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私の教育論
公共心の欠如(2) (2001/7/26)
   3月上旬に「公共心の欠如」というテーマで書いてから、残念ながら電車の内外で殺傷事件が相次ぎ、警察によるパトロールも珍しくはなくなった。にもかかわらず、今回、また同じテーマで書くことになってしまった。
 7月24日は公務員講座の講師をしている有力大学と顧問を務めるWセミナーの合同会議に参加し、その後オールスターゼミの生徒と会ったので、京都泊になった。
 翌25日は午前中に銀閣を見て、応仁の乱を嫌い風雅の世界に耽溺した足利義政に思いを巡らし、午後3時に東京駅に戻った。中央線に乗り換え、座席を詰めてもらおうと、30歳前後のサラリーマンと思しき人に「すみません。詰めてもらえますか?」と本人に聞こえるくらいの大きさで声をかけた。するとその男は、もごもご何か言っているだけで、全く動こうともしない。よく聞くと、「ここは7人掛けですよ」と言っている。「それくらい知っているよ」と思いつつ、改めて確認すると、その男は座っている5人の丁度真ん中であった(もちろん両脇はかなり空いている)。「5人しか座っていませんよ」と周囲の人にも聞こえるくらいの大きさで言うと、その男は1センチメートルくらい隙間を空けた(あるいは、そのように見えただけかもしれない)。私は「また東京に戻るとこれか……」と思いつつも憮然として隣に座った(もちろん、その男の隣の人には黙礼をした)。
 その男は、周囲の人達の冷たい目に曝されたのか、ニューズウィークの日本語版か何かの雑誌をせわしなく四谷あたりまでしきりにめくっていた。その男、おそらくIT関連の技術は持っており、年輩のパソコンを使えない親父サラリーマンを馬鹿にしつつ仕事をしているのだろう。また、そこそこ「いい大学」も出て、ある程度の教養もあるのだろう。しかし、人間としてはどうか? 彼は職場ではどういう仕事をして、どういう評価を受けているのだろうか? 彼の末路は? と考えているうちに新宿に着いた。この手の男には逆恨みされて足を引っかけられる可能性もあるので、多くの人が降りてから、彼とは反対の方向で降りた。そのとき50歳前後と見られるサラリーマンが「ペンが落ちましたよ」とペンを差し出してくれた。私は「ありがとうございます」と言って降りた。
 私は思い出した。私が子どもの頃は1つ席が空いていると、大人はお互いに譲り合ってなかなか座ろうとしなかったことを(最近も巣鴨駅では老人同士でたまに見かけるが)。また、1つ考えた。これから構造改革が進むと、席を譲ろうとしなかった30歳前後の男は生き残り、ペンを差し出してくれた50歳前後の男は解雇されるかもしれない。7月21日の朝日新聞(夕刊)で橘木俊昭京都大学教授も論じられていたが、「勝ち組と負け組」に分かれる英米型がいいのか、「豊かさを分かち合う」ヨーロッパ型(ワーク・シェアリング)がいいのか? 私は幾つかの理由から基本的には後者を選択すべきと思うが、その前提として国民の社会的連帯感が必要である。社会的連帯感を養うためには、幼い頃から老若男女が集う公共の場に積極的に子どもを連れ出し、公共的ル−ルを教えることも必要である。国がやらなければ、身近なところから始めなければならないのかもしれない。今回、私は若者にあえて席を詰めさせたが、周囲の人が彼に注いだ冷たい視線にもかすかながら、その可能性を感じた。
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