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私の教育論
読者からのメール(2)−上 (2002/7/21)
 

I(読者Iさん)
W(渡辺)

I はじめまして。ちょっと他のコンテンツは目を通していないのですが、17と18の教育論について、少し私の意見を述べたいと思います。まだ社会にも出ていない者の言葉ですので、意見と呼べるほどのものかどうかは分かりませんが、一読して頂ければ幸いです。

W はじめまして。貴重なご意見、ありがとうございます。

I テレビゲームが少年犯罪の一因となっているというのが貴方の主張だと思いますが、私はそうは思いません。

W それは見解の相違です。
 私も実際、子供がするまでそうだとは全く思いませんでした。子供や友達の様子を見ていて強くそう思ったのです。
 私も同意見の親もかなりいるように思えます(統計はありませんが)。
 君は自分の体験に基づいて意見を言っていますが、私も自分の経験に基づいて意見を言っています。どちらが正しいかはわかりません。ただ、3人の親として君の意見には賛同できません。

I この主張の理由としてよくみかけるのが『現実と仮想現実の区別がつかなくなる』という意見ですが、これは多分その通りだと思います。私は四歳の頃からゲームをして育った世代ですが、(特に熱心に遊んだ場合)確かにゲームをした後は体温が上がり、心臓がドキドキする興奮状態になります。また、多くのゲームは多少なり戦闘や攻撃的な要素をはらむ為、普段より気がたったり乱暴な言葉づかいをするようになります。ですが、こういった症状はゲームに限ったものではないはずです。スポーツや外遊び、あるいは映画を見終わった後、小説を読んだ後などには、同じような興奮状態になりませんか。集中して物事に取り組んだ後に体が上気し興奮するのは全ての遊びに共通です。終えた時に興奮しない遊びなんて意味はありません。

W ゲームは他の遊びとは全く質が違います。

I そもそも遊びに教育効果や高貴さを求めるのは間違いですから、サッカーの試合で転んで膝小僧を血だらけにするのも、ゲームの画面効果にやられてゲロを吐くのも、同じことだとおもいます。

W 違います。
 前者は社会的接触がありますが、後者にはほとんどありません。

I 前者は子供の勲章と呼ばれ、後者は不気味さと顰蹙をかうという違いはありますが。一つのことに打ち込むことの価値は、両者とも変わらないと思います。ゲームをしたことのない人にとって、小さい子供がうつろな目をして画面を見つめ、コントローラーをものすごい勢いで操作しているのは不気味に見えるでしょうが、それは一度ゲームに熱中してみれば分かることで、うつろな目をしているのは目の疲労を和らげる為で、コントローラーをものすごい勢いで操作しているのはそれが必要に迫られているからであって、別に『この敵を殺してやるぞ…ヒヒヒ』という殺意の反映では、ないのです。

W ゲームを繰り返すことにより、日常の会話に「殺してやる!」とか「死ね!」とかいう言葉が自然に出てくるような事態が問題なのです。息子の友人にもいます。暴力的な言動は幼い子供の潜在意識に染み込むし、日本では言霊(聖書でも言葉)に力があるとしますが、暴力的な言葉が普通の会話に出てくることは実に危険な兆候だと思います。

I ゲームをする子供たちは、数億円という予算と数百人の人間の夢で作られた壮大な仮想現実の中で、自由に(恣意にではなく)遊んでいるのです。一言も喋らずゲームボーイをしていたって、全然不気味でありません。そのゲームの内容について語り合うのは、そのゲームを十分に鑑賞し終わってからだからです。

W 実際は、商業ベースで動いています。
 刺激はますます強くなるばかりです。
 自分の行動に責任の取れる大人がやることには全く反対しません。

I 通常、こういった興奮状態は、数時間すれば収まります。スポーツの興奮は感動を残すが、テレビゲームの興奮は後遺症を残す、なんてことはないはずです。貴方のご長男だって、今は落ち着いて普段通りの優しい男の子に戻っているでしょう。問題はゲームや小説や映画ではなく、こういった興奮の『後遺症を持ってしまう人』なのです。

W 理論の問題ではなく、ゲームを野放しにしたら、息子が実際だんだん殴ったり凶暴になったりしたのです。小さい子供は柔らかい粘土みたいなものなので、なるべく真善美に触れさせるべきだと私は思います。
 とてもあのような暴力的要素を含むゲームを放任して、将来人に責任の取れる人間にする自信は全くありません。

