理解できる人の割合は増えるかもしれないが、国際化の進む21世紀で日本が主要先進国として生き残れるかどうか? 日本には資源がないから優秀な人材(人財)を育成するしか生き残る術はないのではなかろうか? 学校の先生の負担は軽減され楽になるかもしれないが、「自ら考える力」がつくかどうか? 物を考えるためには基礎的な学力が前提となるのではなかろうか?疑問は尽きない。
一般論として、七が上昇すれば、五三も上昇すると考えられる。
私の見るところ、小学校で3割が理解できないというのは教師にもかなり責任があると考える。以前、算数の授業を見たが、教師は塾に行っている子に合わせ、3×2の次に、3×20をとばし、いきなり3×200を出すというような授業をやっていた。塾に行っている生徒は難なく答えていたが、3分の1くらいの子どもは困ったように鉛筆をいじるだけであった(私の目の前の子どもも困っていた)。娘は遠くにいたので様子がわからなかったが、家で質問すると解法を鵜呑みにしていただけだった(なぜ0が6の下に2つ付くのか、あまり理解していなかった)。力量のない先生だと、30数人のクラスでも落ちこぼれ予備軍を作り出してしまう。もちろん、力量のある先生であれば40人学級でも何とかなるが、普通の先生だと負担がかなり重いようである。
そこで、まず第一に、普通の先生のために、担任1人あたりの生徒数を減らすべきである。長女は5年生になったが、学級編成が国の機関委任事務から自治事務になったのに、従来の例にならい、1学年120数人から120人丁度に減少したことを受け、30数人の学級4クラスから40人学級3クラスになってしまった(自治事務になったのを知らないのか、教育に予算を使う気がないのか?)。第二に、力量のない先生を中心に指導技術レベルを上げる必要がある(塾の授業を見ている生徒と親の目は厳しいものがある)。第三に、チーム・ティーチング(これは、娘の学校でも実施されている)などでクラスの下位3分の1の底上げを図る必要がある。
これに対して、新学習指導要領は、クラスの下位3分の1の底上げを図る教師の手間を省く結果、上位3分の1のさらなる学習意欲を削ぎ、中位3分の1のレベルダウンをもたらすに違いない。なるべく塾に行かないで、レベルの高い教育を望む親の意思は無視されることになる。
また、中高一貫の国立・私立は現在でも大学入試に有利だが、大学入学試験のレベルが急には変わらないとすると、新学習指導要領によって国立・私立はますます有利になろう(もっとも、将来的には、大学合格者のレベルは国際的に見てますます低レベルとなろう)。中高一貫の国立・私立に通うためには、塾が必要であり、通わせることのできる階層は限られる。戸瀬教授も指摘しておられるように、新学習指導要領は「貧富の差を拡大する危険すらある」。その結果、「新・階級国家ニッポン」は不動なものものとなろう。
最高裁は、学習指導要領の教師に対する法的拘束力を認めてはいるが、そもそも文部省の告示である学習指導要領で国民の教育という重要な問題を左右することができるか、という根本的な疑問もある。学習指導要領には、どれだけ現場の声や親の意見が反映されているのか? また、文部官僚そのものに国立・私立の中高一貫校の出身者が多くなっているということは、一体何を物語るのか?文部官僚は、自分の子どもを安心して公立の学校に通わせることができるのか?ここでも、疑問は尽きない。
戸瀬教授は「2002年度からの新指導要領の中止を求める国民会議」(http://www.naee2002.gr.jp/)に参加されている。
私も当事者の立場から新指導要領と国民会議の意見を十分検討せざるを得ない。 |
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