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私の教育論
公共心の欠如 (2001/3/11)
   最近、電車の中で20〜30代の若者の姿を見て感ずることがあった。
 3月3日土曜日、京都市内が一望できる私の一番好きな場所に行き、平安京以来の日本の歴史にも想いを巡らせ、余韻の残るまま、最終から2番目の「のぞみ」で東京に向かった。名古屋を過ぎて、いつもと違う印象を受けた。この「のぞみ」だと、平日は仲間で話をしている人はほとんどなく、疲れた親父サラリーマンの多くが寝息を立てている。しかし、この日は土曜日のせいか、前列のほうで10人ぐらいの若者のグループ、後列のほうでは5人ぐらいのグル−プが酒盛りをしていた。しかし、寝ている親父サラリーマンに遠慮していたせいか、ただ席が離れていたせいか、特にうるさいという印象はなかった。
 東京駅に着き、K線の電車に乗り込もうとしたら、出入口の付近に会社の飲み会の帰りとおぼしき5〜6人の若者のグループと支柱にセミのようにしがみついている1人の若者がいた。「すみません」と何度か言ったが、全くどこうともしない。両手の荷物が重いので、空いている網棚に荷物を乗せるために、無理に割り込んで中に入ろうとしたら、誰かが少し押し返してきた。
 不愉快な気持ちで上野駅に着き、J線の電車に乗り換えた。すると今度は3人掛けのスペースに2人で足を組んでいる5〜6人の若者のグループがいた。彼等は皆(女性を除く)片手に飲みかけの缶ビールをもっていた。混んできても席を詰めようともせず「うちの会社は……」と夢中で話している。リュックを皆もっていたので、おそらく鎌倉かどこかにピクニックに行った帰りだろう。1人が途中で降りたので、ビールをかけられないかと心配しつつも疲れていたので隣に座った。途中でほとんど降りていったが、他の乗客にも安堵の様子が見て取れた。
 個人主義ならぬ利己主義を教えられた彼等にも「オヤジ文化」の悪い面がしっかり承継されていた。彼等に共通しているのは、世の中に存在するのは、家族・友人・知人の他に、「会社の人間」、「ライバル会社の人間」それに「顧客(市場)」だけだろう。しかも、「会社の人間」と友人・知人は大幅に重なり合っている。そうでなければ、休みの土曜日にわざわざ会ったりはしない。結局、人間関係は狭まり、「業界の常識は、世間の非常識」となり、組織の論理も硬直的となる。これは、公務員の場合も同じである。世の中に存在するのは、家族・友人・知人の他に、「省庁の人間」、「ライバル省庁の人間」それに「国民」だけとなる。しかも、「省庁の人間」も1種・2種・3種と3種類いるわけだから、平等観念からは次第にかけ離れ(カースト制度またはアパルトヘイト)、国民は支配・指導すべき一段低い存在として認知されることになる。
 2つのことを考えた。
 第1に、電車・バス・公園など公共の場では、地位とか老若男女とかに関係なく1人の人間である。1人の人間として他の人に迷惑をかけてはいけない。こういうことを教育の場でも正規の時間内で直接・間接に繰り返し教える必要がある。奉仕活動を強制しなくても、この程度のことはすぐにできるはずである。
 第2に、「業界の常識は、世間の非常識」ともなりうる。会社であれ、省庁であれ、組織(日本)だけの論理は世間(世界)では通用しない。組織の若者よ。せめて休日だけでも群を離れて、自由になれ!
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