I 私が思うに、仮に昨今の少年犯罪者たちが、ゲームというものに全く触れていなかったとしても、それに類似した内容をもつ小説・映画・スポーツの影響を受けてやはり同様の事件を起こしたのではないでしょうか。ただ、そういった『後遺症を持ってしまう人』が増加する年代と『ゲームが普及した』年代が重なっているだけで、ゲームだけに原因があるとは思いません。

W すべてゲームのせいとは思いません。(ゲームにもいいものもあります)
 暴力的なTVの影響も大きいと思います。

I 少年犯罪の増加で問題なのは『現実と仮想現実の区別がつかなくなる』ことよりも『後遺症を持ってしまう人』が増えたことなのです。この日本からテレビゲームを一掃しても何の解決にもなりません。小説や映画や絵画や、その他『文化』と呼ばれるもの全てを駆逐すれば別ですが…。

W 私はゲームを一掃しろとはいっていません。
 一掃は憲法上も無理です。
 小さい子供にはやらせるな!という趣旨です。

I もっとも映画に成人指定があるように、ゲームにもそういった規制が必要なのは確かです。さすがに幼稚園児に、ゾンビの頭を銃器でぶっ飛ばすゲームをさせるのは問題な気がします。

W 成人指定が必要です。
 しかし、今はないし、業者の自主規制がない以上、親が気をつけるしかありません。

I ただ規制を設ける際に、少し気になる点があります。おそらく、低年齢層向けに認可されるゲームは、攻撃性を含まない、和気あいあいとしたジャンルのゲームになると思うのですが、ただ、子供たちにかかる精神的ストレスが増加し、なのにそれを発散できる野原や山河が減っている今、残された数少ないはけ口である攻撃的ゲームを排除するのはいかがなものでしょうか。子供はみんなストレスを感じないで和気あいあい楽しくできるものだと思ったら大間違いです。面白いものとはストレスを発散できるもので、ストレスを発散する最も容易な方法は物を壊すことです。昔の子供たち(私自身もぎりぎりその範囲に入ると思いますが)の周りには、壊しても誰にも迷惑をかけないものが豊富にありました。特に小さい子供とは案外残酷なもので、ミミズを三等分して何処まで生きているかなんて恐ろしい実験もしていました。ザリガニつりのえさにザリガニの尻尾を使ったりとか。寝ている猫のヒゲを切っちゃったりとか。そういったことを通して、ストレスを発散させると共に生命について学んでいったのだと思います。

W 法律や条例の規制よりも業者の自主規制が望ましいと思います。
 君のように自然との接点があればいいのですが。しかし、それが今ないからゲームというのは論理の飛躍です。

I 仮想現実であるテレビゲームに、後者の機能を求めるのは難しいことですが、今の卓越したゲーム技術ならば、それも可能かもしれません。とにかく、前者のストレス発散の機能だけでも、十分テレビゲームは今の子供たちにとって必要なものだと思うのです。
 むしろ、テレビゲームが提供する仮想現実という、現実を補完してくれるものがあるからこそ、今の日本は何とかなっていると考えることも出来るのではないでしょうか。

W ストレスの発散をゲームに求めるのは間違いです。人間的な触れ合いとか、自然の中に身を置くことが大事だと思います。その前提として、やたら建設業界のために公共事業をやる政治経済のありかたを変革し、自然と共生できる社会を築かなければならないと思います。

I テレビゲームに没頭する子供たちに、かつて自然の中で育った大人たちが自然の大切さや素晴らしさを教えるといって外に連れ出す企画がよくあります。ですが、その自然を破壊していったのは、自然の大切さや素晴らしさを知っているはずの大人たちだったということも、よく考える必要があります。

W 大人を一括するのはやめてください。
 人間は全部自然界に対する加害者です。憲法では「個人の尊厳」が重視されますが、ミミズのほうが人間より地球に貢献しているかもしれません。
 君も遅かれ早かれその大人になるのです。君のその大人が大事に育ててくれたから今があるのです。君も間接的な加害者なのです。
 私は今の日本がおかしいと思い発言することにしました。その意見に賛成するかどうかは読者の自由です。
 君とは見解の相違がありますが、物事を自分で考える姿勢は立派だと思います。将来のため、今できることをがんばってください。
 では、お元気で。

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